「バラバラ殺人という言葉が生まれた事件」玉の井バラバラ殺人事件

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玉の井バラバラ殺人事件

玉の井バラバラ殺人事件(たまのいバラバラさつじんじけん)は、1932年(昭和7年)3月7日に東京府南葛飾郡寺島町(現在の東京都墨田区)で発覚した殺人事件。この事件によって、殺害された被害者の遺体を切り刻む猟奇殺人の名称として「バラバラ殺人」が定着した。


バラバラ殺人

バラバラ殺人(バラバラさつじん)は、死体を部位により分割したり、分割した死体の一部を圧壊する、殺人と死体損壊の一般的呼称であり、動機によっては猟奇殺人に分類されることがある。

遺体発見

当時、まだ東京市に編入されていなかった東京府南葛飾郡寺島町5丁目から6丁目(現・東京都墨田区東向島4丁目から6丁目)にかけて私娼街があった。迷路のような街で、人がやっと通れるくらいの狭い道には<抜けられます><近道>と書かれた看板があった。玉の井とはそんなところで、永井荷風や徳田秋声、高村光太郎、尾崎士郎などがここに出入りしていたという。

東京・・・1868年(明治元年=慶応4年)、江戸を「東京」と改称。1878年(明治11年)、東京府15区6郡成立。1889年(明治22年)、東京府15区に市制、東京市とする。1893年(明治26年)三多摩(北、南、西多摩)郡を神奈川県より移管。1932年(昭和7年)、府下5郡82町村を東京市に編入、20区を新設し、合わせて35区となる。この時点で、現在の東京23区とほぼ同じ範囲となる。1943年(昭和18年)、東京府は東京都となり、同時に東京市を廃して区を東京都の直下に置くこととなった。1947年(昭和22年)、22区に統合。その後、板橋区から練馬区を分離し、23区となる。


永井荷風の名作『墨東綺譚』には、玉の井のお雪という女に惚れて通ったという話やこの街の成り立ちが書かれてある。1918・9年(大正7・8年)に浅草観音裏手が狭められ、広い道路が開かれるのに際して、昔からその辺に密集していた“銘酒屋”が追い払われて、まだ田畑の残っていた新興郊外の玉の井に逃れて営業した。さらに、まだ浅草に残っていた“銘酒屋”が、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災(死者9万1802人、行方不明者4万2257人)に焼け出されて玉の井に集まってきたらしい。吉原の他、新宿、千住、品川などの江戸時代から街道にあった宿場の色街は公認されていたのに対し、玉の井は、公認はされておらず、表向きの“銘酒屋”として約500軒、2000人が働いていたが、お上は黙認していた。


その玉の井のすぐ近くに、通称 「お歯黒どぶ」 という下水溝があり、水面はまるで、お歯黒の液を流したように黒く濁っていた。メタンガスの泡がぶつぶつと発生する汚水の掘で、犬や猫の死骸の他、玉の井の女が出産し、処置に困って遺棄した嬰児の死体がよく発見されたという。


1932年(昭和7年)3月7日午前9時ごろ、子供がその 「お歯黒どぶ」 に下駄を落としてしまった。呉服商のおやじさんが駆けつけ、棒でどぶをかき回して下駄を探した。


『東京日日新聞』(現・『毎日新聞』)では「呉服商」だが、『東京朝日新聞』(現・『朝日新聞』)では「ペンキ屋」になっている。


すると、黒い水面に血が広がり、白地の浴衣で包み麻の細ひもで厳重にぐるぐる巻きに縛ったものが浮かんできた。これはただごとではないと、おやじさんが寺島警察署の長浦交番に届け出た。安藤巡査が現場に駆けつけ、引き上げられた包装を解いてみると、男の胴体のみがハトロン紙の中から現れた。


安藤巡査は、あとから駆けつけた千葉巡査とともに、同じどぶの少し離れたところからさらに、2つの包みを発見した。


どぶから引き上げた3個の包みの中身は、推定30歳ぐらいの男の首、乳部から上の胸部、へそから下の腰部で、つけ根から切断された両腕、両脚はなく、また、乳部からへそまでの胴体は発見されなかった。


最初、この事件は「寺島八ツ切屍体事件」「向島の惨殺死体事件」などと呼ばれていたが、事件解決が長引くに連れて、『東京朝日新聞』が名付けた「玉の井のバラバラ事件」に統一されていった。


この種の死体切断事件はこの事件が初めてではなかったが、「バラバラ」という表現が用いられたのは、この事件が最初であった。以後、この表現が定着する。

出典:玉の井バラバラ事件

	

