日本で起きた誘拐殺人事件まとめ
誘拐の定義
誘拐(ゆうかい、英語:kidnapping)とは、他人を騙したり誘い出して連れ去ること。暴行脅迫を用いた連れ去りを「誘拐」と呼ぶのは本来誤りであり、広辞苑をはじめあらゆる辞書でも「誘拐」に強制的なニュアンスは見られない(法律上は「略取」とされている)。しかし、マスコミにおいては、意思に反して無理矢理連れ去ること(拉致)に関しても「誘拐」という言葉が用いられ、日常用語でもそのような傾向が見られる。法律用語としての「誘拐」とは、欺く行為や誘惑を手段として、他人の身柄を自己の実力的支配内に移すことを言う。暴行・脅迫を手段として、強制的に身体を拘束する行為は「略取」として、誘拐とは別個に定義されている点が、マスコミ・日常用語の誘拐とは異なっている。刑法学上、偽計によるものと暴行脅迫によるものを総合した概念は、「拐取」である。
日本語の文学上も辞書的な意味でも「誘拐」と「略取」の意味と使い分けは、法律用語とほぼ同様である。
甲府信金女子職員誘拐殺人事件
1993年8月10日、山梨県甲府市で、甲府信用金庫大里支店の職員の内田友紀さん(19歳)が新聞記者を名乗る男に誘拐された。同月17日、内田さんは静岡県富士宮市の川岸で遺体となって発見された。24日、宮川豊(当時38歳)が逮捕された。
(1993年8月10日午後2:50ごろ)
甲府信用金庫本店に山梨日日新聞社発行の月刊誌「ザやまなし」の記者を名乗る男から電話が入った。「輝いて」という活躍する女性を写真つきで掲載するページで大里支店の新入社員・内田友紀さん(19歳)を紹介したいというものだった。男はこの日のうちに取材したいということで、夕方に大里支店にタクシーを差し向けると話した。
電話に対応した幹部の話では「紳士的」「丁寧」という声の印象で、また記者名は名乗らなかったが山梨日日新聞を「山日」と自然に話していたことから、信じてしまった。この電話の男は甲州弁を使用していた。
(午後5:40ごろ)
信金前に停まっていた男のさしむけたタクシーに内田さんが乗りこむ。「ザやまなし」の記者の指定の場所である市内の体育館に向かった。
(午後6:00前)
内田さんが体育館の嘱託職員に「信金の者ですが、体育館で待つように言われたのですが、ここですか」と話していたのを、バドミントンの練習に来ていた女性が最後に目撃。これ以降の足取りがつかめなくなる。
(翌11日午前8:20)
最初の身代金要求電話が、信金大里支店に入る。
「職員を預かっている。11時までに4500万円用意しておけ」
この電話に対応したのは支店長の山本紀恭さん(当時43歳)で、すぐに警察に通報した。
この後、30分から1時間おきに男から電話が入った。
(午後3:05)
男から6回目の電話があり、甲府市中小河原町の喫茶店「珈琲待夢」に現金を持って来るように、山本支店長に直接指示した。
その後、「珈琲待夢」に到着し、待っていた支店長に対し、約4.5km離れた中央自動車道甲府インター近くのガソリンスタンドで待つように伝えた。
(午後5:00前)
ガソリンスタンドに着いた支店長に再び男から電話が入る。5分後に同インターから約2km先の中央道上り線の東京から104km地点で現金を投げ捨てるように指示した。この時、内田さんについて「中央道釈迦堂パーキングエリアに停めてある車の中にいる」と男は言った。
(午後5:54)
支店長はワゴン車に積んだ計4500万円の入った2つのバッグを指定の場所に置いた。しかし、男は現れなかった。
この日の深夜に内田家に不審な電話が入る。女性の声で「信金のマツモト」と名乗り、友紀さんの在宅を確認するものだった。信金大里支店にはマツモト姓の女性はおらず、旧姓がマツモトの女性が退職していたが無関係とわかった。
結局、この電話は友紀さんの友人の母親によるもので、友人が家に帰らないことから、友紀さんと一緒にいるのではないかと電話をかけた。その際、名乗りづらかったため、友紀さんの同僚のマツモトとかたったという。
(17日午前11:30)
富士川左岸でウナギ釣りに来ていた男が、うつぶせとなった内田さんの遺体を発見。すぐに通報した。遺体はノースリーブの短い下着一枚の姿で、首に粘着テープが巻かれていた。司法解剖によると、死因は頚部圧迫によるショック死と判明した。
24日朝になって、甲府市内に住む自動車のセールスマン・宮川豊(当時38歳)が知人を通して「自首したい」と言ってきたため、任意同行され、午後になり逮捕された。
出典:甲府信金女性職員誘拐殺人
塗装業者誘拐殺人事件(警察庁指定118号事件)
平成3年5月1日午後8時頃、千葉県市原市の塗装業社長の高崎勇一さん(当時52歳)が3人組みの男に誘拐された。当日午後7時50分頃、高崎さん宅に男の声で「塗装の仕事の依頼をしたい」との電話があった。そこで、高橋さんは男が指定した近くの中学校正門前に行ったところ突然2人の男が現れて高橋さんを無理やり車に連れ込み拉致した。途中、もう1人の男が車に乗り込んできたが、高橋さんは布袋を頭からかぶせられて詳しい状況はわからなかった。3人組みは高橋さんに「3000万円で殺しを請け負った。命が惜しかったら金を用意しろ」と脅迫。高橋さんは、翌2日の午前8時になって犯人の指示通りに自宅に電話して妻に金を用意するように連絡した。
驚いた妻は、警察に通報すれば夫は殺されると判断し身代金2000万円を用意した。さらに知人の男性2人に、犯人が指示してきた栃木県宇都宮市内のファミリーレストラン駐車場に身代金を運んでもらうよう依頼した。そこで知人の男性は高橋さんの車のトランクに現金2000万円を入れて出発した。
3日午前9時、駐車場に着いた知人の男性は犯人の指示通りに車内に車のキーを置いて1時間その場を離れた。1時間後に戻ると、車内に目隠しされ紐で拘束された高橋さんを発見し無事保護した。
保護された高橋さんは、4日午後9時になって市原署に事件の顛末を通報するとともに被害届けをだした。千葉県警と市原署は営利目的の誘拐事件として捜査を開始した。まず、高橋さんの証言から監禁されていた栃木県那須塩原の貸し別荘の現場検証と聞き込み捜査を行ったところ、5月1日に現場付近で不審な車が駐車していたことを突き止めた。
さらに、貸し別荘の申し込みをした中年男が高橋さんの顔見知りで元塗装業の迫康裕(当時50歳)であることが判明したため、全国に指名手配をした。その結果、同月14日に高岡市のホテルに潜伏していた迫を逮捕した。
公判は、事件の主犯格は迫、岡崎、熊谷昭孝の3人であると認定。3人は「殺人に関して積極的に加わっていない」と主張したが、平成7年1月27日福島地裁は3人に死刑を言い渡した。3人はいずれも控訴したが棄却。平成16年6月25日に最高裁は3人の上告を棄却して死刑が確定した。
