未解決事件「佐賀女性7人連続殺人事件」とは

著者:
投稿日:
更新日:

佐賀女性7人連続殺人事件

佐賀女性7人連続殺人事件(さがじょせいななにんれんぞくさつじんじけん)とは、1975年から1989年までに佐賀県で7人の女性が殺された事件。その内、6人が水曜日に失踪している事から「水曜日の絞殺魔事件」とも呼ばれる。

1989年に3人の女性(5人目から7人目の犠牲者)が遺体で発見された殺人事件は、訴追され「北方事件(きたがたじけん)」と呼ばれている(遺体発見現場が北方町だったため)。しかし、無罪判決が出ており、未解決事件となった(1件目から4件目に関しては、公訴時効が成立)。

出典:佐賀女性7人連続殺人事件 - Wikipedia

	

2人の女性遺体発見

1980年6月24日、佐賀県杵島郡白石町の須古小学校北校舎の低学年用トイレの便そうの中で、衛生会社のし尿の汲み取り作業中、女性の腐乱死体が発見された。

 さらに捜査を続けていたところ、6月27日、プール西側のプール専用トイレでも石で隠された白骨死体が発見された。


 最初に発見された腐乱死体は同年4月12日に自宅から姿を消した大町町の喫茶店アルバイト・百武律子さん(20歳)であることがわかった。

 このトイレは2ヶ月に1度汲み取り作業が行なわれており、百武さんは失踪した直後に殺害され、ここに捨てられたらしい。

 百武さん宅と同小学校は約5kmほどの距離。6人家族で、百武さんは4人姉弟の二女だった。失踪当日は母親が入院しており、他の家族も外出していて、家に1人でいた。20歳の誕生日を明日に控えていたが、これまで2度自殺未遂をしており、日頃「20の誕生日に自殺する」と漏らしていたことから、家族はすぐ公開捜査に踏み切っていた。

 失踪直後の4月16日、山崎さんの父親宛てに「娘ハ帰ラナイダロウ、オ前モ苦シメ」と書かれた手紙が届いた。同じ頃には「人捜しのテレビに出るな」という脅迫電話もあったという。


 百武さんに続いて発見された白骨死体は北方町の山崎十三子さん(当時12歳)。遺体の上には丸い石が100個ほど積んであり、遺体を隠していた。

 山崎さんは75年8月27日夜に、スナック経営の母親(当時41歳)が勤めに出た後、自宅から姿を消した。いつもは母親のスナックの従業員控え室で勉強することが多かったようだが、この日に限って自宅にいたという。これは友人と家で遊んでいたためで、友人は午後7時ごろに帰宅、その直後山崎さんは姿を消した。テレビはつけっ放しになっており、普段履いている靴もそのまま残されていた。


 2人の被害者はいずれも家で1人で居る時に姿を消している。連れ去られたにしても抵抗した跡がないし、金品などの盗難もないことから、顔見知りによる犯行と見られた。


 ある時、捜査本部に女性から一本の電話が寄せられた。

「私は大町町の出身です。いまは武雄市に嫁いでいますが、たまたま用事で里帰りをした夜、実家にいたとき、男が隣家の娘さん(百武律子さん)を車に運び入れるのを見ました。ただ姑との折り合いが悪いので本名で名乗り出ると、実家に帰ったのがわかってしまい、ひどく怒られます。ですから名前を明かすことはできません」


 

 翌年3月12日、重要参考人として浮上していた武雄市内の農業Uさん(当時29歳)が、工員を殴ったとして逮捕される。別件逮捕だった。

 Uさんが疑われた理由は山崎さんとも百武さんとも知り合いだったことだった。Uさんは百武さんの働く喫茶店によく出入りしており、彼女の姉と同居していた。結婚するつもりだったが、百武さんの家族に反対されていたという。「Aは律子さんと交際しており、律子さんが失踪前悩んでいる様子だったのはこのことからだった」という噂もあった。

