文京区幼女殺人事件の「山田みつ子」とは

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文京区幼女殺人事件


文京区幼女殺人事件(ぶんきょうくようじょさつじんじけん)とは1999年11月22日、東京都文京区音羽で発生した幼女殺害・死体遺棄事件である。マスコミでは、事件の動機などから「音羽お受験殺人事件」、あるいは単に「音羽事件」といった呼称が用いられる場合もある。

山田みつ子

1964年、山田みつ子は静岡県大井川町で生まれた。家は土建業に就きながら、先祖代々の田畑を守っていた。家には祖父と後妻の祖母、叔父夫婦、両親と山田と妹の8人が暮らしていた。祖母が実権を持つ家の中で、祖父の前妻の子供である父、姑の間で苦労する母親の姿を見て育った。さらに、異母弟の叔父との間で家を継ぐ相続問題もあった。山田は祖母が近所の人に父母の悪口を言っているのを聞くと、それをメモして後で両親に教えたことさえあった。そういう家庭や狭い人間関係が嫌で嫌で仕方なかったという。それでも山田は農作業を手伝うなど、真面目な子供だったという。

 中学に入学してまもなく、盲腸で入院した山田は、医者の誤診もあり2ヶ月近く入院することになった。しかし、そこで親切に世話してくれた看護師に憧れて、自身も看護の道を志すようになる。退院してみると、病欠を考慮されることなく、1学期の成績はオール1だった。これにショックを受けた山田は夏休みに猛勉強した。その結果、2学期には教師から「よく頑張った」と言われるほど成績を戻し、無遅刻無欠席を果たした。

 また学級委員も務め、授業中に騒ぐ生徒がいると「静かにしてください」と注意した。ある時、担任教師との交換日記に「先生が教室に来ると静かになるが、先生がいない時は騒がしい」と書いたところ、教師がこれを公表。騒いでいたとされる男子生徒が注意を受けた。このことから、男子生徒に「告げ口した」と批判されるようなこともあったという。

 中学3年の時、親子4人で実家を離れ、近所に買った土地に家を建てて住むことが決まった。しかし、父親は親戚から「農業を続けて欲しい」と説得され、結局そのまま生家に残ることになった。山田はひどくがっかりしたという。


 遠距離通学で、県立掛川東高校(看護学科)に通うようになった。部活は合唱部。この頃、山田は赤面恐怖症に悩むようになる。電車通学をしていた、途中から男子校の生徒が乗りこんでくると、不安や緊張でドキドキしてくるのである。

 高校時代の同級生の証言によると、山田は驚くほどの生真面目な生徒だったという。ある日、同級生が昼休みにカップラーメンを作ろうとすると、初めて見たのか、「できたら、見せて」などといって不思議そうに見ていたという。


 高校を卒業した山田は、当時浦和にあった埼玉県立衛生短期大学の看護学科に進学する。この学校には高校の先輩がいたこともあるが、実家を離れたいという思いもあった。

 短大2年生になった頃、摂食障害が始まる。きっかけは糖尿病の患者について食事治療を学んだことだった。カロリー制限の食事なら確実に痩せることを知り、最初はダイエットのつもりで始めた。その食生活とは1日にゆで卵1個と納豆半パック、それに菓子パン1つだけというものであった。ダイエットの効果で5月から8月までの間で10キロも痩せ、体重は30キロ台にまで落ちていた。それでも山田は、朝になると縄跳びをしたり、老人ホームへ実習に行く時も電車に乗らず、自転車で出かけるほど元気に過ごしていた。山田は学校でも習っていたために、自分でも拒食症とわかっていたという。

 夏休みになり実家に戻ると、それまでの反動から過食に転じる。急激に食べる量が増え、夏休みが終わり、学校が始まっても食欲は収まらなかった。体重は増えつづけ、精神的にも不安定になり、やる気が起こらなかった。一時は短大をやめようかとも考えたが、教官や友人に励まされ卒業している。

短大卒業後、山田は郷里に戻り、浜松医科大学の付属病院に就職した。ある日、山田はたまたま出たナースコールに呼ばれて、患者の病名もわからないまま、排泄の手伝いをしている間に、患者の容体が急変して亡くなってしまう。この一件で山田はショックを受け、わずか1ヶ月たらずで病院を退職した。


