【冤罪事件】甲山事件とは

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甲山事件

甲山事件(かぶとやまじけん)とは、1974年に兵庫県西宮市の知的障害者施設・甲山学園で園児2人の死亡事故が発生したことに端を発する一連の事件。事件に関して起訴された者の全員の無罪が確定した。


甲山学園周辺の約150メートル四方を写した航空写真。1975年4月4日撮影

			

園児の死

昭和49年3月17日、兵庫県・西宮市の知恵遅れの子供達の施設「甲山(かぶとやま)学園」で、女子園児Aさん(当時12歳)が行方不明になった。二日後の19日は、男子園児B君(当時12歳)が同じく行方不明となった。

警察、同施設の職員らが行方を捜索した結果、男子園児が行方不明になった日の夜、二人とも園内のトイレ浄化槽から水死体で発見された。

警察は、二人の水死体が発見された浄化槽のマンホール(約17キログラム)が閉められており、事故ではなく殺人と断定。犯人の捜査を開始した。


警察は、外部から侵入した形跡は無いと断定し犯人は内部の者と判断した。そこで甲山学園の職員や園児らに取り調べを行う。学園内に「取調室」を設けて連日、職員のアリバイ(17日と19日)と動機を中心に取り調べを行う。この取り調べで、保母のE子(当時22歳、旧姓沢崎)が嫌疑をかけられる。4月4日、園児のCさん(女児当時11歳)が、「E子先生がB君を連れて行くのを見た」という目撃証言がでた。更に、17日と19日は学園に居たこと。19日の犯行時間と思われる午後8時前後のアリバイが無いこと。園児の遺体が見つかった時と、葬儀の時に激しく泣いて取り乱したこと(演技)という理由から、4月7日、B君の殺害容疑でE子を逮捕した。


E子は、連日10時間の取り調べを受け、精神的・肉体的に限界がきていたところ、取調官から「父親は、悦子がやったとのではないかと疑っている」、「学園の職員たちもE子を疑っている」などと嘘を言って、犯行自供の強要をした。

4月17日、E子は「AちゃんとB君をマンホールに落として殺したのは自分」であると自供した。

しかし、あまりにも供述内容が曖昧で辻褄が合わず、拘留期間限度の23日後、E子は「証拠不十分」として釈放された。

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事件のロケーション

事件の起きた社会福祉法人・甲山学園は、兵庫県西宮市の北部、標高390mの甲山(かぶとやま)の西側にある。周辺には墓地・貯水池・寺などがあって、松林に囲まれた静かなピクニックコースとなっている。

 事件当時は、学園には中・軽度障害児の青葉寮47人(男31人、女16人)と重度障害児の若葉寮32人、計79人の子どもたちが2つの寮で生活し、30人の職員が世話をする。彼らの年齢は6才から24才まで、兵庫県の各地から家族のもとを離れ、生活指導と学校教育を受けるために入園していた。学園には、地域の小・中学校から教師が派遣され、園内の学習棟で授業が行われていた。

 事件のあった青葉寮での子どもたちの生活は、午前6時半の起床から午後8時に年少児童(小学生以下)、9時に年長児(中学生以上)の就寝まで、食事、学習、入浴・遊びなどが、決められたスケジュールに沿って、職員の生活介助・指導の下に規則正しく行われていた。日常の生活以外には、季節ごとに、運動会・遠足・キャンプ・クリスマスなどの行事がある。しかし、地域との交流や、園外での生活体験をする機会はほとんどなく、子どもたちは学園の限られた人間関係の中で生活をしていた。

出典:冤罪・甲山事件/「冤罪・甲山事件」はこうして起きた〜

	

甲山学園(青葉寮)の概略見取り図

			

逮捕された保母と犯人視報道


逮捕されたE子さんは富山県魚津市生まれ。その後愛媛県新居浜市に移り、市立新浜商業高校を卒業後、徳島短期大学(現・徳島文理短大)保育科に入学。1972年3月に卒業し、同年4月より甲山学園に勤務していた。

