「名古屋アベック殺人事件」とは
名古屋アベック殺人事件
事件発生状況
1988年2月23日未明、大高緑地公園の駐車場に車を停車していた理容師(男性・当時19歳)と理容師見習い(女性・当時20歳)は、突然2台の車に退路を塞がれた。2台の車に乗っていたのは、とび職A(当時19歳)、唯一の成人B(当時20歳)、とび職C(当時17歳)、無職D(当時18歳)、無職E子(当時17歳)、無職F子(当時17歳)の6人であった。6人は日頃から「バッカン」と称してアベックを襲っては金品を奪っており、この日も名古屋市港区の金城埠頭で2台の車を襲い、計8万6000円余りを奪っていた。勢いづいた6人はさらにデートをしているアベックの車を物色。大高緑地公園の駐車場で理容師見習い所有の車に狙いを定めた。
名古屋アベック殺人事件の概要
1988年2月23日午前4時半頃、名古屋市緑区の県営大高緑地公園駐車場で、デート中で車の中にいた理容師・Xさん(19歳)と同僚の理容師見習い・Y子さん(20歳)が、車2台に分乗してきた男女に突然襲われた。男たちは木刀や鉄パイプを持ってXさんの車を取り囲み、バールなどでフロントガラスを割り、Xさんを引っ張り出して木刀でメッタ打ちにした。
女たちはY子さんを車から引きずり下ろし、「裸になれ」と命じ、上半身裸にさせたうえで木刀で殴りつけた。
この後、男達はY子さんを藪の中へ連れこみ、集団でレイプした。その間、女は車内を荒らし、Y子さんの所持品であるぬいぐるみを奪っている。
再び、駐車場に連れ戻されたY子さんは男女らにタバコの火を全身に押しつけられた。Y子さんが許しを請うと、女は「ばかやろう。ぶりっ子するんじゃない」と殴った。
「警察に行かれると困るので、連れて行こう」
午前6時ごろになって、車の通行も目立ち始めたため、1人の男がそう提案した。XさんとY子さんを車に乗せ拉致した。
翌24日午前4時30分頃、愛知郡長久手町の公園墓地で降ろされたXさんは正座させられ、洗濯用ロープを首に巻きつけられ殺害された。男達はふざけながら、「タバコを吸い終わるまで」と綱引きのように両方から絞めたのである。
一味はXさんの遺体を車のトランクに積みこんだ後もY子さんを連れまわし、名古屋埠頭に来た。ここでY子さんが「外に出たい」と言ったので、見張られながら下車したが、海に飛び込んで死のうとしたところを掴まり、車に連れ戻された。
その夜は男のアパートに戻り、ここでも男がY子さんを強姦する。
25日午前2時ごろ、Y子さんを乗せた車は三重県大山田村に到着。男達は遺体を埋めるための穴を掘り始めた。そしてY子さんは、Xさんと同じように殺害された。
出典:名古屋アベック殺人
裁判
安田好弘著名な凶悪事件や死刑が求刑された事件の刑事弁護を数多く担当し、死刑判決を多数回避させてきた経歴を持つ。死刑廃止主義者。
安田が事件を受任した当時の日本においては、このような凶悪事件の弁護は、弁護士経歴に傷がつきやすいことや、メディアバッシングの恐れがあること、弁護士報酬がほとんど期待できないことなどから、引き受ける弁護士が僅少であるため、凶悪事件の受任が安田に集中していることが問題視されている。また、安田自身は大手マスメディア、テレビなどの出演依頼はほとんど断るマスメディア嫌いとしても知られる。
少年たちのその後
主犯Aの近況主犯Aの近況については何度か報道されている。月刊現代2006年7月号などに掲載された元弁護人の話によると、Aは刑務所に入所後、遺族に作業賞与金と謝罪の手紙を送り続け、2005年には理容師見習いの父親から「頑張りなさいよ」と書かれた手紙を受け取ったという。
共同通信社の2008年11月29日の報道によれば、Aは1989年の名古屋地裁での判決、つまり死刑判決を受けてから、2人の被害者の遺族へ謝罪の手紙を書き始め、岡山刑務所に収監された1997年以降は作業賞与金(刑務作業に支払われる給与)も添えて送るようになり、2005年3月以降は理容師見習いの父親と文通を行っていると報道された。殺人事件の被害者と加害者の文通は極めて異例であり、修復的司法の試みとされた。
