アメリカの高知能連続殺人犯「テッド・バンディ」とは

著者:
投稿日:
更新日:

テッド・バンディ

テッド・バンディとは、アメリカに実在した連続殺人犯である。本名セオドア・ロバート・バンディ。ゲイリー・ハイドニクやエドマンド・ケンパーと並ぶ、高知能連続殺人犯の代表格。

英語圏における連続殺人犯の通称「シリアル(serial=連続、順列)・キラー」が生み出されるきっかけとなり、またFBI行動科学科が全米規模で殺人データベースを作る理由となり、さらにアメリカのポルノ規制に関する法案の通称「バンディ法案」の語源となるなど、アメリカの犯罪捜査や政治面に大きな影響を与えた人物として知られる。


IQ160の頭脳、高学歴、すぐれたルックスと言い回しなど、およそフィクション作品から飛び出してきたかのような犯罪者で、容疑者となって刑が確定して以降も数多の女性ファンを獲得したが、その実態はおぞましいまでの性倒錯殺人鬼である。

出典:テッド・バンディとは (テッドバンディとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

	

テッド・バンディ

生誕1946年11月24日

アメリカ合衆国・バーモント州バーリントン

死没1989年1月24日(満42歳没)

アメリカ合衆国・フロリダ

死因電気椅子による処刑での電気ショック

有罪判決殺人罪

判決死刑

シリアルキラー

シリアルキラー(英:Serial killer serial=連続の、順列の)とは殺害行為を主目的に行う犯罪者、あるいは単独の連続殺人犯(連続殺人事件の犯人)に対して使われる言葉である。和名としては殺人鬼(さつじんき)とも称される。

出典:シリアルキラー - Wikipedia

彼は原型的なアメリカのシリアルキラーとして考察される。実際、「シリアルキラー(serial killer、serial=連続の、順列の)」という表現は彼を表すために考え出されている。

青年期

1946年11月24日、バーモント州バーリントンに私生児として生まれる。出生時の名前はセオドア・ロバート・カウエル(Theodore Robert Cowell)。彼の母ルイーズはデパートの店員、血縁上の父親は不明である。テッドと母親は、テッドが9歳になるまで(家族によると、気性が激しく暴力的であった)祖父と共にフィラデルフィアで暮らしている。私生児という不名誉を隠すため、テッドは祖父母の養子、つまり母親の弟として周囲に触れ込まれていたようである。彼の叔母は、テッドが幼少期の頃、彼女のベッドの横に立ち、笑みを浮かべながらナイフで彼女を威嚇したと主張している。

テッドと母親はワシントン州タコマ(彼女の叔父がこの地にある大学で音楽講師として教鞭を取っていた)に引っ越した。それからしばらく後、母親は教会の会合で出会った退役海軍軍人で病院のコックを務めるジョン・カルペパー・バンディという男性と結婚。バンディ姓となる。複数の情報によれば、幼年期青年期に亘りバンディは実の母親を姉と考えていたかも知れないとのことである。

ウィルソン高校での高校時代、テッドは華々しいとまでは云えないまでも、メソジスト教会とボーイスカウトの活動に熱心な優れた学生であった。ただ、伝記『The Only Living Witness』の著者であるスティーブン・ミショーとヒュー・エインスウォースによれば、彼には他者と迎合する生まれつきの感覚が欠如していたという。事実、テッドは著者に対し、「人が他人とコミュニケーションをとろうとすることの理由が分からなかった」という内容のことを語っている。テッドは、高校の大半と大学時代の早期を通じて、内気で内向的なままであった。

高校を卒業する前から、万引きや窃盗などの犯罪活動は始まった。また思春期の若者として覗きなどの倒錯的な性行為に耽っていたと公言している。また自分自身の一部は、幼年期より性や暴力のイメージに魅了されていたことを「実体」と表し、またそれをよく隠していた、とバンディは自身のことを語っている(しかし、この「他の自分自身」をバンディが語っている時は、自身の死刑判決を上告しようとしていた時期であったということに、留意しなければならない)。また、彼は残虐な性描写を特徴とするスナッフフィルムのファンであると語っている。

