永山則夫連続射殺事件とは

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永山則夫連続射殺事件

永山則夫連続射殺事件(ながやまのりおれんぞくしゃさつじけん)とは、1968年10月から11月にかけて、東京都区部・京都市・函館市・名古屋市において発生した、拳銃による連続殺人事件である。警察庁による名称は「警察庁広域重要指定108号事件」である。


永山則夫

1968年10月から11月にかけて、東京都区部・京都市・函館市・名古屋市において発生した、拳銃による連続殺人事件

北海道~京都の連続射殺魔「永山則夫」

1968年10月11日午前0時50分頃、東京芝の東京プリンスホテルの敷地を巡回中の綜合警備保障・中村公紀さん(27歳)が何者かに撃たれ、搬送された病院で死亡した。警備中のガードマンが殺されたのは初めてのことだった。

 10月14日午前1時35分頃、今度は京都の八坂神社本殿付近でも警備員・勝見留次郎さん(69歳)が胸などを4発撃たれる。勝見さんは「17、8の男にやられた」と話し、搬送先の病院で死亡した。

 現場付近にはナイフとハンカチが落ちており、いずれも国内では手に入らないものだとわかった。


 東京での事件も、京都の事件も、同じ型の22口径の回転式拳銃によるもので、捜査本部は同一人物による犯行と断定した。

 また八坂神社に残されていたハンカチには多量の鼻汁が付着しており、蓄膿症の少年ではないかと見られていた。

 この警備員殺しの犯人は、続いて北海道、名古屋でも犯行を重ねる。しかも、タクシー強盗にその性質を変えていった。


 10月26日夜、北海道函館市郊外の七飯町で、後部座席から帝三函館タクシー運転手・斎藤哲彦さん(31歳)を射殺され、売上金が強奪される。斎藤さんは26日午前8時から乗務しており、「函館市大門町から女性を乗せ、弥生町方向に行く」と無線連絡したあと行方がわからなくなっていた。


 11月5日午前1時30分頃、名古屋市内で八千代タクシー運転手・伊藤正明さん(22歳)が血まみれで倒れているのが発見された。伊藤さんは午前6時25分頃、出血多量で死亡。150m離れた路上にタクシーがあり、現金と腕時計が強奪されていた。やはり22口径の拳銃だった。


 警視庁は同じ22口径の拳銃によるこの連続射殺事件を広域108号に指定。入手の難しい拳銃を使い、また現場も港に近い所だったため、外国人、もしくは船乗りによる犯行と見られた。

 しかし、名古屋での事件の後、犯行はぴたりと止まる。何人かの容疑者が調べられたが、シロ。犯人の情報にも乏しく、迷宮入りするかとも思われた。


 翌1969年4月7日午前1時40分頃、東京・千駄ヶ谷の英語学校「一橋スクール・オブ・ビズネス」で、若い男が金品を物色しているところを警備員(当時22歳)が見つけ、男は持っていた拳銃を発射してきたが命中せず逃走。明治神宮北参道口で駆けつけた警官に逮捕された。

 男は網走出身の飲食店従業員・永山則夫(当時19歳)。前年から起こっていた4件の射殺事件についても自供した。

出典:永山則夫連続射殺事件

	

出典: 台灣Wiki

逮捕された永山則夫

警察庁広域重要指定108号事件

逮捕現場や射殺現場

150m離れた路上にタクシーがあり、現金と腕時計が強奪されていた。

金の卵の流浪の少年


永山は1949年6月に北海道網走市で8人兄弟の7番目として生まれた。父親は熟練したりんご剪定師だったが、飲酒と博打癖から家出し、たまに帰ると家から米を持ち去ったりした。父はのち行路病者として死亡している。

 そして長兄はガールフレンドを妊娠させ姿をくらます。その子どもは母親が引き取った。長姉も精神に異常をきたし、精神病院に入院した。


 1954年、母親は永山がまだ5歳の時、極貧の生活に耐えきれず、4人の子供を北海道に残して実家の青森県北津軽郡板柳町に出奔し、魚の行商で生計をたてた。

 一方、父母のいないなかで、兄弟たちは飢餓に近い生活を送っていたが、55年になって見かねた隣人が福祉事務所に通報。そのからいで兄弟たちは入院中の長姉を残して、母のいる青森へ移った。


