【死刑判決】横須賀線電車爆破事件の「若松善紀」とは
横須賀線電車爆破事件
横須賀線電車爆破事件(よこすかせんでんしゃばくはじけん)とは、1968年(昭和43年)に国鉄(現在の東日本旅客鉄道(JR東日本))横須賀線で発生し15名の死傷者を出した爆弾事件である。警察庁広域重要指定事件107号。
昭和43年6月16日午後3時30分頃、国鉄・横須賀線(現、JR東日本)の横須賀駅折り返し東京行き電車(10輌編成)が大船駅から100メートルの踏切にさしかかった時、6両目の網棚の荷物が爆発した。車輌は天井、窓、座席などが破壊され網棚の真下に座っていた会社員のAさん(当時32歳)は病院に運ばれたが午後10時過ぎに死亡。その他、左腕切断など14人が重軽傷を負った。翌日の17日、警視庁は神奈川県警との協議で「広域重要107号」として指定。神奈川県、東京都、千葉県その他の広域捜査を開始した。
現場の捜査で、爆発があった網棚の周辺から乾電池、紙箱、ゼンマイ、リード線などの破片が散らばっていた。このため、犯人は時限爆弾を網棚に乗せて無差別殺人を謀ったと断定。これらの遺留品の調査が開始された。
まず、時限爆弾の容器として利用した紙箱を復元すると名古屋市の菓子製造販売店の最中の箱であることが判明した。次に乾電池ボックスの部品はクラウン社製のテープレコーダでロット検査製造番号から1000台前後の出荷台数で、顧客カードから購入者の氏名と住所が判ることが判明した(勿論、顧客カードをクラウン社宛てに投函していなければ不明だが)、第三に爆薬を包んでいたと見られる紙片を復元すると4月17日付けの毎日新聞でしかも固有の印刷ズレにより八王子市、立川市、日野市に限定される地域に配達された新聞であることが判明した。
捜査本部は、この多摩地区の住民を対象に上記条件に当てはまる人物の捜査を開始した。更に爆薬(火薬)の購入という点から銃器の取り扱いに熟知している者の犯行とみて猟銃許可免許を所持している人物に絞った。
この結果、大工・若松善紀(当時24歳)を容疑者と断定。11月19日、東京都千代田区のマンション現場の宿舎に就寝中のところを任意同行を求め同日の午後、犯行を自供した。このため、捜査本部は若松を殺人、殺人未遂、船車覆没致死その他の容疑で逮捕した。
若松は犯行当時、日野市に住んでいたこと、猟銃免許を取得していること、若松の住んでいた家の隣家から名古屋のお土産として最中10個入りの菓子を受け取っていたこと、毎日新聞を定期購読していたことなどが決め手となった。
若松善紀
若松は1943年山形県尾花沢市で生まれた。4人兄弟の末っ子である。若松がまだ乳児の頃、トラック運転手だった父親(35歳)は出征してレイテで戦死している。1947年ごろ、若松は東京から「疎開」してきたM子という少女と出会う。格好の遊び相手となり、若松にとって幼少時の良き思い出となった。M子は母と2人暮らしで、父親は窃盗事件を起こし刑務所に入っていた。1950年ごろ、M子は母親の再婚のため山形を離れ、横浜市に移った。
小学生、中学生時代の若松はおとなしいが友達は多いタイプ。また機械いじりの好きな子供だった。頭は良かったが、吃音が気になるようになり、授業中教師にさされるとしどろもどろになることがあった。
若松一家はたいへん貧しく、若松は中学卒業後、山形市で大工見習いとなっている。手先が器用で、物覚えが良かった若松だったが、1年と少しで辞めた。高校進学の想いが収まらなかったからである。姉たちは出きる限りの援助をしてでも若松を高校に進ませたいと考えていたが、母親の反対により若松はあきらめることとなった。
1960年からは東京・保谷市(現・西東京市)で見習い大工の仕事を見つけ働く。
