【死刑判決】西口彰連続強盗殺人事件とは
西口彰連続強盗殺人事件
カトリックの家庭に生まれながら前科4犯の西口彰(にしぐち あきら、1925年12月14日 - 1970年12月11日)が1963年10月に2人を殺害し、その後、1964年1月3日に逮捕されるまで逃亡を続け、大学教授や弁護士などを騙って計5人を殺害し、計80万円を詐取した。熊本では弁護士を装って教戒師・古川泰龍の家に押し入るが、当時11歳の娘が見抜き、通報することにより逮捕につながった。警察の要職を歴任した高松敬治は「全国の警察は、西口逮捕のために懸命な捜査を続けたが、結果的には全国12万人余の警察官の目は幼い一人の少女の目に及ばなかった」と語った。
3人目の男
1963年10月18日朝、福岡県京都郡苅田町堤の国鉄日豊線苅田駅西側の山道で、専売公社(日本たばこ産業の前身)福岡出張所に勤務する村田幾男さん(58歳)がキリのようなもので刺されて血まみれで死んでいるのが発見された。近くには凶器と見られる千枚通しが落ちていた。さらに同じ頃、約2km離れた同県田川郡香春町仲哀峠の国道近くで、専売公社福岡出張所がチャーターした行橋通運の小型トラックが放置されており、車から350mほど離れた場所で、運転手・森五郎さん(38歳)が手拭で首を絞められて殺されているのが見つかった。
村田さんと森さんは前日朝から集金に回っていたが、苅田町内のY方に集金に訪れ、ここで夕食をすませた午後5時半頃から行方がわからなくなっていた。車内からは集金したはずの43万のうち27万円が紛失していた。
10月21日、行橋市内に住む前科4犯の元運転手・西口彰(当時37歳)が全国に指名手配された。
これは2人がYさん方を訪れた時、もう1人時々連れてきたことのある男が小型トラックに乗っていたのを見た家人の証言からだった。この男こそ西口で、残された指紋も一致した。西口の家からは血のついた衣類も見つかり、愛人の理容師(当時40歳)宅も突きとめたが、肝心の西口の行方はわからなかった。
出典:西口彰連続殺人事件
西口彰の生い立ち
1925年、大阪生まれ。家は代々カソリック信徒で、西口も5歳で洗礼を受ける。戦前、大分県別府市に移り、旧姓中学に入学。
中学2年の時、家出をして、窃盗と詐欺で岩国の少年院に入る。翌年、出所した後は大阪に戻ったが、恐喝や詐欺で再三刑務所に入った。終戦直後、娑婆にいる間に1歳下の女性と結婚して3人の子がいる。
別府刑務所を出所後は運転免許をとり、妻子を大分県別府市の両親に預け、1人出てきた行橋市で運転手をしていた。この仕事は63年10月5日まで続けていたが、それ以降は欠勤していた。
妻子が傍にいない間、前述の理容師の他、飲食店店員など愛人にし、また事件直前には理容師の長女や店の見習などにも手を伸ばしつつあった。西口は「自分は大卒。両親は別府市の資産家。パチンコ店と旅館を経営している」と言って女を落とした。実際、若く見えたし、口がうまいところもあったのだろう。
10月18日、福岡県で専売公社の運転手2人を殺害、たばこ代金27万円を奪う。この計画は前日に練ったもので、知り合いの村田さんのトラックを待ちうけて乗り、たばこ配達に付き合った。
西口は元々、窃盗、詐欺を繰り返した人物であり、それまで殺人を犯したことはなかった。詐欺師と殺人者、つまり知能型と暴力型は両立しないとされるが、この西口事件はそういう意味では犯罪史において貴重なケースとされる。
その翌日、福岡市新柳町(現・中央区清川」)旅館「一力荘」に売春婦と思われる女性連れで訪れ、その翌朝の朝刊で事件記事に自分の名前と顔写真が出ているのを見つけた。
出典:西口彰連続殺人事件
逃亡と犯罪の日々
21日、ギャンブル好きの西口は佐賀県唐津の競艇レースで21万円もの大金を得た。同じ日には嵯峨氏のカトリック教会のミサにも参加。夜には小倉の平和台球場でナイターを観ていたが、その日の夕刊で自分が指名手配されていることを知った。その後、行橋市の妻と行橋署に手紙を送っている。
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警察署や世間を騒がせて申しわけないと思っている。
捕まって笑われるようなことはしない。
―――東京にて記す。
※行橋署宛て
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捕まって世間に笑われるようなことはぜったいしない。
死ぬつもりだ。
※妻宛て
