連続少年切り付け魔事件(杉並少年通り魔事件)とは

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連続少年切り付け魔事件(杉並少年通り魔事件)

連続少年切り付け魔事件(れんぞくしょうねんきりつけまじけん)は1963年3月14日から1964年10月10日までに、東京都西北部で発生した6歳から14歳までの少年の下腹部などを切りつけられた連続傷害事件である。「杉並少年通り魔事件」とも呼ばれる。全部で13件が発生し、主に下腹部を狙ったものであり、それに失敗すれば顔や足をしかたなく切り付けるものであった。下腹部を切りつけられた複数の被害者が性器を切断され、1人は性器の全てを失うという異常な犯行態度であった。犯人は警察に「切り裂きジャック」の署名で挑戦状を郵送するなどしたが、後に逮捕され事件は解決した。

事件

1963年3月から1964年10月の1年7ヶ月にわたって、杉並区周辺で小さな男の子が殴られたり、ナイフで切り取られたりされる通り魔事件が相次いで起こった。死亡事件はなかったが、狙われたのがすべて男の子であり、襲ったのも男であった。また陰部を切断されたり、切られたりするケースもあり、早くから猟奇的な異常な犯行として知られた。
1963年3月14日午後3時ごろ、杉並区の路上で、自転車に乗っていた男児(当時10歳)を後ろから突き飛ばし、顔を切りつける(全治10日間)。

出典:連続少年切り付け魔事件 - Wikipedia

	
7月14日午前7時半頃、同区大宮前の通称「済美山」内で、昆虫採集をしていた男児(当時11歳)ともう1人の少年(当時14歳)が、男に紐で縛られたうえ、胸や頭などを殴られ、1人が5日の怪我。

出典:杉並・16歳の連続通り魔事件

	
7月15日、授業終了後、ヒモ、ナイフを持ってあらかじめ傷害の計画を持って、第2の犯行を行った紅葉山のすぐ近くで、被害者D(11歳)に自転車において接近して話しかけ、後手に縛り、人から見えない場所につれてゆき、ハンカチで猿ぐつわをした上で、陰部に切りつけ、泣き出した子供と出血におどろいて、ヒモ、ハンカチを遺留したままで逃走した。

出典:杉並少年通り魔事件 事件経過

	
9月21日、土曜日の放課後、一旦帰宅し、午後4時頃自転車で東西高校の近くの雑木林に入り、山田の自転車で倒れたのを笑った被害者のE(12歳)、F(11歳)の二人に接近し、通行人のいないのをたしかめた上で「泥を払え」といい、あらかじめ用意した紐で二人を後手にしばり、道路より見えぬ処につれてゆき、助けを求める被害者のセーターをめくり上げて顔にかぶせ、ズボンを更におろそうとしたがうまくいかないため、シャツをめくり上げて上半身を裸にし、胸、腹部に刺傷、切傷を与え、紐を慰留したまま自転車で逃走した。

出典:杉並少年通り魔事件 事件経過

	
12月23日午後3時半頃、杉並区で遊んでいた男児2人(当時12歳)を縛り付けて殴りつける。

出典:

	
12月26日午後0時ごろ、同区で通行中の男児(当時13歳)を呼び止め、草原に連れ込んで縛り付けて猿ぐつわをした上、彼の性器を切断(全治2ヶ月)。

出典:

	
昭和39年5月3日の休日、朝8時30分頃、家人の就寝中にナイフを持って外出し、練馬区練馬町(仮名)の路上で5歳の被害者J(6歳)を見つけ、自転車をたて、近寄って来た子供の口を押さえて左頸部に切りつけ、自転車で逃走した。

出典:杉並少年通り魔事件 事件経過

	
8月28日午後7時ごろ、杉並区で自転車に乗っていた男児(当時10歳)を突き飛ばし、顔を切りつける(全治3週間)。事件発生から2日後とさらに10日後の計2回にわたり、男児宅に脅迫状を送りつける。まずは100万円を持ってこい、警察に通報すると男児を殺すと書いて驚かし、次に警察に通報したからには覚悟しろと書いて翻弄するという非常に悪質なものだった。

出典:連続少年切り付け魔事件 - Wikipedia

	
8月30日午前8時半頃、埼玉県北足立郡大和町白子の熊野神社裏山遊んでいた少年(当時14歳)が、両手を縛られたうえで押し倒され、陰部をナイフで切りつけられる。3週間の怪我。