比叡山女子大生殺人事件
比叡山女子大生殺人事件(ひえいざんじょしだいせいさつじんじけん)とは、1989年8月31日、京都に一人旅に訪れていた早稲田大学の女子大生(当時25歳)が、比叡山でテント生活を送っていた当時48歳の男に強盗と強姦の目的で殺害された事件。被害者の女性は過去に痴漢にあった経験から空手を学んでおり二段を持っていた。女子大生は同年8月26日、千葉県野田市の自宅を出発、京都では南禅寺、六波羅蜜寺、三十三間堂、京都国立博物館、東寺などを訪れた。事件に遭った31日は京都からバスやロープウェイを利用して比叡山延暦寺を訪れた。そこで目撃されたのを最後に行方を絶った。午後2時頃、加害者の男と出会い、午後3時頃に紐で殺害された。9月2日、被害者宅に男から身代金1000万円を要求する脅迫電話がかけられた。電話がかけられたのはこの1回のみであった。9月8日、被害者の両親から相談を受けていた千葉県警、京都府警が公開捜査に乗り出した。9月9日、遺留品であるリュックサックが発見され翌10日、全裸の遺体が発見された。死因は絞殺であった。女子大生を殺害した後、加害者の男は9月4日から大阪市平野区の工場に住み込みで働いていたが、公開捜査となってから、数度に渡り捜査本部に電話をかけてきた。9月12日に大津警察署に出向いた男は警察に厳しく追及されて犯行を自供、翌13日に逮捕された。10月4日、京都地方検察局から強盗殺人罪で起訴され、一審の京都地方裁判所で1990年3月6日に無期懲役が言い渡された。
事件後、『女性の一人歩き危険』という看板が比叡山のあちこちに立てられ、またガイドブックにも同じ趣旨の注意書きが書かれるようになる。
女性は早稲田大学に入学する前、日本大学文理学部中国文学科を卒業。日大在学中に麗澤大学で行われたアグネス・チャンの夏期集中講義を受講していた。1993年、遺族により彼女の日大の卒論が自費出版。アグネス・チャンが序文を書き、国立国会図書館に寄贈されている。
功明ちゃん誘拐殺人事件
昭和62年9月14日午後4時50分頃、群馬県高崎市の幼稚園児・荻原功明ちゃん(当時5歳)が「近くの神社に遊びに行く」と言って出かけたまま行方不明になった。心配した荻原さんの両親や近所の住民達が心当たりを捜したが功明ちゃんの行方は杳として分からなかった。午後6時40分頃、荻原宅に男の声で「子供を預かっている。2000万円よこさなければ子供は殺す」と身代金目当ての脅迫電話があった。驚いた両親は警察に通報した。捜査班が荻原宅に着くと早速、逆探知の準備を整え次の身代金要求の電話にそなえた。
午後7時47分頃、2回目の電話があり同様に2000万円の身代金を要求する内容だった。同8時3分には功明ちゃん自ら電話に出て、父親の問いかけに「元気。これから帰るよ。おまわりさんと一緒」と言った。2回目と3回目の脅迫電話は、いずれも通話時間が短く逆探知は完全にはできなかった。
功明ちゃんが誘拐されてから2日後の16日午前7時50分に4回目の脅迫電話があった。やはり男の声で「今日夕方6時までに1000万円用意しろ」という内容だった。通話時間は27秒で逆探知はある程度可能な時間であったが、捜査班は逆探知体制を前日の15日に解除していたため犯人の居場所は特定できなかった。当時の逆探知には回線制限が必要で長期間の逆探知シフトは出来ない事情があった。
-戦後唯一の誘拐未解決事件に-
捜査班は犯人の要求通りに身代金の用意を始めた。その矢先、功明ちゃんの遺体が近くの川で発見された。司法解剖の結果、死因は窒息死で胃の中には何も無かった。このことから、犯人は14日の午後8時3分に功明ちゃんを電話に出した直後に生きたまま橋の上から投げ落としたものと推定された。
捜査班は、身代金の受け渡し場所を指定しなかったこと、翌日が敬老の日で金融機関が休業することなどを頭にいれず身代金を要求していることなどから、金銭目的ではなく荻原家に対する怨恨や変質者の犯行も視野に入れて捜査を開始した。また、功明ちゃんが「おまわりさんと一緒」と言ったことから当日に非番だった警察官も対象に捜査を行った。
だが、懸命の捜査も報われず犯人の行方は杳として掴めなかった。かろうじて逆探知で特定できたのは群馬県高崎市北西部地域で該当回線は1万本以上ということだけだった。平成14年に時効が成立した。
日本の身代金目的誘拐事件の解決率は97%という(犯罪統計白書)。一方、罪は重く殺害に至れば極刑は免れない。このため犯人には割が合わないリスクの高い犯罪といえるが、誘拐事件は本件以降も後を絶たない。功明ちゃん誘拐事件は戦後唯一の未解決誘拐殺人事件となってしまった。
裕士ちゃん誘拐殺人事件
1986(昭和61)年5月9日午後、東京・江東区の書店経営・本間守世(もりとし)さん(38)の三男・小学校一年生の裕士(ひろし)ちゃん(6)が、遊びに出たまま行方不明となった。同日の夕方、本間宅に男の声で「子供を誘拐した。1500万円用意しろ」と電話があった。警視庁捜査一課と深川署は身代金目的誘拐事件と断定し特別捜査本部を設置し捜査を開始した。
同夜10:00過ぎ、犯人の要求に従って同区清澄公園に身代金200万円を持参した母親に埼玉・越谷市の元鉄筋工・須田房雄(45)が接触してきたため、張り込んでいた捜査官に取り押さえられた。
翌日の10日2:00過ぎ、須田は「裕士ちゃんにカブト虫の幼虫を見せて誘拐。その後、石で頭を10回ほど殴り、ひもで首を絞めて殺した」と自供した。捜査本部は須田の供述にもとづいて本間宅近くにある神社境内の排水溝から裕士ちゃんの遺体を発見。捜査本部は須田を身代金目的誘拐、殺人などの容疑で緊急逮捕した。須田は事業資金欲しさから半年前から誘拐を計画していた。
須田は、現在の賃貸家の立退きを求められていたことを機会に、「立ち食いソバ屋」をやろうと考え、その資金に500万円が必要と誘拐を計画した。以前住んでいた江東区の本間宅を思い出し「あの家なら金はある」とみて、昨年の11月と12月に下見をした。犯行当日は二日前から用意した「カブト虫の幼虫」を用意。14:00過ぎ須田は江東区深川二丁目の高速道路下を歩いている裕士ちゃんを発見。案の定、裕士ちゃんは「それなあに」と興味を示した。そこで須田は「カブト虫の幼虫を埋めようよ」と言って神社の境内に誘い出し、カブト虫の幼虫を埋めた後、石で裕士ちゃんを殴打して死亡させた。裕士ちゃんの頭蓋骨は完全に陥没していたという。
1986(昭和61)年12月、東京地裁は須田に死刑を言い渡した。1987(昭和62)年1月19日、須田は控訴を取り下げて死刑が確定。
1995(平成7)年5月26日、死刑執行。享年53歳。
出典:ERROR!!