 小学2年の時、兄弟の中でただ1人優しかった網走の病院の長姉に会いに行こうと家出をし、青函連絡船に乗ったが、函館に着いたところで保護される。


 中学時代の永山は「何か大きいことをしたい」と話す反面、「自殺したい」と漏らすことがあった。あまり学校にも来ないため、親しい友人はいなかった。

 彼が唯一脚光を浴びたのが、駅伝大会である。アンカーとして、北柳中学を優勝に導いた。


 中学卒業後、集団就職で上京。渋谷の「西村フルーツパーラー」の店員となる。研修で「給料は誰からもらうか」という質問に、同僚は「会社」「社長」と答えるなか1人だけ「お客様からです」と言って誉められる。だが、これは研修テキストに書かれていたことだった。

 

 ある日、寮の部屋長(当時28歳)が掃除をさぼったことについて強く叱ると、永山は「辞める」と言いだし、一旦はおさまるが、翌日も掃除をしなかったため叱ると、本当に出ていった。


 永山は横浜から貨物船に乗りこんで香港に密航を企てるが見つかり、デンマークの貨物船「ハーターマスク号」で強制送還、出入国管理令違反で横浜地検に書類送検された。


 その後、栃木県に向かい、宇都宮の「協立自動車会社」に入社。ところが給料が出た2週間で姿を消した。


 11月8日、宇都宮市の食肉店で窃盗事件を起こし捕まる。

 11月22日、宇都宮家裁で不処分。

 永山の身柄は自動車工場の社長が引きとってくれたが、のちにボーナスのことで諍いとなり、出ていった。


 1966年1月、大阪の宿で知り合った商人のつてで、永山は大阪府守口市の米屋「米福」の店員として働き始める。給料をもらうと、親元へ毎月5000円ずつかかさず送っていた。

 この頃、主人に言われて戸籍謄本を取り寄せたら、本籍が網走呼人番外地になっているのでショックを受けた。「網走刑務所生まれだと誤解を受けるから、番地をつけてくれ」と町役場に懇願したが、聞き入れられなかった。


 6月下旬、「米福」を辞めて再び上京。戸籍謄本が同僚たちに見つかり、からかわれたらしい。


 7月18日、羽田空港内の「東京エアターミナルホテル」にベルボーイとして働き始める。しかしすぐに辞め、テキヤ見習い、沖仲士などに仕事を変える。


 9月6日、横須賀基地に侵入。米ドルなどを盗んで捕まる。横浜家裁横須賀支部で保護監察処分、青森から母親が迎えに来た。

 保護司の紹介で、川崎市丸子東の「村富屋クリーニング」に勤める。だが、態度や言葉づかいの悪さから店主はクビを通告。永山は「ああ、そうですか」と出ていった。


 1967年1月13日、新聞広告に求人が載っていた中野区本町の「原島牛乳店」に採用される。永山は「夜学に通いたいから勤めさせてくれ」と言っていた。


 6月19日、牛乳店を辞める。誰にも言わずに突然姿を消したが、1週間後、給料の残り分と机や布団を引き取りに来た。


 8月下旬、自衛隊入隊を希望し、第1次試験に通るが、保護観察中であることがわかり、不採用となる。


 1968年1月9日、神戸港からフランス貨物船に乗り込んででアフリカ西海岸を目指すが失敗、横浜海上保安部に捕まった。発見された永山は自殺を図り、テーブルに縛りつけられる。永山は横浜家裁から横浜少年鑑別所に送られた。

2月2日、東京家裁へ移送。


 2月10日、横須賀基地に侵入、ピストル、50発分の弾丸、「M」のイニシャル入りのハンカチ、ジャックナイフを盗み出した。それらは海軍M・タンパワン一等兵曹のもので、盗難に気づいていたが未登録のものだったので、処罰を恐れて届け出をしなかった。

