イギリスの毒殺魔「グレアム・ヤング」とは
グレアム・ヤング
グレアム・フレデリック・ヤング(Graham Frederick Young, 1947年9月7日 - 1990年8月1日)は、イギリスの連続殺人犯。毒物を用いた犯行を重ねたことで知られ、継母と仕事の同僚2名(ボブ・イーグル、フレッド・ビッグス)を毒殺した。
幼少期から最初の犯行
ロンドンの北部の街で生まれる。彼は幼い頃より毒物が人体に与える影響について強い興味を抱いていた。1961年、14歳のときに家族に毒を投与することを試み、重篤な結果を生じさせる。彼はアンチモンやジギタリス製剤を少量ずつ頻繁に購入したが、学校の化学実験で使用するとして大量の毒物を購入することに成功した。1962年、ヤングを虐待していた継母モリーに致死量の毒を与えたことで殺害した。その後、更には父親、姉妹、学校の友人たちにも毒物を与えた。その一方で彼はどの食物に毒物を混入したかしばしば忘れ、犠牲者と同じように吐き気や病気に苦しむことがあったため、彼に疑いがかかることは無かった。しかしグレアムの叔母ウィニーは彼が科学と毒物に熱中していたことを知っていたため、やがて彼を疑うようになり、グレアムは精神科医を受診させられた。そこで診察に当たった医師は、毒物に対する知識と情熱を熱心に語るグレアムの博識さを褒めそやし帰宅させたが、その後そのまま警察に通報した。かくして、グレアムは1962年5月23日に14歳で逮捕され、彼は父親、姉妹および友人に対する殺人未遂を認めた。彼は所持していた酒石酸アンチモンカリウムを「小さな友達」と呼んでいたという。なお、継母の死については罪に問われなかった。継母を火葬することをあまりにもしつこく主張するグレアムに父親が折れたため、死因が分析できなくなっていたのである。
ヤングにはブロードムア病院(精神的に不安定な犯罪者のための機関)への15年の収監が宣告されたが、「完全に回復した」と認められたため9年後に釈放された。しかし実際には、彼は収監中も院内の図書館で化学書や医学書を読み漁り、そこから得た知識を基に病院敷地内に自生する植物からの有毒成分の抽出や、囚人仲間や病院のスタッフを被験体とした毒物投与の実験さえも行っていた。
第二の犯行
1971年の退院後、彼はハートフォードシャーのボーヴィンドンで写真店の店員の仕事を見つけた。店主のボブ・イーグルはブロードムア病院からの照会状を受け取ったが、あろうことか主治医はその中に毒物による殺人で有罪になった過去を記載しなかった。ヤングが仕事を始めてすぐにイーグルは体調不良を訴え、まもなく死亡した。ヤングは仕事仲間に与える茶にアンチモンやタリウムといった毒物を混入した。病気は職場で次々と発生し、未知のウイルスによるものと誤解され「ボーヴィンドン・バグ」と呼ばれるようになった。もちろん、吐き気や医師の診察を相当とした症状は、ヤングと彼が入れた茶によるものと考えられることができた。ヤングは続く数ヶ月の間に約70人に毒物を与えた。ボブ・イーグルの後任者は、写真店で仕事を始めると間もなく病気になったため、すぐに仕事をやめることに決めた。その決定は彼の命を救うことに繋がった。ボブの死後、ヤングの同僚フレッド・ビッグスは病気が悪化しロンドン国立病院に入院した。不運にも入院時には手遅れで、フレッドは数週間苦しんだ末、ヤングによる3番目の犠牲者となった。
この時点で病気および死因に関する適切な調査が必要なのは明白だった。ヤングは調査官がタリウム中毒を死因と思わなかったかどうか、経営コンサルタントに尋ねた。彼はまた同僚の1人に自らの趣味が有毒な化学薬品を研究することだと話した。この同僚は直ちにヤングの過去を調べ、彼の犯罪歴を知るや驚いて警察に通報した。
ヤングは1971年11月21日に逮捕された。警察は彼のアパートでタリウムとアコニチン、ポケットの中からアンチモンとタリウムを発見した。さらにヤングの毒物投与とその症状を詳細に綴った日記を発見した。
