白鳥事件とは
白鳥事件
白鳥事件(しらとりじけん)は、1952年(昭和27年)1月21日に発生した殺人事件である。日本共産党や自由法曹団は冤罪事件であると主張し、1965年(昭和40年)に再審請求して最高裁判所へ特別抗告するも1975年(昭和50年)に棄却されている。
白鳥警部射殺
1952年1月21日午後7時40分頃、札幌市南六条西16丁目の路上で、自転車で帰宅中の市警警備課長・白鳥一雄さん(36歳)が背後から自転車に乗った男から追い抜きざまに銃弾を2発受け、そのうち1発は心臓を貫通し死亡した。撃った男はそのまま自転車で逃走した。遺体は北海道大学法医学教室で解剖され、脊髄骨を貫かれ出血多量により死亡したことがわかった。体内からは拳銃の弾1個が摘出され、この弾と傍に落ちていた薬きょうだけが唯一の証拠品となった。弾丸はブローニング32口径から発射されたものと断定された。
捜査当局は、当時軍事路線をとっていた日本共産党の犯行とにらみ、23日の新聞では札幌市警・小松本部長の「一応日共関係とみている」という談話が掲載された。当の日共札幌委員会は同日、次のような声明を出した。
声 明
日本共産党は政治団体であってテロ団体ではない。それどころから個人的テロを厳に排撃するのはわが党の綱領によってあきらかである。しかるに、白鳥札幌市警警備課長射殺事件がおこるや、何ら具体的な根拠もなく、民青事務署その他を捜査し、あたかも党関係者が加害者であるかのような宣伝や報道をおこない、また党関係者に対する尾行や張りこみは、きわめて不当である。わが党は絶対に事件とは関係ないのであり、われわれはこのことを職場をつうじ、またひろく市民にこのことを強くうったえるものである。
1952年1月23日
日本共産党札幌委員会
出典:白鳥事件
2月7日、まず札幌自労の党員・尾谷豊が逮捕され、また4月にかけて10数人の党員らが検挙された。尾谷は白鳥警部射殺が疑われたが、事件当夜のアリバイが明らかになった。逮捕された党員たちはハンストで抵抗し、3ヶ月後には全員が釈放された。事件から7ヶ月後の8月28日、日本共産党札幌委員会副委員長・佐藤直道(当時32歳)が逮捕された。
さらに10月1日、同委員長・村上国治(当時29歳)を札幌市内の路上で別件逮捕
11月17日、佐藤直道は獄中脱党、党委員会の情報を捜査本部に提供した。佐藤によると、党委員会委員長が軍事委員長を務め、殺害は軍事委員会直属の中核自衛隊である北海道大学生7人が殺害に関与、撃ったのはヒロ(同胞のポンプ職人・佐藤博)で、村上委員長がそれを指示したという。犯行に関しては「自分は無関係」と言い張った。
1953年4月8日、爆発物関係など多くの罪名で起訴された村上の札幌地裁での公判が始まる。
4月9日、都内で常任委員・追平雍嘉を逮捕。
6月9日、名寄の農家にいた隊員の北大生・高安知彦が逮捕された。高安はしばらく黙秘を続けていたが、1ヶ月後に脱党届を書き、「実行犯は白鳥を射殺する目的で射撃訓練をした」と供述した。
特捜本部はこの供述から札幌市郊外の幌見峠を捜索し、8月19日に白鳥警部を射殺した弾丸と同じ物1個を発見、さらに捜索が再開された54年4月30日には約4mほど離れたところでもう1個の弾丸を発見した。この弾丸を証拠に、55年8月16日に高安と村手を殺人幇助罪で起訴した。
検察側による起訴事実は、「村上は日共札幌委員会軍事委員会委員・宍戸均、北大生・鶴田倫也、党員・佐藤博と白鳥警部殺害を謀議。鶴田、佐藤博、大林昇、門脇成、村手、高安の6人が警部の動静を調べ、佐藤博が殺害した」というものである。
8月20日、佐藤博ら6人を殺人容疑で全国に指名手配し、9月に心因性反応のため長野の自宅で静養中だった隊員の北大生・村手宏光を逮捕した。村手は病状が悪化し、56年3月に保釈され、その後札幌医科大学附属病院精神科に入院した。
重要人物とされる佐藤博、宍戸均は行方をくらませていた。
1954年10月18日、佐藤直道、不起訴となり釈放される。
55年4月、指名手配されていた北大生・植野光彦が逮捕された。彼は黙秘を続けていたが、北大出身である毎日新聞記者が、植野と見られる男が別人であることに気づいた。検察側も慌てだして、旭川から両親を呼んだり、北大の教授に確認してもらったところ、やはり別人であることがわかった。
出典:白鳥事件
不穏
事件の起こった1952年は日本共産党の動きが注目、警戒された年だった。長引く朝鮮戦争に対し、反対の抗議活動が続き、「血のメーデー事件」、「破壊活動防止法法案」公布施行もこの年の出来事。日共に関する事件としては「菅生事件」、「山村工作隊検挙事件」、「辰野事件」、「青梅事件」も起こっている。そして前年暮れには警視庁練馬署旭町駐在所の印藤巡査が殺害されるという「練馬事件」もあった。こうしたことがあって、10月の総選挙では全議席を失っている。
