<冤罪被害事件> 足利事件とは
足利事件
経緯
1990年5月12日、栃木県足利市のパチンコ店で行方不明となった女児(当時4歳)が、翌日、パチンコ店近くの渡良瀬川の河川敷で死体で発見された事件。犯人のものと推定される体液が付いた女児の半そで下着も付近の川の中で見つかり、わいせつ目的の誘拐・殺人事件とされた。
足利市ではこの事件の前、2件の女児殺人事件が起きていたこともあり、栃木県警は180人態勢で徹底した捜査を進めた。幼稚園の送迎バスの運転手で、事件現場のパチンコ店の常連でもあった菅家利和さん(当時43歳)を疑った県警は、菅家さんを事件半年後から1年間尾行したが、怪しい点はなかった。
91年6月、県警は菅家さんが捨てたゴミ袋から体液の付いたティッシュペーパーを発見。警察庁科学警察研究所(科警研)にDNA鑑定を依頼し、科警研は同年11月、菅家さんと犯人のDNAの型が一致したとする鑑定書をまとめた。これを受けて県警は、12月1日、菅家さんを任意同行し、深夜に及ぶ尋問の末、犯行を認める「自白」を引き出し、21日、わいせつ目的誘拐と殺人、死体遺棄の容疑で逮捕した。
検察は、先に起こっていた2件の殺人の「自白」は「嫌疑不十分」として起訴しなかったが、パチンコ店から行方不明になった女児殺害についての「自白」は疑うことなく菅家さんを起訴。
菅家さんは第1審の途中から否認に転じたが、93年7月7日、宇都宮地裁は無期懲役の判決を言い渡し、東京高裁も控訴を棄却。2000年7月17日の最高裁判決で有罪が確定した。菅家さんは02年12月25日、宇都宮地裁に再審を請求。地裁は請求を棄却したが、即時抗告による東京高裁での審理でDNA再鑑定が認められ、その結果、女児の下着に付着していた体液と、菅家さんのDNAは一致しないと分かった。1991年の科警研鑑定は、当時としても間違いだった可能性が高い。再鑑定結果を受け、東京高検は菅家さんを刑務所から釈放(再審前に釈放するのは異例)。2009年6月23日、東京高裁は再審開始を決定した。
宇都宮地裁で始まった再審公判では、刑事公判当時の検察官3人が「申し訳ない」と頭を下げる場面もあった。栃木県警の石川正一郎本部長は、再審開始前、菅家さんに直接会って謝ったが、誤判を重ねた裁判官たちからは、いまだに謝罪の言葉は聞かれない。菅家さんによれば、足をけったり、机をたたいたりする乱暴な取り調べが行われた結果、虚偽の自白を強いられた経験から、菅家さんは、布川事件など他の冤罪被害者らとともに、取り調べの全面可視化を求めている。
疑問点
菅谷は一旦犯行を自供したが、一審公判中に自供を全面否認し、無実を訴える。菅谷の自供は矛盾点が多い。犯行に及んだ経緯は、自分では殆ど供述できない。捜査官が「こうなのか?」の問いに「多分そうです」という会話が続く。弁護士との面会でも「つい、しゃべっちゃったんです」というような軽い会話をする。パチンコ店でマミちゃんに声をかけて、自転車で渡良瀬川に連れだして犯行したという道順も、遺体発見直後の警察犬の探索では、まったく異なる道順をたどった(供述した道順とは反対方向)。警察は、警察犬の探索報告は一切公判で明らかにしていない。
絞殺した方法も矛盾点が多く、マミちゃんの顔に付いていた砂も明確にできていない。
DNA鑑定も、当時の測定方法は完全に確立されておらず証拠能力として疑問を呈する専門家も居る。
警察は、マヤちゃん、ユミちゃんの二人の殺害に関しては立証できず、マミちゃん殺害・遺体遺棄に関して菅谷を起訴した。平成5年7月7日一審で無期懲役の判決。平成8年5月9日二審で控訴棄却。平成12年8月16日最高裁で菅谷の無期懲役が確定した。
出典:足利事件(事件史探求)
呼び名は「187番」
菅家さんは足利市に帰郷した09年6月17日、9年近い千葉刑務所での生活を読売新聞の取材に詳しく語った。91年12月に逮捕された菅家さんは、00年7月に最高裁で無期懲役刑が確定すると、東京拘置所から千葉刑務所に移された。そこでは週末を除く毎日、手提げのビニール袋を作るため、電気ゴテを使って袋に持ち手を付ける作業が待っていた。作業場には他の受刑者と行進して向かい、身体検査のためパンツ1枚で尻まで見せなければならない。それが苦痛で仕方なかった。
