犯人は全て女性!「日本3大銀行横領事件」とは
金融機関で奇妙な事件が連発します。 いづれもベテラン女子行員が男に貢ぐために、男を繋ぎとめておくために起こした事件だということです。男子行員の犯罪も多いのですが、 女子行員の詐欺に強い関心が向くのは、一般に女子行員は真面目で働き者というイメージがあり、ベテランともなれば何であの人が・・・と絶句させられる、 その上に背後にいる男の影、男の言いなりになる女というものでしょう。しかし、バブルに向っていく中で、 この手の犯罪が完全に影を潜めるのは、セキュリティの問題もあるでしょうが、男に貢ぐ女という構造が、ここでほぼ消えて強い女が前面に出てくる時代を迎えるからでしょう。
滋賀銀行9億円横領事件
1973年10月21日、滋賀銀行山科支店のベテラン行員・奥村彰子(当時42歳)が横領の容疑で逮捕された。奥村は同年2月までの6年間で、およそ1300回にわたって史上空前の9億円の金を着服、ほとんどを10歳年下の元タクシー運転手・山県元次(当時32歳)に貢いでいた。奥村は1930年12月に大阪府北河内郡で生まれた。3人姉妹の末っ子である。一家はその後、京都市左京区に移り、奥村は48年3月に市立堀川高女を卒業した。この頃、学制改革があり、奥村は高等学校3年に編入したが、7月で退学している。これは、父親が愛人をつくって家を出ていったことで男性不信になった母親が男女共学に反対したからである。
そしてその年の12月、奥村は滋賀銀行京都支店に入行した。「男の人には負けたくない」と熱心に仕事にとりくんだという。一方、恋愛の方はと言うと、男性嫌いの母親のこともあってか、縁談などもなかなかまとまらなかった。
1965年春、北野支店で勤務していた奥村は35歳になっていたが、この頃山県元治(当時25歳)と出会っている。
当時、奥村は付き合っていた男性とケンカをして沈んでおり、職場の懇談会のあとタクシーで拾ったのだが、酔っていたこともあって涙を流した。この時、「どうされたのですか」と優しく尋ねてきたこの若い運転手が山県だったのである。2人は話しこみ、奥村の方から「酔って帰ったら母がうるさいからドライブしよう」と誘った。
30分ほど京都市内を走ったところで奥村はタクシーを降りたが、別れ際に「××銀行の奥村彰子です」と嘘の銀行の名を言って去った。優しく語りかけてくれる山県は魅力的にうつり、「また会いたい」と思ったが、自分に自信がないことからの嘘だったのだろう。
奥村はこの後、山科支店へ転勤となる。職務は普通預金係だった。
66年春、奥村は帰宅途中のバスのなかで、突然「あの時の彰子さんではないですか」と山県に声をかけられた。奥村はすっかり彼のことを忘れていたが、声の調子で思い出したという。山県は琵琶湖競艇の帰りで、負けてきたとのことだった。山県は奥村をお茶に誘い、京阪三条南口の喫茶店で話しこんだ。
山県の話によると、小遣いがたくさんあるのでギャンブルで負けても平気とのことで、兄は下関で大きな商売をやっているということだった。山県の話は景気がよくておもしろく、奥村は夢中になりつつあった。定期預金の大募集期間だったこともあって、奥村は「私の銀行に貯金をして欲しい」と頼んだ。
奥村はこの日以後、数回山県に電話をしてみたが、その都度断られた。山県にしてみれば、「年上の、あんなきれいな人が電話をくれるなんて、きっとからかわれているだけだ」と思っていたのだが、そうした態度に奥村はさらに積極的になっていった。固いだけの同僚とは全然違う。2人は数回の食事を経て付き合うようになった。
山県は1940年、朝鮮で生まれた。七男五女の五男坊で、父親は警察官をしていた。
中学卒業後、豊浦高校に受験失敗。ガラス店で住みこみで働きながら、定時制の商業高校に通い始めるが、この頃友人に誘われて競艇をするようになった。
一方で山県には歌手になるという夢があり、鼻を整形手術して、歌声喫茶で歌ったりしていた。おしゃれで、当然女性にもよくモテた。
ガラス店に6年勤めた後、山県は独立。陶器店を開いたが、競艇ですぐに店をつぶしタクシーの運転手になった。この後、会社を転々と移っている。売上金の納金をごまかすからである。奥村とバスのなかで再会したのは何社目かをクビになった頃だった。
「ボート(競艇)をやる金がいる」
