高知能殺人者「エドモンド・エミール・ケンパー」とは
エドモンド・エミール・ケンパー
エドモンド・エミール・ケンパー三世(Edmund Emil Kemper III、"The Co-ed Killer",とも、1948年12月18日 - )はアメリカ合衆国の連続殺人者。
ケンパーが自首した時点で年齢は24歳。身長は206センチ、体重は127キロあった。しかし彼の父も母も大柄だった(父は203センチ、母は183センチあった)ので、それは脳下垂体分泌異常の末端肥大的なものではなく、均整のとれた体躯だった。またそれに見合った怪力でもあった。
それに加えて、IQは平均値をかなり越えた数値であり、態度は礼儀正しく、冷静そのもの。彼ほどの体躯と頭脳の持ち主ならば、アメリカン・フットボールの花形選手になり、チアガールの女の子たちをよりどりみどりすることも可能だったかもしれない。
しかしもちろんそうはならなかった。彼はかなり幼い頃から情緒不安定の傾向を見せており、それが生育環境に大きくよるものであることは、誰の目にもあきらかだった。
母親はケンパーに厳しくあたった。
「男の子は甘やかせばホモセクシュアルになる」
と、なぜか彼女は信じて疑わなかったという。
体が大きく、早熟な彼が姉たちに手を出すことを心配した彼女は、まだ幼いケンパーの部屋を地下室に移した。
ケンパーはこのじめじめした牢獄のような、窓ひとつない場所におびえ、なんでもするから二階の子供部屋に戻して、と嘆願した。だがこれは聞き入れられなかった。
彼はこの地下室で悪夢にうなされ、暗い妄想にふけった。TVもラジオもなく、窓すらないこの部屋では外的刺激などまったくなく、彼は内なる妄想でみずからを慰めるよりほかなかったのだ。
彼の両親は彼がものごころついたときから、すでに不仲だった。母親は体格がいいだけでなく、ケンパーを産んだだけあって頭の回転が速く、とくに舌鋒の鋭さは無類であった。
ケンパーの父はついに、息子が7歳のとき妻に完全敗北し、家を出た。
しかし彼が家を出る前から――夫婦仲の悪さが頂点に達したあたりから、ケンパーは姉と「ガス室ごっこ」という陰惨な遊びを愉しむようになっていた。
お互いどちらかが相手を椅子に縛りつけ、刑吏役がレバーを引く真似をする。すると椅子に座った囚人役は身をふるわせ、苦しみに身をよじり痙攣したあげく、がくりと首を折って、死んだふりをするのだ。
ケンパーの思念はこのころから、まっすぐに死へと向いていた。
彼は妹の人形の手足を切り落とし、子猫の首を切断して柱に乗せ、願をかけた。
――世の中のやつら、みんな死んじまえ。
ケンパー少年はすでにすべてを憎んでいた。とくに母親と姉妹を。そこには虐待に対する反発と疎外感に混じって、いつしか異性に対する複雑なコンプレックスがからむようになっていった。
8歳のときケンパーは女性教師に初恋を感じ、
「僕、先生にキスしたいんだ」
と姉にこっそり打ち明けた。
「すればいいじゃない」
「でも、そのためには先生を殺さなきゃならない」。
この頃彼は、この教師を殺して死姦することを真剣に計画したという。エド・ゲインがそうであったように、彼もまた環境による歪んだ女性観にもかかわらず、性的にはノーマルだった。幸か不幸か――としか言いようがないが。
母親はケンパーの異常性に早いうちから気づいていた。それが余計に彼女から息子をひき離した。
10代のはじめには、ケンパーは近所の猫や姉のペットを殺した。ナイフで頭の先をすぱっと切り落とし、脳を剥き出しにさせてから刺し殺すのがいつものやり口だった。ほとんどは庭先に埋めたが、ときおりは持ち帰って、クローゼットに保存することもあった。
だが彼が一番殺したいと思っていた相手は、もちろん母親だった。
自分を愛さず、ただひたすらに遠ざけ、口をひらけば悪態しかつかない母親。地下室に閉じ込め、姉と妹しか可愛がらず、さんざん萎縮させておきながら、自分を役たたずの腰抜け呼ばわりする母親。
ケンパーはしばしば、ナイフやハンマーを持って母親の寝室を訪れた。裏庭に彼女のための墓穴を掘ったことすらあった。だが結局、実行はできなかった。
その頃にはまだ、彼の狂気はそれができるほどには熟していなかったのである。
その後ケンパーの母は2度再婚を繰り返したが、どちらも長続きはしなかった。
ケンパーは実父を頼って、彼の住むカリフォルニアを訪れた。しかしすぐに父は彼を送り返した。それでも諦めずにケンパーは何度も父を訪問したが、やがて彼は無理やり祖父母のもとに送りつけられてしまう。