 また、山崎さんの母親は以前に白石町内のクラブに勤めていたが、Aはその店にも常連として訪れていたという。

 また捜査本部はAの友人を次々と逮捕し、彼らから情報を引き出そうとしたが、これといった証言を得ることはできなかった。結局、証拠がないため、2件の殺人事件について、Aへの追及は打ち切られている。


 そしてその年、3人目の犠牲者が出る。

出典:佐賀・女性連続殺人事件

	

主婦殺し

1981年10月7日、佐賀県杵島郡白石町の主婦・池上千鶴子さん(27歳)が帰宅途中に消息を絶った。

 池上さんは北方町の縫製工場での勤務を終えて、午後5時半頃にスーパーで買い物をした後に行方がわからなくなった。最後に目撃されたのはスーパーの駐車場で、「乗用車に乗った30代の男性と親しげに話しているところを見た」と同僚が証言した。


 それから2週間後、40km離れた三養基郡中原町の空地で池上さんの遺体発見。死因は電気コードによる絞殺で、性的暴行された跡はなかった。

 


 不可解な女性殺しは次の年も続く。4人目は幼い少女だった。

出典:佐賀・女性連続殺人事件

	

小学生殺し

1982年2月17日午後4時過ぎ、佐賀県三養基郡北茂安町、北茂安小学校5年の西山久美ちゃん(11歳)は友達2人と一緒に下校した。久美ちゃんは途中の大瀬橋付近で友達と別れ、一人で自宅に向かっていたのだが、この直後消息を絶った。いつまでたっても帰ってこない娘を心配した家族は同夜8時40分頃、警察に届けている。

 翌朝、県警、地元消防団員ら約150人による捜索が始められた。久美ちゃん宅と学校までは3kmの距離で、捜索はこの間を重点的に行なわれた。すると午前11時半頃、北茂安中学体育館北側の町道脇のミカン畑の中で、ランドセルを背負ったままの久美ちゃんの遺体が発見された。遺体はうつぶせで、下半身は裸、首にはストッキングが巻きつけられてあった。


 久美ちゃんが何者かに殺される直前、車に乗った怪しい男が何人にも目撃されていた。

 まず同町の国道34号線沿い「キュウピィマーケット前」バス停でバスを待っていた主婦に、白い車に乗ってきた男が「乗っていかんですか」としつこく声をかけていた。年齢は30から40ぐらいで、鼻筋の通った眼のきつい細面の男だった。主婦は男のあまりにしつこい誘いに「警察を呼びますよ」と断ったところ、男は睨みつけながら車に戻っていった。

 続いて午後2時半頃、同じような白い車が同県神埼郡三戸田町の三戸田小学校の校舎の傍に停まっていた。ここは主婦に声をかけたバス停から約5kmのところである。時刻は低学年の児童らの下校時間で、白い車を降りた中年男は1人の児童に「そこに座んなさい」と声をかけ、「ピンクレディーの写真を見せるからこっちへ来なさい」と言いながら児童を抱きかかえて女子便所に連れこんだ。ところが児童は大声で泣き出したため、男は何もせずに姿を消した。

 午後時10分頃、白い車は再び北茂安町のあらわれた。下校中の北茂安中学校の女子生徒2人にしつこく話しかけ、午後3時半頃には小学2年の女児児童3人に「家まで送るから乗らんね」と声をかけている。久美ちゃんが姿を消すのはその30分後である。

 麻美ちゃんが殺害されたと思われる午後4時半頃、殺害現場付近に白い乗用車が停めてあったのを主婦が目撃。この白い車に乗った中年男こそが犯人という線がかなり濃厚だった。


 いくつかの目撃情報によると、白い車の車種は「カローラ」「スプリンター」、あるいは「ダイハツクオーレ」のようなタイプと見られ、ナンバーは「福岡???6950」。男は30~40の細い目の中年で、ジャンパーに青いズボンを履いていた。ところがこれだけ目撃され、情報が提供されたものの、男の足取りは掴めなかった。その手口や、遺体発見現場の近さなどから、池上千鶴子さん殺しの犯人と同一人物ではないかと見られた。