山県がこう言ったのは付き合ってまもなくのことである。当初は5000円、1万円ほど貸していた。その金がたとえ返ってこなくても、奥村はよかった。しかし、要求は何度も続き、ついには自分や家族の貯金を切り崩すほどになっていた。山県はその金で中古のコロナを購入している。奥村はそんな山県に対して愛想を尽かすということはなかった。奥村にとって山県はもはや「最後のチャンス」と言ってもいい男だった。そして、この年下の男をつなぎとめておくだけの金が必要だった。
秋頃、奥村は普通預金係から定期・通知預金係に異動となる。
この頃、奥村はバス会社を定年退職したKさんという男性と知り合った。Kさんは奥村に露骨に好意を示しており、奥村が預金勧誘用のパンフレットを見せると、Kさんは早速定期預金の100万円の小切手を届けてきた。奥村が定期の証書と印鑑を渡そうとしたが、Kさんは受け取らず預けたままとした。
そんな話を奥村がデート中に山県に言うと、山県は「100万か。その金なんとかならんか。穴埋めは必ずする。アッちゃん頼むよ」と食いついてきた。奥村はこの時ばかりは「人のお金に手をつけることはできん」ときっぱり断った。
「いい車がある。買いたいんや。Kさんの金、なんとかならんか。必ず返すし、ちょっと貸してくれ。40万円でええから」
滋賀県の近江八幡市へドライブに行った時、立ち寄った中古車センターで山県はそうねだってきた。奥村は「NO」と言えず、ついに11月8日、奥村はKさんの定期を偽造証書で中途解約し、100万円を引き出した。
Kさんの定期は6ヶ月だったが、山県は借りた金を返すそぶりは全然見せなかった。さすがに焦った奥村は催促するが、「競艇で一発当てて返したる」とはぐらかした。
同年暮れ、Kさんは銀行を訪れて、奥村に70万の小切手を預けた。またも証書などは預けたままだった。奥村はKさんに気のある素振りを見せ、その後もせっせと預金をしてもらった。
翌67年5月、奥村、Kさんと肉体関係を持つ。定期を途中解約されては困るという理由からである。山県はそのことを聞かされて、ムッとしたが「やめろ」とは言わなかった。結局、Kさんは計1240万円の金を奥村に預け、それらはすべて山県へと流れることになった。
1968年1月、相変わらず山県の要求は続いていた
仕事始めの日、山県は銀行に電話をかけてきて20万円を要求。この頃にはすでにKさんのお金も底をついており、要求分を捻出するところなどどこにもなかった。
困り果てた奥村は銀行の金に手をつけようかと迷い始める。そんな時、自分の預かっていた定期預金元票から20万円1年定期を見つけ、ついに預金証書を偽造した。あとは支店長とその代理の職印が必要だったが、油紙を使って転写、20万円をだましとった。
1度タブーを犯すと罪の意識も薄れたのか、奥村は犯行を重ねた。その手口も次第に大胆になっていく。定期の中途解約では追いつかなくなり、架空名義を作り上げて100万単位で引き出し始めた。
1972年10月には定期・通知預金事務決済者を任されるが、このことも拍車をかけることとなった。
1973年2月1日、山科支店から東山支店に移ることになった。
「ついにバレる」
突然のことに動転した奥村に、下関にいた山県は電話で「睡眠薬を用意しとけ」と言った。奥村は心中を覚悟したという。ところが、8日に京都にやってきた山県は奥村に会うなり、金の催促をした。
「一緒に逃げて。一緒に死んで。私死ぬ」
奥村は何度もそう言ったが、山県は聞かず、300万円を持って下関へ帰ってしまった。
2月11日と13日、奥村は2度も下関へ出向き、山県に「かくまって欲しい」と哀願したが、断られる。奥村は一旦自宅に戻り、姿を消した。
その頃、山科支店では大騒動になった。億を超す巨額金が失踪した奥村によって詐取されていることがわかったからである。
2月19日、逮捕状が出され、奥村は全国に指名手配された。
当時、下関の山県は奥村の男友達としてマスコミから注目を浴びていた。定職もないのに、外車、モーターボートを数台づつ持ち、さらには豪邸に住み、ギャンブル遊びでは1000万円すった翌日、再び1000万をつぎこんだりしていた。おまけに山県の兄や母親たちも突然羽振りが良くなっており、どう考えてもおかしかった。