玉の井バラバラ殺人事件

この種の死体切断事件はこの事件が初めてではなかったが、「バラバラ」という表現が用いられたのは、この事件が最初であった。以後、この表現が定着する。

捜査

警視庁から土屋捜査1課長、吉川鑑識課長らが寺島警察署につめかけ、捜査本部が設置された。


翌日の3月8日正午から、東京帝大(現・東京大学)で解剖された。


年齢は30歳前後、顔は日焼けし、骨格、右肩の筋肉が発達しているところから肉体労働者と想定され、顔の特徴は角張った方で、富士額、門歯の裏には2重の犬歯があり、臀部には皮膚病のあとがあった。


死後1週間ぐらい、致命傷は前額部から左にかけて鈍器状の物による乱打。脳震盪脳挫傷。猛烈な打撃によって顎は粉砕され下前歯3本が折れている。軽い肋膜炎の治療痕がある。鼻腔、口などには布団の古綿が詰められていた。胴体を結わえたひもには女の毛髪が6本付着していた。さらに、猫の毛も付着していた。また、鰯のうろこも発見されている。


死体を包んでいたハトロン紙は近くの石鹸工場などで使用している包装用のものと同じ種類で、それにかけたひもは麻ひも、カーテンひも、帯芯の端きれなどを丹念につなぎ合わせたものだった。


泥水の浸潤状態から推して、死体を現場に遺棄したのは発見された日の前日の6日夜としている。


「お歯黒どぶ」は幅約2メートル、深さ約1メートル。黒い水の底にヘドロがたっぷり溜まっている。


捜査陣は地元町内会、青年団130人の応援のもと、消防ポンプ2台、発動機1台が出動し、必死になってどぶさらいを行ったが、徒労に終わった。


また、付近一帯を家出人、行方不明者はいないかとシラミ潰しに聞き込み捜査したが、これといった収穫はなかった。


3月9日付の『東京日日新聞』には<八ツ切死体に 特徴の八重歯>という見出しで、死体の八重歯の写真まで掲載した。


12日付の『東京朝日新聞』には<手も足も出ない 犯人捜査>とシャレた見出しが出た。当時、テレビがない時代だから新聞によって、この事件の経過を知ることになる。


この事件によって困ったのは、玉の井の500軒の “銘酒屋” であり、2000人の娼婦であった。一日の客は1万人と言われていたが、この事件発生後、約3分の1に減り、その周辺の酒場、めし屋などまでダメージを受けた。だが、現場は野次馬でごったがえし、屋台が出る騒ぎになっていた。


捜査本部の寺島警察署には非難の投書が舞い込んだ。そのため、苦肉の策として、懸賞金を出すことになった。

〈 犯人を教えた者には200円、被害者の身元を教えた者には100円、捜査に有力な手掛かりを提供した者には100円 〉


捜査が行きづまると、マスコミは一斉に売れっ子探偵小説作家に推理を求めた。江戸川乱歩、大下宇陀児、甲賀三郎、浜尾四郎子爵、森下雨村・・・。


3月21日の彼岸の中日に、迷宮入りが濃厚になって、客足が遠のいて困り果てた玉の井の業者は 「お歯黒どぶ」のわきに祭壇を設けて供養した。呼ばれた坊主は卒塔婆に <三月七日発見居士> という冗談のような戒名まで書いた。


もはや、迷宮入りかと思われていたこの事件が意外なところから解決する。


9月27日、水上警察署長は署員数名を連れて現場視察に出かけた。これに同行した同署枕橋派出所の石賀道夫巡査(当時28歳)は3年前の8月に、富士額で、八重歯の男を不審尋問したことを思い出した。


その男は千葉龍太郎(当時27歳)というルンペンで、きく子(当時8歳)という子供を連れていた。この千葉が被害者ではないかとひらめいた。


ルンペン・・・「乞食」のことを指して言ったりしますが、語源はドイツ語の"lumpen"で、「ボロぎれ」「古着」という意味。


男は「自分は妻に死なれた上に失業し、とうとうルンペンにまでなりました」というので、石賀巡査は同情し、子供を自分の家に引き取って、千葉を運送屋へ世話をしたが、千葉は3日坊主ですぐに辞めてしまう。そのうち、横浜へ行くからと、きく子を連れ出したかと思うと10日ほどで、また石賀巡査のところへふらりと戻ってくるという有様。そんなことではどうしようもないから故郷の秋田へ帰れというと、故郷へ戻れば財産もあると言うので、石賀巡査は金を与えて上野駅から列車に乗り込ませたというのである。