出典:佐賀・女性連続殺人事件

	

3人の遺体発見

1989年1月27日、佐賀県北方町志久の大峠付近の山林で、花をつんでいた主婦が崖下に投げ落とされていた女性の遺体を発見する。警察が急行すると、遺体の横に別の腐乱死体、さらに近くにも白骨死体があった。

 現場の状況や、死亡時期の異なる3つの遺体に、佐賀県警は連続殺人の死体遺棄事件と断定。現場には持ち主不明の下着4枚とブラジャーなどが散乱していたが、新たな遺留品はゴミの不法投棄とまざって発見されなかった。


 最初に発見された遺体は2日前の25日に行方不明となっていた北方町の紳士服縫製工場勤務・吉野タツ代さん(37歳)のものだった。白のスカートにカーディガンという失踪当時の服装のままで発見された。

 吉野さんは失踪当日午後7時前に勤務先から帰宅。長男と実母と一緒に夕食をとっていたが、7時20分ごろ、電話がかかってきて吉野さんはあわてた様子で出かけていった。このとき実母には「友人を山内町まで送ってくる」と言っているが、長男にはなぜか「友達と食事に行ってくる」と話していた。吉野さんは赤い軽乗用車で出かけていったが、この車はのちに武雄市内のボウリング場駐車場で発見されている。

 なお、吉野さんの勤め先である縫製会社は、81年10月に殺害された池上さんの職場と同じである。


 吉野さんの隣りでうつ伏せの状態で発見された遺体は同じ北方町の主婦・中島清美さん(50歳)と判明。

 中島さんは88年12月7日午後7時20分頃、「バレーボールに行く」と自宅を出たきり行方不明となっていた。中島さん宅とバレーボールクラブの練習場所であるスポーツセンターは徒歩10分ほどの距離で、いつもは仲間と2人で出かけていたが、この日は仲間が休むため1人でセンターに向かっていた。

 午後7時30分頃に、中島さんと思われる女性が、自転車に乗った女性としばらく立ち話をしているところを目撃されている。相手の女性は30~40歳ぐらいだったが、この女性の身元を割り出すことはできなかった。


 最後までわからなかった白骨死体は、87年7月8日に行方不明となっていた武雄市の料理店仲居・藤瀬澄子さん(48歳)と判明。

 藤瀬さんは温泉街の老舗割烹で、病弱な夫に代わって働いていた。失踪当日の夜、仕事が終ってから同僚と一緒に割烹近くのスナックへ行き、1時間ほど楽しく過ごした。そして同僚と別れて、自宅までの1kmの間で行方がわからなくなった。


 1月28日、佐賀医大で司法解剖が行なわれたところ、吉野さんと中島さんの死因は窒息死、胃の内容物などから自宅を出て短時間に殺されていたことがわかった。


 こうしたなかで同県内で以前に起きた迷宮入り女性殺害事件4件を含めて、同一人物によるものではないかという疑惑が浮上する。7人中6人は水曜日の夜に失踪していたことや、被害者の失踪が半径3km以内で起こっていること、また犯行手口としては絞殺で、金品には手をつけた様子がないことが共通点として挙げられる。

 一方で、最初の4件は11~27歳と子供や若い女性を狙っていたのに対し、新たに発見された3人は37~50歳と中年女性であるから、「つながりはない」という声もある。


出典:佐賀・女性連続殺人事件

	

7人の女性の失踪・発見の詳細

【1】

1975年8月27日(水)、北方町に住む当時中学1年生であったY(当時12歳)が、1人で留守番していた自宅から失踪。1980年6月27日に白石町の小学校プール横トイレの便槽の中で遺体で発見された。


【2】

1980年4月12日(土)、白石町に住むH(当時20歳)が、1人で留守番していた自宅から失踪。約2ヶ月後の6月24日、町内にある小学校の便槽から遺体で発見された。本件のみ、水曜日ではない。