出典:杉並・16歳の連続通り魔事件

	
9月3日午後6時半ごろ、中野区で通行中の男児(当時12歳)を空き地に連れ込み、首と耳を切りつける(全治3週間)。

出典:連続少年切り付け魔事件 - Wikipedia

	
10月10日午後3時半頃、武蔵野市で通行中の男児(当時9歳)を縛り付け、下腹部を切りつける(全治1ヶ月)。

出典:連続少年切り付け魔事件 - Wikipedia

	
当初これらの事件は、軽傷で被害届が出ていなかったり、広範囲で起こっていたこともあって、各警察署では連続通り魔事件とは考えなかった。捜査本部が置かれたのは12月26日の陰部切断事件が起こった直後である。

犯人の逮捕

「確かにあの人そっくりだ。間違いないよ・・・・」

 昭和39年12月26日朝、「少年通り魔事件」特別捜査本部の調べ室で、容疑者の都立高校二年生山田一郎(17歳・仮名)の顔を見たL君(14歳・第10の犯行の被害者)は、別室にはいるなり係官にハッキリとしたロ調でいい切った。


 警視庁捜査一課の西尾刑事(仮名)は、L君の証言を聞いてもまだ半信半疑だったった。何故なら山田少年は頑強に犯行を否認しつづけているし、少年をクロと断定するには、もっと確かな証拠が必要だった。


 西尾刑事はふたたび杉並区の少年の自宅に車を飛ばした。「ふたたび」というのは、この日の朝、少年を自宅から捜査本部まで任意同行して来たのは、ほかならぬ西尾刑事だったからだ。


 山田少年の家は、閑静な住宅地にあり。父親は役付きの公務員で、生活程度は中流の家庭。午前9時半ころ、少年宅をたずねた西尾刑事が「息子さんの目つきが容疑者に似ている。モンタージュ写真を作りたいので協力してほしい」 と来意を告げたとき、母親にはツユほども息子を疑う気配がみえなかった。勤め先に電話して夫に伝えると、2階にいる息子を下から呼んだ。少年も素直に刑事のいうままに捜査本部について来た。二度目に訪れたときも母親のようすは変らなかった。


 「どんなご協力も惜しみません。その代り刑事さん、ひとつ意見してやって下さい。あの子はどうしても大学進学はいやだといって、私どもを困らせるんですよ。」


 西尾刑事はそのときはじめて、2階の6畳間にある少年の勉強部屋に通された。ところが、である。刑事自身が自を丸くするような動かぬ証拠品のかずかずが、間もなく少年の机の引出しの中から発見された。

 少年は、その日のうちに9件の犯行を自供し、30日までにさらに2件を自白した。

出典:少年犯罪データベース

	

犯行動機

動機として高校生は雑誌にあった男が女を切り付ける話があり、それを小学生の男児にやってみたら、「その瞬間スーッとした快感を覚えた(犯人供述より)」ので繰り返し行ったという猟奇的なものであった。

出典:連続少年切り付け魔事件 - Wikipedia

	

サディズム

Aは1947年8月12日杉並区生まれ。自宅は国電阿佐ヶ谷駅から歩いて6、7分の閑静な住宅街である。父は役付の公務員で中流の家庭。Aは弟が1人いる。

 幼少時に他の子をいじめたりすることはなく、また成長するうえで、異常が見とめられた点は少ない。


 1954年4月、区立第九小学校に入学、成績は上位だったが、高学年になると中ほどとなった。友人関係では特に嫌われているということはないが、目立たない児童だった。


 1960年4月、区立東原中学校入学。出席は良好だが、積極的に級友たちとふれあうようなことはなく、やはり目立たない存在だった。それでも優等生の部類であったという。

 高校受験を控えると、夏から夜遅くまで勉強を続け、また塾にも通った。中央大付属小金井高校、城北高校、海城高校、中央大付属杉並高校、都立井草高校を受験し、第1志望であった中央大杉並高、井草高には合格したが、他の3校は不合格だった。結局、Aは2つの高校を較べてみて井草高校に選んでいる。

 そしてその直後から、高校に在学しているあいだ、近辺で一連の通り魔事件を繰り返した。高校は逮捕されて中途退学となっている。


 高校での成績は中の下。勉強に対する熱意はなくなっていた。

 また女子生徒への関心はほとんど見られなかった。それどころか友人付き合いもほとんどない。行動記録には「協調性に欠け、孤独である。判断の傾向として自己中心的であり、情緒の傾向としては内向的で無口」とある。

 Aは理科系の大学に進学したいと漠然と考えていたが、高校在学中「学校をやめて自分で働きたい」「ブラジルに行きたい」「自動車に修理工になりたい」と母に洩らすようになった。これは高校で思うように成績が伸びなかったことの挫折感のあらわれと見られる。