捜査した結果、千葉ときく子は本郷の長谷川市太郎方に寄宿していることが分かった。


10月16日、警察は長谷川市太郎(当時39歳)に会って、千葉の消息を訊いたところ、「確かに、1年ほど前から引き取っていたが、今年の2月ごろから家を飛び出したきりです」と言う。近隣で聞き込みをすると、いつもゴタゴタもめていたという。


なお、調べていくと、長谷川は建具職人だったが、このときは、正業を持たず、春画を描いてはそれを千葉に売らせていたことが分かった。ゴタゴタしていたのは、千葉が春画を売った金を勝手に使ってしまうのが原因だった。

出典:玉の井バラバラ事件

	

報道

遺体発見の二日前に血盟団による団琢磨暗殺事件が起こっていて、どの新聞社もそれほど大きく扱っていなかったが、1週間後、事件が迷宮入りするかと思われるころから、がぜん報道機関の注目を集めるようになり、さまざまな特集記事が組まれた。

この事件については当初、「コマきれ殺人」「八つ切り殺人」など、さまざまな表現があったが、東京朝日新聞(現在の朝日新聞)が用いた「バラバラ殺人事件」という表現に統一され、以後の同様の事件報道において定着することになった。


特集記事で最も注目を浴びたのは、江戸川乱歩や浜尾四郎など現役の推理作家の犯人推理である。乱歩は犯人像より犯罪の猟奇性ばかり強調している。浜尾のみ現場からのインタビューで、「家に帰ったがまったく働かない弟に腹を立てた兄が殺したのかもしれない。弟は出稼ぎで働いていたか、上海に行って夢破れたのかもしれない」と、非常に事実に近い推理をしている。浜尾は東北で深刻化していた飢饉や血盟団事件といった農村と都会の格差や、大陸に渡って夢破れた人々の挫折を、当時の報道から敏感に察知したと思われる。ほかにも毎日新聞の名物記者、楠本重隆が、遺体を包むのに使われた帯芯、紐に付着した猫の毛、そして鰯のうろこから、「鰯を焼くそばで猫が歩いている貧乏長屋で、男女が共謀してひとりの男を殺して、遺体を遺棄するために切断したんだろう」と同僚に述べている。


警察には毎日、我こそ名探偵なりと大勢の人間が押しかけた。江戸川乱歩が犯人だ、サーカス団の仕業だなど、根拠なき犯人説を執拗に繰り返す者たちがいた。遺体を包んでいた紐に猫の毛が付着していた事実から、東京中の猫を1匹残らず集めて同じ毛を持つ猫を見つければ、その猫が犯人宅に導いてくれると無茶苦茶な捜査方法を要求する者など、非常に奇抜な人間が当時の新聞で報道されている。当時のさまざまの新聞を読むと、他社に負けてなるものかと激しい報道合戦が繰り広げられたことがよくわかる。単に現場検証している刑事の写真を掲載して、「八方塞の警察」という見出しを載せたり、玉の井周辺の店の写真と現場の野次馬向けの屋台の写真をわざと隣り合わせに載せたりと、面白おかしく報道するために、どの新聞社も過激な見出しや表現をふんだんに使っている。


バラバラ殺人はすでに大正時代に鈴弁殺し事件が起こっていたものの、事件解決までそう時間がかからなかったことから、今回の事件ほど長期に渡って報道されることはなかった。

出典:玉の井バラバラ殺人事件 - Wikipedia

	

自供

10月20日、警察は長谷川市太郎を有力容疑者として、水上署に連行して追及した結果、ついに、千葉殺しを認めた。

「千葉を救ったのに、恩を仇で返すような千葉の態度に怒りがわき、自分1人で殺しました」と、単独犯行であることを主張した。彼の自供から犯行の経緯を知った世間は同情的だった。


10月28日、しかし、そのあとに自供内容が変わった。「千葉を引き取ったのは秋田にあるという財産が目当てだった。計画的に殺して弟と妹が手伝った」というのである。


こうなると、世間の見方は一転した。


妹のとみ(当時30歳)は銀座の松坂屋裏にあるバー「銀すず」の女給で、弟の長太郎(23歳)は東京帝大工学部土木課に印刷工として働いていた。この3兄弟は病気がちの母親と一緒に暮らしていた。とみがバーでもらう日給は40銭、長太郎の日給は1円30銭、市太郎は春画をせっせと描いては浅草に売りに行っていたが、たいした収入になるわけではなかった。一家は電気代も払えず送電も停められ、ローソクを灯していた。