そもそも1951年10月、日共は「5全協」(第5回全国協議会)で、中国共産党の路線を下敷きにした新綱領を採った。それに基づいて、「山村工作隊」を組織、また武装部隊として「中核自衛隊」を創設。目指す武装闘争は、火炎瓶による交番襲撃だった。
北海道では、51年に炭坑から掘り出された石炭を輸送する列車を赤信号で停め、石炭を市民に奪わせる計画が暴露された(「赤ランプ事件」 3度とも失敗に終わる)。これに関わったとされるのが、白鳥警部射殺事件後に逮捕された面々だった。
被害者である白鳥警部は1937年に北海道で巡査となり、終戦まで主として外事係をつとめていた。終戦後、警備係に任命され、左翼運動を取り締まるかたわら飲食・遊興関係の営業許可も受け持っていた。
1950年8月、日通労働会館でひらかれた「札幌平和擁護大会準備会」を解散させ、前年10月、「石炭よこせ」闘争のビラをまいた共産党員を公安警備責任者であった白鳥警部の指揮により逮捕。事件の前年12月27日には、札幌自由労働組合員が札幌市長に対して「モチ代」を要求し、集団交渉のため市役所前に座りこむという出来事があり、建造物侵入で20数人を検挙した。日共からすれば、白鳥警部は「敵」以外の何者でもなかった。
年が明けて、白鳥宅に赤インキで書かれたハガキが届けられた。
昨年はきさまのおかげでおれたちの仲間が監獄につながれた。
この恨はきっとはらす。―――――おれたちは極めて組織的にきさまをバラしてやる。
白鳥警部が撃たれた日は、日共捜査の打ち合せの日の帰りだった。午後に警察署を出た白鳥警部は南四条西4丁目のバー「シロー」に顔を出し、2軒の売春宿をまわった。
さらに事件から2日後、北大構内などで白鳥事件に関する「天誅ビラ」がばら撒かれた。
見よ 天誅遂に降る!
自由の凶敵!
白鳥市警備長の醜い末路こそ
全ファシスト官憲共の落ゆく運命である
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日本共産党札幌委員会
事件から5ヶ月が経った6月ごろ、元札幌信金従業員で、元日共党員の男が、「犯人は札幌信用金庫理事長である」という怪情報を流した。それによると、ヒロポン中毒であった理事長は不正貸出しや横領を白鳥警部に察知された(思いこんだ?)ため、殺人の前科のある殺し屋・Hを雇い、白鳥警部と反目し合っていた警部補からブローニング銃を借り受け殺害させた。しかも、共産党員の夫妻がそれを目撃していたというのである。
事件当日午後4時から8時頃の間、Hは白鳥警部と会っていた。Hは佐藤とともに逮捕されたが、なぜか釈放された。理事長は疑惑のなかで12月23日に自殺している。
出典:白鳥事件
戦後日本共産党(日共)が軍事革命に走った背景とは
第二次大戦時における米ソ蜜月は戦後数年間は維持され、日共も平和革命に徹していた。しかし、ソ連が原爆を保有した時点から様相は一変した。
1949年、ソ連の独裁者スターリンは各国共産党に世界革命を指令した。
日共も朝鮮総連も軍事闘争=武装蜂起路線に転換した。
日本共産党(日共)51年綱領には、軍事革命を明記している。
日共は「中核自衛隊」という軍事組織を組織。朝鮮総連は「祖国解放防衛隊」(祖防隊))を結成して、いたるところで武装闘争を敢行した。
白鳥警部暗殺もその一環であることは間違いない。
現在においても、日共は武装革命路線を捨てていない。現綱領にも「敵の出方」によっては武装革命もあると記している。
裁判
検察側は村上を殺人罪(共謀共同正犯)で、共犯2人を殺人罪の幇助犯として起訴し、「村上らは武装蜂起の訓練のため幌見峠で射撃訓練をした。そして、彼らの活動の邪魔になる白鳥警部を射殺した」と主張した。第1審の札幌地裁は共同謀議を認定、村上に無期懲役、共犯1人に懲役5年・執行猶予5年の判決を下した(途中から分離公判となっていた共犯T(=共同謀議を自供)には懲役3年・執行猶予3年を判決、そのまま判決は確定)。控訴審の札幌高裁では村上は懲役20年に減軽、共犯1人に関しては控訴を棄却。1963年には最高裁判所において上告も棄却され、判決が確定した。しかし、唯一の物証であるピストルの弾は2年前に発射された銃弾としては腐食が殆ど無く、しかも白鳥警部の遺体から発見された銃弾と旋条痕が一致したという鑑定結果も、実際はアメリカ軍が行ったものであったという証言が上告棄却後に得られたことから、捏造されたものである可能性が浮上。そのため村上は1965年に再審請求を行い、最高裁判所に特別抗告まで行ったが、1975年に請求は棄却された。
白鳥決定
村上は網走刑務所に収容されていた 再審請求申立書を札幌高裁に提出したが、1969年6月13日に却下。
1969年11月14日、村上は仮釈放された。まだ刑期を残しており、しかも再審申し立て中のこの仮釈放は異例だった。村上は「請求棄却決定」に対して異議申立てをしたが、札幌高裁は1971年7月に棄却。