【3】

1981年10月7日(水)、白石町に住む近くの工場の従業員であったI(当時27歳)が失踪。同月21日に中原町の空き地で絞殺遺体で発見された。


【4】

1982年2月17日(水)、北茂安町の小学5年生A(当時11歳)が下校途中に何者かに首を絞められ殺害され、翌日に絞殺遺体で発見された。


【5】

1987年7月8日(水)、武雄市の飲食店従業員H(当時48歳)が失踪、1989年1月27日に北方町大峠の崖下で遺体で発見された。以下の2件の遺体も同時に発見されており、3件をまとめて「北方事件」と呼んでいる。


【6】

1988年12月7日(水)、北方町の主婦N(当時50歳)が失踪。


【7】

1989年1月25日(水)、北方町の会社員Y(当時37歳)が失踪。

出典:

	

7件の事件の類似点

(1)百武律子が失踪した土曜日以外、6件はすべて、水曜日に失踪している。単なる偶然?

(2)いずれも夕方から夜にかけて失踪している。


(3)白骨化して死因がはっきりしていない山崎十三子、藤瀬澄子を除いていずれも絞殺による窒息死である。


(4)A子ちゃん以外、暴行された跡がなかった(山崎十三子、藤瀬澄子は白骨化しているため不明)。


(5)金品を取られた形跡がない。

出典:佐賀女性7人連続殺人事件

	

同町出身の元運転手

佐賀県警は殺人事件として捜査本部を設置。89年1月27日から30日まで4日間、北方町出身で現場に土地勘がある同町出身の元運転手(松江輝彦)が捜査線上に浮上、事情聴取したが否認した。

佐賀県警は89年10月3日、同町出身の松江輝彦を覚せい剤取締法違反(使用)の容疑で逮捕し、起訴後の勾留(こうりゅう)中に殺人での取り調べを始めた(被告は覚せい剤取締法違反の罪で鹿児島地裁鹿屋支部で懲役1年2月の実刑が確定)。


被告は、勾留中の取り調べで、(1)吉野さんのバッグは自分が捨てたと供述。(2)松江の血液型と吉野さんの体に付着していた「だ液」の血液型が一致。(3)アリバイがない―ことなどが判明し、翌11月には、被告が覚せい剤事件で起訴拘置中に、同県警大町署で行われた任意の取り調べの中で作成され3人の殺害の仕方や事件前後にとった行動などを記した上申書を11月11日に書いたが、その後30日に否認に転じたことから、決定的な物証がなく、当時は殺人での逮捕を見送っていた。


だが、最初の殺人の時効が翌月に迫った02(平成14)年6月11日、県警は、吉野さん殺害の疑いで、鹿児島刑務所に服役中の被告(当時39歳)を逮捕、公訴時効が6日後の8日に迫っていた同年7月2日に藤瀬さん殺害容疑で再逮捕、同日、吉野さん殺害事件で松江被告を起訴、7日に藤瀬さん殺害事件で起訴、さらに7月9日には、中島さん殺害容疑で再々逮捕、30日に中島さん殺害事件で起訴した。


被告は、02年10月22日の初公判で3件の殺人の起訴事実を全面否認し、以来一貫して無罪を訴え、弁護側は「3事件とも被告に殺害動機はなく、事件と本人を結びつける証拠はない」と全面無罪を主張した。


事件発生から十数年がたち、犯行を裏付ける決定的な物証に欠ける中、公判では被告が殺害を認めたとされる上申書(65通)が証拠採用されるかが焦点となった。


翌、03年1月16日の佐賀地裁での公判では、「裁判員制度」を検討される中、分かりやすく開かれた裁判という名目で、検察側が提案で法廷内にテレビモニター5台が持ち込まれ、証拠品を傍聴人も見ることができるようにし、検察が提示した遺体発見現場の写真などが紹介された。


佐賀地裁は04(平成16)年9月16日の公判で、最大の争点だったが殺害を認めたとされた上申書について、所作成時の取り調べが長時間に及んだことなどから証拠としないことを決定した。