 永山は三笠公園遊覧船乗り場で10発ほど試射している。


 10月11日午前0時50分頃、東京芝の東京プリンスホテルの敷地を徘徊中の警備員(27歳)に「どこに行くんだ」と見咎められる。襟首を捕まれ、連れていかれそうになったため射殺した。

 永山は次兄の家に寄ってから、京都に向かった。


 10月14日午前1時35分頃、野宿をしようと京都府東山区の八坂神社内をうろついていたところ、「ぼん、どこに行くのや」と警備員に声をかけられる。ナイフで脅したが、「そんなことしてもあかん。警察へ行こう」と言われたため射殺した。銃声を聞きつけて警官2人が走ってきたので、咄嗟に逃げ出した。


 10月19日、豊島区に住む兄の家を訪れ犯行を打ち明ける。兄は信用しなかったが、ピストルを見せられたため、自首をすすめた。それでも永山は「これから北海道に行って自殺するから構わないでくれ」と出ていった。


 永山は北海道に向かった。網走に行きたかったが、所持金が少なかったため電車に乗れず函館までしか来れなかった。

 10月26日、タクシーを拾い函館近郊の郊外で停車させ、午後11時13分頃、後部座席から運転手の頭部を射殺し、ポケットに入っていた8000円を強奪する。その後、市内の映画館で「西部戦線異常なし」を観た。

 この後、永山はなぜか網走には向かわず、東京を経由して、名古屋を目指した。


 11月5日、名古屋市内の材木置場で寝ていた永山はバスで名古屋駅に向かった。港が好きで、港に行くと心が癒されると思い、そこを目指して歩いていたところ、タクシーの運転手に声をかけられ車に乗った。午前1時20分頃、名古屋市内でやはりタクシー運転手(22歳)を射殺、現金7000円を強奪する。


 12月上旬、永山は中野区若宮町にアパートを借り、歌舞伎町の「スカイコンパ」と、ジャズ喫茶「ビレッジバンガード」に勤めた。当時、「ビレッジ~」には勤務時間は重ならなかったが、ビートたけし氏も働いていた。永山は職場では寡黙だったようで、たけし氏は「暗い」という印象しか持たず、名前も事件後に初めて知ったという。ちなみにこの店には作家・村上春樹氏も客として訪れていた。村上氏のエッセイによると、住んでいたところも近くだったらしい(西武線・都立家政駅)。村上氏は当時、早稲田大生で、作家デビューの前はジャズ喫茶を経営していた。


 1969年3月中頃、永山は青森の母に「東京で友達の車を壊してしまった」と1万円を要求する手紙を送った。母は5000円を送る。


 逮捕の3日前、「ビレッジバンガード」を辞める。仕事の後にパチンコをするようになり、睡眠不足になったからである。


 4月7日午前1時40分頃、東京・千駄ヶ谷の英語学校「一橋スクール・オブ・ビズネス」に侵入するが、見つかり逮捕、代々木署に連行された。逮捕時、永山は

盗品のローレックスの時計、偽造した明治学院大生の学生証を所持していた。

 翌日、永山のアパートが家宅捜索される。発見された辞典に遺書めいた走り書きがあった。これは京都事件を起こした後に書かれたものだった。


私の故郷で消える覚悟で帰ったが、死ねずに函館行きの鈍行に乗る。

最悪の罪を犯しても、残された日々を満たされなかった金で生きると決めた。

母よ、私の兄弟、兄、姉、妹よ、許してと。

問わぬが私は生きる。

北国の最後を、最後と思われる短い秋で、私はそう決める。

出典:永山則夫連続射殺事件

	

獄中での心境の変化


一審頃まで

永山は生育時に両親から育児を放棄され(ネグレクト)、両親の愛情を受けられなかった。裁判が始まった当初は、逮捕時は自尊感情や人生に対する希望や他者を思いやる気持ちも持てず、犯行の動機を国家権力に対する挑戦と発言するなど、精神的に荒廃していた。

出典:永山則夫連続射殺事件 - Wikipedia

	