呼び名は「187番」。「イヤな」を連想し、自分が人間でないような気持ちになった。他の受刑者の布団と重なるほど狭い房に入れられたことも、「本当はお前がやったんだろう」とののしられたこともある。
「悪いことをしていないのに、なぜ……」。時間がたつにつれ、怒りがこみ上げてきた。09年6月4日に釈放されるまで、ささやかな楽しみもあった。地図をめくりながら「ここに行ってみたい」と想像する。日本各地の主要都市の人口をそらんじられるほどになった。
ずっと模範囚で過ごしてきた菅家さんが初めて注意されたのは08年10月。東京高裁が、足利事件でDNAの再鑑定を実施する可能性があると報道された直後で、思わず鼻歌交じりで刑務作業をしてしまった。
取り調べで「自白」したことや、逮捕の決め手となったDNA鑑定など、捜査の問題や裁判の誤りがはっきりしないまま無罪になっても、「周囲がまだ『あいつは犯人だ』と疑っているように感じる」と菅家さん。東京高裁が再審開始を決定した23日の記者会見では、徹底検証について「どうしてやってくれないのか。私は怒っております」と厳しい表情で語った(09年06月24日付『読売新聞』)。
一審(宇都宮地裁)
92年2月から始まった一審(宇都宮地裁)では、裁判官、検察官だけでなく、弁護人までもがDNA鑑定を絶対視して、菅家さんの無実の訴えを無視。菅家さんはこの弁護士の「罪を認めて情状酌量を勝ち取る」弁護方針に逆らえず、検察側証拠をほとんど全部みとめてしまいます。従って一審では事実調べが一切行われず、現地調査さえされないないまま、93年7月7日、同地裁、久保眞人裁判長は、菅家さんに無期懲役の判決を下します。菅家さんはすぐに控訴、この事件の冤罪性と本件DNA鑑定への疑問を感じた佐藤博史弁護士を中心に、手弁当による新たな弁護団が編成されました。
出典:裁判の経過
二審(東京高裁)
94年4月から始まった控訴審(東京高裁)では、弁護団の追及によって、DNA鑑定の不備や数値のデタラメさ、「自白」と客観的事実(目撃者、犯行ルート、殺害方法、犯行後の行動など)の矛盾が次々と明らかにされたにもかかわらず、96年5月9日、同高裁・高木俊夫裁判長は「DNA鑑定と自白は信用できる」として、「控訴棄却」の判決を下しました。菅家さんは翌日最高裁に上告。
出典:裁判の経過
三審(最高裁)
弁護団は97年1月28日、最高裁に上告趣意書を提出。その後、弁護側が行ったDNA鑑定で、菅家さんのDNA型が犯人のものと一致しないことが判明。以下のように重要な補充書を次々と提出します。
『補充書1』 弁護団の依頼により、97年10月28日提出 日本大学法医学教室で鑑定したところ、菅家さんの毛髪のDNA型が「犯人のものと一致しない」ことが判明。
『補充書2』 98年7月6日提出 DNA型が一致したとする科警研鑑定書添付写真を、弁護側が専門家に依頼してコンピューター解析した結果、「一致と判定するには重大な疑問がある」ことが判明。
『補充書3』 98年12月1日提出 科警研DNA鑑定の欠陥や、デタラメな鑑定方法を科学的に追求したもの。
『補充書4』 99年11月提出 『DNA鑑定』と「任意性のない自白」の信用性を、鋭く追求したもの。
『補充書5』 2000年2月提出 菅家さんの公判廷での証言を心理学的に精緻に分析した複数の学術論文を添付し、彼の自白の信用性について詳述。
『補充書6』 2000年7月7日(最高裁決定10日前)提出 79年発生の幼女殺害事件に関し、菅家さんの無実の証明にもつながる、、重要な目撃者の供述を変更させた、「警察官による証拠捏造」という、極めて重大な事実を指摘。またDNA鑑定の再鑑定を求める申入書、鑑定資料の適切な保存を求める上申書を提出しました。(しかしすべて無視されました。)
しかし、これだけの大きな疑問があるにもかかわらず、2000年7月17日、最高裁第二小法廷の亀山継夫裁判長以下、5人の裁判官の全員一致で上告棄却を決定。