10月15日、山県はついにぞう物収受容疑で逮捕される。あっさりと奥村の所在も供述した。
10月21日、滋賀県警は偽名を使って大阪のアパートに潜伏していた奥村を逮捕。指名手配写真は薄化粧の地味な雰囲気の女性だったのだが、この時の奥村は派手な洋服と厚化粧で別人に見えたという。
結局、被害額は4億8000万円と見られていたが、2人の供述から7億を越していることがわかり、その後の裁判所の認定では8億9400万円にものぼっている。奥村はその途方もない金額を1300回にわたって引き出していた。
また山県は1970年5月に別の女性と結婚し、長女をもうけていることもわかった。彼女がせっせと「恋人」のために金を引き出している間のことである。
出典:滋賀銀行9億円横領事件
足利銀行詐欺横領事件
昭和50年7月20日、足利銀行栃木支店の貸付係・大竹章子(当時23歳)が架空の預金証書を使って2億1000万円を引き出していたことが発覚、栃木署は大谷を詐欺および横領容疑で逮捕した。また、横領していた金を貢いでいた相手の石村こと阿部誠行(当時25歳)を同容疑で全国指名手配した。大竹は2年前の昭和48年夏、友人と東北旅行した際、車中で「国際秘密警察員・石村」と名乗る阿部と知り合った。大竹は《世界中を駆け回り国家のために活動している》阿部に興味と憧れを抱いた。これを見抜いた阿部は、大竹に結婚話で近づき「国際秘密警察を抜けるため」借金を要求した。
これに対して大竹は自分の預金や家族から借金した金を阿部に渡した。味をしめた阿部は益々要求金額をエスカレートさせていった。思い悩んだ大竹は、銀行の金に手をつけるようになった。その手口は幼稚で、融資調査役の検印を隙を見て白地の手形・伝票(複写分含む)に捺して自宅に持ち帰り、自ら金額・定期預金名を書き込み、職場が忙しい時を狙って現金化するというものであった。
大竹は定期預金を担保に貸付する部門を担当。4年間の在職中、勤務態度も良好で真面目な大竹は上司や同僚からの信頼も厚く、このことが犯行の発覚の遅れとなった。一方、阿部は大竹から貢がせた2億1000万円で競馬情報会社やクラブを経営し愛人と派手な生活をおくっていた。
-発覚-
横領が発覚したのは、「本店の抜打ち審査」であった。本店の監査人が栃木支店の帳簿を監査したところ次々と不審な担保貸付けの伝票が出てきた。そこで、貸付係の責任者や大竹をはじめ関係者に事情を確認した結果、大竹の犯行が発覚し警察に届け出た。
これを知った阿部は愛人と逃亡した。が、警察は9月17日に金沢で阿部の愛人を逮捕。翌18日、東京・五反田で阿部を逮捕した。大竹は、阿部に関して本名・住所・職業など一切知らなかった。捜査段階で東京・世田谷に住居する自称・会社社長の阿部であることを初めて知るという始末だった。裁判では、阿部に詐欺・有価証券偽造・同行使罪で懲役8年。大竹には懲役3年6ヶ月の実刑が確定した。
三和銀行詐欺横領事件
現在に機軸を置くとすれば、これほど“時代”を感じさせる女性犯罪者はいない。「三和銀行オンライン詐欺事件」の伊藤素子である。昭和56年(1981年)3月25日、三和銀行(当時)大阪茨木支店において1億8,000万円の架空入金が発覚する。入金オンライン操作をしたのは預貯金係の伊藤素子(当時32歳)。伊藤は当日午前「歯医者に行く」と言い残し銀行から外出、そのまま帰ってくることがなかった。だが当初、上司たちは伊藤が関与したとは思ってもいなかったという。14年間、真面目に働いてきた伊藤は周囲からの信頼が厚かった。だが、端末機や伝票記録を調べたところ、架空入金をしたのは姿を消した伊藤だった。
その後、伊藤は1億8,000万円のうち現金5,000万円を引き出しマニラへ逃亡したことが判明、さらに犯行は伊藤の単独ではなく、それを指示した恋人の南敏之(当時35歳)の存在も明らかになっていく。
当時マスコミは、連日この事件を大々的に報じていった。それは1億8,000万円という金額だけにあったわけではない。美貌のベテラン行員伊藤素子の“存在”と“犯行の背景”があまりにセンセーショナルだったからだ。ワイドショーをはじめとするマスコミは「美人銀行員のカネと男」などと一斉にこの事件を大きく取り上げていく。
