【死刑判決】下関駅通り魔事件の「上部康明」とは
下関通り魔殺人事件
下関通り魔殺人事件(しものせきとおりまさつじんじけん)とは、1999年9月29日に山口県下関市の西日本旅客鉄道(JR西日本)下関駅において発生した通り魔事件。
上部康明
上部康明は下関市の北隣に位置する豊浦町に1964年に生まれた。(豊浦町は2005年に下関市などと合併している)両親はともに教師。妹が1人いた。上部は地元の高校を出て、一浪したのち九州大学工学部建築学科に進んだ。ここまで熱心に努力を続けてきた上部は「大学では思いきって遊ぼう」と考えていたという。だが入学してみると、「みんなが自分のことを嫌っているのではないか」と思い始める。対人恐怖症(※)だった。
大学卒業後も上部は「人間関係が嫌だ」となかなか就職しなかった。このため1987年には心配になった両親が東京の病院に入院させ、「森田療法」(※)の治療を受けさせた。1988年5月には福岡市内の精神病院に入院している。
その後はいくつかの職場を経た後、福岡市内の設計事務所に勤めた。この事務所は所長と2人だけの職場で、上部も人間関係に悩まされることも少なくなった。症状も落ち着いていったという。だが一級建築士の資格を取得したのを機に、1992年に退社して、父親の援助などもあり自身の設計事務所「康明設計」を開き、1993年10月には結婚相談所で出会った女性と結婚し、福岡市内で生活していた。保母をしていた妻は二級建築士の資格をとり上部をサポートしていた。ここまでは多少のつまづきこそあったが、まあ順調だった。
1997年あたりからは上部の元来の人間関係に対する不安からか営業不振になり、妻の稼ぎや実家からの仕送りで生活していた。1998年、事務所を閉鎖。新婚旅行で行ったニュージーランドへの移住を考え始める。その資金づくりにと、1999年に入ると実家に戻り、フランチャイズの軽貨物輸送の仕事を始める。開業のために車も購入している。この仕事をしながら上部は、1998年6月に自宅を出てニュージーランドに渡ってしまった妻を待ち続けていた。妻がニュージーランドに行ってしまったのは1998年2月に上部が福岡市に妻を残して、実家に帰ってしまったためである。すべての歯車が狂い始めていた。
1999年6月に妻がニュージーランドから帰国した。そのとき妻は「あなたと再び、結婚生活を続けていける自信がない。お願いだから私と離婚してください」上部に離婚を迫った。上部は驚き、「一緒にニュージーランドで暮らそう」と説得を試みるが物別れに終わった。それでも上部は「自分一人だけでもニュージーランドに行こう」と一生懸命仕事に励んでいた。
さらに9月24日、襲来した台風18号で、仕事に使っていた軽トラックが冠水して故障してしまい、ローンだけが上部にのしかかってきた。
「何をやってもうまくいかない」と仕事に対する意欲をなくした上部は同居する父親にローンの肩代わりと移住資金30万円の借用を求めたが、父親はこれを拒否、「家の車を貸してやるからそれで仕事を続け、自分でローンを返せ」と諭した。
元々、真面目な努力家だった上部はそうした災難や、人々の仕打ちもあって、社会に対する憎悪の気持ちを高めていった。努力していてもうまくいかないとなると、周りに責任があると考えるのである。上部は「社会にダメージを与えてから死んでやろう」と通り魔犯行の大量殺人計画をたてる。
9月28日、上部は下関市のディスカウントショップで刃渡り18cmの文化包丁を購入した。そのあと犯行場所の下見のため、JR下関駅に立ち寄り、車で突っ込む場所を決めた。犯行予定日は10月3日と決め、自宅カレンダーの3日の欄に「スクランブル・アウト」書いている。
出典:下関通り魔事件
対人恐怖症
対人恐怖症は、他人と接することに恐れを感じたり、極度に緊張してしまうことから、人付き合いに問題が出てしまう症状のことをいいます。どのような人でも少しのきっかけで発症してしまうことがあるため、自分には関係がないとは考えないほうがいいでしょう。
森田療法