05(平成17)年5月10日、佐賀地裁(坂主勉裁判長)は被告に対して、「3事件とも被告が犯人であることを積極的に推認できる証拠や事実は存在せず、犯罪の証明がない」と述べ無罪(求刑死刑)を言い渡した。


判決は、吉野さん殺害事件を中心に遺体の状況などを詳細に検討した上で、02年10月の初公判で3件の殺人の起訴事実を全面否認し、一貫して無罪を訴えた被告に対して、犯罪の証明がないとして、また他の2件についても無罪(求刑は2件が死刑、1件が無期懲役)を言い渡した。


なお、1審での死刑求刑に対する無罪判決は極めて異例で統計の残っている58年以降では8件。うち、80年代の4件の再審無罪事件以外で具体的に把握しているのは、64年の「名張毒ぶどう酒事件」の津地裁判決だけであるから、実に41年ぶりとなった。


5月18日、検察側が佐賀地裁での無罪判決を不服として控訴した。


06(平成18)年5月31日、福岡高裁で控訴審初公判が開かれたが、検察側は、被告の車内で採取した物質のDNA型が被害者の1人と合致したとの鑑定結果を新証拠として採用するよう請求した。一致したのは被害者の中島さんの数百人に1人が同じ型を持ち、核DNAよりは精度が低いミトコンドリアDNA。検察は、事件当時、被告の車内にあった写真から指紋を採取した際にゼラチン紙に残った微量物質を、1審判決後に新たに鑑定したと主張した。


07(平成19)年3月19日の判決で福岡高裁(正木勝彦裁判長)は、佐賀地裁が証拠採用しなかった「(3人殺害の)自白上申書」について検討、書かれた時の取り調べ状況を分析、「別件拘置中に取り調べ受忍義務があるかのような告知をしたうえで、自白獲得を目的に連日深夜に及ぶ長時間の取り調べをした」と批判。「令状主義を甚だしく逸脱する違法性の高い取り調べであり、その間に収集された上申書は証拠から排除すべきだ」と指摘して1審同様、「適法な取り調べ」として検察側の主張を改めて退けた。


また、検察側が「被告と事件との結びつき」を強める狙いで高裁に提出した「新証拠」(被告の車内にあった写真から検出したミトコンドリアDNAの型と被害者の1人が同じ型だったとする鑑定結果)についても検討した結果、「ミトコンドリアDNAの型は同じ型の人が少なからず存在するうえ、データ採取の過程が不明」として状況証拠としての価値は低いと認定、検察側の主張を退けた。


その上で、「被告と被害者の1人の車を事件当日に同じ場所で見た」「被害者の1人と被告は交際していた」など1審段階から検察側が示した多数の状況証拠を踏まえても、「犯人が被告であると認めるには合理的な疑いが残る」と結論づけ、「直接的・決定的な証拠は皆無。この程度の証拠で被告を有罪とすることは、刑事裁判の鉄則に照らしてできない」「1審判決を検察が批判するのはあまりに失当だ」。


さらに、1日10時間を超える取り調べが自白するまで17日間続き、取り調べ時間に関する捜査報告書が改ざんされていたことに言及。「犯人でなければ知り得ない秘密の暴露も含まれていない」と、捜査のありようを批判、無罪を言い渡した1審・佐賀地裁判決を支持し、検察側の控訴を棄却した。


なお、死刑求刑の被告が1審・2審とも無罪になったのは、最高裁が統計上把握している78年以降、初めてであった(土田邸爆破事件の被告人に対しても1・2審で無罪となったが、この被告人は死刑求刑事案では無罪となったものの別件の窃盗罪で懲役1年、執行猶予2年がを言い渡されており、記録上は有期懲役判決となっている)。


判決翌日の20日には、2審無罪判決を受けて福岡県弁護士会が「取り調べの可視化」の実現を求める声明を発表した。


29日に福岡高検が最高検察庁と協議した結果、2審の判決には上告に必要とされるであろう重大な事実誤認ないしは判例違反が見あたらない上に原判決を覆すのに必要とされる物証も乏しいことから上告を断念。4月2日の上告期限を過ぎても上告せず、翌3日午前0時で無罪が確定した。