弁護側が最高裁段階で提出したすべての証拠に対して、一切答えず、、市民による「DNAの再鑑定」を求めるたくさんの声を無視し、審理を尽くさないまま、菅家さんの無期懲役判決(一審)を容認する決定を下しました。
出典:裁判の経過
2002年12月25日、宇都宮地裁へ再審請求
12月20日、日本弁護士連合が足利事件再審支援を決定。ただちに再審弁護団結成。12月25日、弁護団は再審請求書を宇都宮地裁へ提出。受理されました。
出典:裁判の経過
2008年2月13日 宇都宮地裁 再審請求審「不当決定」
問答無用の請求棄却決定2008年2月13日11時30分、宇都宮地裁は、菅家さんの再審請求を棄却しました。
理由は、「弁護人提出の各新証拠は、それぞれの立証命題と関連する旧証拠の証明力を減殺させるものではないから、いずれも明白性を欠くといわざるを得ない」「したがって、本件再審請求は理由がないから、刑事訴訟法447条1項により、これを棄却する」というもの。
「弁護側提出の新証拠、押田鑑定(弁護側が菅家さんの毛髪を使って行ったDNA鑑定)も村井鑑定(被害者の死因は溺死と考えるのが合理的とする法医学鑑定)も、共に新規性は認めるけれど、かつての検察側証拠を覆すほどの力は無い。だから明白性は無い。明白性がなければ、再審請求する理由が無い。だから棄却する(もちろんDNA鑑定の再鑑定はしない)。」簡単に言うとそういうことです。
「少しでも疑問があれば調べて見よう」というのが裁判所の仕事のはずなのに、その姿勢の一切無い、問答無用、検察側をかばうだけの判決で、あまりのひどさに、弁護団も絶句していました。
弁護団は2月18日に、東京高裁に即時抗告(今回の宇都宮地裁の決定の不当性を訴える)しました。
出典:裁判の経過
菅家さんの手紙
家族に宛てた二通目の手紙 (92年1月28日)
出典:菅家さんの手紙
私しが警察につかまったというのは、私自身も本当にわかりません。どうか、私しをしんじて下さい。私しが拘置所に入ってるなんて、長くて悪い夢をみているような気持ちです。ほんとうにいくら考えてもおかしな事ばかりです。
三通目 (92年1月30日)
出典:菅家さんの手紙
早く家に帰りたい。私しは毎日胸がつまる思いです。そして食べたい物も食べられない。ここにいると、頭も体もおかしくなる思いです。メシもまずい。本当にだめになってくるよ。「どうして私しがここにいなければならないのか」 「自分でも本当の所まったくわかりません」一日中すわりっぱなしで下わつめたくて頭がおかしくなる。自由がきかない。本当につらい毎日です。 もういやだよ。どうか助けて下さい。お袋、C子私しはどうしたらいいのかわからない。好きな物も食べられない。あまい物も菓子も一度も食べていません。
好きな大福もくいたい。タバコも、まったくすわせてもらえません。体のためには、すわない方が良いですが、どうして私はこんなめにあわなければならないのか、まったくなっとくいきません。私しは、毎日悲しい思いです。お気に入り詳細を見る
四通目 (92年2月1日)
出典:菅家さんの手紙
拝啓 お袋、皆さんお元気ですか。また手紙を書きました。書いていないと、気持ちがおちつきません。 ここはさむくて、足はつめたくて、体もいたい。自由がない。もういやだ。ここにきた時に服をぬがされて、下着を上から下まで全部ぬがされて、心体けんさをされました。こんなむごいやりかたをされるおぼえはまったくないのに。私しは本当に残念です。家ではきっとなにかのまちがいだと思ってますよね。どうか私しをしんじて下さい。私しは毎日重い気持ちです。私しは自分がなさけなくて、さびしくて、本当に悲しいです。私しが拘置所にいるなんて、私し自身もしんじられません。どうか私しの事を、見捨てないで下さい。ここを出れば、皆と東京見物や、ディズニーランドや、日光江戸村にもいけると思います。(中略) 皆さん、本当にまっていて下さい。ぜったい帰ります。(それからズボン一枚ほしいのですが)また、手紙かきます。(利和より) あと一回税金(2000円)がのこっておりました。どうかよろしくお願いします。(市役所へ)
六通目 (92年2月14日)
出典:菅家さんの手紙