高校卒業後、ピュージェットサウンド大学へ入学したバンディは、心理学を専攻する傍ら自己変革に取り組み、「ハンサムで頭脳明晰な青年」へと周囲の評価は変わる。バンディはワシントン州の共和党員としてワシントン州知事選の選挙活動に参加し、州政府犯罪対策委員会やシアトル自殺救済電話相談室(Seattle suicide crisis center)でカウンセリングなどのボランティア活動をしている。この時期、水難事故で溺れた子供を救助し、地元警察より表彰されている。共にボランティア活動をしていた駆け出しの犯罪記者アン・ルールは、皮肉なことに彼女の友人であるバンディの犯罪と知らずに、彼の犯した犯罪記事を書いている。数年後、彼女はバンディの伝記『テッド・バンディ―「アメリカの模範青年」の血塗られた闇(原題:The Stranger Beside Me)』を書くこととなる。

バンディは、大学の一年生のとある女性と交際を始める。しかし、彼女がバンディの未熟な面、覇気の無さに嫌気が差した結果、交際は破綻する。交際破綻より2年間を経て、再び彼女とバンディは交際を始め、彼らは婚約を果たす。だが婚約より2週間後、バンディは彼女からの電話に出ることがなくなり、あっさりと彼女を捨てる(尚バンディはこの時期、違う女性とも交際中)。この交際の破綻後、バンディは3年間にわたる殺人凶行を始めた。

バンディの殺人対象者に見られる共通点、「髪を真ん中で分けた黒髪の若い白人女性」という原型はこの女性から形成されていると、ルールは考察している。

出典:テッド・バンディ - Wikipedia

	

殺人

バンディ専門家の一部、ルールやキング郡の元刑事ロバート・D・ケッペルなどは、10代前半からバンディは殺人を始めていたかもしれないと考えているものの(バンディが15歳の時、タコマ在住の8歳の女の子が失踪している事に関連付けられて考えられている)、最古の立証された彼の殺人は、バンディが27歳の時である1974年に犯されている。

1974年1月4日の夜半過ぎ、ワシントン大学に通う18歳の女子生徒の地下寝室に忍び込み、眠っている彼女をバールにて殴打、ベッドの鉄棒を引っこ抜き、それを使って彼女に性的な暴行を行った。翌朝、彼女は自身の血の海の中、昏睡状態で横たわっている所を見つかる。一命は取り留めたものの、永久的な脳障害を負った。

バンディの次の犠牲者はワシントン大学4年生の女子生徒であった。彼女の地下室に忍び込んだバンディは、彼女を気絶するまで殴り、その後ジーンズとシャツを着させてシーツで包み、彼女を運び出した。一年後、彼女はシアトルの東の山中で首を斬られた姿で発見された。

1974年の1月から6月にかけて、ワシントン州の8人の女性をストーキングしては殺害している。7月には凶行も全盛を極め、サマミシュ湖州立公園にて昼間から2人の女性が拉致、殺害されている。バンディは魅力的な顔立ちをしていたが、とりわけて覚えやすい顔立ちでもないという長所を持っていた。後年、「彼はひげや髪型を変えるといった小さな変化だけで、全く姿を変えられるカメレオンの様だ」と言われている。

バンディは秋にユタ州に移り住み、ソルトレイクシティにあるユタ大学ロー・スクールに通い始め、ここでバンディは10月から殺人を再開した。17歳の女性をレイプし、アナルセックスをし、その後に絞殺している。彼女の遺体は7日後に見つかった。またその後、他の17歳の女性がハロウィンの日に失踪し、約1ヶ月後の感謝祭の日に遺体が見つかっている。

バンディが毒牙に掛ける女性の特徴は決まっており、長髪かつ髪を真ん中で分けたスタイルの良い若い女性ということでほぼ共通していた。

出典:テッド・バンディ - Wikipedia

	

作成された犯人似顔絵

			

バンディのいくつもの顔

			

第1審そして逃亡

1974年11月4日、ユタ州マレーに住む18歳の女性は、バンディの手に掛かりそうになったところから逃げ出した。バンディは警察官を装い、ショッピングモールにいた彼女に、彼女の車が泥棒に押し入られた旨を伝えるという手法を取った。危惧する彼女をモールから連れ出し、車を点検させる。だが車には何も異常が無い。バンディは彼女に書類を作るので警察署まで来てくれないかと、彼女をバンディの所有するフォルクスワーゲン・タイプ1に乗せて走り始める。だが、彼女は違和感を覚えていた。その後バンディが彼女に手錠をはめようとしたところで、彼女は逃亡した。以上のあらましを彼女は地元の警察に訴えている。