泰州くん誘拐殺人事件
泰州くん誘拐殺人事件(やすくにくんゆうかいさつじんじけん)は1984年2月13日に広島県福山市で発生した身代金目的の誘拐事件である。事件
当時社会問題化していたサラ金(消費者金融)などから、商店の経営のために1200万円という多額の債務を負っていた犯人の男性(当時44歳)は、度重なる取立てから逃れるために身代金目的の誘拐によって金銭を得ようと、自分が指導している少年野球チームのメンバーである福山市議の森田泰元の長男(当時9歳)を小学校から下校途中にバレンタインデーのチョコレートを買ってあげると誘い出し誘拐した。
自動車で市内のデパートなどを連れまわしたが、およそ1時間後に家に帰りたいと訴えだした児童を福山市郊外の山中にある県道「福山グリーンライン」に駐車中に殺害し遺体を斜面に遺棄した。車に酔って泣き出した児童を看護するそぶりを見せながら、いきなり首にネクタイを巻きつけ、両手で力いっぱい締め付けて殺害したのである。その後、児童の自宅に身代金を要求する電話をかけ、指定の銀行口座に15万円を振り込ませた。福山八幡宮の駐車場に留めていた乗用車からキャッシュカードを奪取した犯人は身代金を現金で引き出すことに成功し、その後追加して1000万円を振り込むように電話したが逆探知に成功した警察により緊急逮捕された。犯人は逮捕までに奪取した現金を借金の返済にあてていた。
逮捕後
児童が山中に遺棄された現場にはその後匿名で観音像が設置された。また児童に対しては知っている大人であっても一緒に出かけるときには親に連絡するように学校で教育されるようになった。
裁判では、犯人が、信用している児童を騙し誘拐したうえに殺害後に身代金を要求し成功しているなど犯行態度が極めて悪質であるとして一審の広島地方裁判所福山支部は1985年7月17日に死刑を言い渡した。その後、控訴、上告したが1991年6月11日に最高裁で上告が棄却され死刑が確定した。1998年11月19日に広島拘置所において刑が執行された。
被害児の父親である森田泰元は福山市議選に当選し続け、1992年に福山市議会副議長に、1994年9月に福山市議会議長に就任している。なお、現在は引退している。また1993年5月発売の雑誌『諸君!』(1993年6月号、文藝春秋社)に、殺人事件被害者遺族の立場から死刑制度存置を支持する論考を寄稿している。
山梨主婦誘拐殺人事件
1981年(昭和56年)7月22日、山梨県北巨摩郡武川村で、株に失敗して借金を抱えた甲府林務所職員(当時36歳)が、旧家の三沢教子(58歳)を誘拐し、クロロホルムを嗅がせ布団をかぶせぐるぐる巻きに縛って殺害。身代金5000万円を要求するが、逆探知で逮捕された。1審で、確定的殺意ではなく「未必の故意」による殺人と認定され無期懲役が確定した。
出典:戦後の主な誘拐殺人事件
名古屋女子大生誘拐殺人事件
名古屋市内在住の元寿司店経営の木村修治(当時30歳)は、愛人への仕送り等で多額の借金を抱え、その返済のために競輪と競馬に手を出してさらに借金を抱えて誘拐を計画した。1980年12月2日、「英語の家庭教師をお願いしたい」と金城学院大学3年の女性(当時22)を誘い、自宅近くで誘拐した。映画『天国と地獄』をヒントに誘拐直後に殺害、遺体はビニルシートでくるみ、木曽川へ捨てた。女性の家族に3000万円の身代金を要求したが、受け取りに失敗。翌年1月20日、逮捕。
1980年12月2日、名古屋市港区に住む金城学院大学英文科3年生・戸谷早百合さん(22歳)が、自宅近くの近鉄戸田駅前から行方がわからなくなった。
早百合さんは家庭教師をやる旨を「中日新聞」の告知板に投稿しており、1日夜にそれを見た男から依頼の電話があり、駅前で待ち合わせていたらしい。
同日午後8時15分頃、戸谷家に「娘さんを預かっている、これは冗談じゃないぞ」と男の声で電話があった。当時両親は不在で、電話を受けたのは早百合さんの弟・N君だった。
午後9時23分、2度目の電話、父親に「明日3時までに3000万円用意しろ。警察に言うと生きて帰れないぞ」と、逆探知を恐れて手短に身代金の金額と日時を指定してきた。
父親はすぐに警察へ通報するが、犯人はその後20回以上にわたって電話をかけ続けてきた。
翌3日午後、
「午後6時までに3000万円を持って蟹江インター近くの喫茶店『師崎』に来い」
と犯人からの指示。
1000万円をカバンに詰めた父親と捜査員が「師崎」で待っていると、そこに再び電話がかかってきた。
「そこを出て、蟹江インターから東名阪高速道路に入り、桑名方面に向かって2つ目の非常電話ボックスに行け」
父親はこの時、「非常電話ボックス」と「電話ボックス」を間違えてしまった。「非常電話ボックス」の中には「ココカラカネヲ シタヘオトセ ゴザイショサービスエリア マデイケ サユリイク」と書かれたメモが入っていたのだが、当然父親がこれに気づくことはなく、犯人との接触はできなかった。
同日午後10時10分、犯人からの電話。
「金を持って名古屋市中川区のレストラン『ダック』へN君が1人で金を持参すること」
今度は早百合さんの弟・N君が金を持って「ダック」に向かったが、犯人からの連絡はなかった。
5日午後4時過ぎ、25回目の電話。
「愛知県春日井市の中央線春日井駅まで来れば早百合さんを見せる」
父親と捜査員が指定場所に向かうが、早百合さんはいなかった。
6日午後6時23分、28回目の電話。
「今日は車が故障したので段取りがつかなかった」
これが犯人からの最後の連絡となった。
12月26日、捜査本部は公開捜査に切り換えると、各メディアが一斉に事件を報道し、犯人の声も公開された。たまたまテレビを見ていた人の通報により、声がそっくりな愛知県内の元寿司職人・木村修治(当時30歳)が浮上する。
木村は当初頑なに否定していたが、声紋鑑定が決め手となり、年があけた1月20日に任意同行を求められ、早百合さん殺害を自供した。
早百合さんの遺体はなかなか見つからず、木曽川で見つかったのは5月5日のことである。
司ちゃん誘拐殺人事件
1980(昭和55)年8月2日、山梨・明野村で電気工事店経営の梶原利行(36)は、約150万円の借金返済に迫られて途方に暮れていた。梶原は地元では「ソフトボールのおじちゃん」として子供に慕われていた。この日も山梨・一宮町の運動場でソフトボールの練習を見ながら「借金返済」のことばかりを考えて、子供達の喚声も耳には届かなかった。その時、運動場で遊んでいた同町に住む大勝和英さんの次男・司ちゃん(2)が目に映った。梶原は発作的に司ちゃんを誘拐し、夕方になって大勝宅に1000万円の身代金を要求する脅迫電話をかけた。
警察は、目撃者の証言などから「ソフトボールのおじちゃん」こと梶原が誘拐犯と断定。山梨県及び隣県へ指名手配を行った。8月15日、指名手配された梶原は東京・浅草で逮捕された。その間、大勝宅への脅迫電話は30回に及んだ。
取調べで梶原は、誘拐から2日後の8月4日、司ちゃんの首を絞めて殺していたことが判明。殺しておきながら、数十回に及ぶ脅迫電話をかけていたことで非難が集中した。
1982(昭和57)年3月3日、甲府地裁は梶原に死刑判決を言い渡した。身代金目的の誘拐殺人事件では戦後8人目の1審死刑判決だった。1審判決後の1983(昭和58)年1月1日、面会の弁護士に「甲府で隠れて暮らす妻子(事件後、離婚)のことが心配で夜も寝られない…」「私が殺した被害者様も、どんなにか家に帰りたかったことだろう…」という後悔と反省の気持ちを吐露している。