▽E子さんが疑われたのは次のような点が挙げられる。お気に入り詳細を見る

捜査員に「刑務所のご飯はどんなやろ」と不自然なことを口走った。

→事情聴取の時に捜査員が食堂の食券を持っていたのでE子さんにおでん定食をご馳走した。その時の会話でE子さんの何気ない疑問からそういう発言があった。

出典:甲山事件

	
遺体の発見される前から「光子ちゃんは死んでいるはず」と話していた。

→園児が行方不明となった状況でなにかしらの不安を持たないわけがない。万が一の最悪の結果を想像してしまっても不自然ではない。

出典:甲山事件

	
普段から園児にせっかんを繰り返しており、光子ちゃんにも「いうこときかないとここへ落とすよ」と浄化槽の蓋を開けて見せていた。

→E子さんは「せっかんしたことなど1度たりともない」と証言。

出典:甲山事件

	
園児が行方不明になってから遺体が発見されるまで、異様に取り乱していた。「光子ちゃんが死んだ」と職員にわめき散らしていた。葬儀の際も号泣し、霊柩車を追いかけた。

→これは学園の職員としてなんらおかしくない行動であると言える。しかし、この時新聞記者の間で「彼女は一体誰なんだ。あの娘が怪しいんじゃないか」という話が出た。つまりこれを捜査を撹乱するための演技ととられたわけである。同じように1993年に起きた甲府信金女子職員誘拐殺人事件でも、娘を殺されて号泣していたことから父親が疑われるということがあった。

出典:甲山事件

	
日記に「私の不注意からこんなことになって、2人に済まないことをした」と綴っていた。

→マスコミはこれを「ざんげの日記」という見出しで報道した。

出典:甲山事件

	
光子ちゃん行方不明時と、悟君殺しの時間にアリバイがない。

→あの状況でアリバイを証明できたのは何人もいない。

出典:甲山事件

	
女子園児が「E子先生が悟君を部屋から連れ出した」と証言

→浄化槽付近での目撃ではない。


出典:甲山事件

	
事件当時、E子さんはアパートで男性と同居し、学園内外の複数の男性と交際。また同僚が次々と結婚していくので気持ちがあせってイライラしていた。

→これは全くの誤報だろう。E子さんには当時、短大時代に知り合った恋人はいたが、彼は三重に住んでおり同居はしていなかった。複数の男性との交際もなく、同僚の結婚にあせる理由などなかった。恋人とは犯人視報道により別れている。

出典:甲山事件

	
4月17日夜、E子さんは犯行を自供。この日の供述調書には次のように書かれていた。


「今夜は本当のことを申し上げます。光子ちゃんと悟君をやったのは私に間違いありません。(中略)ほんとうのことを言う気持ちになったのは、光子ちゃんと悟君があのマンホールの冷たい中で、どんなに苦しんだか、こわかったか。その苦しみを考えるときに私の苦しみなどはそれに比べるとなんでもありません」


 ところが、これは激しい取り調べに追い詰められたE子さんが「Eちゃんは悟君と光子ちゃんを殺したんだね」と聞かれ、降参して「はい」と答えただけのものが、なぜか上記のように書き上げられていた。

 絶望的になったE子さんはその晩、留置場の中でハイソックスを首にまきつけ自殺を図るが死にきれなかった。


 翌日、捜査本部が会見を発表すると、マスコミはE子さんが犯人と決めつけ報道。「父親の再婚相手になつかず、暗い青春時代を過ごす」「異性問題でノイローゼ気味」「以前から厳しいせっかんをしていた」などと書きたてた。

 

 ところがE子さんはそれから一貫して犯行を否認する。

 4月28日、処分保留のまま嫌疑不充分で釈放。尼崎市の自宅に戻ったE子さんは同僚が保管していた多数の中傷の手紙に目を通した。そこには予想していたとはいえ「人殺し、死んでしまえ」「おまえのような女は殺してやる」「ぬけぬけと釈放されおって。よく平気な顔をしていられるものだ」と書かれていた。

 7月30日、E子さんは国と県を相手取って国家賠償請求を起こす。


 1975年9月23日、神戸地検尼崎支部は証拠不充分として不起訴とした。


 悟君の推定死亡時刻は19日午後8時とされているが、E子さんは午後7時30分頃より午後8時15分頃までの間、学園管理棟内の事務室で園長や他の保母らと光子ちゃん捜索のための相談をしていた。また約17kgの蓋は園児らに決して開けられないこともなかった。事故死という説でも2人とも12歳であったし、他の園児による他殺という点でも20代前半までの園児がいたことから無理はない。その後の捜査で槽内から爪きり、歯ブラシ、鍵などが発見されるなど、日頃から園児らが物を投げ入れて遊んでいたことが明かにされた。