拝啓 お袋、C子、皆さん元気ですか。私しも元気でいます。この事件が、テレビとラジオでも放送されたかもしれませんが、新聞で私しは見ました。しかし、おかしな事です。大きく新聞にも出ていました。こんな事ってあるかと、自分は思いました。私しがつかまるなんて、おかしな事です。私しは何一つ悪い事はしていません。とんでもない事です。 作年12月1日の朝、いきなり入ってきた警察が、私しをつれていきました。私しには、何がなんだかさっぱりわかりません。私しはやってないと話しても、警察はまったくしんようしません。それで、警察の留置所にいたり、宇都宮の拘置所にいたり、もうたくさん。それから、3月5日第2回(公判)裁判があります。4月23日ごろにも、裁判があります。私しは裁判には絶対勝ちたい。ぜったい勝つ。弁護人の先生も、一生懸命力を入れてくれています。私しのごかいをはらしたいのです。それから前の手紙にもかきました着る物ですが、ボタンの着いた着物とズボンをお願いいたします。面会にきて下さい。あいたいのです。ズボンの着がえがないので、不便ですので、よろしくお願いいたします。皆さんにごめいわくかけて、もうしわけありません。私しは無実です。皆さんお元気で。また後で手紙を出します。 利和より
支える会へ宛てた手紙 (94年5月13日)
出典:菅家さんの手紙
地元(足利市)の皆さんこんにちは、私は菅家利和と申うします。足利事件で私は犯人にされてしまいました。私は警察の見込み捜査で突然逮捕されました。事件は平成2年5月12日午後7時頃おきました。そして私は平成3年12月1日の朝、私は借家から刑事にいきなり警察へ連行されました。そして12月1日朝から夜おそくまで調べられました。1日の日に刑事に「お前がやったんだな」と私にゆうのです。それで私はやっていないと話しましたが、刑事はまったくうけつけませんでした。そして刑事がお前は現場に行っているんだよとゆうのです。しかし私は現場には行っていないのです。刑事に私は現場には、行っていませんと話しました。それでも刑事はまったく受けつけません。
そしてまた刑事が、お前がやったはずだとまた私を責めたてるのです。私はやっていませんと何度も何度も刑事に話すのですが、それでもまったく受け付けられませんでした。時間が進むにつれて、刑事の声がだんだんと大きくなるのです。そして刑事が机をたたいたりして、早くしゃべって楽になれと言うのです。
それから私が下をむいた時、刑事に私はかみの毛をひっぱられました。私は刑事に机をたたかれたり、大きな声でいわれたり、だんだん刑事がこわくなり、疲れと、眠さとで私はもうつかれてしまい、やってもいない事件をやったと言えば休ませてくれると思い、それで私はやったと言ってしまいました。それで私は夜おそくなって逮捕されました。
地元(足利市)の皆さん、どうか信じて下さい。私は足利事件には無関係なのです。私は控訴審の裁判に頑張りますので、どうか私を見守っていて下さい。地元(足利市)の皆さん、どうか傍聴にきて下さい。この足利事件はDNA鑑定で、多くの疑問点があります。私は罪をおかしていないのに、犯人にされたことです。だからDNA鑑定はおかしいのです。
支える会・栃木の皆さんによろしくおつたえ下さい。俺は控訴の裁判で無罪になって早く家に帰りたい。皆に早く会いたい。罪をおかしていないのだからぜったい無罪になって、お袋や皆に安心してもらいたい。早く真犯人が逮捕されるように。俺は真犯人がにくい。真犯人をぜったいゆるさない。おくれてすみません。皆さんもお元気で、利和も元気に頑張ります。 利和より
冤罪だった
服役中も無罪を主張していた菅谷に救いの手を差しのべたのが佐藤博史弁弁護士等だった。弁護側は、当時のまだ完全に確立されていなかったDNA鑑定方法に疑問を抱き、現在の最先端DNA鑑定方法での再鑑定を裁判所に申請し続けた。現在は、当時と比較にならない1/4兆7000億という高精度の技術が確立されている。結果、再鑑定では、検察側、弁護側のいずれでもマミちゃんの肌着に付いていた体液と菅谷のDNAが不一致となり、高検もその結果を無視することができず、「無罪を言い渡すべき証拠に当たる」と判断した。
