【死刑判決】京都・神奈川親族連続強殺事件の「松村恭造」とは

著者:
投稿日:
更新日:

京都・神奈川親族連続殺人事件(きょうと・かながわしんぞくれんぞくさつじんじけん)とは、2007年1月に京都・神奈川で起こった連続殺人事件。


出典:京都・神奈川親族連続殺人事件 - Wikipedia

	
2007年1月16日、犯人の松村恭造(当時25歳)は京都府長岡京市在住の叔母(当時59歳)を襲って殺害し、現金およそ2万円とキャッシュカードを強奪して逃走した。京都府警は1月20日、犯人を特定して全国に指名手配(非公開)する。松村はその頃には東京都に逃走しており、奪った金で風俗店で遊びまわって使い果たしてしまっていた。金に困ったMは、1月22日に神奈川県相模原市在住の大叔父(当時72歳)を頼って金を無心したが断られた。宿泊を頼み込んで認められたが、1月23日の深夜、Mは大叔父が就寝しているところを鈍器で滅多打ちにして殺害。遺体を押入れに隠し、現金およそ1万円と携帯電話を盗んで逃走した。大叔父の遺体は早朝に発見された。

松村は1月23日の夕方、東京都練馬区内を歩いていたところを京都府警の捜査員に発見され、叔母に対する強盗殺人で逮捕。2月21日には大叔父に対する強盗殺人の容疑で再逮捕された。

出典:京都・神奈川親族連続殺人事件 - Wikipedia

	

松村恭造について

事件当時年齢 25歳

犯行日時 2007年1月16日/23日

罪状 強盗殺人

事件名 京都・神奈川親族連続強殺事件

出典:matumurak"

target="_blank">???Y?m????i2008?N?j

	

松村恭造

松村 恭造(まつむら きょうぞう、1981年8月3日 -2012年8月3日 )は、連続親族殺しである。


大阪府大阪市阿倍野区出身。

すぐキレる性格で、人づきあいがド下手糞。

事件前は滋賀県の養豚場で住み込みで働くも、豚をしばいて解雇。

親族からしつこく金を無心していた。

松村は短気で切れやすく、自分の思い通りにならないとすぐに暴力に訴えたという。家庭内では主に母親に対して暴力をふるい、母親の髪を切って坊主頭にしたこともあったという。学生時代には学校でも暴力をふるい、好きな女子生徒にふられたときには授業中に自らの手首を切るなどの自傷行為を行い、教師・生徒の双方から何をしでかすかわからない存在と恐れられた。大検に合格して入った東京の大学も暴力沙汰などから中退を余儀なくされ、その後に始めたアルバイトでも人間関係を作ることができず、そればかりかアルバイト先の店長に暴力をふるい、同僚から財布を奪うなど、傷害・暴行・窃盗などの容疑で逮捕された。この事件で松村は3か月の拘留を受け、懲役2年6か月・執行猶予4年の判決を受けて仮釈放された。


しかし逮捕されたことから松村は父親から勘当同然の身となり、息子の暴力を恐れて家から離れていた母親を頼るようになる。しかしそこでも暴力を繰り返して警察に逮捕されたり、滋賀県内の養豚場や電気機器工場など、住み込み可能な仕事を探して職に就いたこともあったが、やはり暴力事件を起こしたりしていずれも長続きしなかった。やがて無職になった松村は金に困るようになり、親族に無心するようになった。しかし松村の暴力沙汰には親族も迷惑をこうむっており相手にされるはずもなく、松村はそのことを逆恨みして凶行に及んだのだった。

出典:京都・神奈川親族連続殺人事件 - Wikipedia

	

裁判焦点

豊富な語彙を用い犯行に至る過程、犯行の状況などを淡々と説明した(ただしその内容は凄惨なものである)。


出典:京都・神奈川親族連続殺人事件 - 「恨みのあるやつを殺して...

「大学を中退した以降、破滅願望を抱くようになりました」

「どうせ自殺をするなら、恨みのあるやつを殺してから死のうと思いました」

「『毒を食らわば皿まで』の気持ちになり、もっと凶悪な事件にしてやれと思いました」

松村恭造

			
松村被告は逮捕後、供述を拒否。

 2007年9月10日の初公判で、松村被告は罪状認否で「昨年末に仕事をクビになって住所不定となり、安心して破滅に踏み切れると思い、恨みのあった伯母を殺した。大叔父に恨みはなかった」と初めて2人の殺害を認めた。そして「金品を奪えば死刑か無期懲役しかなく、罪を重くして自分を追い込めると考えた」「自分の死を望む気持ちがあった。どうせ死ぬなら、恨みのある人を殺してからにしようと思った。人殺しという人生初体験の大事を、極めて冷静に完遂しえた。自分をほめてあげたい」などと特異な動機を明らかにした。

 検察側は冒頭陳述で、「困窮した生活が続き、金品を奪うため2人を殺した」と犯行に至った背景を詳述した。

 弁護側は冒頭陳述で、強盗殺人罪は成立せず、殺人と窃盗罪に当たると主張した。

 10月3日の第2回公判で、親族2人の証人尋問が行われた。松村被告は動機として伯父夫婦に侮辱を受けたと主張しているが、伯父は「思い当たることはありません」と述べた。