 実家に戻った山田は引きこもるようになった。家の中では食べては寝て、という生活を繰り返していた。以後、1年8ヶ月にわたりそのような生活していた。後の山田はこのような日々を「人生の傷」と語った。そんな生活に絶望し、風邪薬を大量に飲んで自殺を図ったこともある。

 この自殺未遂を機に山田は変わり始める。早朝からジョギングで汗を流し、本などを読んでダイエットを始めた。一時は30キロから63キロにまで増えた体重も55キロまで落ちた。


 86年1月、山田は静岡市内にある日本赤十字病院に再就職した。それを機に再び実家を離れ、病院の寮に暮らし始めた。働き出して、なんとか食事制限していたものの、1年ほどすると、また過食が始まる。この時、同僚の看護婦に教えられ、食べては吐き出すようになる。そんなことを続けるうちに、山田は急激に痩せていく。それでも三交代の勤務をこなし、休みの日にはボランティアの手伝いにも出かけた。

 この頃、山田はテレビで聞いた「南無の会」(※)の松原泰道老師の法話に感動し、夏には長野市の寺院で開催された南無行(夏季研修会)に母親と一緒に参加している。この頃山田は仕事は順調にこなしていたが、摂食障害による食欲が抑まらず、食べては吐くなど苦しみから、心の拠り所を同会に求めたのかもしれない。この研修会で当時22歳の山田は未来の夫となる人物と出会っている。夫はボランティアで受け付けをしていた若い僧侶だった。山田とその若い僧侶は研修会や講演会で挨拶したり、便りを交わす仲になっていった。

しかし、身も心もぼろぼろになった山田は病院を辞め、また実家に戻ることになった。実家でも食べては吐きを繰り返し、ある日睡眠薬の「ハルシオン」を何十錠も飲み、自殺を図った。


 停滞のなか、看護師の仕事に希望を見出した山田は、静岡に戻り、浜松医科大学の付属病院に就職する。ここでは精神科を配属先に希望している。


 92年秋、再び過度な摂食障害に苦しみ、病院の寮を離れ、実家に戻った。この頃の山田は自己啓発セミナーに参加していた。同級生や友人などにもそのセミナーの勧誘の電話を入れたりした。山田は初めて東京の若い僧侶に電話をかけた。セミナーのことを話すと、彼はすぐその誘いを断り、逆に代表者がわからないような会はやめた方がいいと忠告した。山田は素直にしたがってセミナーをやめた。

 出会って6年目、二人の仲は急速に深まり、93年4月に結婚した。山田が29歳の時のことである。

出典:音羽幼女殺害事件

	

東京での人間関係

山田夫妻は文京区音羽の築20年の8階建て、2LDKほどのマンションに新居をかまえた。

 山田は郷里を離れてからも、田植えや稲刈りの時期には、実家を訪れて、農作業を手伝っていた。東京の自宅からもよく、1人暮らしの母親を案じて電話をかけていた。


 山田の夫は自宅近くの臨済宗・桂林寺の副住職をしていた。山田は副住職の嫁として苦しんだと言う。檀家の話によると、山田は礼儀作法もしっかりできていたが、こちらから何か言わないと、黙って頭を下げているだけの控えめな女性だったと言う。檀家が法事の時などに食事に誘うと、「副住職も連れていっていいかね」と住職が言い、たがいに気を使っていたようだ。山田も子供を連れて毎日寺に通い、仕事を手伝っていたが、夫はお寺の養子に入る人だから、かなり気を使っていたと思われる。しかし、実際には住職は身内に跡を継がせたいと考えるようになり、夫の後継ぎも定かではなくなっていく。


 逮捕時、山田は専業主婦と報じられたが、実は寺の仕事で月々6万円の報酬ももらっていた。寺の仕事も大変だったようである。朝5時半に起床し、6時には2人で寺に読経に出かける。一旦、家に帰って朝食を作り、10時頃再び寺に行く。トイレや書院の掃除をすると、昼前には自宅で昼食の準備、午後にも手伝いがあった。土日の週末は、寺で座禅会や法事があるため接待もあった。しかし、それでも山田はこの仕事を苦にすることはなかった。