平成21年6月4日、千葉刑務所に服役していた菅谷は17年半ぶりに釈放された。これにより、再審は決定的で無罪が確定する。菅谷は、記者会見で、服役中に両親が他界したこと。自身の運転免許が失効したことなど無念を吐露した。また、犯人ではないのに何故自供したのかとの問いに、取調べ官が髪の毛を掴んだり怒鳴ったり高圧的な状況で嘘の自供をしてしまったと発言。警察、検事などは絶対に許せないと怒りをあらわにした。
出典:足利事件(事件史探求)
菅家さんに8千万円支払い 足利事件の刑事補償金
冤罪判決出した最高裁5人組のその後
この事件に先立ち、足利市では幼女が殺される事件が1984年と89年に相次いで起きていた。いずれも未解決で迷宮入りしていた。菅家さんを逮捕した栃木県警は、これら二件についても菅家さんを犯人だときめつけ、再逮捕・送検する。3連続幼女殺害事件は一挙に解決。犯人は菅家だ――当時の新聞テレビ通信社は、警察発表を基に「連続殺人犯菅家利和」報道を大量に流した。シロじゃないかと疑った人が、この当時日本中にどれだけいただろう。しかし菅家さんは無実を訴えていた。宇都宮地検は最終的に91年の事件だけを起訴した。裏付ける証拠がなかったからだ。
残ったひとつの殺人事件について宇都宮地裁で公判がはじまったものの、菅家さんの供述は自白と否認の間を迷走する。無実を訴えたと思えば罪を認める。だがまた無実だという――。なぜそんなことになったのか、前掲書に実情が打ち明けられている。菅家さんは一貫して無実を訴えたかった。だが無実を口にするたびに検事や捜査員が圧力をかけた。おまけに弁護人までもが無実の訴えを一向に聞き入れなかった。
こうした四面楚歌の裁判の結果、無期懲役の判決が下される。弁護団が入れ替わって東京高裁の控訴審がはじまった。弁護人は無実を確信し、具体的な証拠を積み上げて無罪を主張する。しかし裁判官は一顧だにせず、棄却した。ただちに上告し、審議の場が最高裁に移された。1996年5月9日のことであった。
上告審で弁護側が訴えた争点は主にふたつ。一審の弁護人の弁護が不当で事実審理が不十分だったこと。そしてDNA鑑定の信頼性である。被害者の女児の下着には犯人の男のものと思われる精液がついていた。栃木県警は精液のDNA型を鑑定して「菅家氏のものと一致した」と結論づけた。これに対して弁護側は、鑑定の方法が旧式のもので結果は誤りである、再鑑定すべきだ――と訴えた。
上告審を担当したのは最高裁第二小法廷だった。判事は5人。亀山継夫(裁判長)・河合伸一・福田博・梶谷玄・北川弘治――の各氏だ。最高裁が結論を出したのは2000年7月17日である。棄却だった。
DNA再鑑定を――無実の訴えを無視した最高裁判決
無実を訴える菅家さんを文字通り獄中に叩き込んだ判決だが、内容は以下のとおりごく簡単なものだった。実質的に中身はない。〈…記録を精査しても、一審弁護人の弁護任務が被告人(菅家さん)の権利保護に欠ける点があったものとは認められない。――〉
〈…記録を精査しても、被告人(菅家さん)が犯人であるとした原判決に、事実誤認、法令違反があるとは認められない。――〉
信頼性に疑問があると訴えた栃木県警のDNA鑑定についてはこう述べている。
〈なお【要旨】本件で証拠のひとつとして採用されたいわゆるMCT118DNA型鑑定は、その科学的原理が理論的正確性を有し、具体的な実施の方法も、その技術を習得した者により、科学的に信頼される方法で行われたと認められる。したがって、右鑑定の証拠評価については、その後の科学技術の発展により新たに解明された事項等も加味して慎重に検討されるべきであるが、なおこれを証拠として用いることが許されるとした原判断は相当である。〉
検察の言うことを頭から信用して疑おうとしない。「警察のやることに間違いはない」と言っているようなものだ。5人の判事に誰一人としてDNA型鑑定の専門家はいないのだが、「科学」という言葉を繰り返して再鑑定の訴えを退けた。最高裁は反対意見を書くことができる。だが反対意見はひとつもなく、5人全員一致で「DNA再鑑定の必要はない」「菅家は有罪だ」と判断した。