 弁護側は、大学を中退したり、父親との関係が険悪になったりしたことから、人を殺害して自殺する「破滅」を望んだとも述べ、被告の心理鑑定や精神鑑定を求めたが、京都地裁は「必要はない」と却下した。

 12月5日の第6回公判で、松村被告は3人目の殺害を計画していたことを明らかにした。誰かは明らかにしなかった。26日の次回公判で結審予定だったが、検察側は次回、改めて被告人質問を行い、新たな殺害計画の詳細を追及する。また松村被告はこのほか、昨年末に勤務先を解雇されたことなどから、「社会に仕返ししよう」と考え、一連の犯行を決意したと説明。「殺すことだけ考えていた」と述べ、強盗目的を否定した。

 12月26日の第7回公判では、殺害を計画していた3人目として、東京に住む小中学校時代の同級生の名前を実名で挙げた。

 2008年1月30日の論告求刑で、検察側は「刃物やゴム手袋なども用意した上、2人の頭部などに50カ所以上の傷を負わせた」と犯行の計画性や残忍性を指摘した。さらに「一言の謝罪もなく、遺族の気持ちを踏みにじっている」などと遺族の処罰感情の強さを強調した。


松村被告が犯行当時、自殺願望を持ち、「恨みのある親族らを殺してから、死のうと思った」と公判で述べたことについて、「逃走していることなどから、不合理で信用できない。自己を正当化する詭弁」と批判した。そのうえで、伯母を殺害した動機を「金品強奪の目的以外にありえない」、大叔父についても「計画性が高く、心ある人間の所業ではない」と指摘した。 松村被告が強盗目的を否認していることについて、「金や携帯電話など今後の生活に必要なものを奪っており、被告の供述と矛盾する」とした。さらに、小中学校の同級生だった男性を狙った「第3の殺人」を計画していたとされる点についても触れ、「史上まれにみる非道な事件で、被告の暴力的性向が大きく、更生が不可能だ」「2人の尊い命を奪っても良心の呵責が見受けられず、残虐非道きわまりない」と断じた。

 同日の最終弁論で、弁護側は、殺人と窃盗の罪にとどまるとした上で「就職にも失敗し、自らを破滅させようと犯行に及んだ。犯行は死を前提に刑罰を重くしようと強盗に見せかけただけ。金品の強奪を考える余裕はなかった」と強盗目的を否定した。被告は公判を通じて死を望む言葉を繰り返していたが、弁護側は「死刑は違憲論や反対論があり、慎重であるべき」と極刑の回避を求めた。

 検察側が死刑求刑を告げた瞬間も、松村恭造被告は腕と足を組み、平然とした表情を崩さなかった。あごひげを蓄え、濃紺のジャケット姿の松村被告は最終陳述で「事件に至った原因の半分以上は母親を守ってくれなかった父親にある。まったく反省していない。ざまあみろと思っている。世間に借りはないから、法律を守る義務はない。(自分のことを)許せない人間は許さなくてもいい」などと、自筆のメモ11枚を約20分間かけて読み上げた。

 増田裁判長は、死刑を選択した理由について「死刑の適用は慎重に慎重を重ねるべきであるが、今回の事件の責任は重大で、罪刑の均衡や一般予防の見地からも極刑がやむを得ない場合にあたる」と述べた。これまで被告が法廷で「まったく反省していない。ざまあみろと思っている」と発言したことにも触れ、「反省の態度が認められない。暴力傾向も根深く、被告がいまだ若いことを考えても、更生を期待することは極めて困難だ」と指摘した。

 判決は▽実家を追い出され、生活費に困った末の犯行は被告の身勝手な性格や行動が原因で、酌量の余地はない▽あらかじめ凶器を準備するなど、計画的だ▽刃物で執拗に刺したり、金属棒で頭部を多数回殴るなど、いずれの犯行も強固な殺意がある▽2人もの尊い命が無残にも奪われた結果はことのほか重大だ-など、被告に不利な事情を列挙した。

 弁護側の主張に対しては、▽被告が金銭に困っていた▽複数個所を物色している-などから、「金品を奪う目的で殺害した」と述べ、2人への強盗殺人罪成立を認めた。


 松村被告は控訴期限の3月31日に大阪高裁へ控訴。弁護人に対し、「死刑判決に不満があるわけではない。友人、知人に手紙を書きたいが、日にちが足らなかった。判決が確定すると手紙の発信回数が制限されるので控訴した」と話した。京都新聞社の取材に対しては、「今も死にたいという気持ちに変わりはない。控訴は身辺整理の時間が必要だったからで、取り下げるつもり」と話していた。

 4月8日、控訴を取り下げ、死刑が確定した。

出典:matumurak"

target="_blank">???Y?m????i2008?N?j

	

備考

京都地裁の死刑判決は、強盗殺人罪に問われた男に適用された1968年以来。地裁に残る記録では、戦後の死刑判決は15例目という。

オススメ書籍

映画になった戦慄の実話