伊藤は昭和23年11月18日京都で生まれた。高校教師の父、茶道や華道を教える母、兄1人、姉3人の末っ子である。幼少期は友人も少なくひとり本を読むことが好きな文学少女だったという。性的にも極端にオクテな女子だった。男の教師が近くにくるだけで、体が震えたり緊張するといった具合に。
地元の商業高校に入学してからも、その性格はあまり変らなかった。休日はクラシック音楽を好み、当時流行していたビートルズなどは敬遠していたという。だが実生活がオクテだからこそ、夢想する理想は高かった。当時の日記に伊藤はこう書きつづっている。「理想の男性は目がきれいで背が高く、星の王子様みたいな人」と。かなりのロマンティストであり面食いでもある。昭和42年、伊藤は三和銀行に就職し茨城支店に配属された。
昭和42年といえば、時代は高度成長期の真っ只中である。ベトナム特需で日本がGNPで3位になり、ツイッギー来日でミニスカートブームが到来、ゴーゴーバーなど若者文化も華やかなる時代だ。また学生運動も盛んで、ウーマンリブ運動も萌芽を現したこの頃、しかし伊藤はそうした世流とは無縁だった。
男性とデートをしたりするよりも、女性同士でピクニックに行く方が楽しいという性格で、高校時代には恋愛経験もなかった。そもそも就職にしても、伊藤自身「なんとなく銀行は好きではなかった」と気乗りしなかったようだが、教師の強い勧めもあり「先生の善意を感じて断れなかった」結果だった。
自分の希望というより、世間体や周囲に流される――。これは伊藤というより、当時の時代、女性にある程度共通する意識だったのかもしれない。だが銀行は伊藤にとって適職だった。就職後、伊藤は小遣い帳を購入し、1円単位でも正確に書き込んでいった。お金はなるべく使わず趣味は貯金。金銭に対する細かさは家族に対しても例外ではなかった。「血は繋がっていても金銭的には他人だ」、これが伊藤の座右の銘というから、金銭的な執着と生真面目さを持ち合わせた女性でもあったようだ。
社会人になってからもメンクイという“男の好み”は相変わらずだった。頻繁に持ち込まれる見合い。しかし一流企業の社員でも見た目が気に入らないと断り、身長を聞いては断った。もちろんデブは論外だったらしい。伊藤の極端な男の好みに加え、性格の生真面目さ、金銭に対する執着――これらは、その後伊藤が手を染めてしまう事件とは無関係ではない。こうした伊藤の“特性”こそ人生を崩壊させる遠因といってもいいものだった。
そんな伊藤が初めて男性と関係を持ったのは20歳の時だった。相手は銀行に出入りする関係会社のサラリーマンA(当時29歳)だ。しかし半年後、伊藤はAに妻子がいることを知る。だが伊藤はAと別れることはなかった。「(処女を捧げてしまった)この人を失ったら、もう正式な結婚なんかできない」。今から考えればあり得ないことだが、当時の伊藤は不倫よりも処女性を重視したのだ。その後「離婚する」というAの言葉を信じ、2度の中絶をも承諾した。
Aとの関係はその後12年間にも及ぶのだが、そんな伊藤の前に現れたのが南敏之だった。JC(青年会議所)メンバーで旅行代理店を経営する南は、最初から妻子がいることを公言し、高級レストランで伊藤を口説いた。煮え切らないAとの不倫でボロボロになっていた伊藤にとって、南の態度は「男らしい」と映った。しかも南は185センチの長身で超ハンサムだ。「中学時代から夢にまで見た理想の男性」が現れたのだ。愛車のキャデラックに乗り、服装など身の回りの物もブランドで固め、財布には常に20~30万円入っていた。「青年実業家といったタイプで、小遣いも派手に使う。そんなところが好き」。伊藤はすぐに夢中になった。セックスも「自分の体が怖くなる」ほどだった。
だが伊藤がお金持ちと信じていた南は、実際には代理店の経営に行き詰まり金策に走り回っている状況だったのだ。肉体関係ができてたった2週間後、南は10万円の借金を伊藤に持ちかけている。伊藤はこれを了承した。すぐに返してもらえると思ったからだ。その後も30万円、50万円とさまざまな理由をつけ借金をせがむ南に、伊藤はお金を渡し続けた。キャッシュカードまで預けたこともあった。お金を無心するのは必ずホテルのベッドの中だったという。