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10月24日、岡山県宇野と香川県高松を結ぶ国鉄宇高連絡船「瀬戸丸」の甲板に、背広の上着と黒い革靴が置かれているのを乗客が発見。上着のポケットに西口の書いたハガキがあり、海へ飛びこんで自殺したのではないかと見られた。だが付近を捜索しても遺体は発見されなかった。
2通のハガキは次のような文面だった。
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先だって平和台の野球を見に行って泊まった者です。
旅館を出るとき私の旅行カバン、日用品、靴を預けたものです。
これについては後で連絡する
アキラ
荷造りして送ってください。
※19日宿泊の福岡市新柳町 「一力荘」宛て
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出典:西口彰連続殺人事件
西口彰は自殺などしていなかった。捜査本部も「偽装である」と断定していた。これは警察が玉野市、高松市近隣の古物商、質屋などをあたったところ、玉野市の船乗り場近くの質店で、西口らしい男に古い靴を売ったという証言が得られたことと、24日夜遅くに玉野市の旅館に宿泊していたらしいことがわかったからである。
西口は岡山から神戸、大阪、京都、名古屋と逃げ続けていた。「京都大学教授の高橋」と名乗った。
10月、静岡県浜松市の旅館に投宿。
やはり大学教授を名乗ったが、もちろん巧妙に「静岡大学から電話がかかってくるかもしれない」と言っておいて、外から自分で電話をかけ「京大の高橋先生はいらっしゃいますか。こちらは静岡大学の者ですが」などと言って宿の人を信用させていた。
先の旅館に二泊した西口は、市内の貸し席「ふじみ」に宿替えした。意気投合した女将・藤田ゆきさん(41歳)にも静岡大教授と名乗り、関係を結んだ。
その後なぜか広島へ。この時の所持金は800円ほどしかなかったため、カトリック教会の神父に、やはり京大教授と名乗り、「施設にテレビを寄付したいので電気器具商を紹介してくれと言って紹介状をもらい、テレビ5台を詐取してうち4台を質に入れて8万円を受け取った。
11月19日、「ふじみ」に戻った西口は、藤田さんと、外出から帰ってきた母はる江さん(61歳)を絞殺、貴金属や衣類を奪った。それらも入質して計15万円を手にしている。警察はこの犯行も西口によるものと断定し、公開捜査を行う。
12月、千葉市では千葉地裁内で罰金を納めに来た女性(当時60歳)に弁護士と名乗って声をかけ現金を詐取。
千葉県弁護士会館で弁護士名簿を詐取。ここから西口は大学教授から弁護士と名乗るようになる。大胆にも千葉刑務所の待合室に入りこみ、女性(当時50歳)から息子の保釈金を詐取した。
12月5日、福島県常磐市(現・いわき市)の弁護士事務所で弁護士バッジを奪う。
12月7日、北海道沙流郡門別町の洋品店に弁護士を装って訪れ弁護料を詐取。さらに都内で弁護料として現金を詐取。
栃木県の旅館で宿賃を踏み倒したうえ、市内の弁護士宅を訪れ、「汽車賃を貸して欲しい」と言って現金を詐取した。
12月20日、東京地裁内で保釈手続きに来た女性(当時48歳)から保釈金を騙し取る。
12月29日、豊島区雑司ヶ谷のアパートで検事出身の弁護士・神吉梅松さん(81歳)を絞殺、腕時計と弁護士バッジを奪う。東京地裁の待合室で知り合い、民事訴訟を依頼、1人暮らしであることを知り、打ち合わせと言って同行していた。
殺害後、西口はこの弁護士宅に再び訪れ、来訪した男性(当時57歳)から保釈金名目の現金を詐取、東京地裁へ行ってまたも保釈金を詐取した。
西口は年末になって都内を離れ、豊橋、名古屋に立ち寄った後、九州を目指した。
1964年1月3日、福岡事件の支援活動をしていた古川泰龍氏(当時43歳)方の、立願寺(熊本県玉名市)に「東京・文京区の川村角治弁護士」と名乗る男がやってきて、運動への協力を申し出た。この男は西口であり、本物のバッジをつけていた。実は西口は以前詐欺罪で福岡刑務所に服役してときに、古川氏の顔を覚えていたのだった。
協力の申し出に古川氏は感激し、2人で話しこんだ。その時、西口は死刑論などについて熱く語って床についたという。
「お父さん、あのお客さんはポスターにあった殺人犯の西口にそっくりよ」
