少年を殺害して、その「尻」を食べた!? 「少年臀肉切り取り事件」とは
少年臀肉切り取り事件
臀肉事件(でんにくじけん)、あるいは野口男三郎事件(のぐちおさぶろうじけん)とは、1902年(明治35年)3月27日、東京府麹町区下二番町(現在の千代田区二番町)で発生した事件である。
事件の発生
1902年(明治35年)3月27日午後10時過ぎ、東京府麹町区下二番町六丁目五十九番地の路地裏において、近所に居んでいた少年の河合荘亮(当時11歳)が、両眼をえぐり取られ、臀部の肉2斤(約1.2kg)が剥ぎ取られた、無惨な姿で殺されているのを付近の住民によって発見された。事件が発生した地域を管轄する麹町警察署が捜査にあたったが、目撃証言がなかったこともあり、被疑者の手掛かりを見つけるに至らなかった。
被疑者の逮捕
事件発生の3年後となる1905年(明治38年)5月24日、麹町区四丁目八番地に所在する薬店の店主である都築富五郎が何者かに電話で誘い出されたまま帰らず、東京府豊多摩郡代々幡村代々木の山林において、縊死体となっているのが発見された。麹町警察署は、同薬店に度々出入りしていた野口男三郎に注目し、その後の捜査の結果、先の少年の臀肉が切り取られた事件の真犯人ではないかと考え、同年5月29日、甲武鉄道飯田町駅において、野口男三郎を逮捕した。
野口男三郎
野口男三郎(旧姓、武林男三郎)は、大阪市西区新町南通の出身であり、市内に所在する私立桃山学院に進学した。その在学中、後援者又木亭三とその実母キクの支援を受け、1886年(明治29年)4月頃、後援者である亭三を伴い上京し、後援者の実母の弟である石川千代松宅に寄宿した。機知に富む野口の才弁と柔和な性格から、寄宿先の家人からの信用は高かったといわれている。男三郎の信用は近所でも評判となっており、寄宿先の近所に住む詩人野口寧斎の実妹であるソエもその一人であったとされる。ソエは男三郎と交際を重ね、その後、男三郎とソエの両人は寧斎を説得し、1901年(明治34年)から野口寧斎宅での同居を始めたとされている。1904年(明治37年)7月、ソエとの間に、長女である君子を儲けた。
三件の殺人事件と余罪の自供
野口男三郎の逮捕後、男三郎は、最初の殺人事件である臀肉切取事件と逮捕の決め手となった薬店店主殺害事件を自白し、また、第三の殺人事件として、1905年(明治38年)5月12日に突然死した男三郎の義兄である野口寧斎の殺害と余罪としての卒業証書の偽造を行ったと自白した。被告人の供述調書および起訴理由書[6]の記述から、一連の事件の経緯と年表を以下に記載する。
1899年(明治32年)9月頃野口男三郎、東京外国語学校露語学科に入学1901年(明治33年)野口男三郎、野口寧斎宅にて実妹サエと同居を始める
1902年(明治34年)3月27日野口男三郎、麹町区下二番町で河合荘亮を殺害?
同年9月頃野口男三郎、東京外国語学校露語学科を退学、周囲には在学との虚言
1903年(明治35年)7月から8月頃野口男三郎、東京外国語学校の卒業証書用紙を詐取、偽造?
1904年(明治36年)7月頃野口男三郎、内妻サエとの間に、長女君子をもうける
同年12月頃野口男三郎、義兄寧斎と婚前契約を巡り対立、野口家を出奔
1905年(明治37年)5月12日義兄野口寧斎が突然死(野口男三郎が殺害?)
同年5月24日野口男三郎、麹町区四丁目で薬店店主都築富五郎を殺害?
