【死刑判決】少年ライフル魔事件の「片桐操」とは
少年ライフル魔事件
少年ライフル魔事件(しょうねんライフルまじけん)とは、1965年(昭和40年)7月29日に発生した、18歳の少年によるライフル乱射事件である。少年と警察隊との間で西部劇さながらの銃撃戦が繰り広げられ、異常な展開を見せた。
片桐操 ―銃に魅せられた少年―
片桐は1947年に東京世田谷区に4人兄弟の末っ子として生まれた。小学生の時から銃や兵器に興味があり、ミリタリー雑誌「丸」を愛読していた。成績は芳しくなかったが、体格は良く、腕相撲ではクラスの1、2番を誇っていた。
小学校4年の時に母親が他界し、その1年後に父親は後妻をとるが継母ともうまくやっていた。
中学3年の時、父親は4500円もする玩具の銃を買い与えている。父親も戦時中は陸軍上等兵であり、息子の銃の趣味に無理解ではなかった。それでも「いつか本物の銃を買う」という息子に、「10万円くらいの銃ならいつでも買ってやる。しかし、間違っても銃で人を殺すな。そんなことがあったら殺すよりまず自分が死ね」と言い聞かせていた。
7歳上の長姉が、中学卒業祝いを兼ねて、3万5000円のライフル銃と4000円の照準器を贈った。このライフル銃は22口径の5連銃で「マスターライフルNO3」というものだった。所持許可は18歳未満では認められないため、長姉が自分名義にしておいた。
中学卒業を前に、家族は進学を勧めるが、金がかかるという理由で遠慮。自衛隊に志願するも試験で落ちた。この結果にひどく落胆しているようだったという。
それで自動車修理工見習いとなるがしばらくして辞め、64年11月から国内航路のタンカーのコック見習いとなった。給料は2万円ほどだったが、帰宅できるのは月に1日だった。
64年4月15日、この日は片桐の18歳の誕生日だったが、40日間の有給休暇をとった。自宅に戻った片桐はライフル銃を自分名義に替え、さらにこつこつと貯めていたお金でロイヤル鉄砲店へ行き、4万円の「水平2連式散弾銃12番」と、2万円ほどのスチール製の銃ケースを購入した。
銃の扱いは病的なほど丁寧だった。4、5時間かけて油雑巾で磨いて手入れし、「指紋がつく」ということで家族の誰にも触れさせなかった。集に1回は横浜か八王子の射撃場に出かけていた。父や兄が酒を勧めても、「酒や煙草は体の成長を止めるから嫌だ」と拒否した。
やがて休暇の40日が過ぎたが、片桐は出勤しようとはしなかった。実は有給期限の過ぎた5月22日に家族に内緒で退職していた。
出典:少年ライフル魔事件
拳銃が欲しくて警官襲撃
昭和40年7月29日午前11時前、神奈川県大和市の林で、無職少年(18)がわざと道路から見えるように標的を木の幹に設置し、公衆電話から「林の中で子供が空気銃を撃って遊んでいる。危いからやめさせてもらいたい」と自分で110番に通報して警官をおびき寄せた。標的の場所に引き返そうとしていた途中、高座郡の路上で、先の通報に駆けつけた巡査(21)が職務質問しようとすると、少年は新聞紙に包んで所持していたライフル銃でいきなり巡査の胸を撃ち、倒れた巡査の頭部をライフル銃の銃床で滅多打ちにして殺害した。
弾丸5発装填のピストル、警察手帳、手錠、ヘルメットなどを奪い、制服も奪おうとしたが上着は大量の血で汚れていたためあきらめ、ズボンだけを脱がせて着替えたところへ巡査2人(23,27)がパトカーで到着、車を降りて向かってきたので、2人のピストルとパトカーも奪おうと「手を首の後ろに回せ」と拳銃を突きつけパトカーまで引き返させピストルを渡して車に乗るように命令したが、巡査の1人(23)がピストルを発射、少年も2~3メートルの距離から4発撃って巡査に下腹部貫通の1ヶ月の重傷を負わせて逃走した。
連続自動車ハイジャック
犯行後は日本人の顔を区別できない外国人の車をハイジャックして現場に引き返し死体を運んで隠蔽する予定だったが、後から来た巡査のために計画が狂い、現場近くの民家を警官を装って訪れ、「今このあたりで撃ち合いがあって、犯人に逃げられたから車を出してもらいたい」と、男性(34)を騙して運転させて逃走した。午後12時5分、東京都町田市で、男性は交番を見つけると逃走しているという犯人について訊こうと車を降り、少年は慌ててあとを追った。交番にいた巡査はまさにその時、警官射殺犯人が車で逃走中という手配電話を受けており、そのナンバーの車が目の前に停車したので驚いてピストルを抜いて交番を出たが、少年は男性のわき腹にピストルを突きつけて、「近寄ると撃つ」と脅してしばらく対峙、交差点だったためたまたまそばに車が止まったので運転していた男性(29)にピストルを突きつけ飛び乗って逃走した。
午後1時10分、神奈川県川崎市の多摩川堤防で停車している車を見つけると、中で寝ていた男性(23)にピストルを突きつけ「車を取り替えてくれ」と云って降ろし、いままで運転させてきた男性にまた運転させて逃走した。
