「6人死亡、重軽傷22人」新宿西口バス放火事件とは

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新宿西口バス放火事件


新宿西口バス放火事件(しんじゅくにしぐちバスほうかじけん)とは、1980年8月19日の夜、東京都新宿区の新宿駅西口バスターミナルで起きた路線バスの車両が放火された事件。

バスに乗っていた6人が死亡し、重軽傷者数は22人にもなった。犯人・丸山博文(当時38歳)は住所不定の建設作業員だった。


新宿西口バス放火事件

			

丸山博文

丸山は昭和17年(1942年)北九州市で生まれた。5人兄弟の末っ子であったが、母親は丸山が3歳の時に死亡している。父親はアルコール依存症で、仕事もろくにしていなかったため、丸山の家は貧困を極めた。

そのため、丸山は小さい時から農家や大工の手伝いなどをして家計を助けていたため、小学校時代からあまり学校へは通えず、まともな教育は受けられなかった。この後成長して大人になっても、一般の人が読めるべき漢字も読めないような状態であった。


それでも何とか義務教育が終了すると建設作業員となり、日本中を転々としながら各地の現場で働いた。勤務ぶりはどこでも真面目であったという。


昭和47年に結婚して子供が生まれたが、この妻は酒好き・男好きで、子供をほったらかしてはしょっちゅう遅くまで遊び歩き、丸山とも口論が絶えず、翌年に早くも離婚した。

しかしこの離婚した元妻が、まもなく精神的に少しおかしくなり、精神科の病院に入院することになる。丸山は、生後間もない子供を施設に預けることにした。


大阪や静岡の現場を転々としながらも懸命に働いたが、子供を預かってもらっている施設への送金は一度も欠かすことはなかった。

楽しみは仕事が終わってからの酒だけであったが、収入の低さや、真の友人のいないこと、都会での寂しさなどからだんだんと心は荒れていった。


昭和48年には、酔っぱらって、街中で見かけた女性を元妻と勘違いして追いかけ、その女性の家に侵入し、逮捕されるという事件を起こしている。

この時は警察で受けた精神鑑定で精神分裂病(現在の名称は総合失調症)と診断されたため、起訴はされなかった。


東京に出てきてからの家のない生活や寂しさ、酒に溺れる日々が少しずつ丸山の心を壊していき、事件に向かって進むことになる。

出典:No.022 新宿駅西口でバスに放火・丸山博文

	

怒り

1980年3月頃から、丸山は宿泊費節約のため新宿駅西口で寝泊りするようになった。

 8月15日頃、丸山は新宿4丁目のガソリンスタンドでポリ容器ごとガソリン10Lを購入。


 8月19日、丸山は多摩川競艇に行くが、なけなしの1万円をすってしまう。その後、新宿駅西口に戻り、地下通路に通じる階段に座りこんでカップ酒をあおっていた。酔いがまわってきたところで、頭上から誰かに「ここにいちゃだめだぞ」、「邪魔だな、あっちへ行け!」と罵声を浴びせられ、本来小心で真面目な丸山だったが、カッとなった。罵声を浴びせた相手が誰かはわからなかったが、この一言で社会に対するこれまでの鬱憤が爆発した。


「俺には寝ぐらもなければ、かぞくもいない。どうして俺だけがこんなワリをくうんだ。これまで、なにひとつ悪いことはせず、毎日、真面目に働いてきたのに」


 丸山は復讐の相手に、おそらく罵声をあびせたであろう会社帰りの幸せな家庭を持つ”普通の人々”に狙いをつけ、通勤帰りの客など30人が乗りこむバスを選んだ。

 足元に散らばる新聞紙を拾い集め、4リットルのガソリンを入れたバケツを持ってバス停にむかった(バケツは西口柳通りの飲食店からこの夜盗んでいた)。新宿発・中野行のバス(京王帝都バス)の後部乗降口から、火のついた新聞紙とガソリンを放りこむと、バスは瞬く間に炎上した。

 この時、被害者の一人の女性(21歳)が全身に火傷を負って路上を転げまわった。周りには野次馬が何百人もいたが、だれも彼女を助けようとはしなかった。それどころか、「熱い、熱い」と泣き叫ぶ女性に対し、4人くらいが「まだ生きてますか?」と能天気に質問したりしたという。


 丸山は放火後逃げ、地下道入り口付近でうずくまっていたが、通行人らによって取り押さえられ、まもなく駆けつけた警察官によって逮捕された。その時、丸山の所持していたものは紙袋に入れられた薄汚れた毛布と現金25617円だけだった。預金残高には25万ほどあったという。


 結局、この火災で乗客6人が死亡し、22人が重軽傷を負った。後部座席で座った姿勢のまま焼死した3人のうち2人は、ヤクルト‐巨人戦のナイター観戦の帰りの斉藤安夫さん(40歳)と長男・秀一君(8歳)と判明。斉藤さんの妻はテレビのニュースで事件を知り、「ナイターから夫と子供が帰らない」と新宿署に駆けつけた。そこで斎藤さんの名刺と秀一君の半袖シャツの青い布切れを見せられて、「主人と子供のものです」と確認したと言う。秀一君は大の巨人ファンで、何度もせがんでやっと連れて行ってもらった野球観戦の帰りの惨事だった。