第一の殺人事件 臀肉事件
1901年(明治34年)から、野口男三郎は、義兄の野口寧斎宅において、寧斎の実妹サエと同居を始めたが、義兄の寧斎との関係は必ずしも好ましいものではなかった。野口寧斎は、両人に説得されて同居を許したものの、その内心は、男三郎が信用に足る人物ではないと思われているのではないか、と男三郎は推していた。また、義兄である寧斎は、当時、「業病」「不治の病」と称されたハンセン病を患っており、義弟である男三郎は献身的な看護を行っていたが、内面では、その「悪疾」によって、恋仲にあるサエに感染するのではないかという疑念を抱いていた。寧斎の実妹サエとの結婚のために、寧斎との関係を円満なものとし、かつ、ハンセン病を患う寧斎から恋仲にあるサエへ病が伝染させないようにするために、ハンセン病の治療法を求めるようになった。男三郎は、ハンセン病の治療に人肉が有効であるとする俗信を信じ、近所の児童を殺害して、人肉を採取して、これを寧斎に与えようと決意した。
1902年(明治35年)3月27日午後10時過ぎ、男三郎は、砂糖を購入し帰宅途中であった河合荘亮(当時11歳)に対して、背後から近づき、被害者の顔面部を自身の身体に圧迫させ、結果、被害者を窒息死させた。被害者の死亡後、犯行現場の付近にある空き地において、事前に準備した洋刀を以って、被害者の顔面中央部を刺し、次に、左右臀部から、長さ6寸(約18cm)、幅4寸5分(約13cm)ほどの筋肉組織を剥ぎ取った。目的の臀肉を採取した後、自身の手指を以って、被害者の両眼から眼球をえぐり取った。犯行は日付を跨ぎ、28日に達していた。
翌29日、京橋区金六町の商店から陶製の鍋とるつぼを購入し、同区木挽町の貸ボート屋から一艘の手漕ぎ船を借り受けた。浜離宮付近の海上で、あらかじめ用意した木炭で火を起こし、臀肉からエキスを抽出し、残余物を海中へ投棄した。帰途、赤坂区一ツ木町の商店から鶏肉のスープを購入し、自身が作成した臀肉のエキスをこれに混ぜ、在宅の寧斎に食べるよう薦めた。
人肉スープ
取り調べの結果、男三郎は寧斎を窒息死させたことと、少年を殺害したことを認めた。後者について自白調書では、「炭火ヲ以テ(略)肉片ヲ煮タル上一種ノ肉汁ヲ製シ之ヲ濾過(ろか)シテ壜詰(びんづめ)トナシ、残余ノ物体ハ悉ク水中ニ棄投シ」、鶏肉スープに混ぜて寧斎とソエに飲ませたとある。
あとになって弁護士をつけた男三郎は、自白は警察の拷問によるものだったとして自供を翻した。
最終的に寧斎殺しと少年殺しは証拠不十分として無罪となったが、富五郎殺しでの絞首刑が確定した。
今となっては、すべて男三郎の仕業だったと実証するのは難しい。
しかし当時、ハンセン病や梅毒、肺病の特効薬として人肉や人骨が一部で注目されていたことを知らしめる事件だと言える。
ハンセン病とは
出典:ハンセン病とは
ハンセン病は皮膚と末梢神経を主な病変とする抗酸菌感染症 で、現在は途上国を中心に患者がいるものの、日本では毎年数名の新規患者の発生で、過去の病気になってきている。しかし、感染症法の前文には「我が国にお いては、過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓とし て今後に生かすことが必要である。」と記載されている。
卒業証書偽造事件
1899年(明治32年)9月頃、男三郎は東京外国語学校ロシア語学科に入学した。しかし、在学中の3年間の間、各年度の試験が不合格であったため、1902年(明治35年)9月頃、同校を退学せざるを得ない状況となった。しかしながら、サエとの結婚を認めてもらうためにも、社会的信用を失することは危難となると考えた男三郎は、周囲の人間に対して、未だ在学中であるとの嘘をついていた。1903年(明治36年)7月から8月頃、自身が在学していた東京外国語学校の卒業証書を周囲に見せることで、信用を維持する一助になると考えた男三郎は、同校の卒業証書を印刷する明治商会の印刷所に赴き、同校の卒業証書用紙を借り受けることに成功した。その後、当時の東京外国語学校校長であり文学博士の高楠順次郎名義の7月6日付卒業証書一葉、ドイツ語修了証書一葉、経済学修了証書一葉の計三葉と学校印および校長印を偽造した上で、偽造証書に捺印した。
同年9月1日、偽造した卒業証書等の書類を、同居する野口寧斎宅に持参し、これを提示し、大阪にある実家へ送付した。
第二の殺人事件 野口寧斎殺害事件