 家庭では戒律の厳しい禅宗で修業をしてきた夫が、家の中で独自の合理主義を貫いた。新婚当初から、部屋にカーテンもつけず、「ゴミになるから」と新聞もとらない。ゴミの処理の仕方から布巾の干し方まで細かく指示したという。


 94年1月、長男を出産。自宅に戻ると、体調の戻らぬうちから、毎日のように訪ねてくる夫の客にお茶や食事の接待をし、そのことで無理がたたって体調を崩し、入院することとなった。


 3月頃、山田は夫から食事のことで批判され、同時のそれまでの夫への不満が噴出した。日記には「別居したい」「離婚したい」と書かれている。心身は疲弊し、鬱状態になっていく。こうした時期に山田は若山さんと出会う。


 5月18日、自宅近くの公園で山田が長男を日光浴させて帰りかけたとき、同じ年頃の男の赤ちゃんをベビーカーで連れた一人の母親が目に止まる。この母親こそ若山さんである。どちらともなく声をかけると、ともに4ヶ月を迎える頃で、誕生日も2日違いだった。その場で電話番号を教え合うと、2人の家が近いことを知った。若山さんは山田宅と音羽通りをはさんで200m離れたところにある瀟洒な分譲マンションに住んでいた。山田はこの日の日記に「仲良くなれそう」と書いている。これが静岡の農家で育ち、埼玉の短大を卒業後、看護師として働き、僧侶と結婚した山田と、都会で育ち、4年制大学からOL生活をへて資産家の御曹司と結婚した若山さんの出会いだった。ちなみに若山さんは山田の3歳下だった。

 やがて、電話のやり取りが始まり、一緒にデパートに買い物に行ったり、自宅に招くなど親しい付き合いをするようになっていった。

出典:音羽幼女殺害事件

	

殺害に至るまで


長男が1歳半になった頃、山田は若山さんとの付き合いに”疲れ”を感じるようになったと、後に公判で述べている。

「若山さんは自分の子が足にまとわりつくと『やめなさい』と叱る・・・」


「長男の入園を考えるころ、私が『音羽幼稚園は自由保育でいいみたいよ』というと、若山さんはイライラした様子で、『そんな野放しのどこがいいの』と言われたので嫌な感じがしました


 しかし、これは若山さんに悪意やがあったのではなく、ただ単に自分の子供の教育に対する考え方が違っていただけの、山田の一方的な”違和感”にすぎないものだった。それでも2人は疎遠になることはなかった。山田が長女を妊娠した時、すぐに知らせ、その秋には春奈ちゃんを身ごもった若山さんと一緒に水天宮に安産祈願に出かけている。ところがこの頃、若山さんが新しく知り合った他の父兄・Aさんと急速に急速に仲良くなったため、山田は疎外感をかんじるようになった。


「若山さんはAさんには丁寧に接しても、自分と長男には粗雑に接する」

 山田はそれが差別的な態度に見えたという。


 山田の長男と若山さんの長男は揃って、音羽幼稚園(大塚5-40-1)に入園する。幼稚園のお迎えの時、母親達は連れ立って公園などに帰り道集まっていたという。しかし、山田は昼食を摂りに帰ってくる夫の食事の仕度で家に帰らなければならなかった。山田の疎外感は深まるばかりだった。

 年少組の3学期、思い余って山田は夫に「幼稚園を変えたい」と相談している。だが、長男は転園を嫌がり、夫も反対したため、あきらめた。


 長男が年中組にあがってからは、山田は送り迎えの時もなるべく若山さんと顔を合わせないように務めていた。若山さんのマンションの前を通る時、自転車があるかないか確認し、あれば「家にいるのだ」と安心し、なければ不安になったという。


 その後も若山さんと行動をともにすることがあったが、その頃には若山さんの嫌なところしか見られなくなっていて、彼女のことを考えるだけでもパニック状態になった。しかし、みんなから仲が良いと思われていると思うと、陰険な態度はとれなかったという。


 事件の9ヶ月前、長男が年中組の3学期の時、園長を囲んでの懇談会が開かれた。父兄は10人ほどしか集まらなかったが、この時山田は長女を抱いて参加していた。父兄が育児の悩みについて話していたところ、山田は急に泣き出したという。園長が話を聞くと、