二審頃まで

その後、獄中結婚した妻や作家・井出孫六らの多くの人の働きかけと、裁判での審理の経験を通じて、自己が犯した罪と与えた被害の修復不可能性に関して、自己に対しても他者に対しても社会に対しても客観的に認識・考察する考え方が次第に深まった。その結果、反省・謝罪・贖罪の考えが深まり、最終的には真摯な反省・謝罪・贖罪の境地に至った。また5人分の命(被害者と自分)を背負って贖罪に生きることが償いになるのではないかといったやり取りが残されている。二審のやり取りの中でもし社会復帰をしたらの問いに対し「テストで1番の子がビリの子を助けるような塾をやりたい」といった趣旨の発言をしている。

出典:永山則夫連続射殺事件 - Wikipedia

	

差し戻しから死刑確定頃

差し戻し審で無期懲役が難しくなると一転して1審のような国家権力に対する発言に変わったが関係者の話では1審のような迫力はなかった。また拘置所で面会に訪れた人に対して社会に出た時の話をしなくなった。弁護士に対して「生きる希望の無かった人に生きる希望を与えておきながら結局殺す。こういうやり方をするんですね」といった趣旨の発言をしたとされている。

出典:永山則夫連続射殺事件 - Wikipedia

	

精神鑑定


当時、精神犯罪医学者として嘱望されていた精神科医・石川義博による緻密なカウンセリングを長期にわたり八王子医療刑務所で受けており、PTSDに着目した日本初の鑑定書として一審から提出され続けたが、東京地裁は黙殺したものの控訴審の東京高裁では重視され無期刑への減刑判決となった。しかし上告審では再度採用されなかった。 石川は、死刑確定後、いっさいの鑑定依頼を断り、町医者として現在も医療に従事している。

出典:永山則夫連続射殺事件 - Wikipedia

	

無知の涙

永山が獄中で記した「読書ノート」は、作家・井上光晴が主催する雑誌「辺境」に掲載され、71年3月に「無知の涙」として出版された。大学ノート10冊分の散文や詩をまとめられた同書は3ヶ月間に7万部を売るベストセラーになり、永山の生い立ちに対して同情的な見方をする人も現れたりした。

 アメリカ・ネブラスカ州在住のK子さん(当時25歳)もその1人だった。K子さんは会社での人間関係に疲れて沖縄の実家に帰る途中、たまたま隣りになった人が「無知の涙」を読んでおり、貸してもらって感銘を受けた。その後、獄中の永山と30通に及ぶ文通があった。


 1980年12月12日、永山は拘置所の面会室で、K子さんと結婚。

 K子さんは翌年名古屋事件の被害者の遺族のもとを訪ね、謝罪している。


 1983年発表した「木橋」は新日本文学賞を受賞している。


 1985年、K子さんと協議離婚。


 1997年8月1日、東京拘置所内で死刑執行。永山のこの時期の死刑執行には、同じ年に起こった「神戸連続児童殺傷事件」が関係していると言われる。犯行時、未成年であっても極刑は下されるという「示し」があった。

出典:永山則夫連続射殺事件

	

永山基準とは

日本の刑事裁判において刑罰として死刑を適用する際の判断基準。1983年、連続4人射殺事件の被告だった永山則夫の第1次上告審判決で、最高裁が2審の無期懲役判決を棄却した際に示されたため、永山基準と呼ばれる。殺害された被害者の数が複数であることなどをその内容とし、この基準が以降の死刑判決の適用に広く影響を与えている。

基準の内容として、

(1)犯罪の性質、(2)動機、計画性など、(3)犯行態様、執拗(しつよう)さ・残虐性など、(4)結果の重大さ、特に殺害被害者数、(5)遺族の被害感情、(6)社会的影響、(7)犯人の年齢、犯行時に未成年など、(8)前科、(9)犯行後の情状


の9項目を挙げ、これらを考慮し、刑事責任が極めて重大で、犯罪予防などの観点からやむを得ない場合には、死刑の選択も許されるとした。具体的な数値が示されているわけではなく、必ずしも他の判決に波及し制限する判例ということではないが、極刑以外に選択の余地がないときにだけ「やむを得ず」死刑が適用されるという姿勢であり、以降ほとんどの死刑判決はこれに照らして判断がなされてきた。光市母子殺害事件の最高裁による差し戻し判決では、「特に酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」とされ、犯行時の年齢を重視しないなど、基準の解釈に新たな変化がもたらされたとする識者の見解もある。