1985(昭和60)年3月20日、東京高裁は「最近の量刑の動向からも死刑は慎重にしなければならない」「犯行は残虐、冷酷だが、司ちゃんを見失い誘拐をいったん諦めたこと、身代金の要求も場当たり的で、綿密な計画に基づく行為とは言い難い」として梶原に無期懲役を言い渡した。生きて償う機会を与えられた梶原は同年7月に無期懲役として服役した。
出典:司ちゃん誘拐殺人
長野・富山連続誘拐殺人事件(警察庁指定111号)
-経緯-昭和55年2月23日、富山県富山市の贈答品販売業・宮崎知子(当時34歳)は富山県八尾市で帰宅途中の女子高生3年のNさん(当時18歳)にアルバイトの斡旋と言葉巧みに誘いマイカーである日産フェアレディーZに乗せ岐阜県の山林で絞殺した。
3月5日には長野市で信用金庫の女子職員のTさん(当時20歳)を同様に言葉巧みに誘い出しフェアレディZで誘拐、Tさんの自宅に身代金3000万円を要求する脅迫電話をかけた。が、身代金の授受は無くTさんは誘拐から1ヵ月後の4月2日、長野県下の聖高原で絞殺体で発見された。
警察は富山・長野両県にまたがる連続誘拐・殺人事件として広域重要111号に指定し大掛かりな捜査を開始した。
やがて、誘拐された付近の目撃者の証言で《フェアレディに乗った大きなサングラス(トンボメガネ)の綺麗な女性》がクローズアップされた。
捜査本部が近県のフェアレディZを所有している女性を調査した結果、富山県富山市で贈答品販売店を営む宮崎知子と共同出資者の北野宏(当時28歳)を犯人と断定し3月30日逮捕した。
-動機と男のけじめ-
宮崎、北野が経営する贈答品販売業の業績は芳しくなく設立した翌年には業績不振でサラ金に頼った。借金は膨れ上がり窮地に陥った宮崎は営利誘拐を計画し2人の女性を言葉巧みに誘い犯行に及んだ。
フェアレディを乗り回す美人女性と年下の男が仕組んだ誘拐・殺人事件として報道もエスカレートしていった。当時の警察やマスコミは主犯を北野、宮崎が従犯という構図を描いた。取調べでも警察は北野に対して「男のけじめをつけて全て白状しろ」と強要。女に(宮崎)に全ての責任をなすりつけるのは男らしくないと詰め寄った。が、北野は「犯行に関しては一切感知していなかった。宮崎に言われて運転しただけ」と供述を繰り返した。一方、宮崎は真犯人は別人として容疑を一切否認した。
検察は北野が主犯、宮崎が従犯として起訴した。ところが昭和60年3月の公判で宮崎主犯、北野従犯とする冒頭陳述を行う。検察の求刑は宮崎に死刑、北野に無期懲役とした。が、富山地裁は《宮崎の単独犯行》と認定し宮崎に死刑、北野に無罪を言い渡した。続く名古屋高裁でも同様の判決で北野は無罪が確定。平成10年9月4日最高裁は宮埼の上告を棄却して宮崎に死刑が確定した。宮崎は真犯人は別に居るとして再審手続きを行っている。
日立女子中学生誘拐殺人事件
日立女子中学生誘拐殺人とは、1978年に茨城県日立市にて発生した、綿引誠(当時39歳)が妻の妹である中学3年生の辛 裕子さん(しん ひろこ、通名:辛島裕子、当時14歳)を誘拐殺害した事件である。茨城県日立市の鉄工業経営・綿引誠(当時39歳)は韓国の愛人に貢ぐため数十回にわたり訪韓を重ね1395万円の借金を抱えてしまった。そこで一獲千金を得ようと妻の養父方の娘で中学3年生の辛 裕子さん(当時14歳)を誘拐し身代金の奪取を計画した。
1978年(昭和53年)10月16日、下校途中の辛 裕子さんに声をかけ、自分の車に乗せて人通りの少なくなったところでクロロホルムを吸引させ失神させた。
更に綿引は車中で失神している辛 裕子さんに欲情を湧き姦淫をしようと局部をもてあそんだが姦淫そのものは未遂に終わった。その後、辛 裕子さんの頸部と鼻口部の圧迫で窒息死させ付近の草むらに死体を遺棄した。綿引はその一時間後、辛 裕子さん宅に関西弁訛りで身代金3000万円を要求する電話をかけた。
本事件の犯人綿引誠は、韓国で知り合ったキーセンにのめり込み、度々の渡韓を繰り返し、その関係を維持するために、多額の借金をし、その額は、事件当時1395万円にも上っていた。その返済資金や、渡韓資金を得ようとして為したのがこの犯行である。
車内で、クロロホルムを嗅がせ気を失わせたのは、テレビ番組にヒントを得たものであった。のみならず、同女を姦淫しようとしたが果たせず、頸部と鼻腔部を圧迫して死に至らしめた。
綿引は、身代金の札番号から犯行が発覚することを怖れ、韓国で別の銀行券に交換しようと考えていた。計画後、実行に到るまで5ヶ月間という用意周到さであった。
綿引は、被害者殺害後、身代金3000万円を取ろうとして僅か一時間にして身代金要求の電話を掛けている。綿引誠に前科はない。車両運送法違反による罰金刑が一度だけ。川で溺れそうになった少年を救助したことがある。
捜査本部では、辛 裕子さん宅が金融業やパチンコ店を経営する富豪で市内有数の資産家であり、身代金目的の犯行として捜査を続けていたところ、辛 裕子さんが日頃「誠兄ちゃん」と慕っていた綿引に多大な借金があることや犯行日のアリバイがはっきりしていないことなどから事情聴取し犯人と断定。身代金目的拐取、殺人などの容疑で逮捕した。
辛 裕子さんは綿引の妻の実家の娘であり親戚関係にあった。このことから、辛 裕子さんの父親は綿引に数百万円の資金援助をしており相互に親密な関係を維持していた。
また辛 裕子さんは綿引を実の兄のように慕っていた関係でもあった。そのため、辛 裕子さんの親族の心痛は多大で特に母親は事件から4年経った段階でも床に臥す状態であった。
津川雅彦の長女誘拐事件
(注:殺人事件ではありません)津川雅彦長女誘拐事件(つがわまさひこちょうじょゆうかいじけん)は、1974年に起こった誘拐事件。誘拐された女児の両親が著名な俳優(津川雅彦と朝丘雪路)であったため、注目を集めた。
1974年8月15日午前3時、東京都世田谷区の津川雅彦・朝丘雪路宅2階から長女・真由子(まゆこ・当時生後5ヶ月)が誘拐され、身代金200万円が要求される。犯人は身代金を第一勧業銀行(現:みずほ銀行)の偽名口座に振り込むことを要求、津川は警察の指示に従い当日に150万円を指定の口座に振り込む。
当初、当時のオンラインシステムから得られる情報では取引の行われたCD機を特定できなかったため、警察は第一勧業銀行の全店舗に人員を配置し、取引発生の度に捜査員がATM周辺の顧客を包囲して犯人を捜すという大掛かりな作戦が展開された。しかし、これは本件の容疑者特定にはつながらなかった。
この間、第一勧銀事務センターのSEが、突貫作業でソフトウェアを書き換え、取引CD機が特定できるようにし、第一勧銀と子会社の常陽銀行のオンラインシステムが更新された。
この結果、8月16日正午、第一勧業銀行東京駅南口出張所のCD機から2000円、続いて29万円を引き出されたことが判明。張り込みの刑事が直ちに該当する男性の身柄を確保。男性が所有していた暗証番号とカード番号が一致したことを問い詰めると犯行を自供したため、同日午後5時に逮捕された。
犯人である23歳の男性は、当初、佐川満男・伊東ゆかり夫妻の長女を誘拐する予定だったが、住所がわからなかったため、津川夫妻の長女に変更した。人質は犯人の家である千葉県我孫子市のアパートにおり、同日午後7時15分、41時間ぶりに発見され無事に保護された。
その後の捜査で、犯人は津川の家庭状況や自宅の住所・間取りなどの知識を週刊誌等で得ていたことが判明。裁判では犯人に懲役12年6ヶ月が確定した。
本事件は被害者が有名人の子供ということと、身代金の受け渡しに当時普及したばかりのCD機を利用したものだったことから世間の注目を集めた(人質だった長女は、成人後の1998年に女優としてデビューしている)。