出典:甲山事件

	

再逮捕


釈放された後、E子さんは普通の生活を取り戻し、支援メンバーだった高校教師の男性と結婚、女児をもうけていた。しかし、彼女に対する疑いの目は納まったわけではなかった。行く先々で白い目で見られ、相変わらず中傷の電話や手紙があった。さらに検察審査会が新たな動きを見せていた。

 1976年10月28日、神戸検察審査会は「不起訴不当」を議決。これを受けて、神戸地検は再捜査に着手した。

 検察審査会とは陪審員制の精神を生かして、1948年に発足した制度で、審査員は選挙人名簿から無作為抽選で選んだ11人で構成される。よって職業や年齢は様々な人達の集まりなのだが、E子さん犯人視のテレビ報道を見ていただけに、「せっかんをしていた保母」「性格に問題のある女性」といった印象が拭えていなかったのではないかと言われる。


 1978年2月27日、「園児の目撃証言など新証拠を得た」としてE子さんを再逮捕。さらにE子さんのおこした国歌賠償請求訴訟でアリバイ証言をした元園長・保母を偽証罪で再逮捕。

 この新証拠とは青葉寮で生活していた数人の園児の「E子先生が青葉寮から悟君を連れ出した」「悟君がE子先生と一緒のところを見た」という証言だった。だが、「二人が浄化槽の近くにいた」という証言は皆無だった。

 逮捕されたE子さんは黙秘を通す。園長らも容疑を全面否認した。だが、この再逮捕で再びマスコミ各社の報道が暴走を見せる。


 3月17日、光子ちゃんの両親がE子さんを殺人容疑で告訴。(1985年に不起訴となる)

 3月24日、園長と指導員が保釈。

 

 6月5日、公判が始まる。検察は「遊んでいるうちに誤って浄化槽に転落した光子ちゃんをE子さんが目撃。自分への監視責任が問われるのを恐れ、蓋をしめて現場を立ち去った。つづいて自分への疑いをそらすために悟君も殺害」という主張をした。

 悟君とE子さんを見たといった園児に対して証人調べが行なわれたが、ある園児の場合には証言前にリハーサルが行なわれていたことも発覚し、誘導されたものか、否か、あるいは思いつきのものか、証言を判断するのは難しかった。


 1980年5月20日、女子園児の証人調べで衝撃的な証言が飛び出す。それはこの女子園児が光子ちゃんと2人で浄化槽付近にいる時に、手を引っ張ったら光子ちゃんがマンホールの中に落ちたというもので、この女子園児がマンホールの蓋を開け、転落後には閉めたというのである。


 1985年10月17日、神戸地裁は「園児証言は何らかの事情で事実に反する証言をしている疑いが濃厚」として、E子に無罪を言い渡す。しかし地検は控訴。


 1990年3月23日、大阪高裁、「一審判決を破棄し、審理を神戸地裁に差し戻す」という判決を下す。無罪破棄の根拠は、「目撃内容は単純で、園児でも充分識別できる。捜査での誘導なども認められず、園児証言の信用性は否定できない」というものだった。


 1992年4月、最高裁は二審判決を支持し、上告を棄却。


 1993年2月19日から神戸地裁での差し戻し審が始まった。公判では検察側が光子ちゃんの死亡について「他の園児の関与もあり得る」と初めて認め、具体的に園児2人の名前を挙げた。


 1999年9月29日、地検控訴第二次差し戻し審で無罪判決。検察もようやく上告を断念し、E子さんの無罪が確定した。

出典:冤罪甲山事件

	

1985年、98年、99年、三度の完全無罪判決が出された

			

事件後


現在、甲山学園は閉鎖されているが、跡地は病院として機能している。

2011年、偽証罪に問われた当時の園長・荒木潔が死去。

出典:甲山事件 - Wikipedia

	

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Sharetube