こうして菅家さんの無期懲役が確定する。以後、2009年6月4日まで引き続き菅家さんは獄中で過ごした。東京高裁への再審即時抗告でDNA型の再鑑定が決定され、「不一致」という結果となって釈放されたのがこの日である。拘留はじつに17年半に及んだ。
もし当時の最高裁が慎重を期して再鑑定を決定していれば、少なくとも9年の刑務所生活はせずにすんだわけだ。証拠の再鑑定をなぜそれほど嫌がったのか。最高裁の判事たちも菅家さんが無罪であることを薄々でも知っていたからではないか。そんな気すらしてくる。
そしてここからが本稿の本題である。ひとりの人生を台無しにしておきながら、判決を書いた亀山氏らの退官後の身の振り方が興味深い。以下、5人それぞれに取材を試みた。
北川氏をのぞいて5人のうち4人が、大企業の役員や有名私立大の教授に再就職して報酬を得ている。刑務所で辛い目をしている菅家さんの境遇と比べてあまりにもお気楽というほかない。
判事5人と再就職状況は次のとおりである。
亀山継夫
出典:「足利事件」菅家さんを獄中に突き落とした最高裁判事たちの豊かな老後:MyNewsJapan
(元名古屋高検検事長。最高裁判事1998年12月~2004年2月。退官後、04年4月~09年3月まで東海大学法科大学院研究科長)
河合伸一
出典:「足利事件」菅家さんを獄中に突き落とした最高裁判事たちの豊かな老後:MyNewsJapan
(元大阪弁護士会副会長。最高裁判事1994年7月~2002年6月。退官後は大手弁護士法人「アンダーソン=毛利=友常法律事務所」顧問、阪神阪急ホールディングズ監査役)
梶谷玄
出典:「足利事件」菅家さんを獄中に突き落とした最高裁判事たちの豊かな老後:MyNewsJapan
(弁護士。元大阪弁護士会会長、日弁連副会長。最高裁判事1999年4月~2005年1月。退官後にイーグル工業監査役、NOK監査役)
北川弘治
出典:「足利事件」菅家さんを獄中に突き落とした最高裁判事たちの豊かな老後:MyNewsJapan
(元判事、福岡高裁長官など。1998年9月~2004年12月まで最高裁判事。民間企業等への役員就任などはなし)
元栃木県警本部長・山本博一氏(68)「心の中でおわびしたい」
捜査は極めて慎重に、完璧を期したつもりでしたので、本当に驚愕しています。捜査陣は万全を尽くした。にもかかわらず、このような事態が起きた。我々はどこかに問題点があったと考えなければいけないし、この現実をしっかり受け止めないといけない。菅家さんに対して、本当に申し訳なく思います。DNA型鑑定が話題になりましたが、当時、我々は鑑定結果をもって菅家さんを逮捕したわけではない。ひとつの大きな証拠と見ていたのは事実ですが、あのころの精度では、決定的な証拠とまでは言えなかった。1年も彼を内偵するなかで状況証拠を積み上げ、犯人の蓋然性が高いと総合的に判断したわけです。
途中からひっくり返りましたけど、自白もありました。その場に立ち会ったわけではありませんが、ベテランの刑事が相当慎重にやったはずです。世間が注視している事件で間違えることなんてできなかった。そのプレッシャーは常にあります。DNAや自白の問題にしても、捜査への疑問は公判段階で弁護側からすべて指摘されているはずです。それらをすべて聞いたうえで裁判所が最終的に判断したわけですから、我々はそれが正しいと信じていました。
謝罪の気持ちは私人として当然ありますが、公人として組織として捜査したわけですから、だれがどういう形でするのがいいのか、みなで話し合わないといけない。まして、まだ再審請求中ですべての手続きが済んでいませんし。ただ「心の中でおわびしなきゃならんよ」と当時の部下たちには言っています。(談)
(山本氏はのちに警察庁総務審議官、大阪府警本部長、関西国際空港常務などを経て、現在は新交通管理システム協会理事長)
週刊朝日;徹底検証・足利事件「冤罪」の構図 菅家さんを“抹殺した”警察・検察・裁判官(2009年6月26日号)
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