午後2時、東京都小金井市の公園で、停車して休憩していた男性(31)と女性(29)のアベックにピストルを突きつけ「俺は強盗だ。ドアを開けろ。騒ぐな」と脅して、いままで運転させてきた男性も同乗させて3人を人質として逃走した。
午後3時30分、渋谷区の病院前で具合の悪くなった女性だけを降ろし、男性2人を連れて渋谷をぐるぐる回って時間をつぶした。
警視庁はパトカーや白バイ198台、ヘリコプター2機、防弾チョッキの機動隊員など700人を動員した緊急配備をしき、神奈川県警もパトカー225台、警官2200人を動員、大捜査線が張られたがすべて後手に回った。
少年はカーラジオでニュースを聴いて警察が大部隊を繰り出していることを知っていたが、終始冷静で逃走計画を綿密に計算していた。
たった一人で警官隊580人と市街戦
午後6時、少年は渋谷駅前の銃砲店にひとりで入り、車から動くと撃つと脅されていた男性2人はすぐに車から脱出してそばの消防署に駆け込んだ。銃砲店には男性店員(65)、男性店員(16)、女性店員(21)、女性店員の妹(16)の4人がいたが、少年はピストルを突きつけて「俺は警察官を二人殺してきた」と脅してピストルの弾を出すように要求した。
この店でライフル銃を買ってから数回通ってきており、警官から奪ったスミス&ウェッソン45口径拳銃の弾がサンプル品として一発あることを知っていた。ピストルにはすでに弾が一発しか残っていなかったのでまずもう一発を補充し、ほかの銃も手に入れて東北に逃走する計画でこの店にやってきたのだった。銃があるかぎり無事に逃げられると自信を持っていた。
消防署からの通報ですぐにパトカー2台がやってくると、ライフル銃を要求し、窓ガラス越しに3発撃った。それから人質に3丁のライフル銃に弾を詰めさせ、店の中から、あるいは人質を盾にして店を出て1時間のうちに130発以上撃ちまくった。
警察は、パトカー50台、装甲車10数台、機動隊員など580人で包囲し、また数千人のやじうまが取り囲んでいた。
警官5人が2ヶ月などの重傷を負い、また、やじうまの男性(21)が2ヶ月、報道関係の男性(37)が1ヶ月の重傷を負うなど、合計15人が撃たれて重軽傷を負っている。山手線も運行中止となった。
少年は110番に電話するとヘリコプターがうるさいのでどけないと人質を殺すと脅し、冷蔵庫にあったビールをラッパ飲みするなどしていたが、終始冷静だった。
やがて催涙弾が何発も撃ち込まれたので、パトカーを奪って逃走するため人質に銃と大量の弾を持たせて店を出たが、男性店員(16)が隙を見て少年の後頭部をライフルで殴って走って逃げた。少年はその後ろから30発連射すると弾がなくなったので、女性店員(21)に装填させるためにクリップを手渡した。
犯人が撃てないことを知って、刑事(32)が突進して殴り掛かろうとしたが、少年は身をかわしてポケットからピストルを出すと2発撃った。1発は額に軽症を与え、1発は背中を貫通して1ヶ月の重傷を負わせた。
武器がなくなると少年は走って逃走しようとしたが、警官10人以上が追っ掛けて一斉に飛び掛かって逮捕した。
当時の写真を見ると完全武装の警官隊が戒厳令のように渋谷の街を包囲しながら通常の人質事件のように余裕を持っておらず必死に我が身を隠しており、正真正銘の市街戦だったことがわかる。そのわりには野次馬はノンキで警察も制御できず、すぐ前まで無防備に出て行って次々撃たれている。
下の写真ではピストルを構えている黒シャツの人が、弾が身体を貫通して重傷を負ってるはずの刑事さんらしい。額も撃たれたために、顔が血だらけになっている。
逮捕
逮捕後、片桐は取調べに対して次のように答えた。「いろんな銃を撃ちまくることができて、たまっていたものを全部吐き出したような気分で、スカッとした。どうせ刑務所に行くんだろうから、代わりにベトナムに行きたい。好きなガンを思いっきり撃つことができるなら死んでもいい」
この言葉から平和な日本にもベトナム戦争の影が忍び寄っていると見る識者もいた。
裁判の結果は1審では無期懲役の判決が下されたが控訴、2審では逆に死刑判決となった。
片桐は1、2審とも、「銃への魅力はいまなお尽きない。将来、社会へ出て再びこのように多くの人に迷惑をかけることないような刑、死刑にしてほしい」と述べた。
2審の裁判長が片桐の希望を聞き入れて死刑の判決を下したわけではなく、矯正の余地がないと判断して死刑の判決を下した。
1969年(昭和44年)、最高裁では2審の判決が支持され、死刑が確定した。
1972年(昭和47年)7月21日、死刑が執行された。25歳だった。
出典:少年ライフル魔事件
片桐操の最後の言葉
皆さん、ありがとうございました。お先に失礼します
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