父はさらに、ケンパーの電話番号を電話帳からはずした。彼はもう、これっぽっちも息子にかかわる気はなかったのだ。
祖父母の家で、ケンパーは惨めさにうちのめされていた。両親からは完全に見捨てられ、祖母は母親に負けず劣らずの毒舌家で、彼をいいようにこき使った。
ケンパーはせめて、彼女のいいつけを完璧にこなすことでそれに対処しようとした。しかし祖母は、
「おまえはそうやってなんでも先まわりして、あたしをいつか心臓発作で殺すつもりなんだ」
と罵った。彼が呆然と立っていると、「気味わるい目で見るんじゃないよ」とも怒鳴った。
ケンパーは22口径のライフルで、祖母を撃った。
それから死体を包丁で3度突いた。
そこに祖父が帰ってきたので、彼は「祖父に死体を見せて悲しませたくなかったから」という理由で祖父をも撃った。
それから母親に電話し、銃が暴発してふたりとも死んだ、と言ったが、その言葉に騙されるほど、母は息子に対し盲目ではなかった。
ケンパーはただちに保安官に拘留された。
彼はまだ15歳だった。動機には、
「おばあちゃんを撃ったらどんな気分がするかと思ったんだ」
とだけ述べた。
エドマンド・ケンパーは精神疾患を認められ、州立病院へ送られた。
州立更正院には当時、1500名の性犯罪者が収容されていた。皮肉なことに、そこでケンパーははじめてその知能の高さ、有能さを発揮する。彼のあまりのIQの高さに、興味を示して訪れる精神科医はあとをたたず、検査の申し込みが殺到した。彼は心理テストのコツをすべて飲み込み、「医師たちが求める」であろう答えをきちんと用意してみせた。
彼は自分の犯行に対して完璧な自己分析をやってのけ、集団療法の先導者としての重責をこなし、模範囚として過ごした。その常人以上の深い洞察力と自己認識力には、どの医師も舌を巻いた。
だがその一方で、ケンパーは父から「もう二度と手紙をよこすな」という宣告を受け、周囲を囲む男性性犯罪者たちの影響によって、さらに異常な性的妄想をふくらませていた。
彼の当時のお気に入りの妄想は少女を殺して切り刻み、肉を口にし、生首を祭壇に飾るというものである。もちろんそんなことは、精神科医たちの前ではおくびにも出さなかったが。
医師たちは彼の社会復帰を許した。
院を出てからしばらくは地元のカレッジに通った。成績はオールA。
ケンパーは21歳になっていた。
更正院の医師は、彼を母親のもとに返すべきではないと力説した。彼の母親がどんな人物か、また彼が母親に対してどんな思いを持っているか承知していたからである。
しかし仮釈放委員会は、ケンパーを母の庇護下においた。
ケンパーはサンタ・クルーズの母のもとへ落ち着いた。
「完治」と認められたケンパーは、以後いっさいの治療を受けていない。彼は高IQにもかかわらず、缶詰工場やガソリンスタンドで働いた。警官になりたかったが、身長制限があって無理だった。
サンタ・クルーズは美しい町で、そこかしこに魅力的な女子大生がうろつき、タンクトップ姿のヒッチハイカーがひきも切らなかった。
母親はケンパーに対し、
「ごらんよ、あのきれいな女の子たちを。おまえみたいなクズには目もくれないだろう。お近づきになんかなれやしないよ。あきらめな」
と罵り、
「おまえは父親そっくりの腰抜けだから、自分で口説くこともできないだろう」
と嘲笑った。しまいには、
「おまえみたいな人殺しの息子がいるから、あたしはもう5年も男と寝られないんだ」
と怒鳴ったことさえあった。近所をはばかって声を低めることすらしなかった。
18ヶ月の母親の保護監督期限が切れるやいなや、ケンパーはひとり暮らしをはじめる。彼は地元の道路局につとめ、抜け道に精通し、ナイフの収集をはじめた。
不幸なことに、まだケンパーは父に愛される夢を捨てきれていなかった。
彼は父と食事をともにし、支払いの段になって父は白々しく、財布を忘れてきた、とうすら笑った。はじめから払う気などなかったのは見え見えだった。だがケンパーはおとなしく支払いを済ませた。
その帰り道、ケンパーはふたりのヒッチハイカーを拾った。以来、ヒッチハイカーを拾うのは彼の常習行為となる。彼は100人を越すハイカーを拾い、無事に送りとどけた。
だがもちろんそれは、彼にとってただの入念なリハーサルに過ぎなかった。
1972年5月7日、ケンパーはいつものとおり、ふたりのハイカーを乗せた。ふたりとも18歳の学生だった。車が人気のない場所にさしかかった時、ケンパーは豹変した。
彼はひとりをトランクに押しこめ、もうひとりを手錠でつないで、ナイフをふるった。滅多刺しだった。しかしそんな凶行の最中、おかしなことにケンパーは誤まって彼女の胸に触れてしまい、「失礼」と謝罪している。