1975年8月16日、バンディは彼女を誘拐したタイプ1で走行していた所を逮捕され、その車は彼女を誘拐した車と同一であると確認される。1976年3月1日1週間にわたる裁判の後、バンディは上記の少女を誘拐した罪で1年から15年にわたるユタ州立刑務所での禁錮刑を受ける。しかし、コロラド当局は連続殺人事件を追求していた。

1976年6月7日、彼の殺人事件の裁判準備中、彼はコロラド州ピトキンにある裁判所へ移送される。休廷中、裁判所内の法律図書室に入室を許可される。バンディはそこの2階の窓から飛び降り、逃亡した。しかしその際に足首を痛め、結果として逃亡を図れなかったバンディは1週間後に捕まった。バンディは刑務所に戻された。

しかし裁判の開始を待っている時期に、彼は再び逃亡する。コロラド州グレンウッドスプリングスにある刑務所に収監されていたバンディは、どういうわけか弓鋸を所持しており、それを用いて独房の天井に四角い穴を開けていた。1977年12月30日の夜、彼はその穴によじ登り、こそこそせずに正門まで歩いていき、車を盗んで逃亡した。

出典:テッド・バンディ - Wikipedia

	

指名手配チラシ

			

フロリダへ

刑務所に訪問した友人が渡した約500ドルで、バンディは片道の航空券を購入。トランス・ワールド航空のデンバー発シカゴ行に乗って逃亡。ミシガン州アナーバー行きのアムトラックの旅客列車に乗車し、その後、車を盗んでアトランタのスラム街で乗り捨てる。そこからフロリダ州タラハッシーまでバスで移動した。タラハッシーではクリス・ヘイゲンという偽名でアパートを借り、ひとまず腰を落ち着ける。

出典:テッド・バンディ - Wikipedia

	

カイ・オメガ寮(最後の犯行)

1978年1月。法廷と刑務所、二度にわたって脱走を果たしたバンディの手腕に、警察は驚きあわて、マスコミはもう「誰にも止められない」と騒ぎ立てていた。演劇経験があり、口も達者なバンディは、髪の長短や髭の有無だけで別人に成りすます才能を持っている。彼がかつてそうしていたように、再び月に一度の連続殺人が繰り返されるに違いない、あるいは罪を犯さず永久に警察の目から逃れ続けるのでは、と誰もが思っていた。

しかし当のバンディからは、かつてほどの計画性が失われていた。監獄での禁欲生活はわずか半年程度に過ぎなかったが、それが彼の内にあった殺人衝動を抑えきれないほど高めてしまったのだろう。若い女であれば相手は誰でもいい――ただ殺したい。その欲望がバンディをフロリダ州立大のカイ・オメガ女子寮に向かわせていた。


深夜、棍棒を手に荒れ狂ったバンディは、女子寮で寝ていた女子大生を手あたり次第に殴り、性的暴行を加え、二人が死亡、二人が重傷を負った。それでも黒い衝動はおさまりを知らず、寮から1ブロック離れた場所に住んでいた女子大生にも重症を負わせた。さらに同年2月、レイクシティに移動したバンディは12歳の少女を誘拐して暴行殺人に及んだ。確認できている限り、彼女がバンディによる最後の犠牲者である。


その後まもなく、バンディは乗っていた車が盗難車だったことから再逮捕された。高い知性を取沙汰されたバンディにしては、あまりにもあっけない逮捕劇――とは言えず、前2度の逮捕の際もささいなミスが命取りとなっていた。優れた才知の持ち主らしからぬ一面は、彼が幼いころから抱えていた欠点であった。

出典:テッド・バンディとは (テッドバンディとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

	

消えた女子大生達

子供じみた「復讐」でステファニーを捨てたバンディの狂宴は1974年1月、シアトルから始まった。

リンダ・アン・ヒーリー、21歳。1月31日に失踪。

ドナ・ゲイル・マンソン、19歳。3月21日に失踪。

スーザン・ランコート、18歳。4月17日に何者かに誘拐される。

ロバータ・カスリーン・パークス、22歳。5月6日に失踪。

ブレンダ・ボール、22歳。6月1日に何者かに誘拐される。

ジョージアン・ホーキンス、18歳。6月11日に何者かに誘拐される。

ジャニス・オット、23歳。7月14日に何者かに誘拐される。

デニーズ・ナスランド、19歳。7月14日に何者かに誘拐される。

出典:世界を驚かせた怪事件・猟奇事件 アメリカ横断女子大生連続殺人事件

	