日記の内容(一部)
10月31日「Fに致死量の特別混合剤を投与した。明日どうなっているか楽しみだ」
11月1日
「Fは出社していない」
11月3日
「Fは既に重体だ。意識不明で、麻痺と失明が進行している。あと2、3日もすれば最期を迎えるだろう。その方が彼には救いになる。仮に生き延びたとしても、永久に障害者になるだろうから、死んだ方がいいのだ」
11月4日
「或る医者によればFの症状はウイルスによるものだという。私と張り合おうとしているのだろうか」
11月10日
「Fはまだ生きている。特別混合剤に耐えるとは、なんという強靱な体力なのだろう。生きていられると厄介なことになりかねない」
11月17日
「Fの治療が効果を上げている。てこずらせる奴だ。3週間も延命すれば、そのまま生き続けるだろう」
グレアム・ヤングの最後
ヤングの裁判はセント・アルバンス・クラウン法廷で1972年6月19日に始まり、10日間続いた。ヤングは有罪を認めず、日記に関しては彼が計画していた小説に関するメモで単なる空想だと主張した。しかしながら証拠は明白であり、ヤングは終身刑を宣告された。今回は精神異常者を収監する施設ではなく、通常の刑務所に収監された。彼は「ティーカップ・ポイズナー The Teacup Poisoner 」と呼ばれたが、自身は「ワールズ・ポイズナー World"s poisoner 」と呼ばれることを望んだ。
1990年8月初旬、43歳の誕生日を2週間後に控えたグレアムは、バークハースト刑務所で心臓発作で死亡した。1994年に製作されたグレアムの伝記的映画『グレアム・ヤング毒殺日記』では、彼は自らを毒薬実験に用いて死亡したとされている。その真偽は判らないが、事実だとすれば、如何にも彼らしい死に様である。
グレアム・ヤングの言葉
●私はあなたの近所の気さくなフランケンシュタイン●毒物の小ビンは僕の小さな友達
●(逮捕された後)アンチモンがなくて寂しい。アンチモンが与えてくれる力が欲しい
●彼らを人間として見なくなったんだと思います。より正確に言うなら、僕の一部が彼らを人間と見なさなくなったんです。彼らはモルモットになったんだ。
映画化
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関連書籍
2005年11月、日本においてヤングを模倣した少女がタリウムを用いて母を意識不明に追い込む犯罪が起きた
県の国市で県立高校一年の女子生徒(16)が劇物のタリウムを使って母親(47)を殺害しようとした事件で、女子生徒が上の日記「ブログ」に、タリウムを投与する経過や、衰弱していく母親の様子とみられる“記録”を公開していたことが一日、静岡県警少年課と三島署の調べで分かった。県警は押収したなどから、書き込みが女子生徒のものと断定。これを決め手の一つとして逮捕に踏み切っていた。女子生徒の心理状態などについても、県警は詳しく分析を進める方針だ。 女子生徒は八月中旬に「実験01日目」と題して毒劇物を投与したの観察経過を書き始めた。それと前後して、母親の全身に発疹(はっしん)が起きて体調が悪化していることや、「殆ど動けなくなってしまいました」などと、病状に関する記述を頻繁に書き込むようになった。八月下旬には自らも腹痛に悩まされていると書いたうえで、「原因は解っています。タリウムです」と記していた。 母親がする数日前には「母はよく泣くようになった。僕に“毒を造って欲しい”“誤って飲んだ事にして貰いたい”とぼやく」などと母親とのやり取りを紹介し、「自殺衝動が出始めたようだ」と冷淡な分析を加えている。
少女・家族・学校
小学校のときには、飼育係として小動物をかわいがる姿が見せています。成績優秀であり、中学でも学年で10位以内に入っていました。高校は、地域でも有数の進学校の理数科に進学し、化学部に所属します。しかし、中学の卒業文集では、