彼女が息絶えると、ケンパーはもうひとりをトランクからひきずり出して同様に殺し、車のトランクにふたりを詰めて自宅へ帰った。
彼はふたりを浴槽に入れ、首と手首を切り落とした。手首を切ったのは指紋隠滅のためだが、首を切り落としたのは性的な意図からだった。彼は首を失い、もう名を持った「個人」ではなくなった「ただの女の体」と交わった。
9月14日、彼は韓国人の女子学生を拾った。そして殺害し、レイプして埋めた。ただし首だけはしばらく保管し、その首をソファの後ろに置いたまま、自宅で医師と面談したりもしている。
翌年1月8日には18歳の学生を殺し、自分の寝室のクローゼットに入れておき、屍姦してから体を切り刻んだ。
首はしばらく保管していたが腐ってきたので寝室の窓から見えるところに埋め、ときおりそこに出向いては、恋人にかけるような甘い言葉をささやいた。
2月5日、彼はまたふたりのハイカーを拾い、いつものように殺し、屍姦して、死体は無造作に捨てた。
彼は犯行に馴れ、手口は杜撰になりつつあった。
しかしもう、ヒッチハイカー殺しはおしまいだった。ケンパーはすでに逮捕を覚悟していた。だがその前にやらなければならないことがあった。
「母を殺さなければならない。そうしなければ俺はまた罪もない女を殺すことになる。俺が本当に殺したい相手を殺さなければ、この凶行は止まらない」
まったくもって彼の自己認識は正しく、分析も洞察も完璧だった。惜しむらくはその衝動が、理性で抑えこめるレベルのものではなかったということだ。
ケンパーは4月20日、母のアパートを訪ねた。
そして真夜中、眠っている彼女をハンマーで殴り、ナイフで喉をかき切った。それから「もう二度と悪態がつけないよう」喉頭を切り取って、ディスポーザーで粉々にした。そして首を切断した。
首を失った体は、いつものようにもう「母」ではなく「女体」だったので躊躇なく犯した。首のほうはダーツの的にし、罵声を浴びせながらサンドバッグ状に殴った。いつもなら被害者の生首は恋人のように大事だったが、今回ばかりはそうではなかった。
それから母の親友を夕食に招待し、訪問してきたところを殺した。
彼はふたりの「老いた女体」を犯し、充分満足すると、母親のベッドにもぐりこんで熟睡した。
余談だがこのエピソードは、1983年に練馬で起こった不動産屋による一家皆殺し事件に共通するものを感じる。この犯人も殺害後、もう満足し安心しきって、その場で眠っているのである。もう安心だ、これで自分をおびやかすものは何もない――と。
もうやるべきことはなかった。
ケンパーは自分で警察に通報し、「一連の女子大生バラバラ殺人の犯人だが、自首したい」と言った。だがなかなか信じてもらえず、数回目の通報でやっと「逮捕してもらえた」。
ケンパーの自供態度に警察は舌を巻いた。事件に関する記憶力、観察力はずば抜けており、供述はそのまま調書に丸写しにしてもいいくらい整然としたものだった。捜査の手順、容疑者の権利、司法にまつわる些細な事情にいたるまで、ケンパーは心得ていた。
ある検察官はこう述べた。
「こんなやつには、もう二度とお目にかかれないだろう」。
あらゆる弁護士、捜査官、精神科医、ジャーナリストが彼の特異さに「魅了」された。彼は持ち前の冷静さをもって、これに応じた。
逮捕されてから彼はその怪力で、ボールペンや万年筆で手首を切り、4回自殺をはかったが、いずれも失敗している。
なお、ちょっとしたエピソードだが、当時サンタ・クルーズには連続殺人犯がもうひとりいた。ハーブ・マリンである。ふたりは隣の房にされたとき、お互いをひどく軽蔑しあった。
ケンパーはマリンを「下品な低脳、ただのきちがい」と言い(マリンは重度の精神分裂病患者だった)マリンはケンパーを「不道徳なけだもの」と言ったという。この見解はどちらも正しい、と言わざるを得ない。
証人席で、エドマンド・ケンパーはみずからの犯行――首なし死体と性交したことや、カニバル行為――を淡々と認めたが、つらかった子供時代のことに話が及ぶやいなや、さめざめと涙を流した。
彼は死刑を望んだが、当時カリフォルニア州には死刑制度がなかった。
「被告は生涯釈放されてはならない」として終身刑を言い渡された彼は静かに、
「おっしゃるとおりです、判事」
と答えた。
8件の殺人で有罪となったケンパーは終身刑を宣告された。彼は現在もカリフォルニア州立医療刑務所で服役中である。
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