裁判とその後

1979年からマイアミで始まったカイ・オメガ寮事件の裁判にあたって、驚くべきことにバンディは5人の国選弁護人をすべて罷免し、学んだ法学知識を生かして自分で自分を弁護した。しかし検証によって犠牲者の遺体に残された歯型と、バンディの歯型が一致した点は致命的だった。さらに抗弁の際に見せた気取った態度は、陪審員の神経を逆なでした。結果、下った判決は死刑。宣告の際、裁判官はバンディの恵まれた才能を惜しむ言葉を残している。

バンディはあくまで冤罪、無罪を訴えて上訴し続けたが、すべて棄却された。FBIや警察と面談する機会も何度か設けられたが、自らの罪を認めることも、犯行内容を詳細に語ることも最後までしなかった。このため、バンディが殺害した人数に関しては正確な数がわかっていない。立証できたのが36人だけで、おそらく犠牲者はもっと多かったものと考えられる。「彼の性質からすると、10代から殺人を犯していた可能性もある」と推理する捜査官もいる。

出典:テッド・バンディとは (テッドバンディとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

	

法廷でのバンディ。彼は弁護士を依頼せず、自ら弁論や弁護に立った。

			
裁判官は判決の際、以下のことを言った。
(フロリダでの死刑執行は電気椅子で行われることから)貴下が電流によって死に至るまで座っている様、貴下が死ぬまで電流が貴下の体内を通る様、ここに命じるものである。体に気をつけなさい。(「Take care of yourself」。別れの時の慣用句で、日本語で表すなら「それではお元気で」、「お体に気を付けて」の意。「自制した人生を」とも解釈できる)。青年よ。これは真摯に言っているのだ。この法廷で私が経験したそのような人間性の浪費は、この裁判所にとって悲劇とも言える。貴下は聡明な青年だ。貴下は優秀な法律家になれたかも知れない。そして私は、法廷で貴下が活躍する姿に惚れ込んだかも知れない。私は、貴下に何ら敵意も持っていない。それは理解してほしい。しかしあなたは道を間違えた。体に気をつけなさい。

出典:テッド・バンディ - Wikipedia

	

エドワード・D・カワード判事

			

獄中でのバンディ

のちに彼はこのような感情に突き動かされていた事も、カミングアウトしている。

バンディは電気椅子で2000ボルト以上の電圧を2分間流されて処刑された

			
僕は人間の生死を支配したかったんだ。地上から1人2人消えたからって、それが一体何だっていうんだい?

出典:世界を驚かせた怪事件・猟奇事件 アメリカ横断女子大生連続殺人事件

	
	

全米を震撼させた元祖シリアルキラー、テッド・バンディの霊が目撃される

バンディは1989年1月24日にフロリダで電気椅子による死刑が執行され、 翌日の新聞の一面には、「殺人鬼は微笑みを浮かべて死んだ」の見出しで彼の遺体のカラー写真が掲載されたそうなんですが、 2001年に明るみになった情報によると、 バンディが最後の日々を過ごした刑務所の警備員数名が、彼が死刑になった直後のある日、 死刑場の電気椅子に笑みを浮かべて座っているバンディの幽霊を目撃しているらしく、 警備員が近づくと姿を消したそうなんです。

バンディの霊は死刑囚の監房の周辺に現れる事もあるみたいで、 刑務所の職員の中には、バンディの霊が怖くて辞める人もいるとの噂です。

また、彼の死刑判決を決定付けた殺人を犯した事件現場のカイ・オメガ女子寮の近くや、 偽名で借りていたタラハシーのアパートのベランダにも現れたという目撃報告もあるそうです。

さらに、彼の母校であるワシントン州のピュージェットサウンド大学では、 彼の霊がかつてのクラスに出席したという出来の悪いデマみたいな報告もあり、 一部の学生はバンディの霊を「eddy the Friendly Ghost」とか「Best Dead Friend Forever (BDFF)」 とか呼んでいるとか、いないとか。

出典:超魔界帝国の逆襲

	

バンディの手相

短く太い親指 低位置で曲がった小指 短い人差し指

短い親指

冷静さを欠き、衝動的、気が変わりやすく忍耐力に欠ける。


短い人差し指 男性的で、強い警戒心または注意力と素早い反応、高い自信、リスクを好む行動、積極性または攻撃性、迅速な意思決定といった特性をもつ傾向


曲がった小指

 性的にノーマルではない


手相は膨大なデ−タから導きだされた統計学といいます。

映画

テッド バンディ 全米史上最高の殺人者