1904年(明治37年)7月、内縁関係にあった男三郎の内妻サエは、長女君子を出産した。しかし、同年12月頃、男三郎は、義兄寧斎との間に交わした財産処分の制限や義兄との同居義務を定めた婚前契約を巡り、争論となり、野口家を出奔した。1905年(明治38年)5月3日、男三郎はサエとの復縁を望みながら、知人宅を転々とする生活を送っていたが、サエからの言伝によって、長女君子が義兄寧斎の下、厳しい検束に置かれており、将来、家族と寝食をともにすることは難しいだろうという状況を伝え聞いた。熟慮の結果、義兄寧斎を殺害するしか方法はないと思い立った男三郎は、麹町区三番町の薬局店で硝酸ストリキニーネを購入し、妻サエに薬と称して義兄寧斎に飲用させるよう謀ったが、失敗した。
5月11日午後11時頃、野口家の家人らが就寝していることを確認した男三郎は、翌12日午前1時頃、ストリキニーネを携帯して野口宅に侵入し、義兄である野口寧斎の寝室に忍び入った。寧斎が持病のため抵抗できない状態であることに乗じて、寧斎の寝着を掴み、足を以って胸部を圧迫して、窒息死させた。
第三の殺人事件 薬店店主殺害事件
義兄寧斎の死後、妻サエとの復縁を妻方の親戚に求めたが無碍にされてしまった。男三郎は、未だ無職であることが妨げになっていると考え、野口家に対して、自分は満州において通訳官として拝命されたとの詐術を用い、実際に満州の地へ向かおうと試みた。しかし、旅費の不足から断念せざるを得なくなったため、近所に住む薬店店主都築富五郎は、耳が不自由であり、かつ抜け目ないことを伝え聞き、架空の投資話を以って、都築から金銭を騙し取ろうと考えた。1905年(明治38年)5月14日午後2時頃、男三郎から架空の投資話を聞いた都築は、取引先の銀行から預金350円を引き出し、自宅に帰宅した。同日午後5時頃、男三郎から都築を呼び出す電話がかかり、共に、東京市街鉄道青山線を経由して、東京府豊多摩郡代々木の徳大寺邸付近を移動する途中、突如、男三郎は都築の頸部を圧迫し、窒息死させた。
男三郎事件は明治末期にバイオリンを演奏しながら歌う演歌師によって、全国的に知られた
ああ世は夢かまぼろしか獄舎にひとり思ひ寝の
夢よりさめて見廻せば
四方静かに夜は更けて
(題名「夜半の追憶」として流行。「天然の美」のメロディー)
桐のひと葉に秋ぞきて
はやふた月もすぎ去りぬ
獄(ひとや)におわすきみが身は
(中略)
恋しききみはいまわしき
罪をおかしてとらわれの
うき身となりし悲しさよ・・・
出典:少年殺害臀部切り取り事件
刑事裁判
予審予審の終了によって、野口男三郎は東京地方裁判所において、公判に付されることが決定され、被疑者が刑事裁判を受けるべき理由が記載された起訴理由書が作成された。予審判事の決定により、野口男三郎は、第一の殺人事件である臀肉事件における河合荘亮の殺害、および、第二の殺人事件である義兄野口寧斎の殺害について、旧刑法292条(謀殺罪)が定める2件の謀殺既遂罪、第三の殺人事件である薬店店主都築富五郎の殺害について、旧刑法第380条(強盗傷害及び同殺人罪)が定める1件の強盗殺人既遂罪、余罪の東京外国語学校卒業証書偽造について、旧刑法195条(官署印偽造及び同行使罪)、203条(官文書偽造罪)および206条(官印偽造罪)に該当するとした。
判決1906年(明治39年)5月15日、公判が開かれた東京地方裁判所における最終審理の結果、被告人野口男三郎は、第一の殺人事件である臀肉事件、および、第二の殺人事件である義兄野口寧斎殺害事件の2件の謀殺既遂について、証拠不十分として無罪を言い渡し、第三の殺人事件である薬店店主都築富五郎の殺害の1件の強盗殺人、および、余罪の卒業証書偽造について、有罪であるとの判決を下した。
野口男三郎が、臀肉事件および義兄野口寧斎殺しに関して無罪を勝ち取った理由として、男三郎の弁護士を務めた花井卓蔵の情熱と理知を兼ね備えた弁護方法の功績のためと指摘する意見のほかに、野口男三郎の取調べにおいて、警察が拷問を行った疑念が指摘されたためとする意見がある。また、公判中、男三郎の訴訟代理人を務めた花井卓蔵は、検察が提示した証拠と証人の証言の矛盾を指摘している。
その後
強盗殺人罪と官文書偽造罪によって有罪を宣告された野口男三郎は、死刑の宣告を受け、1908年(明治41年)7月2日、市ヶ谷監獄にて、絞首による死刑が執行された。享年28。
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