出典:

	

時効成立

これによって、北方事件との関連が疑われている4つの事件も含めて時効が成立し、実質的には未解決事件となった。また、2審の判決でも指摘されたような佐賀県警や検察の杜撰な捜査や起訴の有り様も批判された。

元被告は、無罪判決が確定したことを受け、殺人罪での拘置が始まってから1審無罪判決言い渡しの前日までの拘置期間(464日)の補償を請求、8月20日、佐賀地裁は刑事補償法に基づいて本人が受けた財産上の損失や精神的苦痛などを考慮し、法定上限額の1日あたり1万2500円を補償することを認め、580万円の支払を決定した。


刑事補償法4条・・・抑留又は拘禁による補償においては、前条及び次条第2項に規定する場合を除いては、その日数に応じて、1日1000円以上1万2500円以下の割合による額の補償金を交付する。懲役、禁錮若しくは拘留の執行又は拘置による補償においても、同様である。

出典:

	

北方事件の経過

1987年7月8日 

藤瀬さんが仕事帰りに同僚と飲食後、行方不明

88年1月5日

覚せい剤取締法違反の罪で松江被告の懲役1年2月の実刑判決が確定

88年12月7日

中島さんが「バレーボールの練習に行く」と言って外出後、行方不明

89年1月25日

吉野さんが電話で呼び出された後、行方不明

27日

佐賀県北方町志久の山林で3人の遺体発見。佐賀県警は殺人事件として捜査本部を設置。30日まで4日間、松江被告を事情聴取したが否認

10月3日

佐賀県警が松江被告を覚せい剤取締法違反(使用)容疑で逮捕

11月11日

佐賀県警が拘置中の松江被告を任意で取り調べ、3女性の殺害を認める上申書を作成。その後、否認に転じた

29日

覚せい剤取締法違反の罪で松江被告に懲役1年6月の実刑判決

30日

松江被告が殺害を否認する上申書を作成

2002年6月11日

佐賀県警が吉野さん殺害事件で松江被告を逮捕

7月2日

吉野さん殺害事件で松江被告を起訴。藤瀬さん殺害事件で再逮捕

7日

藤瀬さん殺害事件で起訴

9日

中島さん殺害事件で再々逮捕

30日

中島さん殺害事件で起訴

10月22日

佐賀地裁初公判。松江被告が無罪を主張

04年9月16日

佐賀地裁は松江被告の上申書の証拠請求を却下

05年1月20日

検察側は松江被告に中島、吉野さん殺害で死刑、藤瀬さん殺害で無期懲役を求刑

2月17日

弁護側が最終弁論で「冤罪」を主張し結審

5月10日

佐賀地裁で無罪判決

07年3月19日

福岡高裁で無罪判決


出典:

	

無罪確定した3女性殺害事件

			

佐賀県警 北方事件遺族に謝罪

佐賀県北方町(現武雄市)の3女性連続殺人事件で、元被告男性の無罪が確定したことを受け、佐賀県警の乙成博樹捜査一課長ら幹部が4日、同県大町町で、被害者の遺族らと面会した。遺族によると、乙成課長らは事件の真相解明ができなかったことについて、謝罪したという。

 遺族によると、乙成課長らは捜査の経緯を説明。「できる限りのことはやった」としながらも「初動捜査にミスがあった。申し訳ありませんでした」と、遺族に頭を下げたという。遺族の1人は「誠意ある対応だった」と話した。


 事件は1989年に発覚。山中の雑木林で女性3人の遺体が見つかった。県警は89年の任意聴取で殺害を認める自白上申書を書いた男性を時効間近の2002年に立件。しかし1、2審とも無罪となり、福岡高検が上告を断念、今月3日に無罪が確定した。これを受け、遺族から県警に謝罪を求める声が上がっていた。

出典:

	

関連書籍

昭和・平成「未解決事件」100の衝撃の新説はこれだ!