また、当時、『東京新聞』紙面ではこの誘拐事件が「子供が産まれた事を、自分の宣伝に使ったのが悪い」とし津川の自業自得であるかのような論調の記事が大きく掲載された。なお、『東京新聞』はこの件について津川の直接抗議にも関わらず一切謝罪をせず、当時の編集長が津川に対し「私はジャーナリストとしての信念を貫いた」と反論した上、読者投稿欄で「津川の自業自得」とする投稿を多数採り上げて掲載するという行動を取った。津川はこの件も影響して現在までジャーナリズムへの不信感を抱いている。
正寿ちゃん誘拐殺人事件
-経緯-昭和44年9月10日朝、東京都渋谷区で質店経営の横溝正雄さんの長男で広尾小学校1年生の正寿ちゃん(当時6歳)が登校中、若い男に誘拐された。男は、正寿ちゃんが歩道橋を渡り降りる直前の踊場で後ろから「よう」と声をかけ、振り向いた正寿ちゃんの腹部を殴り、泣き出した正寿ちゃんを抱いて逃走した。この時、正寿ちゃんの学友2人が目撃しており、学校に連絡した。
知らせを聞いた学校では正寿ちゃんの自宅に緊急電話をする。母親の和代さんは付近を捜索したが見当たらず警察に通報。渋谷署では誘拐事件とみて横溝方に電話の逆探知を取り付けて待機した。
同日の夜遅く、犯人から横溝宅に「ガキは預かっている。500万円を用意しろ。警察に知らせると生きちゃいないぜ」と身代金を要求する脅迫電話があった。
この脅迫電話があった直後の午前0時頃、渋谷署の前を行ったり来たりする不審な人物を警邏中の警官が職務質問をした。持っていた紙袋を確認すると正寿ちゃんが履いていたと思われる片方の靴が出てきた。このため、渋谷署は男に対して厳しく追及した結果、正寿ちゃんの誘拐を自供したため、緊急逮捕した。
男は、住所不定で無職の黒岩恒雄(当時19歳)。黒岩は「正寿ちゃんが泣き止まない為、公衆便所で小刀で刺殺後、死体をカバンに入れて渋谷駅の一時預かり所に預けた」と自供した。このため、渋谷署が一時預かり所に急行、正寿ちゃんの遺体を発見した。
-犯行リスト-
黒岩は長崎県油町で出生。いじめが原因で高校を中退し家出。パチンコ店、ガソリンスタンドなど職を転々として上京した。黒岩は小さい頃から「グズ、のろまだと言われていじめられた。強くなって相手に復讐してやる」と自分をいじめた50人の名前を記載した(復讐リスト)や200人あまりの女優がリストアップされ、それぞれ人気に応じた身代金額100万円~1000万円を記載した(誘拐リスト)を作成し持ち歩いていた。
昭和47年、東京地裁は「動機は贅沢で格好が良い生活をしたいというだけで罪も無い正寿ちゃんを殺害したことは同情の余地は無い」として死刑を言い渡した。昭和53年1月、最高裁は黒岩の上告を棄却し死刑が確定した。死刑執行は昭和54年10月であった。
新潟デザイナー誘拐殺人事件
新潟デザイナー誘拐殺人事件(にいがたデザイナーゆうかいさつじんじけん)とは新潟県で発生した身代金目的の誘拐殺人事件である。なお事件名の由来は被害者の職業に由来する。また死刑囚になった犯人が獄中で自殺した事例である。営利誘拐で700万円の身代金は、日本の犯罪史上例のない高額の要求であった。
1965年(昭和40年)1月13日の午後8時半ごろ、新潟市のガソリンスタンド経営者の自宅に警察を名乗る者から、そちらの乗用車が邪魔になっているという電話が掛かってきた。この電話に出たこの家のデザイナーの三女(当時24歳)は、電話では話の要領を得ないとして自宅から300m離れた現場に向かったが、これは誘拐犯の罠であった。午後9時40分頃に、娘を預かっているから明日の朝10時までに700万円用意しろとの脅迫電話がかかってきたことから、誘拐事件と判明した。
翌14日の午前11時50分に犯人から午後1時までに国鉄新潟駅の待合室に金を持ってこいと電話してきた。そこで家族は10万円と新聞紙で札束に偽造した包みを持っていったが、そこには犯人は現れなかった。しかし新潟駅の案内所に家族宛に呼び出し電話がかかってきて、午後1時27分に発車する柏崎駅行きの越後線の列車に乗り、赤い旗のある所で金を投げろと中年の女らしい声で指示する内容であった。この手口は黒澤明監督作品の映画『天国と地獄』(1963年公開)の身代金受渡し方法と同じであった(後にYは「天国と地獄」からヒントを得て、犯行計画を立てたことを自供している。)。家族は指示とおり列車に飛び乗ったが、赤い旗があったのは新潟駅から約1km、信濃川鉄橋の新潟駅側の手前で発見したが、機会を逸して現金を投げることができなかった。
一見すると綿密な犯行計画であったが、駅の直後に赤い旗を置いたように犯人の短気な性格から逮捕されることになった。現金の受渡しに失敗した14日の午後5時27分、被害者の絞殺遺体が新潟市関屋海岸松林の中の広い道路の真中で発見された。
1月15日、司法解剖が行われ、被害者は13日の午後9時から14日の午前9時までの間に殺害されたことが判明し、身代金を受け取ろうとした時点ではすでに殺害されていたことが判明した。
現場は積雪でぬかるんでいたため、タイヤ痕、足跡数個が採取された。不審な車の目撃証言から該当車両を絞り込んでいた。当初、トヨペット、ダットサン、いすゞ、プリンスの4種類の車の情報があり、タイヤ跡、チェーンの長さ、車軸の幅から、プリンス、トヨペットの中型車と断定された。さらに1月18日に誘拐現場近くを午後8時30分頃に誘拐現場と見られる場所を車で通りかかり、若い男女が話しているのを目撃した自動車会社従業員の証言から黒色のプリンス・グロリア・デラックスに捜査範囲は絞られた。該当車両のカシミヤ・グレーのプリンス・グロリアが自動車修理工場で発見され、その工場の経営者の息子Y(当時23歳)を被疑者として逮捕した。被害者は前年8月に犯人から中古のダットサン・ブルーバードを購入していた。
Yは当時新潟大学付属病院に入院しており、言語障害と半身不随を装い筆談で取り調べに応じていたが、逮捕から2日目の21日に、被害者を新潟市立寄居中学校前で車に乗せ、13日に絞殺し、14日朝、死体遺棄を行ったことを自供した。検査の結果異常がなく、逮捕から4日目の23日午後3時30分より、口頭で自供を始め、単独犯行を認めた。犯行動機には、前年の新潟地震で工場が大きな被害を受け、父親が病気のため経営不振となったことから金目当てで犯行に及んだこと、助手席に乗せた被害者を絞殺したことなどを自供した。
1月25日、Yが犯行のときに使ったゴム長靴が西蒲原郡黒崎村の国道8号脇の田んぼで発見された。
元俳優による幼児誘拐殺人事件
-経緯-昭和39年12月21日午前11時55分頃、宮城県仙台市で菅原光太郎さん(当時40歳)が経営する会社に男の声で「白百合幼稚園の者だが、智行君に伝えて欲しい。じつは幼稚園のエミール神父が急に渡米することになったので、休み中だが一緒に記念写真を撮りたいので幼稚園の庭まで来てほしい」と電話があった。この電話を受けた女性社員は会社から菅原さんの自宅に出向き、電話の内容を伝えた。
智行ちゃんは(当時6歳)、菅原家の三男で自宅から200メートル程の距離にある白百合幼稚園に通っていた。この日は、幼稚園は休みであったが、家人は電話の内容を信じて智行ちゃんを見送った。
だが、午後5時になっても智行ちゃんが帰ってこないことに不安を抱いた母親が白百合幼稚園に電話連絡すると、幼稚園からはそのような事実はなく偽電話であったことが判明した。午後5時10分、母親は仙台北署東3番丁派出所に届け出た。
仙台北署は、誘拐事件とみて直ちに非常配備体制を整え約300人の警官が市内の要所、要所で検問を始めた。捜査班は菅原宅に待機し犯人からの電話を待った。