1963年8月には一人前の大工として採用され、新宿区西落合に部屋を借りた。2級、1級建築士を目指し、このための勉強の他にラジオ講座で数学と英語の勉強もするという真面目な若者だった。さらに子供の頃から常に悩みの種だった吃音の矯正所にも通い始め、自信を取り戻すこともできた。
1967年2月、若松は幼少時によく遊んだM子と再会した。お互い23歳。M子は従姉の経営する食堂を手伝っていた。年賀状の付き合いはあったが、再会のきっかけは若松の書いた手紙だった。2人はたまに会うようなって親密になり、すぐに同棲生活を送って結婚を約束する仲になっていた。
ところが4月頃、M子はアパートを出ていった。理由はいくつかある。母親に結婚を猛烈に反対されたことや、父親が刑務所で死んだことを知ったこと、M子は18の時に職場の男性と結婚していること、そして最大の理由と言えるのが、M子は若松と同郷で、同じ工務店に勤める1歳年上の男に若松とのことを相談しているうちに親密になっていたことだった。
10月、若松は7年以上勤めた工務店を辞め、川崎市の工務店に移っている。住居も日野市の借家に変えた。
事件当日、この日は朝から大雨で、まず仕事は休みになる。
午後1時45分ごろ、無煙火薬を詰めた三方継手に時限起爆装置をとりつけ、東京発の電車内にこれをセットした。
愛は憎しみに変わる。M子が通勤に使っていた横須賀線を爆破してやろう、というのが犯行の動機であった。
爆発物をしかけた若松が思っていたよりも大惨事になったことや、報道の大きさなどから、若松は自殺を決意した。レンタカーを借りて、海を目指して北上した。ところが北上するうちに尾花沢まで来てしまう。実家にはわずか3時間ほどしか滞在していない。裏山の父親の墓で手を合わせただけだった。その後進路を変えて、伊豆の波勝岬に向かう。そこで海を見ていた彼は、生きることを決意した。再び日常生活に戻り、逮捕の日を待つのである。
出典:横須賀線爆破事件
手記
手記私しは横須賀線電車を爆破したのですが別に世の中にふまんが有ったのではありません。
社会に対して反感もありません。
只、電車のなかで爆発をやって見たかっただけです。
現在の私しの気持ちは本当に申し訳ないと思っております。
どんなつぐないでもするから許してください。
十一日
出典:横須賀線爆破事件
純多摩良樹
当時、東京拘置所内の死刑囚で、短歌を作る者がおり、彼らの影響を受けたためか、彼も短歌を作る。このとき彼は「純多摩良樹」というペンネームで短歌を投稿した。彼は事件当時三多摩地区に住んでおり、多摩に愛着を持っていたためと思われる。
出典:第二十二話
純多摩は獄中でキリスト教の洗礼を受け、あるキリスト教関連の月刊誌に短歌をさかんに投稿していた。また、純多摩に盛んに面会していた支援者らの中でも、A牧師には絶大な信頼をよせており、遺骨を引き取ってほしいと懇願していた。
短歌は、同じ東京拘置所の死刑囚からの影響を受けていた。
特に、仙台拘置支所で、実名で歌集の出版や同人誌の主幹として活動していた牟礼事件の佐藤誠を強く意識していた。
出典:Wikipedia
若松は次のような歌を詠んでいる。
死を望む心なけれど独房に虚しきときは詩編繙く
出典:横須賀線爆破事件
信仰に生くれば獄の些細なる動きにも神の御技はたらく
水溜に移る死囚の影淡しその影さへも風にさゆらぐ
死刑
純多摩良樹 歌集
純多摩は、何度も支援者に「早く歌集を出版したい」と話していた。しかし、その都度、支援者らは「遺族の気持ちを考えて待つよう」に言った。しばらくして純多摩は「冤罪を訴える佐藤さんには、支援者が一生懸命、奔走してくれるが、冤罪の疑いが微塵もない自分には誰も奔走してくれない」と嘆き、その日以降、支援者らの面会を拒否した。
ペンネームで歌集が出版されたのは、死から20年後だった。
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