「好きな芸能人」の欄には「有名人(あまり有名ではないかもしれないが)ならグレアム・ヤング」と、英国の毒殺犯の名を挙げています。
少女の部屋には、切り刻まれた動物の死骸や解体標本、ヤングの著作「毒物日記」、ナチスの写真などが見つかっています。
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周囲の生徒たちの話によれば、彼女はリーダーシップを発揮するようなタイプではなく物静かだが、、特別暗いタイプではないと語っています。中学のときには、文化部の部長もつとめています。
ブログの中では、いじめられていたことを示唆する記述もありますが、関係者からはいじめに関する情報はでていません。
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近所の人の話によれば、少女の家族は「仲の良い家族」と見られていました。警察の調べでも、母親との間に特別な確執はなかったと見られています。
少女は、入院中の母親のことを、
「好きでも嫌いでもない」と語っています。
グレアム・ヤングと今回の少女の類似点
二人とも、・とても頭が良い。特に理数系が得意。
・おとなしいタイプ(ただし、相手の論理的な誤りを強く攻撃するときもある)。
・子どものころから毒物に強い興味を持つ。
・歴史上の大毒物犯を尊敬する。(彼女の場合は20世紀のヤング。ヤングの場合は、19世紀のイギリスで14人を毒殺したウイリアム・パーマー)
・ナチス・ヒットラーに対する関心
・タリウムを使用。
・アンチモンを使用。
・学校の科学実験で使うと偽って毒物を購入。
・犯行を冷静に記録に残す。(ヤングは日記、少女はネット上のブログ)
・母親を殺害しようとする。
・入院中の被害者に、さらに毒をもろうとする。
タリウムとは
タリウム (英: thallium) は原子番号81の元素。元素記号は Tl。第13族元素の一つ。
単体は常温では銀白色の柔らかい金属として存在し、六方最密充填構造(αタリウム)が最安定であるが、約230 °C以上では体心立方構造(βタリウム)が最安定となる。比重11.85、融点302.5 °C、沸点1473 °C。13族の元素であるがイオンは1価 (Tl+) が安定である(不活性電子対効果を参照のこと)。硫化鉱物(硫化バナジウムや黄鉄鉱)中に微量に存在する。重金属の中でも特に強い毒性を持ち、摂取すると神経障害を起こす。
ウィリアム・クルックス (W.Crookes) によって硫酸工場の残留物から1861年に発見され、1862年にクルックスおよびクロード・オーギュスト・ラミー (C.A.Lamy) により単体分離された[2]。名前の由来はギリシア語の「緑の小枝」を表す thallos で、これは、原子スペクトルが緑色のためである。
1898年、パリのレイモン・サブローにより、タリウム塩に脱毛作用があることが発見される。このため1950年代に至るまで、頭皮の皮膚病を治療する際に用いられる標準的な軟膏となった。タリウム塩自体には皮膚病を治療する効果はないが、強力な脱毛作用によって頭髪が抜け落ちてしまえば、治療用の薬品を塗布しやすくなるためである。第二次世界大戦以前には、顔面の脱毛クリームとして販売されていた。
KGB は、放射性タリウムを毒殺用の毒物として使用していた。有名な例では、元 KGB 工作員のニコライ・ホフロフ (Nikolai Khokhlov) が1957年に放射性タリウムを盛られ、瀕死の重態となったが一命を取り留めた例がある(ホフロフは2007年に死去)。これは、初めて公式に確認された KGB の放射性元素による殺人(未遂)事件である(二番目が2006年にポロニウムを盛られて死亡したアレクサンドル・リトヴィネンコ)。
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