村上は最高裁に特別抗告を申し立てたが、最高裁で75年5月20日に棄却された。
村上の訴えは通らなかったが、最高裁は「刑事訴訟法435条6号」を確定判決の事実認定で合理的な開始があれば開始してもいいというレベルに判例が緩和するという判断を下した。「開かずの門」とされてきた再審を見直す「最高裁白鳥決定」である。これは以後に弘前大教授夫人殺し、免田事件、財田川事件、松山事件などの再審への道を切り開くものとなった。
出典:白鳥事件
最高裁判例
事件名=再審請求棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告事件事件番号=昭和46年(し)第67号
裁判年月日=1975年(昭和50年)5月20日
判例集=刑集29巻5号177頁
裁判要旨=刑訴法435条6号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」とは、確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠をいうものと解すべきであるが、右の明らかな証拠であるかどうかは、もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当の証拠と他の全証拠と総合的に評価して判断すべきであり、この判断に際しても、再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において、「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則が適用される。
法廷名=第一小法廷
裁判長=岸上康夫
陪席裁判官=藤林益三 下田武三 岸盛一 団藤重光
多数意見=全員一致
意見=なし
反対意見=なし
参照法条=刑訴法435条6号
謎
「白鳥殺害=日共の犯行」に関しては物的証拠が殆ど無い。村上らを逮捕した後も犯行に使われたピストルすら出てこなかった。警察が主張したのは「村上らは武装蜂起の訓練のため幌見峠で射撃訓練をした。そして、彼らの活動の邪魔になる白鳥警部を射殺した」という一点だった。実際に2年前に幌見峠で訓練のため雪に向かって撃ったとされた弾丸は警察の現場検証で簡単に出てきた。しかも、その弾丸はニッケルメッキの光沢がありとても2年前に射撃した弾丸とは思えなかった。が、警察はこれが証拠であると法廷に提出している。昭和38年10月、最高裁で村上の懲役20年が確定した。
白鳥警部は、札幌の裏社会の権力者として様々な逸話があった。白鳥殺しは○○信用金庫の理事長が、不正を知られたため殺し屋を雇って殺したのだという噂も流れた。本当に犯人は村上だったのか真相は闇の中にある。
その後
村上は1994年11月3日、埼玉県大宮市内の自宅火災により71歳で死亡している。失火原因は不明。2011年3月27日、HBC北海道放送が事件関係者へのインタビューなどを通じて白鳥事件の真相を追ったラジオドキュメンタリー「インターが聴こえない~白鳥事件60年目の真実~」(HBCラジオ開局60周年記念ドキュメンタリー)を放送した。同番組は同年5月に第37回放送文化基金賞ラジオ部門優秀賞を、同6月に第48回ギャラクシー賞ラジオ部門大賞を受賞した。
2012年2月24日、中核自衛隊に所属し、この暗殺計画に参加したとして、1957年に殺人幇助などの罪で執行猶予判決を受けた元隊員は「中核自衛隊が計画を進めていたのは事実」と証言している。この元隊員は、説明責任を果たすために、手記をまとめる予定である。
3人の指名手配犯は、1955年頃に中華人民共和国に不法出国により亡命した。1988年にはそのうち2人が病死し、元北海道大生の鶴田倫也だけが残った。鶴田は1997年に北京市内で時事通信の取材に応じたが事件の真相を語ることはなかった。なお指名手配犯は海外逃亡のため公訴時効は停止し、日本の警察が死亡を確認していないために2012年1月時点で逮捕状を160回近く更新し続けており、日本で効力のある最古の逮捕状となっていた。
鶴田は晩年、心臓の持病を抱え、2012年1月ごろより体調を崩し3月中旬に北京で死亡。82歳だった。心臓に持病を抱えており、病死とみられる。ほかのメンバーは既に裁判を終えるか死亡したとされ、事件は60年という節目に事実上終結を迎えた。
鶴田容疑者は実行グループの取りまとめ役で、白鳥警部が射殺される直前まで行動を確認していたとされる。関係者によると、鶴田容疑者は事件後の1955年頃、静岡・焼津港から漁船で北京に亡命。約2か月ほど前から体調不良だったという。60年に及ぶ事件の捜査は終わった。
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