「子供が今日は○○ちゃんと遊びたいと思っても、お相手の人は他の子を誘ってうちの子は誘ってくれなかったり、自分も用があって子供を遊ばせられないことがある」と山田は言った。


 山田の若山さんへの”嫌悪”の感情は、次第に”憎しみ”に変わっていった。ベルトで若山さんの首を絞めるシーンをたびたび思い浮かべたという。


「若山さんがいなくなってしまえばいい・・・・」

 そう思い始めた山田は、それまで長男がいたずらしても、手をあげず口で言って聞かせていたのだが、たまに頭を叩くようになった。夫の寺で、走り回ったり、大声をだすと住職に気兼ねして叩いてしまうのだ。特に、若山さんのいる前でいい子にしていなかったときは、余計に厳しく叱っていたようだ。時には長男を蹴飛ばして床に転がすことがあり、止めに入った夫に山田がつかみかかったこともあった。だが夫はそうした行為に及ぶ理由について尋ねようとはしなかった。


長男が年長にあがると、若山さんが親しくしていたAさんが海外へ転居することになったので、前ほど疎外感は感じなくなったという。その春から、山田は2歳になった長女を連れて児童館の遊びの会に参加している。そこで、再び若山さんと顔をあわせるようになった。若山さんの方から声をかけてくることも多くなり、幼稚園の遠足に一緒に行ったり、電話もかかってくるようになった。迷いながらも若山さんと行動をともにするが、それでも山田の憎しみの感情は消えなかったという。山田は再び若山さんをさけるようになる。しかし一方では、若山さんのマンションに自転車が置いてないと、近くの公園を手当たり次第さがしている。自転車に乗せた長男に変に思われながらも1時間近く探し回った。

 夫に悩みを相談することもあったが、深刻には受け止めてもらえなかったと山田は後で話している。事件の3ヶ月ほど前からは家で若山さんのことを話すと子供も判ってくる年なので、「Wさん」と呼ぶようになっていた。


 事件直前の11月初め、子供が寝静まった後、山田は夫と次のような話をしている。


「ねえ、私がもし、犯罪者になったら、どうする?」

「犯罪って何?」

「いろいろ・・・」

「若山さんのことか?」

「若山さんのことじゃない。私が犯罪者になったら、お寺の住職や奥さんにいろいろ言われるのよね」

「そうさ、いろいろ言われるよ」

 しばらくやりとりした後、夫が言った。

「そんなことしたら一家離散になる」

 それ以上、話は進まなかった。


 11月は受験の時期で、山田は若山さんと顔を合わせる機会が多くなっていく。また幼稚園ではピリピリした雰囲気が漂い、受験についてあちこちで話されていた。

 山田は子供の受験には熱心ではなかった。お茶の水付属と学芸大付属の制服の区別がつかず、周囲からバカにされたというエピソードがある。それでも山田は国立の付属なら家から徒歩で通えるということで、ここを受けてみることとなった。

 子供の受験のことでも、夫と意見が合わなかった。長男を塾の短期集中講座に行かせたいと山田は言うが、「行かせても受かるわけがない」と夫は答え、口論になった。長女の幼稚園についても考えが合わなかった。山田はさらに眠れない日が続き、家事もおろそかになっていった。夫に離婚をきりだしたこともあった。


 11月11日、山田の長女がお茶の水女子大の付属幼稚園の1次試験を受けたが、抽選で外れた。一方、春奈ちゃんは当たっていた。ここで2人の子供は明暗をわけることになる。


 その5日後、筑波大学付属小学校の抽選に山田の長男は当たるが、若山さんの長男ははずれた。この時、若山さんから長男の必要でなくなった問題集をもらったが、素直に受け取れず気まずくなるという一件があった。

出典:音羽幼女殺害事件

	

文京区の幼稚園・小学校入試について


文京区は古くからの文教地区であり、音羽周辺にはお茶の水女子大、筑波大、東京学芸大などの付属校が点在している。自分の子供を国立大付属の幼稚園や小学校に入れるために、音羽に引っ越してくる人もいるという。というのも、国立大付属の幼稚園や学校では、その応募資格として、通学時間を30分以内(徒歩または公共の交通機関)などと限定してきたからだ。国立は私立のように入学金・授業料が高いわけではないので、受験層もやや庶民的だった。

