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タイムマシンがあったら(2) 古墳から飛鳥時代、蘇我氏の到来は中国や朝鮮を通らない中央アジアの文化ルートだった。

タイムマシンがあったら(2) 古墳から飛鳥時代、蘇我氏の到来は中国や朝鮮を通らない中央アジアの文化ルートだった。

Author:
DimaDima
Posted date:
タイムマシンがあったら(2) 古墳から飛鳥時代、蘇我氏の到来は中国や朝鮮を通らない中央アジアの文化ルートだった。
昨日も本動画をリンクさせていただきました。
動画終盤に紹介された渡辺豊和氏の論は興味深いです。

ペルシャとゾロアスター教の影響(渡辺説)

飛鳥時代には日本にゾロアスター教の影響を受けた「文化」が入ってきた。当時はササン朝ペルシャ(642年に滅亡)の文化的影響を受けていたようだ。正倉院の御物にもそれが窺われる。
東洋史の宮﨑定市氏は「佛教が中国に入るのには中央アジアを経過しなければならず、その他の文化民族はイラン人(ペルシャ人)であって、仏典はここでペルシャ語に翻訳されて中国に伝えられたと言っている。それが中国に入って漢訳された。そのとき、中央アジアでペルシャ人の翻訳を経る時に、ペルシャの思想が混入された」と言っている。「中国の南北朝時代にはそれが盛んであった。」
弥勒信仰がその典型で、弥勒はゾロアスター教では主神アフラマズダーに次ぐ太陽神ミトラのことであり、これがペルシャ人を通して中国の南北朝時代に盛んになった。

ちなみに、渡辺氏はゾロアスター教、栗本氏はミトラ(弥勒)信仰、そして落合氏はマニ教の伝来説を唱えている。

蘇我氏は北日本に到達し南下制圧していった

ところで、当時の日本はこの中国の南北朝の動乱期のおかげで史実を示す物が少ない。南朝の一つに「粱」という国があるが、その正史である『粱書』には、日本には倭国、文身国、大漢国、扶桑国の四つの国があると書かれている。そこに書かれた方位距離から推測すると(邪馬台国は九州の阿蘇地区)で、文身国は出雲、大漢国は河内、扶桑国は北海道渡島半島である。扶桑国の東には女国と言う国があると書かれている。これはおそらくアイヌ民族の事であろうと推察できる。
扶桑国は北朝の北魏と通交していて当時の首都洛陽には扶桑館が建てられていた。倭国は南朝に朝貢していたが、扶桑国は北魏と親しかった。

蘇我氏はトルコ系騎馬民族(高車)か

「結論を言うなら蘇我氏はトルコ系騎馬民族(高車)であり、北海道、東北経由で関東地方を制圧し、次いで甲信越地方を掌中に治め、越前で継体の背後勢力となり、雄略4年に大和地方に入った。」(同書より)とあるが、どこから北海道に渡ったかというと、当時の「渤海」である。ここに「ポシェト」(ロシア領)というところがある。豆満江の河口にある町だ。ここから利尻、礼文、北海道(扶桑国)へと渡るルート(ほぼ真東)が早くから確立していたようだ。蘇我氏はユーラシアから移動して日本の北海道に渡扶桑国を作り上げていた。ちなみに「ポシェト」からは北海道だけではなく、日本海側の各地すなはち越後、越前、出雲といった地方へもルートがあったようだ。渡辺氏の説では蘇我氏が日本の北部から南下して制圧していったと言うところだろう。
この蘇我氏はゾロアスター教の影響を強く受けていた。
この「ポシェト」であるが、実は落合莞爾氏によれば、古代から日本と結びつきが強かったのは現在の北朝鮮の「羅津」(ラジン)だそうで、実は「ポシェト」と「羅津」はほぼ同地区と言っても過言ではないほどの近距離である。

北に向かって20度ズレる方位はペルシャと同じ

ゾロアスター教神殿の特徴は、真北に向かって西側に20度傾いた方位に建造物が造られると言う点にある。
この視点西に20度傾いた古墳を見ると、東日本の古墳群は関西以西の古墳群よりも古い。
したがって、扶桑国(北部から)順に下ってきたtと言うのが渡辺氏の説である。ペルシャのペルセポリス宮殿の拝殿は見事に西に20度ズレた方位を向いている。会津若松の大塚山古墳が初期とすれば西に渡って応神天皇陵、見瀬丸山古墳、誉田山古墳などができるまでに200年ほどかかっているだろう。

感想

飛鳥地方の巨石で『益田磐船』があるが、この巨石は前兆11m、幅8mもある巨石だが、これが真西に向かって性格に20度北に傾いて山の中腹に備え付けられている。
この石は私も実際に見た事があるが、実に奇妙な巨石だ。1.6m四方の穴が二つ綺麗に掘られている。
もしゾロアスター教と関係があるならば、拝火するためのものだったかもしれない。
ひょっとしたら、石自体はもっと古い時代からあり、後年何らかの工作を施した事もないとはいえない。なぜそう思ったかと言えば、巨石群の中には物体が彫り込まれているのもあるからだ。
前回紹介した『なべくら渓』の巨石と「夏の大三角形」は縄文中期のもの(自然でなければ)であろうということだったが、もしかしたら、この奈良県内の巨石はもともとは縄文期からの物があり、為政者が変わってももともとの「伝統」を継承しながらその上に何かの遺跡を作ってきたのではあるまいかと思うのである。
時代が下るに連れて、その遺跡の持つ当初の宇宙的な背景は消え、やがて権力の象徴といったものに変わっていったていったと思われる。

栗本説も興味深い!

さらに渡辺氏の説を参考にしながら蘇我氏の謎に迫ったのが経済人類学者の栗本慎一郎教授である。
栗本氏は渡辺氏の説を検証しつつ、ゾロアスター教とミトラ(弥勒)信仰、縄文時代からの夏至線と冬至線を使った「太陽ネットワーク」と太陽信仰との関係、そして蘇我氏の出自は現在のイランのアスカ(アスカから北シルクロードをとおり、バルハシ湖南を通りバイカル湖南へ行き、沿海州(渤海湾つまり、「ポシェト」か「羅津」に至り、北日本に到達したのではないかと推測している。

中央アジアから日本への文化伝来は中国朝鮮を通らない文化伝達だった

沿海州から日本に渡るルートは、渡辺氏も主張している(「ポシェト」)し、落合莞爾氏も主張している(「羅津」)ルートであり、栗本氏も同様に主張している。当時の沿海州は我々が想像する以上に文化的に栄えていたのではないだろうか。
日本人の刷り込み教育のせいかどうか知らないが、「歴史に関わる物はすべて中国と朝鮮を経由してきたはずだ」という思い込みがそもそも日本の歴史学者の立ち位置の間違いである。日本には、中国朝鮮半島を経由しない文化の伝来があった(つまり弥勒信仰の伝来)という結論に至る。

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著者プロフィール
Dima

小さな団体の非常勤役員です。海外に行くと逆に日本がよく見えますし、一人の時間を楽しめますので、年に数回は東南アジアに足を運びます。また南国の暖かい気候は脳神経や血行に良いと実感。 異常さの中に浸かっていると自分の異常さが見えなくなります。 日本はこの先いったいどこに向かうのでしょうか?