 後部座席にいたもう一人は資生堂美容部に勤める今井操さん(21歳)と判明。今井さんはいつもの習慣で後部座席に座っていたのが命取りとなった。

出典:新宿西口・バス放火事件

	

新宿バス放火事件 6人死亡、重軽傷14人

			

犠牲者


8歳男児1980年8月19日

21歳女性1980年8月19日

26歳女性1980年8月23日

29歳男性1980年10月16日

36歳女性1980年10月16日

40歳男性1980年8月19日

	

逮捕後

供述

「バスに火をつけてやろうと思って、ガソリンスタンドにガソリンを買いに行きました」


「自分は家庭が複雑で、世間の人が幸福に見えた。人がアッと驚くことをしてやろうと火をつけた」


「酒を飲むと、他人が自分を変な目で見ているような感じが一層強くなり、これが頭にきて、だれかれとなく人通りの中で怒鳴り散らした」


 丸山は当初「バスの運転手になめられた」と怒鳴っていたが、丸山とバスの運転手の間にトラブルはなかった。しかし、事件の数日前にバス停前のベンチで仰向けに寝ていた丸山らしい男が、手足をばたつかせたり、バスの排気ガスを浴びると「このヤロー、燃やしちゃうぞ」、「しょうっちゃうぞ(背負うの意味?)」などと言っているのが目撃されている。

 


 この事件の被害者の1人である杉原美津子さんは全身88%もの火傷を負ったが奇跡的に回復した。杉原さんは事件後「生きてみたい、もう一度」(文芸春秋)という手記を発表している。また、服役中の丸山と面会しており、裁判では「寛大な刑」を求めて上申している。この杉原さんに対して、丸山は次のような手紙を送っている。


『おてがみありがとうございました。55年8月19日はほんとにすまないことおしました いまじぶんはこかいしています バスのおきゃくさんがのっているとはおもえなかった めがはっきりみえなくてほんとにすまないことをしました 大ぜいがなくなりおわびのしよがございません ほんとにすまない 丸山博文』 (原文ママ)

出典:新宿西口・バス放火事件

	

手記・映画

この事件の被害者の一人、杉原美津子は事件後『生きてみたい、もう一度』という手記を出版した。これはベストセラーとなり、1985年に『生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件』のタイトルで映画化された。彼女は事件時、異性関係の悩みから自殺願望を抱いており、放火された際に逃げるのを躊躇したため全身80%火傷の重傷を負ったが、回復した。彼女は自らの希望で被告人に接見している。被告人に対しての言葉は「もう一度やりなおして欲しい」であった。

当時、通常は被害者は被告人と接見することはできなかったが、この時は例外的に認められた。

また、杉原の兄・石井義治はカメラマンであった。彼はバスが放火された時に偶然そばを通りがかっており、本能的に燃え上がるバスを撮影し、その写真は翌日の新聞にスクープとして大々的に掲載された。だが、実妹がその事件で重傷を負う中、妹に救護の手を差し伸べていなかったことを知った彼は、そのショックで報道カメラマンを引退。その後、ペンネームをイシイヨシハルと改め風景写真の分野へと転向した(2009年3月1日放送のフジテレビ開局50周年記念特別番組 ひもとく「日本の50年」に石井本人が出演)。

出典:新宿西口バス放火事件 - Wikipedia

	

生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件

1985年:ヴァンフィル


監督:恩地日出夫


脚本:恩地日出夫 渡辺寿 中岡京平


原作:杉原美津子


出演:桃井かおり 石橋蓮司 初井言栄 原田大二郎 

   岸辺一徳  佐藤慶  柄本明

判決


昭和59年4月24日、東京地裁において「被告は犯行当時、善悪を認識し、それに従って行動する能力が甚(はなは)だ低下した心神衰弱の状態にあったと判断する」として、無期懲役の判決が下った。

検察側は控訴したが、昭和61年8月26日、東京高裁も地裁での判決と同様に、無期懲役という判決を下した。


判決文を聞いた丸山は、無期懲役を無罪と勘違いしたのか「罪にならんとですか!?」と聞きなおし、傍聴席に向かって土下座し「ごめんなさい!」と頭を下げた。


平成9年10月7日、丸山は千葉刑務所に服役していたが、この日の昼食の後「メガネを作業場に置き忘れてきたので取りに行かせて下さい。」といって作業場に向かった。


しかしいつまで経っても帰ってこないので職員が見に行ったところ、作業場の天井付近にある配管にビニールのヒモをかけて、首を吊って死んでいた。55歳だった。


丸山は罪の意識から「死刑になってみんなにお詫びせないかん。」と裁判期間中にも発言しており、本人は死刑を望んでいたのかも知れないが、自殺の時には遺書はなく、事件から17年も経って、なぜこの日に突発的に自殺をしたのか、最後の心境は分からないままである。

出典:No.022 新宿駅西口でバスに放火・丸山博文

	

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