2010年11月東京地裁で無期懲役の判決が下された耳かき店員ら殺害事件では、殺人罪などに問われた被告に、検察側から永山基準を論拠にした死刑求刑が行われた。裁判員裁判では初の死刑求刑となり、検察側、弁護側ともに永山基準をもとにした刑の重さを争点として公判が進み、裁判員らの判断に注目が集まった。


出典:永山基準(ながやまきじゅん)とは - コトバンク

	

死刑執行

永山則夫は、1997年8月1日に東京拘置所において死刑が執行された。享年48。

処刑後

1997年8月1日、東京拘置所において永山の死刑が執行された。48歳だった。全国新聞はいずれも当日の夕刊の第一面で報じた。

生前、永山は知人に「刑が執行される時には全力で抵抗する」と述べていた。実際に処刑の際、永山が激しく抵抗したとする数人の証言がある。このため、永山の死体は死刑執行後、速やかに火葬されたと言われている。

永山の死刑執行については、執行同年6月28日に逮捕された神戸連続児童殺傷事件の犯人が少年(当時14歳11ヶ月)であったことが、少なからず影響したとの見方も根強い。少年法による少年犯罪の加害者保護に対する世論の反発、厳罰化を求める声が高まる中、未成年で犯罪を起こし死刑囚となった永山を処刑する事で、その反発を和らげようとしたのではないか、とマスコミは取り上げた。


永山の告別式は東京都文京区の林泉寺で行われたが、遺族からは遺骨引き取り、葬儀ともに断られたため、葬儀は東京高等裁判所における差戻審、差戻後上告審で弁護人を担当した遠藤誠弁護士が喪主を務めて執り行われる形になった。永山の遺言もあり、遺骨は故郷の海であるオホーツク海に、元妻だった和美の手によって散布された(差戻し決定時に離婚成立)。


死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。これは著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの、永山の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。

出典:永山則夫 - Wikipedia

	

トピックス 大道寺将司の手紙


三菱重工爆破事件の大道寺将司は、獄中からの書簡集「死刑確定中」(太田出版)のなかで、次のように書いている。

「(1997年)8月1日朝、9時ごろだったか、隣の舎棟から絶叫が聞こえました。抗議の声のようだったとしかわかりませんが、外国語ではありませんでした。そして、その声はすぐにくぐもったものになって聞こえなくなったので、まさか処刑場に引き立てられた人が上げた声ではないだろうなと案じていました」


「懸念を深めるばかりで、8月2日(土)を迎えました。午前中の新聞の交付がいつもより遅くなり、ぼくの分は別扱いにされて看守が持ってきました。折り畳まれたものを開くと、『朝日』の8月2日付朝刊の一面左上が大きく黒く塗りつぶされていました。前日、誰かが、東京拘置所で処刑されたのでしょう」


 処刑されたのは永山則夫である。永山は大道寺の隣の棟に収容されていた。大道寺の聞いた声は、ほぼ間違いなく永山の声である。永山が最後になんと叫んでいたのかを知りたい。

出典:永山則夫連続射殺事件

	

永山則夫の最後の言葉


うおーーーーっ!!オレを殺すと革命が起きるぞ!

出典:「死刑囚、最期の言葉」とその背景:DDN JAPAN

	

事件をもとにしたフィクション

漫画『アンラッキーヤングメン』(大塚英志原作、藤原カムイ作画)では、特定している訳ではないが、Nというキャラクターとして登場する。

映画では1969年に『広域重要指定犯108号 嬲りもの』(監督木俣堯喬)というピンク映画が公開された。永山逮捕前に製作されたため[5]、ストーリーはオリジナルである。


1970年には『裸の十九歳』(監督新藤兼人)が公開、原田大二郎が永山(映画では山田道夫)を演じた。

出典:永山則夫連続射殺事件 - Wikipedia

	

オススメのまとめ

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Sharetube