しかし次第に伊藤は不安になる。元来「家族でも金銭的には他人」という金銭感覚を持つ伊藤である。だが南は、「まとまった金が入る」など、その都度甘言を弄して伊藤から金を巻き上げていった。そして伊藤の預金がゼロに近づく頃、ついに南は銀行のオンライン詐欺を伊藤に持ちかけるのだ。当初は頑なに拒否していた伊藤だったが、南は「2人でマニラに行って日本料理屋でも開いて暮らそう」と必死に説得した。それでも決心の付かない伊藤に、南は脅しまでかけている。「裏の人間が動いているから引き返せない」「俺が殺されてもいいのか」。
しかし、伊藤は南の脅迫や夢物語だけで犯行を決意したわけではない。伊藤の手記にはこんな興味深い下りがある。「彼に貸した750万円のことを思うと、大きな声でなにか叫びたくなるような衝動にかられました」。
もし南の言うことを聞かなければ、このまま別れてしまえば貸した金750万円は返ってこない。こんな伊藤の金銭への執着、葛藤が存在したのだ。これまでコツコツ貯めた大切な財産への執着。後に伊藤はこう語っている。「婚期を逃した女の将来を考えると、私の場合お金だった」と。
32歳で預金もなくなった伊藤。その上「この男に捨てられたら人生はお終い」と強く感じたことが、犯行を決意する最後の後押しとなった。
犯行当日の3月25日。出社した伊藤はオンラインを操作し、事前に開設しておいた4つの架空口座に計1億8,000万円を入金した。時間にして30分もかからなかった。銀行を出て大阪、東京と移動し、5,000万円の現金を引き出した。そして羽田空港から香港を経由して、マニラへと逃亡。1カ月後に必ずマニラに行く、という南との約束を胸に。
この間、南は直接自らの手を汚してはいない。事前に架空口座を作る際も、伊藤に手続きをさせ、自分は通帳に指紋を残さないようにした。犯行当日も、最初の約束の時間に現れなかった南。その理由は自分のアリバイ工作のためだった。伊藤が1人で銀行を回っていた頃、知り合いに頼んだり、代議士に面会したりしてアリバイ作りをしていたのだ。その後伊藤と合流し5,000万円を手にした南は、そのうちの一割にあたる500万円だけを伊藤に渡した。また羽田空港への同行まで拒否している。「一緒に行ったら目立つから」という理由だった。自分だけ逃げられればいい。その証拠に約束の1カ月を過ぎても南はフィリピンに行くことはなかった。
6カ月の9月8日、伊藤素子はマニラで、南は日本で拘束された。既に南に裏切られたことを知っている伊藤だったが、マニラで、マスコミの取材に対し「好きな人のためにやりました」と答えたのだ。
この事件で浮かび上がってくるのは、男の卑劣さと同時に、時代の価値観に翻弄された1人の女性の姿だろう。
厳格な両親に育てられ、オクテで真面目な少女時代。気が進まない銀行への就職も「教師の善意を断れない」と流されるまま。そして、20歳から12年間のドロ沼のような不倫は、「処女を捧げてしまったからには、この男に捨てられたら今後結婚なんて望めない」という論理が伊藤を支配した。南のケースも同様だ。「貯金がゼロになってしまった。そんな30歳も過ぎた女が今の男に捨てられたら後がない」――。伊藤は本気でそう思った。そして“最後”と信じた男に言われるまま、犯罪行為に走った。それが彼女の生きた時代と境遇だった。しかし伊藤の価値観はなにも特異なものではない。当時の報道からもそれは窺い知れる。
「ハイミス」「行き遅れ」「婚期を逸した女」。特にハイミスの使用度は驚くほど高い。「女性の犯罪はハイミスが多い」「ハイミスの欲求不満」――。
伊藤の義兄も雑誌の取材に応え、こんなコメントを残している。
「婚期が遅れた女性のあさはかさをつくづく感じました」「女の虚栄心から、結局は抜き差しならなぬ犯罪の泥沼に落ち込んでしまった」。
法廷での論告求刑でも然り。「婚期を逸し平凡な生活に嫌気がさし、マンネリからくる職場に対する不満があった」。
これが当時の30歳を過ぎた未婚女性を取り巻く世情である。昭和57年7月27日、伊藤素子は懲役2年6月の判決を言い渡された。一方主犯とされた南は懲役5年というものだった。
2年後の昭和59年8月、伊藤は模範囚として仮出所し、1990年には事件のことを承知しているというサラリーマンと結婚したという。
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