午後5時40分、犯人からの電話があった。母親がでると「500万円を持って市立病院からまっすぐに河北新報社まで進め。目印に白いマフラーをかけ、左手に新聞紙を持って歩いてくれ」と男の声で身代金の要求をしてきた。捜査班は、身代金の引渡し場所を特定してこなかったことから、すれ違いざまに金を強奪したあと逃走するものとみて、警察官の配備を一層強化するよう指示をした。
午後8時10分、犯人から3回目の電話があった。「まだ出かけないのか」という短い内容であったが、母親は捜査班の指示通り犯人のやりとりを引き延ばし逆探知の時間を稼いだ。その結果、犯人がかけてきた電話は菅原家から僅か700メートルの至近距離にある電話ボックスであることが判明した。
警察は、この電話ボックスを中心に955人の警察官を周囲に配置し検挙体制に入った。午後8時30分、母親は20万円を新聞紙に包んで江北新報社から仙台電報局にかけて歩いた。その時、前方から歩道を足早に歩いてきた男が母親と行きかう瞬間、母親が手に持っていた新聞紙の包を強奪し逃走した。その瞬間、周囲を張り込んでいた警察官が男を取り抑さえ現行犯逮捕した。
男は、「幼稚園の前で智行ちゃんが来るのをレンタカーで待ち伏せして誘拐した。車中で泣き叫ぶ智行ちゃんが邪魔になり首を絞めて殺害し、自宅の物置に遺棄した」と自供した。智行ちゃんを殺害してから身代金の要求をしていたことが判った両親は我が子の不憫に泣き崩れた。
-元俳優の光と暗闇-
犯人は元俳優で車興吉(当時29歳)であった。車は天津七三郎という芸名で新東宝の二枚目俳優として昭和31年にデビュー。その後、松竹に移籍して松方弘樹の父親である近衛十四郎や田村高広、岩下志麻など大物俳優と共演したこともあった。だが、絶頂期もここまでで次第に仕事がなくなり転落していった。
車は、実家がある仙台に戻り母親と身重の妻と3人暮らしで新たな人生のスタートをきった。だが、一時であれ銀幕の華々しい日々が脳裏に焼きつき、知人から借金しては派手な生活を続けた。更に借金を重ねて会社(ブローカ)を設立したが、僅か3ヶ月で倒産。車の借金は更に増えつづけていった。
そこで車は、裕福な家庭の幼児を誘拐し一獲千金を得ようと計画した。以前、ブローカの仕事で菅原さんの会社を訪問した際、地元では大変な資産家であり事業が順調である菅原家を思い出した車は、菅原さんの子供を誘拐することを計画したのだった。
検察は車を殺人、死体遺棄、営利誘拐で起訴した。この営利誘拐罪は前年の「吉展ちゃん誘拐事件」を教訓として、罰則を強化するため刑法を一部改正して立法化したもので、東北地方では初の適用だった。
昭和40年4月5日、仙台地裁は車に罪一等を減じ無期懲役を言い渡した。裁判長は車の改悛の情を酌量したのだが、これに対して検察側は控訴した。二審の仙台高裁は一審の無期懲役を破棄して車に死刑判決を言い渡した。昭和43年7月最高裁は車の上告を棄却して死刑が確定した。昭和49年7月、仙台拘置所で死刑執行となった。
狭山事件
1963年(昭和38年)5月1日、埼玉県の静かな田園都市狭山市で国を揺り動かす大事件が起きました。当時高校1年生の 中田善枝さんが下校途中行方不明となり、その夕刻20万円を要求する脅迫状が届けられたのです。この日はまた善枝さんの 16歳の誕生日でもありました。警察は誘拐事件と断定し、翌2日夜、身代金受け渡し場所に40人の警察官を配備し ますが、目と鼻の先にいた犯人を取り逃がしてしまいます。3日大掛かりな山狩り捜査を開始、4日農道に埋められている 善枝さんの無惨な死体が発見されます。昭和38年は東京オリンピックを翌年に控え日本が敗戦国から脱却し先進国に肩を並べようとする高度経済成長期(池田内閣) でした。しかし、日向があれば日影もあり、同年3月には戦後最大の誘拐事件といわれた「吉展ちゃん事件」もおきていました。 対外的なイメージダウンや警察能力に対する不満・・・。狭山での誘拐犯人取り逃がしには国中から批判の声が上がりました。 死体が発見された4日には警察庁長官辞表提出(10日辞任)。遺体が発見されて2日後の5月6日、中田家元作男が謎の自殺 を遂げます。その報告を受けた篠田弘作国家公安委員長は「こんな悪質な犯人はなんとしても生きたままフンづかまえてやらねば・・」と 歯ぎしりをした(埼玉新聞5/7)ことに、主題は真犯人逮捕ということから世論の攻撃をいかにかわすかということに移項していったことが伺えます。 すなわち「犯人逮捕」はいわば警察のメンツのみならず国家の威信をかけた至上命令となりました。
埼玉県警は165名からなる特別捜査本部を発足させますが捜査は難航します。警察は被差別部落の青年に的を絞った特命捜査班を組織して狭山の被差別部落(菅原四丁目)に対する 見込み捜査を開始し、同月23日、石川一雄さん(24歳)を軽微な罪状による、いわゆる「別件」によって逮捕します。当時の被差別部落に対する偏見と差別の実態が、事件を報道した東京新聞の見出しに露出しています。
「犯罪の温床―善枝さん殺しの背景―」「善枝さんの死体が四丁目に近い麦畑で見つかったとき、狭山の人たちは異口同音に『 犯人はあの区域だ』と断言した」
「石川一雄が犯人だという確信はあるか?」との記者の質問に、竹内武雄副本部長(狭山警察署長)は「これ(石川さん)が白くなったら、もうあとにロクな手持ちはない」 と苦渋を滲ませました。この発言は、他に犯人として逮捕すべき人間がいないから石川さんを逮捕したという 消去法的・間に合わせ的逮捕であったことを如実に物語っています。狭山事件は差別という悲しい側面とともに、指紋など決定的な物的証拠のないことや当時の警察の能力など・・極めて難しい面をあわせもっていたこともまた否定できません。
石川さんが逮捕されたときの新聞の見出しに「表から出して裏から入れた」とあった。 「別件」逮捕をわかりやすくするために、当時の新聞はそういう表現をしたのではないか。別件の小さな盗みで令状を とって、石川さんを逮捕し、二十三日間を利用して、石川さんを自白させようとした。(「部落解放研究第37回全国集会報告書」p.90・庭山英雄)
6月17日本件(強盗、強姦、殺人、死体遺棄)で再逮捕。石川一雄さんは警察と検察による非合法かつ徹底した暴力的取り調べに執拗に晒されます。「罪を認めなければ一家の稼ぎ手である兄を逮捕するぞ」などといった脅しを受け 「10年で出してやるから・・男の約束だ」という口約束を信じ込まされて、ついには嘘の自白を強要させられます。7月9日浦和地方裁判所に 起訴。1審で石川さんは口約束を信じて犯行を「認め」ます。一審判決は死刑。収監中、石川さんは自分が騙されていたことに気づき、二審冒頭で「お手数をかけて申しわけないが、私は殺っていません。」と真実の叫びを挙げ、犯行を全面否認。以来 当然の事実である「無実」を訴え、司法のありかたをも問い続けます。1974年10月31日 東京高裁は「石川一雄さん無罪」を訴え盛り上がる世論と司法の体面維持のバランスをとるために「無期懲役」の判決を下します(寺尾判決)。弁護団は新証拠をあげて上告、異議申立て、再審請求を提出しますがことごとく 門前払いとなり今に至っています。
石川一雄さんは1994年12月21日に仮出獄となり、31年7ヶ月ぶりに故郷狭山の土を踏みました。老体と病身に鞭打ちながら獄中の息子の無実を訴え続けたご両親はすでに亡くなっていました。
「冤罪の受刑生活解かれども 故郷に立ちてわれは浦島」
(石川一雄)
石川一雄さんには決して妥協できない「こだわり」があります・・・それは、「(無実の)見えない手錠」を架けられたままご両親の墓参は出来ないという悲しみの決意です。
その後、支援者であった早智子さんと結婚しました。今日も夫婦二人三脚で全国を行脚し、冤罪狭山事件を訴え続けておられます。
出典:???R????