森田療法(もりたりょうほう)とは、1919年(大正8年)に森田正馬により創始された(森田)神経質に対する精神療法。(森田)神経質は神経衰弱、神経症、不安障害[2]と重なる部分が大きい。また近年はうつ病などの疾患に対して適用されることもある。
凶行
予定していた日の4日前の9月29日、親から「冠水した車の廃車手続きは自分でするように」と言われて「この期に及んで面倒な廃車手続きをするなんてたまらない」と腹をたて、急遽計画を変更、自宅を軽自動車で出ると、下関市内で文化包丁を購入、午後1時過ぎに駅近くのレンタカー会社に車を預け、白の「マツダ ファミリア」を借りた。そして睡眠薬を飲んだ上部は車を発進させた。午後4時20分頃、下関駅改札口付近は旅行代理店や売店、食堂が並び、下校途中の生徒やサラリーマンらで混雑していた。そこへ猛スピードで乗用車が駅のガラスを破り突っ込んできたのである。暴走した車は通行人7名を次々と跳ね飛ばした。改札口あたりで車を停めると、上部は文化包丁を振り回しホームに向かった。途中で1人、ホームで7人切りつけている。午後4時30分頃、そこで上部は現行犯逮捕された。結局この事件で5人が死亡、10人に重軽傷を負った。
出典:下関通り魔事件
犯行の動機
上部は九州大学工学部を卒業し、一級建築士の資格を取得。設計事務所を経営していたが、経営に行き詰まり廃業。その後、軽トラックを購入して運送業を始めたが、台風18号で軽トラックが冠水し使用不能になり「何をやってもうまくいかない」と思うようになる。上部はその責任が両親と社会にあると考え、本件での犯行に及んだという。なお、下関での事件の約3週間前に池袋通り魔殺人事件が起きていた。上部は公判の中で「池袋の事件を意識した」、「池袋の事件のようにナイフを使ったのでは大量に殺せないので車を使った」と述べている。
裁判焦点
起訴前の簡易鑑定で「責任能力に欠けるところはない」とされた。しかし、山口地裁下関支部での公判に入り、裁判所の判断で行われた2回の精神鑑定のうち、福島章・上智大名誉教授(犯罪心理学)は「善悪の判断能力や判断に従って行動する能力は著しく減退していたが、完全に喪失していたとは言えない」として、責任能力を限定的に認める「心神耗弱」を示した。その後行われた保崎秀夫・慶応大名誉教授(精神医学)の鑑定は「著しい障害があったとまでは言えない」として、完全責任能力を示唆した。弁護側は「被告は犯行時に統合失調症(精神分裂病)による心神喪失か、少なくとも心神耗弱状態にあった」と主張し、無罪または刑の減軽を求めていたが、並木裁判長は完全責任能力を認めた。
控訴審でも上部被告側は刑事責任能力の有無を争い、精神鑑定が行われたが、「被告は対人恐怖症だったが、善悪を判断する能力を著しく減退させるものではなかった」という結果であった。
判決で大渕裁判長は、犯行に人通りの多い時間帯を選んだり、事前に包丁を購入したりしていた点をふまえ、周到な準備や計画性があったと判断。「責任能力に影響を及ぼすような異常性をうかがわせる兆候は皆無である」と述べた。
2008年6月13日の最高裁弁論で、弁護側は「社会に迫害されてきたとの妄想に支配されたための犯行で、当時は自己制御能力が喪失状態だった」と主張し、死刑判決の破棄を求めた。検察側は「実生活上の行き詰まりから自暴自棄となった末の犯行で、比類のない極めて凶悪な無差別殺傷事件」と反論し、改めて死刑を求めた。
今井裁判長は「記録を調査しても、被告が犯行当時、心神喪失、心神耗弱ではなかったとした高裁の判断は相当だと認められる」と述べ、弁護側の主張を退けた。 その上で、「将来に失望して自暴自棄になり、自分をそのような状況に陥れたのは社会のせいなどとして、社会などに衝撃を与えるために多数を道連れにする無差別大量殺人を企てた」と指摘。「何一つ落ち度のない駅利用者らを襲った犯行は極めて悪質」「動機に酌量の余地は見いだし得ず、犯行態様も残虐、非道というほかない」と述べ、一、二審の死刑判決を追認した。
出典:uwabe"