テロをきっかけに日本を監視社会にしたい勢力がいる
ダッカテロ事件で被害に遭われた方またその遺族の方々に深く哀悼の意を表します。
日本人は自分が支払った税金や公共料金で米国の戦費を賄っていることに気づいていない。しかし、諸外国は気づいている。
今回のダッカテロ事件だが、どうも背景が今ひとつ分かりづらい。反抗グループの出自がどうもこれまでのものと比べて違和感を覚えるのだ。
日本人だから撃たないでくれるかと言う事は、残念ながら関係ない。身もふたもない言い方をするが、世界中どこに行っても、命に関わる事件に遭遇する事はつきものだと思った方がいい。
東アジアの特別な国を除いては、総じて親日的な国が多いのだが、残念ながら一般の日本人よりも世界を冷徹に見る力はイスラム圏やアフリカ欧米の方があると私は思っている。
日本が米国の下っ端になって資金提供をしていることぐらいは、口には出さないけれども分かっている。もっといえば、日本人が知らないだけで、日本人の税金や米国債の(強制)購入などで米国が戦争をしているつまり戦争の片棒を担いでいるというからくりは多くの諸外国の人々は知っている。そんな中で、日本は平和で戦争とは無関係だと言っても通用しない。9.11の前までは本当に戦後の先輩方の努力もあって、日本は好かれてはきただろう。しかし、あの事件から、さらにいえば、イスラエルと日本が国旗を掲げて会見を行ったあの瞬間から、イスラム圏の中で日本に対する親しみが憎悪に変わってしまった人が多くいる事は容易に想像できる。
アルカイダもISも、元々は米国が作った組織だ。ヒラリーも証言している。中東を崩しテロを世界に拡散するため、(同時にイスラムという宗教つぶしをするため)に組織されたこれらの暴力グループは米国とイスラエルの諜報機関が主導し急進的なアラブ人(ムスリム)とが複雑に混じり合って単純に「こちらはAであっちはB」と区分けなどできない。ISやアルカイダが全てイスラム教徒で構成された暴力集団で、それはイスラム教という宗教のせいだと思っているとしたら、それは取りも直さずイスラエルと米国の術中にはまっている証左である。
これからは公然とイスラム教徒を監視し、やがて自国民を監視できるようにする
日本最高裁、警察当局のイスラム教徒に対する監視を容認 - Pars Today
http://parstoday.com/ja/news/japan-i11620
日本の最高裁判所が、日本のイスラム教徒に対する公安の監視を容認しました。
http://jp.sputniknews.com/opinion/20160705/2423847.html
日本の最高裁が国内に住むイスラム教徒に対するスパイ活動を容認した。アルジャジーラが報じた。イスラム教徒たちは信教の自由の侵害であるとして違憲を訴えている。
(Islamophobia=『イスラム恐怖症』米国や欧州でよく使われる言葉だが、「恐怖症」というよりも排イスラム主義と言った方が正しいだろう。ちなみに排日主義をJapanophobiaというから排除する考え方に立っていると見た方がいい。)
またまた身もふたもない言い方をするが、今回の事件は、日本国内の治安強化ひいては監視社会の実現を目指す勢力に取っては当然のことながら利用価値が出る。現に、「イスラム教徒の監視を容認する」という流れだ。関係者によれば、今までも金曜礼拝になると警察関係者がモスクや周辺に配置されていたという。名目は交通安全に関わる事でということになっていたそうだが、あれは私は事実上の監視活動だと思っていたという話を聞いた。
今回の判決で、大手を振って監視できるようになった。
このことはその先に日本人そのものが監視対象になることを示している。
参考までに
ところで、イスラムの聖典である『クルアーン』(補足だが、これを「完約聖書」と呼ぶ人もいる。一神教はムハンマドが最後の預言者となりそれ以降は出現しないといいわれている。)によれば、ダッカ事件の反抗グループがいう「異教徒を殺す」行為は許されていない。参考までに「109.無信仰者」に次のようにある。
「慈悲深く慈悲あまねきアッラーの御名において言うがよい、「これ信仰なきやからよ、お前らのあがめるもの(偶像)をわしは崇めない。わしの崇めるもの(アッラー)をお前らは崇めない。お前らが崇めてきたものをわしは崇めとうない。わしの崇めてきたものをお前らは崇めとうない。お前らにはお前らの宗教、わしにはわしの宗教」と。(「わし」とはムハンマドのことをさす。アッラーからムハンマドに「このように言ってやれ!」と言葉が降りたのである。)
上記の109章は実際にはこう吟じられる。
日本人の無知と無関心は日本がファシズムに向かうための必須要素となる
日本人は中東もアジアの一員だと言うことを忘れている。東南アジアでも「日本も私たちも同じアジア人です」という言葉を何度も聞いた。この言葉は「国は違ってもお互いにアジアだよね」という共通項でくくれるので、それがお互いの親しみ(今風にいえば目に見えない「絆」とやら)に繋がるのだが、多くの日本人はそれが分かっていない。自分たち日本人はお前らより一段上にいるかのように錯覚している。また、わざわざ反日国人たちと関わって嫌われて喜ぶマゾヒストにもみえる。
日本人は自国領土が核攻撃にあっているのにも関わらず無関心なのだ。自国民が放射能汚染に晒されているのにも関わらず無関心なのだ。総じて当事者でない(現地の人でない)場合は無関心である。海外で事件や事故があっても日本人がいなければさっさと無関心になることができる。そしてネットにおいて数々のコメントに見られるように、島国根性と無知丸出しなのだ。
(もしかしたら外国になど行った事が無く、自分の住んでいる都道府県からも出たことがないような田舎者がたくさんいるのかもしれないとさえ思う。二言目には「いやなら日本から出て行け」などと平気でいう。そういう人間が排外主義に陥るのにさほど時間はかからない。)
無知と無関心はファシズムに近づくときの必須要素である。それを目指している勢力にとって、(残念なことだが)日本人は着実に台本どおりの劣化ぶりを示している。