ヒロシマの少年少女たち
84歳筆者の渾身の書と思う。おそらく遺言に近い形で書いている。筆者は「広島第二県女2年西組」を書いているが(これも渾身の書)、広島の中心、雑魚場にクラス友人の学徒が駆り出され、原爆で全滅。戦後唯一の生き残りとして、友人が瞬時に亡くなるのではなく、それぞれの亡くなるまで壮絶な生き地獄・時間を克明に記し、戦後、その全ての子供たちが、軍神・命として「靖国神社」に戦前と同じ状態で合祀されしまったことを憤る。さらに、その後の不明な点として、日本の国家主義・政治的に戦前を引きずる靖国に合祀される以前の問題として、原爆投下当時、学徒動員で駆り出され、それぞれの作業を軍によって科せられた少年・少女(12~15歳の子供たち)の壮絶な死者数が、公的な公表実数と合わない点に気づく。それが、当時の徴用として日本に連れてこられた朝鮮人の人々の子供たちであり、その実生活は最下層に位置した。在日朝鮮の子供たちが、死者数に現在でもカウントされていないことを突きつめたのだ。つまり、朝鮮人の子供たちが、広島原爆で忘却以前、亡くなったことになっていないのだ。詳しい実数は分からない。しかし、事実の一例として、広島で被爆したプロ野球・張本勲(在日朝鮮の方)の姉、点子の存在を、張本の口述から知り、何と、その姉の同級生を探し当てる。張本は、原爆で亡くなった姉の事は、覚えておらず、亡くなった年齢も定かではないが、同級生の証言により、現在の中学生の年齢、しかも朝鮮人地区に住んでおり、よく遊んだという事が分かる。さらに、現在でも日本人名、張本点子は、原爆で亡くなった死者にも数えられていないことも浮き彫りになった。このような、死者にカウントされていない、朝鮮の子供たちが、少なくとも数百人に及び、広島での学徒、子供たちの全体死者数は、6000人をゆうに超える。朝鮮から連れてこられ、大日本のため命を捧げることを強いられた、死者にも数えられていない子供たち。私たち日本人は、アジアでの加害(従軍慰安婦問題等)を直視することなく、敗戦後、戦争被害を自国の民族しか取り扱わなかった戦没者遺族援護法をはじめ、あまりにも自分達・日本人・に都合良い身勝手な解釈であることに愕然とするが、同時に、被害・忘却以前の広島原爆で亡くなられた死者にすらカウントされていない朝鮮の子供たちの事実を、我々が深く記憶に刻むべきと思う。そして、植民地化した加害側の責任として、我々が2度とこのようなことを繰り返さぬよう伝えていくべきと思う(現在も終わらず進行形であることを肝に銘じて)。筆者、後半部で、「現在の広島中心の大通りは、少女、少年の墓場であることを、決して忘れないでほしい」と結んでいる。ヒロシマは何も終わっていない(おそらくナガサキもそうだろう)。一気に読めます。是非、多くの人々に読まれるべき本と思います(この本から僕の拙い知識と感で、少しわかったことがある。詳細は省くが、関さんが著書の中間部で触れた、大本営直属・第2総軍・陸軍の中枢が広島市内の少女・少年学徒動員作業の400名を東練兵場から引き抜いたこと。裏は取れていないが、おそらく、原爆が落とされる約2カ月前、ヒロヒト政府に交付され、本土決戦に向けた陸軍中野学校出将校中心に組織、一億総特攻、少年・少女兵・遊撃隊、「義勇兵役法」が、背景にあると思われる。全国の子どもたちを本土決戦・戦場に送る動員数は、2,800万人及んだ・NHKスペシャルによる・。現在、このことは確認中・・・)。
以下文中から抜粋の、関さんが朝鮮の子どもたちを調べるきっかけとなった詩がある。関さんの引用した石川逸子さんの詩(藤本敏子さん・韓国籍の遺族を訪ねた詩より)を、少し長いが、こちらも引用します。
一通の学籍簿
一九四五年八月六日、第三国民学校二年生のあなたは、朝 元気よく 弁当を
持って出かけたのですね。
行く先は市役所裏の雑魚場町 類焼を防ぐため 市の命令で
強制的に取り壊された家屋の後片付け作業を 級友たちと始めた直後
一発の魔の爆弾が貴方を焼きました
おおかたの生徒たちは 髪も服も焼け焦げ 敢え無くなってしまったけれど
ふしぎにあなたは無事で 九キロ歩きつづけて
夜九時 被爆した家族の疎開先 馬木へ たどりついたのでしたね
父も 弟二人も 火傷を負って重傷
母も兄も姉も妹も怪我をしてねこんでいる
一家のなかで 元気なのは あなた一人
翌日から 一切の家事を引き受けた あなた
(おびただしい放射能が あなたの体の奥を照射し 日に日に内蔵が腐っているのもしらず)
たまらくだるいとき 下痢がつづいたときもあったろうに
だれも知らなかった おでこと手のひらにほんの少し 火傷したあなたが
ガッチリ 死の手につかまれていたことなど
髪が抜け 頭が痛く でもはたらきつづけ 八月末にはどうしたことだろう
全身にぶつぶつの斑点ができ 九月一日 歯ぐきからの出血 九月二日夜
少しだるい と言って 早く寝た あなた
三日朝 起きてこないあなたを お母さんが揺さぶったけれど
もう あなたは 冷たくなっていた
一番元気だったあなたが
一番早く死んでしまうとは!
一九八九年秋
焼肉屋を営むあなたのお姉さんを 広島に尋ねて行き ようやく あなたの本名を知りました
李甲順(イ・カブスン)
それがあなたの本名
でも大日本帝国によって 「藤本俊子」にされてしまったあなた
「皇国の安危」のため 「義勇奉公」させられた あなた
いまは外国人だから 動員学徒であっても「戦没者遺族援護法」による
遺族給付金の対象にはならないそうです
いま 馬木の安楽寺に ひっそり眠る あなた
「明るく心やさしく強かった」と お姉さんは語る
死の前日までけなげに働きつづけた あなた
独立万歳!
と叫ぶこともなく 少女の心は何を考えていたのでしょう・・・