 入試はクジによる抽選と考査(学力試験)で行われる。考査の内容は学校によって特徴があり、ペーパーテスト主体の試験もあれば、行動観察が中心のところもある。


 事件のあった99年度はお茶の水女子大付属幼稚園の入試倍率は22倍だった。都内でもトップの人気で、なかでも山田の娘と春奈ちゃんが受けた3歳女児の場合は20人の募集定員に対して、551人が受験するという超難関となった。


 なぜこれほどまでに親が熱心になるのか。それはある主婦の証言にすべて現れている。

「この街では、たとえ自分の夫が医者でも尊敬されない。自分の子供を国立大付属に入れた親がチャンピオンなんです(中略)その制服を着た子供を連れて歩くのが最大のステイタス」

出典:音羽幼女殺害事件

	

春奈ちゃん殺害

会社員 若山一昭さん(39)の長女、春奈ちゃん=写真=(2つ)

文京区幼女殺人事件
1999年11月19日金曜日、お茶ノ水女子大付属の幼稚園の合否が発表された。山田の長女は落ちたが、春奈ちゃんは合格していた。

 21日日曜日、山田は七五三の準備のために美容院に出かけている。そこに姓名判断の本があり、読んでみると自分の長女より、春奈ちゃんの方が画数が良かった。帰宅後もこだわっている様子に、夫は「気にするな」と声をかけている。


 休みをはさんで22日月曜日、園のお迎えで集まっていた主婦たちが若山さんに「おめでとう」と言って騒いでいた。その輪の中に山田はいた。山田は苦虫をかみつぶしたような顔で帰っていったという。ある主婦が目にした犯行3分前の山田の姿だった。

 正午前、園庭で若山さんが他の父兄と話している一瞬のすきに、その姿が見えなくなった。春奈ちゃんを抱いてさらっていた山田は、公衆便所に連れこみ、春奈ちゃんに身につけていたマフラーで絞殺していたのだ。このあと、山田はバッグに遺体を詰め、静岡の実家の裏庭に埋めた。


 その日のうちから山田逮捕の日まで春奈ちゃんの捜索が行われるが、依然行方不明だった。ちなみにこの捜索には山田夫妻は一切参加しなかった。長男の問題集の一件を聞かされていた若山さんの夫が思い当たり、妻に聞くが若山さんは「そんなことはしないでしょう」と言っていた。


 24日朝、山田は実家の母親に2度電話を入れている。とても小さい声で何を言っているのかわからなかったが、「春奈ちゃんを殺したのは自分なのだ」と母親は聞かされた。しかも、遺体はこの家の庭に埋めたと言う。母親は東京の寺に連絡すると、山田の夫にそのことを伝えた。夫もこの時初めて知ったという。


 春奈ちゃんが行方不明となって3日後、11月25日、山田は夫に付き添われて自首した。

出典:音羽幼女殺害事件

	

文京区幼女殺人事件

			

裁判の経過・結果

裁判で山田は、若山さんではなく春奈ちゃんを殺害した理由について尋問された時に、この状況から脱却したかった、春奈ちゃんが若山さんと同一の存在に思えたと供述している。標準的な感覚の者には論理的にも感覚的にも理解しがたい理由である。検察官は山田に対して、若山さんを殺すのではなく、若山さんにとってかけがえのない大事な存在である春奈ちゃんを殺害することで、若山さんに対して生きながら耐えがたい苦痛・悲嘆・絶望を与えようという、悪魔的な動機により春奈ちゃんを殺害したのではないかと尋問した。山田はそのような動機は考えたことは無いと否定している。裁判所もその点を否定している。

2001年12月5日、東京地裁(大谷直人裁判長)は起訴事実と犯行の動機のいずれも検察官の主張を全面的に認定。犯行の原因・責任は全て山田個人の特異性にあると認定し、検察官の懲役18年の求刑に対して、被告人山田に懲役14年の判決をした。検察官は量刑が不当に軽いという理由で控訴した。


2002年11月26日、東京高裁は起訴事実と犯行の動機のいずれも検察官の主張を全面的に認定し、検察官の控訴を認め、地裁判決を破棄して被告人山田に懲役15年の判決をした。被告人・弁護人も検察官も上告せずこの判決が確定した。