事件発生の前年の4月、市太郎が浅草花屋敷に遊びに行った帰り、木馬館裏のベンチでうずくまっていた千葉親子を見つけた。


このとき、口達者な千葉はホラを吹いた。自分は高等農林学校で学び、故郷の秋田には財産がある。ただ、義母と不仲で家を飛び出し、一時はサラリーマンになったが、妻が死に、自分も病気になって失業した。今、ルンペンになってしまったが、こんな自分を助けてくれる人がいれば、近い将来に何倍にもしてお礼をしたい・・・。


市太郎が千葉親子を家に連れて帰ったのは、この話に乗せられたからだった。


そのころ、妹のとみはバーの客の内山達雄(当時30歳)と内縁関係を結んでいたが、妊娠すると内山は行方をくらました。


5月に、とみは出産したが、難産で輸血が必要となり、弟の長太郎の血液だけでは足りず、それを知った千葉は自分から進んで血液を提供し、とみは全快した。母親のふみは、娘のとみをけしかけて千葉と肉体関係を結ばせた。


千葉ととみが夫婦同然の関係になると、市太郎は千葉に対し、早速、故郷の秋田に帰って財産を整理して来いと迫った。長谷川一家はとみやふみの着物を質に入れて千葉の旅費を工面して渡した。ところが、帰郷した千葉はなかなか戻らず、やっと上京して来たら、手土産ひとつぶらさげているだけで無一文だった。


「田舎では小作争議が起こっていて田畑を処分するどころではなかったよ。少し騒ぎが収まるまで待たねばならぬ」


一方、とみに子を産ませた内山達雄の父親の内山重次(当時78歳)は市太郎と奇妙な関係にあった。市太郎が描いていた春画の原本は、重次が提供していたのである。重次は市太郎から千葉のことで相談を受けると、重次は早速、秋田に問い合わせ、千葉が無一文だと知って、それを市太郎に知らせた。


市太郎は千葉の実像を知ると、追い出しにかかったが、千葉は居すわり、粗暴な振る舞いをするようになった。だが、市太郎は千葉に対し、あまり強いことは言えなかった。春画を描いて売っていたという秘密を警察に密告されるおそれがあったからだ。あるとき、千葉は生まれたばかりのとみの赤ん坊を逆さにして振り回した。このことが原因かどうかはっきりしないが、赤ん坊は死んでしまった。


いよいよ、金に窮した長谷川一家は、とみを “銘酒屋” か遊郭に売ろうという話になった。市太郎と長太郎は、一文にもならないどころか、苦しい一家のお荷物になっている千葉を殺そうと考えていた。


翌年の1932年(昭和7年)2月11日(「13日」となっている文献もある)、市太郎は近くの湯島小学校で開かれた青年団の演説会に千葉を無理に誘い出した。


午後3時ころ、2人が演説会から戻ると、とみは死んでいった赤ん坊のために仏壇に手を合わせていた。千葉がその後ろ姿を見るなり、「そんなことはやめろ」と不快そうに言った。


「なにを怒っているの。私の可哀想な息子は死んでしまったのよ」


とみの言葉にカッとなった千葉は、いきなり「なにを!」と怒鳴ってとみに掴みかかろうとした。それを見ていた市太郎は、用意していたスパナを振り上げて千葉の後頭部を殴った。


千葉が猛然と怒って市太郎に掴みかかろうとしたとき、長太郎がバットで千葉の足を一撃した。横転した千葉を市太郎と長太郎がスパナとバットでメッタ打ち。このとき、とみは見張り役になって、外出中の母親ときく子が帰って来ないかと警戒していた。


死体をいったん台所の床下に放り込んでおいた。


2月20・21日、2日がかりで死体をバラバラにし、市太郎ととみが円タク(一定の距離を1円で走るタクシー)で、「お歯黒どぶ」に首部ひと包みと胴部2包みを捨て、問題の死体の未発見部分の両手足と腹部は東京帝大工学部の廃館2階の左側廊下の床下に隠した。3月7日、「お歯黒どぶ」から死体の一部が発見される。

出典:玉の井バラバラ事件

	

裁判

裁判では、1934年8月6日に東京地方裁判所は兄に懲役15年、弟に懲役8年、妹は死体遺棄罪のみで懲役6月執行猶予3年を言渡された。兄弟は控訴したが1935年12月17日に同じ判決(旧刑事訴訟法では控訴棄却はない)をうけ確定した。

なお、2011年現在、事件で使用されたノコギリは、警視庁本庁内警察参考室に展示されており、警視庁本庁見学(祝日・年末年始を除く月〜金曜日午前・午後各2回実施。6か月前から前日までの予約制)の際、見ることができる。

出典:玉の井バラバラ殺人事件 - Wikipedia

	

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Sharetube