古川氏の次女で小学5年のるり子さん(当時11歳)は、この男が連続殺人犯・西口彰であることを見抜き、父親に知らせた。るり子さんには西口と一字違いの同級生がいたので、登校のたびに興味深くポストに貼ってあった手配書を見ていたのだという。古川氏は当初「お客さんに失礼なことを言うな」と娘を叱ったが、身長、ホクロといった特徴が殺人犯と見事に一致していた。それに東大卒の弁護士と名乗ったが、有名教授の名を知らなかったり、「自由法曹団」を「自由法曹院」と間違っていたことを古川氏は思い出した。
その晩は古川家にとっては恐怖だった。感付かれれば、殺されるかもしれなかった。
古川氏は家族で話し合ったうえで、子ども部屋に鍵を付け、また西口が寝静まったのを確認したうえで玉名署に届けた。翌朝駆けつけた警官に対しても、西口は「弁護士の川村角治だ。何の用かね」と堂々と話していたが、逮捕された。
犯行の動機は「借金返済と、愛人の理容師の歓心を買う為」だった。
「金を得るためなら殺しも厭わない詐欺師」である西口が、5人もの人を殺してまで手にした金は80万円ほどであった。
西口は大学教授や弁護士を名乗る時は、必ず眼鏡をかけた。インテリに見せるためである。「疑われたことは1度もなかった」と豪語している。汽車のなかでも旅館でも、教育心理の本を開いた。難解で面白くもないような本だったが、読んでいるうちに内容がわかって、案外面白かったという。
出典:西口彰連続殺人事件
裁判
西口は殺人5件、詐欺10件、窃盗2件で起訴された。裁判では検察の論告で「史上最高の黒い金メダルチャンピオン」、地裁の判決文では「悪魔の申し子」と形容された。1964年、検察は西口に死刑を求刑。
1964年12月23日、福岡地裁小倉支部で死刑判決。
1965年8月28日、福岡高裁で控訴棄却。
1966年8月15日、上告を取り下げ、死刑が確定。
獄中で書いた手記
ふじみでは京都大学の正岡と名乗り、例のように旅館からしばしば静岡大学へ電話をかけて装った。三日目にはおかみとおばあさんは私をすっかり信用して、“先生、先生” と呼んだ。私は最初の日に女の子を頼み、翌日も同じ子を頼んだ。三日目にはおかみが “もっといい子がいますよ” と勧めた。翌日もその子を呼んだ。次の日、私がおかみさんのそばを通ると、“先生、あしたは女の子を呼ばないで、いっしょに映画に行きましょう”…次の夜、おばあさんは田舎へ行くといって出かけ、いつもは午前三時頃までつけている門灯を夕方には消して、床に入った。午前四時頃目をさますと、おかみさんも目をさましていて、“先生、二、三日でいいから帰らないで…” といった
死刑
1964年11月、検察は西口に死刑求刑。1965年1月2日、福岡地裁小倉支部、「神も許さず、人もまた許すことの出来ない凶悪犯罪人である」として死刑判決。
同年8月28日、福岡高裁、控訴棄却。
この頃、西口の長男は、父親が殺人犯だと知り、グレて学校にも行かなくなった。そのことを聞かされた西口は、「俺のような人間の真似をするな!」と悲痛な声を上げ、長男に20数枚の手紙を書き、立ち直ったことを知って安心していた。連続殺人者というわりに、妙に人間臭いところがあると思わせるエピソードである。
1966年8月15日、西口、上告取り下げ。死刑が確定した。
70年12月11日、死刑執行。享年44。公判で検察側から「史上最高の黒い金メダルチャンピオン」「悪魔の申し子」と形容された西口も、執行の前は点字翻訳のボランティアに励んでいた。
ペンフレンドだった明治学院大学の女子大生からの依頼で、卒論用の哲学書を点字訳にした。この作業は1日ぶっ通しの作業で6ヶ月かかったが、完成した時には「人のために、本気になって仕事したのはこれが初めてだった」と手記に記した。
獄中での西口は「罪は海よりも深し」という大学ノート8冊分の手記を記している。その手記の最後にはこう記されていた。
私が刑場に引かれる姿を想像して笑ってください
当然の制裁でありましょう
長いことお騒がせいたし恐縮です
失礼いたしました
出典:西口彰連続殺人事件
西口彰の残したセリフ集
詐欺というのはしんどいね。やっぱり殺すのが一番面倒がなくていいよ
遺骨は別府湾に散骨してください、アーメン
影響
戦後の自動車普及と道路整備によって凶悪犯罪が広範囲にまたがっていることが多くなった。また、犯人が遠方まで逃走しやすくなり、各都道府県警の協力が万全では無かったことから事件解決が難しくなった。以上の事情をふまえ、警察庁は「広域重要事件特別捜査要綱」を策定し、警察庁広域重要指定事件を指定して対処することとした。
小説『復讐するは我にあり』のモデルになった
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