2002年12月4日、東京地裁は春奈ちゃんの両親が春奈ちゃんを殺害した山田に対して約1億3700万円の損害賠償を求めた民事裁判で、山田に約6100万円の損害賠償の支払いを命じる判決をし、そのうち約1970万円は、両親の請求どおり毎月22日の月命日に約8万円ずつ分割で20年かけて支払うよう命じた。山田は同判決に基づく支払いを実行しておらず、春奈ちゃんの両親が山田が受刑中の刑務所に請求書を郵送しているが、山田受刑者から返信が無い状態である。

出典:文京区幼女殺人事件 - Wikipedia

	

逮捕後の山田の供述

■若山さんの方が裕福でうらやましかった。最近、自分の娘が不憫で、春奈ちゃんを見ているのが辛くなった

■ある時、若山さんに『あなた、少し身なりに気をつけたほうがいいわよ』と言われ


■長男同士が帰りに手をつないで、 一緒に帰ろうとしていたら、 春奈ちゃんを抱いた若山さんが 今日は用があるからといって、 2人を引き離した。 私の子供は一緒に帰る約束をしていたのに と言った。 その時若山さんは私と目をあわせもしなかった


■公園で私の子供とあるお母さんの子供、そして若山さんの子供が滑り台で遊んでいた際、あるお母さんが帰ろうとすると、若山さんが、一緒に帰るから降りなさいと、子供を降ろし、そのお母さんと2人で帰った。私と私の子供にも声を掛けてくれればいいのになと思った


■長女の抽選漏れがわかった時点で、若山さんに『幼児教育が足りなかったんじゃないの』と言われた

出典:

	

毎月の賠償金支払わず 東京の女児殺害、山田受刑者


東京都文京区で一九九九年に女児=当時(2つ)=が殺害された事件で、服役中の 

 山田みつ子受刑者(39)が、遺族に対し毎月の命日に八万円を支払うよう命じる判決を

 受けながら、賠償金を全く支払っていないことが関係者の話で分かった。山田受刑者は

 昨年の刑事事件の公判で「罪を反省し続けていきたい」と述べていたが、遺族は早くも

 その言葉を信じられなくなっている。


 山田受刑者は昨年十一月、東京高裁で一審より一年重い懲役十五年の判決を受け、

 確定した。女児の両親が賠償を求めた民事訴訟では争わず、東京地裁は同十二月、

 山田受刑者に総額約六千百万円の支払いを命令。このうち約二千万円は、同年十一月

 から毎月の命日に八万円ずつ二十年間、分割で支払うことが決められた。


 ところが、判決が確定しても、山田受刑者は一度も決められた賠償金を支払っていないと

 いう。女児の両親は今年三月と五月の二回、栃木刑務所で服役中の山田受刑者あてに

 請求書を郵送した。しかし、これまでに山田受刑者からの返事は届いておらず、事情が

 分からない状態だという。(一部略)

出典:文京区女児殺害の山田みつ子毎月の賠償金支払わず ・3万円目...

	

事件が与えた影響

山田の夫はこの事件が原因で勤務していた寺を解雇された。山田の夫と山田の長男、長女はこの事件発生後に当時の住居を引き払い、2014年5月現在、三人の生活状況は不明である。

若山さん夫妻は、春奈ちゃんを殺害されたことに加えて、事件の原因が若山さんにあったかの様な虚偽の報道をされた事、虚偽の報道により嫌がらせの電話・郵便が多数着信・到着したこと、裁判中に出産した次男の妊娠時期が事件発生後だったことから春奈ちゃんの殺害を軽視している根拠と非難されたことなど、他者とマスコミに対する不信感から立ち直ることが出来ていない状況である。


一部の出版社が、山田は若山さんのいじめ・排斥に追い詰められて殺人をした被害者であり、真の加害者は若山さんであると報道したことに関して、若山さんは出版社に対し名誉毀損の損害賠償と謝罪広告を求める民事裁判を起こした。出版社はいずれも報道が事実でなかったことを認め、謝罪広告の掲載を承諾して若山さんと和解した。

出典:文京区幼女殺人事件 - Wikipedia

	

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