理容師の遺族からの返信はないが、手紙を受け取ってもらえていることは分かっていると報道された。ただしその「遺族」の、理容師との続柄についての記述はなく、どのような関係の人物なのかは2011年1月末現在全く不明である。
共犯者たちの出所後上記の新潮45 2003年10月号記事によると、B、D、E子、F子の4人は既に刑期を終え出所したが、当人及びその親たちも、誰1人として遺族の元を訪れ謝罪した者はいないとのことである。
民事裁判で和解した賠償金も、出所した4人のうちBは出所後すぐ行方をくらませ消息不明で完全未払い。Dも同様に一銭も支払わないばかりか、遺族に自分の居場所を隠したまま結婚し妻子をもうけ平穏な生活を送っているという身勝手ぶりである。E子、F子は一部支払ったもののやはり完済することなく住居を変更し、現住所は同様に遺族に通知していない。
親たちについては、Aの親とE子の親は完済したが、Bの親は最初から親権放棄を決め込んでいたため調停の席にもつかなかった。C、Dの親はいずれも我関せずとばかりに息子の公判に顔さえも出さなかった。B、C、Dの親は全員、無関係であると主張して賠償の支払いを拒否しており、今後もその意思は一切無いという。なお、F子の親は一部未払いである。
毎日新聞 2009年2月21日 より(全文)
<塀の中生活21年の元少年>...心に刺さった、母の言葉...
岡山刑務所で迎える13度目の冬。所内の工場で、旋盤でトラクターや自動車の部品を加工する日々。指先のあかぎれから血がにじむ。
名古屋市内の公園で88年2月、少年ら6人が若い男女を襲い殺害したアベック殺人事件で、リーダー格とされ無期懲役が確定した当時19歳の元少年(40)。「塀の中」での生活は21年になった。
元少年の母(62)は、接見禁止が解け、初めて名古屋少年鑑別所で対面した時の様子を「未成年だから、すぐ帰れるという態度で、アッケラカンとしていた」と振り返る。
そして、89年6月の名古屋地裁判決は死刑。「反省しているとは思えぬ態度が散見された」と、裁判長は厳しく批判した。
「もうダメだと思う。交通事故にでも遭ったと思って、おれのことはあきらめてくれ」。判決後、面会に来た母に、元少年は、投げやりな言葉をぶつけた。
「ばかなこと言うんじゃない。もしお前が死刑になるというなら、悪いけど、こっちが先に死なせてもらう」。肉体的にも精神的にもボロボロ。それでも苦しさに耐えるのは、お前が生きているから--。母の言葉が、突き刺さった。
<この時に私は初めて、本当の意味で被害者の方やご遺族の方のお気持ちというものを(略)自分なりにいろいろと考えることが出来たのです>
元少年が友人にあてた手紙である。
名古屋高裁は96年12月、更生の可能性を認め、無期懲役に減刑した。生と死のはざまで、奪った命の重さと向き合った。
◇
収容されている部屋の前に咲くアイリスのこと、部屋の中に漂ってくるキンモクセイのにおい--。昨年、岡山刑務所の息子から届いた手紙に、今までになく、草花のことがつづられていた。「オジサンになったんかな」。愛知県内に暮らす母は、笑みをこぼした。
岡山刑務所の息子から届いた手紙に手を添える母=愛知県内で、鮫島弘樹撮影
仮釈放のことは、考えないようにしている。受刑者の再犯を危惧(きぐ)する声が強まり、容易には実現しないと思う。事件にかかわった6人のうち4人は出所したが、遺族に謝罪せず示談金もほとんど支払っていないと聞いた。
サラリーマンの夫の退職金で、遺族への示談金を支払い終えた。その夫も、6年前に他界した。パート勤めの毎日。「手紙のやり取りができればうれしいという感じです」。06年夏以来、息子には会っていない。
◇
<出口の見えないトンネルの中に入っているようなものです>
無期懲役の受刑者としての心情を、元少年は友人への手紙で記した。関係者によると、97年1月の判決確定から30年以上たたなければ仮釈放は難しそうだ。
<どんなに小さな光だとしてもこれからも私はその小さな光をしっかりと見つめて、焦らずに一歩一歩一生懸命に頑張っていきたいと思います>
確定から30年後の27年。母は81歳になる。長いトンネルを抜けるまで、元気でいてくれることを祈っている。記者【武本光政】