吉展ちゃん誘拐殺人事件
吉展ちゃん誘拐殺人事件(よしのぶちゃんゆうかいさつじんじけん)とは、1963年3月31日に東京都台東区入谷(現在の松が谷)で起きた男児誘拐殺人事件。吉展ちゃん事件とも呼ぶ。日本で初めて報道協定が結ばれた事件であり、この事件から、被害者やその家族に対しての被害拡大防止およびプライバシー保護の観点から、誘拐事件の際には報道協定を結ぶ慣例が生まれた。また報道協定解除後の公開捜査において、テレビを本格的に取り入れ、テレビやラジオで犯人からの電話を公開し情報提供を求めるなど、メディアを用いて国民的関心を集めた初めての事件でもあった。
犯人が身代金奪取に成功したこと、迷宮入り寸前になっていたこと、事件解明まで2年3ヶ月を要したこと、犯人の声をメディアに公開したことによって国民的関心事になったため、当時は「戦後最大の誘拐事件」といわれた。
捜査は長引き、犯人を逮捕するまで2年の歳月を要した。捜査が長引いた理由には次のようなものがある。
●人質は事件発生後すぐに殺害されていたが、警察はそれを知らなかった。
●警察は人質が殺害されることを恐れ、報道各社と報道協定を結んだ。
●当時はまだ営利目的の誘拐が少なく、警察に誘拐事件を解決するためのノウハウがなかった。
●身代金の紙幣のナンバーを控えなかった。
●犯人からの電話について逆探知をしていなかった。
●当初、脅迫電話の声の主を「40歳から55歳くらい」と推定して公開し、犯人像を誤って誘導することになった。
結局は、マスコミを通じて情報提供を依頼する。事件発生から2年が経過した1965年3月11日、警察は捜査本部を解散し、「FBI方式」と呼ばれる専従者を充てる方式に切り替えた。
有力な手がかりとされた脅迫電話の録音テープについて、当初警察庁科学警察研究所の技官鈴木隆雄に録音の声紋鑑定依頼をしたが、当時は技術が確立されていなかった。しかしその後、東京外国語大学の秋山和儀に依頼した鑑定で、「犯人からの電話の声が時計修理工の小原保(1933年1月26日 - 1971年12月23日、事件当時30歳)とよく似ている」とされたことに加え、刑事の地道な捜査により小原のアリバイに不明確な点があることを理由に参考人として事情聴取が行われる。
それまでにも、小原は容疑者の一人として捜査線上に上がっていた。小原は、1963年8月、賽銭泥棒で懲役1年6月(執行猶予4年)の判決を受けたが、執行猶予中の同年12月に工事現場からカメラを盗み、1964年4月に懲役2年の刑が確定。前橋刑務所に収容されていた。
警察は、上記の窃盗容疑での拘留中の小原に対し、取り調べを幾度か行ったが、次の理由から決め手を欠いていた。
●小原は1963年3月27日から4月3日まで福島県に帰省していたと主張していたが、そのアリバイを覆せる証拠がなかった。
●事件直後に大金(20万円)を愛人に渡しているが、金額が身代金の額と合わない。
●脅迫電話の声と小原の声質は似ているが、使用している言葉が違うので同一人物と断定できない。
●ウソ発見器での検査結果は「シロ」であった。
●足が不自由であることから、身代金受け渡し現場から素早く逃げられない。
小原には、誘拐発生の1963年3月31日と最初の脅迫電話があった同年4月2日の両日、郷里の福島県内で複数の目撃者が存在していたが、刑事の平塚八兵衛らは徹底的なアリバイの洗い直しを実施した。3月31日の目撃者は雑貨商を営む老婆で、親戚の男性から、野宿をしている男を追っ払ったという話を聞いた翌日に、足の不自由な男が千鳥橋を歩いているところを目撃したという。裏付け捜査により、この男性はワラボッチ(防寒と飾りを兼ねて植物にかぶせる藁囲い)で野宿している男を追っ払った後、駐在所に不審者について報告し、放火されることを防ぐためその日の夕方にワラボッチを片付けた。その日付は、駐在所の記録で3月29日であることが判明。つまり、小原が老婆に目撃されたのは、その翌日の3月30日であることが分かった。
一方、4月2日の目撃者は、この男性の母親。十二指腸潰瘍を患っていた孫(この男性の長男)が、一時中断していた通院を再開した日に小原を目撃したという。裏付け捜査により、この孫は2月2日から3月8日まで通院。その後、3月28日と4月2日にも通院しているという記録が残っていた。しかし、当日の孫の腹痛は、前夜の節供での草餅の食べ過ぎが原因と判明。節供とは上巳の節供のことで、この土地では旧暦で祝っていた。その年の旧暦3月3日は3月27日。したがって、病院に運ばれた日(目撃された日)は、その翌日の3月28日ということになる。さらに、小原は、3月29日に実家に借金の申し入れをしに行ったものの、何年も帰省していない気まずさから、実家の蔵へ落とし鍵を開けて忍び込み、米の凍餅(しみもち)を食って一夜を明かしたと供述しているが、小原の兄嫁によると、当時は落とし鍵ではなく既に南京錠に替えられていたことが分かった。また、その年は米の不作により米の凍餅は作らなかった(芋餅を作った)ことも分かった。また足が不自由であり身代金受け渡し現場から素早く逃げられない問題については、アリバイ崩しの過程で実際には身のこなしは敏捷であることが判明した。
大金の金額については、脅迫電話テープの公開直後に(身代金から愛人に渡した残りの金額に相当する)「30枚ほどの一万円札を持っているのを見た」という情報が実弟を名乗る人物からもたらされていたことや、身代金が犯人に奪われた直後の一週間で小原がほとんど収入がないのに42万円もの金額を支出していたことが明らかになった。
小原は前橋刑務所から東京拘置所に移管されたが、別件取調べは人権侵害であるという人権保護団体からの抗議もあり、聴取は10日間に限定された。小原は黙秘を続けたのちに1963年4月に得た大金の出所を「時計の密輸話を持ちかけた人物から横領した」と述べたが、その人物の具体的な情報は話さなかった。その点を問い詰められて、4日目に金の出所についてのそれまでの供述が嘘であることを認めたものの、それ以後は再び黙秘したりする状況が続いた。平塚ら取り調べの刑事たちは、金の出所以外の供述にも嘘があるのではないかと何度も問いただし、さらにはアリバイを崩す捜査の過程で福島県に住む小原の母親に会った際、「もし息子が人として誤ったことをしたなら、どうか真人間になるように言って下さい」と言いながら母親が土下座をしたエピソードを、平塚自らが再現して小原に伝えたりもした。しかし、事件との関係は否定し続けたまま拘留期限を迎えることになった。