 極端な欧米志向も見逃せない。家族が日本食を食べているときでも、Aはそれを食べようとせず、食事は箸ではなくナイフとフォークで食べるようになった。床に座って食べる飯台がいやで、母親にテーブルを買ってもらって1人で食べた。また畳の上でもスリッパを履き、文章も横書きにした。


 それ以外にも、Aは自分の身長(161cm)が低いことにコンプレックスを持っていたようだった。2つ下の弟が、中学3年の時にAを追い抜かしたことも関係している。雑誌広告で見つけた「身長を伸ばす」売薬を購入したこともある。


 Aは自分の犯行を、警察などの各種方面に挑戦状、脅迫状などを送ってアピールしている。これは古くは小松川高校殺人事件(58年)、近年では神戸・児童連続殺傷事件(97年)に通じるものがある。


 この挑戦状は、1964年3月に警視庁広報課に郵送したものである。

出典:杉並・16歳の連続通り魔事件

	
私は小学生の下腹部を切った犯人だ。私は変質者ではない、

デハ ナゼ私ガ傷ヲ負ワセタカトイウト ソレハ 杉並警察署員及ビ警視庁ノ刑事タチヲ、アヤツリ人形ノヨウニ私ガ動カスタメダ。ナゼソノヨウナコトヲスルノカトイウト”日本”ノ警察ハ良クナイコトヲスル、タトエバ1964・2・12、ニ池袋ノマンモス交番ノ「丸山今利」「西沢亭」ガ行ッタ行動、ソノ他、多クノ朝鮮人ヘノ差別ガアル。タトエバ1964・2・12ノ朝「茨城朝鮮中高級学校」ノ寄宿舎デ日本ノ警察官(低能)が行ッタコト(ヨク調ベレバ分ル)、1962・9・20、アル交番デ公園デ話シテイタ朝鮮人ヲ警察官ガ(悪人)ソノ交番ヘ連レテ行キ、カンキンシテ暴行シタ事件、ソノ他、滋賀県。伊香郡木ノ本警察デ二人ノ児童ニ放火ノヌレギヌヲ負ワセタ事件ナドイロイロアル、以上ノヨウニ警察ハ悪イ。


ソコデ、私ハコレカラモドンドン私ノ計画ヲ実行スルツモリデアル、アナタ方ハ私ニアヤツラレテ。クタビレロ!私は絶対ニツカマラナイ、


私が犯人ダトイウ証拠ハ事件ノ詳細ヲ知ッテイルタトエバ1963・7済美小ノ児童ニ傷ヲ負ワセタ個所ハ睾丸デアル、コノ時ハソコヲ半分切リツケタ、ソシテ1963・12西田町デ負ワセタ時モ、同じ個所デ、ソノ時ハ全部切リ取ッテヤッタ、私ノ言ウコトガ分ッタカ?!

出典:杉並・16歳の連続通り魔事件

こうした挑戦状・脅迫状は計13通あった。評論家・大家壮一、大浜英子に宛てたものもあり、なかには英文で書かれたものもあった。

 ある時には国電荻窪駅の北口交番前に、自分の出身校から盗んだ大学ノートを落とし、切断裸体の原画を貼り付けて、自分の犯行であることを示唆したこともある。

再犯


昭和44年(1969)8月18日、2年8ヶ月の刑期を経て22歳のときに川越少年刑務所から仮釈放されたが、4ヶ月後から20件の放火と窃盗を繰り返し、路上で中学3年生男子をカナヅチで何度も殴り付けて3週間の傷を負わせて、昭和45年8月5日逮捕される。武蔵野市のアメリカ軍宿舍で自動車3台を全焼、4台の窓に「ヤンキーゴーホーム」と赤ペンキで落書きしていた。

 「自分にとって犯罪は趣味であり、一種のスポーツであり、悪についてはその方法を考えることが快楽で、私はそれに溺れていた」と裁判において発言し、父親は

 「息子のことは前の事件の際に、被害者の方々の謝罪のために非常に苦労した。有り金すべてのほかに多額の借金をして被害者にお詫びをした。今度の事件では家も土地も手放して、被害者の方々にお詫びするほかない。こうした状況だけに、私としては息子にはもう一生刑務所から出てきてほしくない。もう一度刑務所から出てきても息子の性格が直っている望みは持てない。私が裁判長にお願いしたいことは、息子に二度と刑務所から出てこないような判決を下してほしいことであります」と証言した。

出典:少年犯罪データベース

	

懲役13年

1972年に懲役13年の判決が言い渡された。

出典:連続少年切り付け魔事件 - Wikipedia

	

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Sharetube