小原は前橋刑務所へ戻されることになったが、最後の手段としてFBIで声紋鑑定をすることになり、音声の採取のため、1965年7月3日に取調べ室に呼ばれた。これについて、当初刑事たちはあくまで「雑談」だけをするよう命じられていた。しかし平塚たちは直属上司の許可を得て、福島で調べてきたアリバイの矛盾を初めて直接小原に伝えた。追い込まれた小原はついに、それまでの「東京に戻ったのは4月3日である」という自身の主張が事実とは異なり、4月2日には東京にいたことを「日暮里大火を山手線か何かの電車から見た」と述べる形で認めた。この火災の発生は、1963年4月2日の午後。最初の脅迫電話が掛かってきた時、テレビのニュースでこの火災のことを報じていたのを、被害者の祖母が覚えていた。それでも小原は1963年4月に持っていた金は事件と無関係と言い張ったが、平塚らは「これだけ材料を突きつけられてまだ逃れられると思っているのか」と小原を追い詰め、それからほどなくして小原は金が吉展ちゃん事件と関係のあるものだと供述した。翌7月4日に警視庁に移された小原は、営利誘拐・恐喝罪で逮捕され、その後の取り調べで全面的に犯行を自供した。
小原は映画「天国と地獄」の予告編を観たことで犯行を計画したと述べた。被害者が身奇麗だったことから金持ちの子と考え、被害者が持っていた水鉄砲を褒める形で誘拐したが、被害者に足が不自由だと悟られたことから、誘拐直後に殺害していたことが小原の供述から分かった。小原によると、被害者を親に返せば足が不自由なことから自分が犯人と特定されると考えたため殺害に及んだという。身代金の脅迫電話を掛けた1963年4月2日には、既に被害者は殺害された後であった。被害者は1965年7月5日未明、小原の供述から三ノ輪橋近くの円通寺(荒川区南千住)の墓地から遺体で発見され、秘密の暴露となった。
雅樹ちゃん誘拐殺人事件
-経緯-昭和35年5月16日、東京都・世田谷区で慶応幼稚舎2年・尾関雅樹ちゃん(当時7歳)が登校途中に誘拐された。雅樹ちゃんは、銀座のカバン店会社社長・尾関進さんの長男で裕福な家庭だった。
世田谷の尾関家には、犯人から身代金300万円を要求する電話が度々あったが警察は犯人に翻弄されて空周りした。
誘拐から三日後の19日、杉並区・高井戸の路上に乗り捨ててあった自家用車から、雅樹ちゃんの死体が発見された。司法解剖の結果、ガスによる毒殺であった。
-意外な犯人-
当局が、この自家用車の持ち主を調べると尾関家と交際のあった歯科医の本山茂久(当時32歳)であることが判明した。そこで捜査班が本山の自宅(世田谷区・上荻窪)に急行したが、既に本山は逃走していた。
全国規模で本山を指名手配した結果、7月17日大阪市の工場で住込み従業員として働いていた本山を逮捕した。本山は妻との離婚慰謝料やその他借金に困り、雅樹ちゃんを誘拐殺害したことを自供した。昭和42年5月25日最高裁は本山に死刑を言い渡した。
トニー谷の長男誘拐事件
注:殺人事件ではありません1955年7月15日午後、人気タレント・トニー谷の長男で小学1年の正美ちゃん(当時6歳)が誘拐された。その後、犯人から身代金を要求する脅迫状や電話が届く。
21日、身代金を受け取りに来た雑誌編集者・宮坂忠彦(当時33歳)はあっさり逮捕され、正美ちゃんも長野の宮坂宅で無事救出された。
トニー谷はお笑いの世界で、当時人気を博していたボードビリアンだった。ソロバンを片手に「あなたのお名前なんてぇの?」と、独特の喋りで一躍人気者となった彼はまさにTV時代の幕開けとなった頃の代表的な1人だった。
※ボードビル・・・・歌と対話を交互に入れた通俗的な喜劇・舞踊・曲芸など。また、それらを取りまぜて演じる寄席の芸。
1955年7月15日午後、そんなトニーの長男で小学1年の正美ちゃん(当時6歳)が、大田区新井宿の小学校からの下校途中、誘拐された。同級生の目撃証言によると、連れ去ったのは黒い服を着た中年の男だったという。
16日午後、「身代金200万円を出せば正美ちゃんを返す」という脅迫状が速達で届いた。この脅迫状は武蔵野市吉祥寺の郵便局から出されており、その近辺を捜査したが、めぼしい手がかりは得られなかった。
当時は報道協定というものもなく、大スターの子息が誘拐されたという事件は一斉に報じられた。
トニー谷は記者会見の席で「正美よ、早く帰ってきておくれ」と呼びかけ、ラジオ放送でも「犯人はこの放送を聞いているだろうか。できるだけのことはするから正美を返してください」と犯人に訴えた。
トニー邸にはマスコミや野次馬などが集まり、心無いイタズラ電話も届くようになった。トニーは心労で寝たきりとなったという。
事件から6日が過ぎ、トニー谷邸にイタズラ電話が殺到していた21日午後8時半頃、「俺は正美ちゃんを拝借中の原靖夫だ。200万円はできたか」という電話が入った。トニーは、この電話をホンモノの犯人からだと直感した。
犯人が身代金の受け渡し場所を渋谷東宝映画劇場前に指定すると、トニ-は「俺が行く」と言って髭まで落として変装したが、警視庁捜査1課の刑事が家人に扮して犯人を待つことになった。
夜10時ごろ、受け渡し場所に「トニー谷か」と声をかけてくる男がきた。刑事はまず近くの水屋に連れこみ、「正美ちゃんを預かっているという証拠を見せろ」と言うと、男は手にした風呂敷包みのなかからランドセル、草履袋、教科書などを出して見せた。
「取引はホームで」
真犯人に間違いないと見た刑事は、付近を連れ歩いて共犯がいないことを確認してからハチ公銅像前で逮捕した。
男は長野県更級郡上山田町の雑誌編集者・宮坂忠彦(当時33歳)。地元で「信州業界」という雑誌発行を計画していたが、資金がなく、アメリカで起こったリンドバーグ事件にヒントを得て誘拐を企てたのだった。
宮坂は正美ちゃんを連れ出した後、長野の自宅に直行し、自分の息子と遊ばせていた。 正美ちゃんはまもなく、宮坂宅で寝ていたところを救助された。
出典:トニー谷長男誘拐事件
大治君誘拐殺人事件
1952年(昭和27年)2月12日、宮城県小牛田町で、高校校長の次男(当時21歳)が、大学入学費欲しさから小学1年の吉田大治ちゃん(6歳)を誘拐し殺害した。3月2日、大治ちゃんが小学校裏通りに絞殺体となって発見された。3月5日、逮捕。懲役15年の判決が下った。
出典:戦後の主な誘拐殺人事件
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