【レイプ・胸糞注意】決して報道されない事件、闇に葬られた女性の悲劇
在日米軍の黒人兵が大量脱走し、強姦の限りを尽くした「小倉黒人米兵集団脱走事件」
昭和25年7月11日深夜、国鉄・小倉駅から南へ4キロメートルにある米軍・城野(じょうの)補給基地から完全武装した黒人米兵が4~5人ずつに分かれて基地の金網を乗り越えて200~250人が集団脱走した。この黒人米兵は前日の10日、岐阜から移送されてきたばかりで近日中に朝鮮戦争(前月の6月25日に北朝鮮軍が38度線を越境し韓国側に進撃した)の最前線に送られることになっていたため黒人米兵は極度の緊張と不安、恐怖の中にあった。
夫・子供の目の前で強姦される日本人女性たち
集団脱走した黒人米兵は太鼓の音がする街中とは反対の方向へ逃走した。完全武装した黒人米兵は土足で民家になだれ込み略奪、傷害、夫・子供の前で婦女暴行の限りをつくした。
決して報道されることはなかった
米軍基地では集団脱走が発覚するとMP(米軍警察)が現場に急行し翌12日の夕方までに全員を逮捕し基地へ連行した。この黒人米兵は14日に朝鮮の前線に移送され、その殆どが戦死したという。これだけの大事件でありながら警察への届は僅かに70件で、新聞などのマスコミも記事としては大きく扱わなかった。当時のGHQが報道管制をしたためである。
終戦直後、満州や韓国からの引き上げ時に行われた日本人女性を狙った多数の強姦
福岡県筑紫野市湯町に 小さな水子供養祠がある。これは終戦直後の混乱の中、満州や韓国から民間人が引き上げる際にソ連兵や中国兵、北朝鮮の保安隊兵士に強姦されて、 妊娠させられた多くの女性が中絶した厚生省博多引揚援護局 の二日市保養所があった場所に設置されている。
なかには、上陸寸前、絶望して博多湾に身投げした女性も 多かったそうだ。
当時の様子を伝えた報道の様子
「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、 通行中の婦女を犯す。 汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、 下の娘は性病に罹る。
元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、 (引き受け者の)人数不足せるを(補うものを) くじ引きにて決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。
(慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。」
『検証・シベリア抑留』ウィリアム・ニンモ著 加藤隆訳
(時事通信社 1991年3月発行)
第47頁
「要するに、満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は、 口ではいい表せないほどひどいものだった。 暴行と強奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。
・・・とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、 抵抗するものは片っぱしから殺した。 ソ連軍の兵士たちが日本の女にしたことは、 いまでもぞっとするほど残虐なものだった」
ソ連兵の日本人婦人への暴行は、凄まじい位の一言に尽きる。それが、12、13歳の少女であろうと70歳近い老婆であろうと人までも白昼であろうと雪の上であろうと…日本人が乗っている列車をソ連兵が止め、女を降ろし、夫や子供、公衆の目の前で集団暴行した。
夜となく昼と無く暴行の限りを尽くした…・。
証言者たちのコメント
終戦当時、朝鮮半島で 強姦された日本人を保護
・ヤン・ジュヒョン(76)釧路出身
父親は阿寒炭鉱で数百人の炭鉱夫をまとめる会社経営者。 乗馬に興じる余裕があった程裕福な暮らしをしたいた。 14歳の時釜山に引き揚げる。 釜山には不良者がたくさんいた。
一人では街に出てはいけないと言われていた。 街に出てみると、 男たちが大声を出し、女を抱いているのを見た。
海の方に連絡船の往来を見ると日本に帰りたいと思った。
戦後最大の引揚港だった博多港に着のみ着のままの大勢の日本人を乗せた船が連日港に接岸した。
朝鮮半島からの引き揚げ者
・中田治子(80)終戦直後の混乱期にはソ連兵や現地人(韓国人、朝鮮人)ら による略奪、そして強姦が平然と繰り広げられていた。
中田さんの父親は年頃の中田治子さんのことを 案じて止まなかった。
当時18,9だったから坊主にして、 兄の服を着たり、男の子の格好をするように言われた。
そんなある日の夜、自宅に男たちが押し掛けます。 中田さんは隣の家に身を寄せ、静かに時を過ぎるのを 待ちました。
何か棒を持っていて入ったのか、 ガサガサ探している音が聞こえた。
「隠れていてよかった・・・ あの時、(朝鮮人の男達)に見つかって (強姦されて)いたら・・・
舌を噛み切って死のうと覚悟していました 。」
・深澤幸代さん(89)「マダムワイ マダムワイってね、女くれ女くれって、、」
「マダムワイって言って家に入ってくるんですよ、、」
「マダムワイってしますよね、、」
「パーンって空に向けて(撃ち)脅かすんですからね、逆らうことできんかった、、」
「お母さんの目の前で銃を突きつけられて娘が犯されるっていうのはどういう気持ちだと思いますか、、」
北朝鮮から引き揚げ時に
・小林茂さん(81歳)「抵抗するものは撃ち殺すんですよ、もうマンドリン銃ゆうて、この位の小銃で、それガーンと撃つんです。そういったのを見てるんですよ。もう全部裸にされるんですよね。そして後ろ向けってな格好なんですよね、だからねぇ、もう犬が盛っているようなカンジのね、まぁ言えば男女間のセックスしてるんですよ。口の中にね、銃を持っとるんですよ。ほいで周りに男性が1人か2人おるんですよ、次の人が待っとる、それで強姦しよるんですよ。
それでこん畜生、体を開かんかったらボンッ、と撃つんですよ、目の前で。ほんでそれを引きずり出して次の、、もうそんな事考えられませんよ、あの状況の中で。(昼の日中でも?) そうです。雪の中でも、道路の中でもそうです。」
ソ連兵が去った後、放心状態で動けない女性の為に服を拾い、湯を沸かし、体を拭き・・・
・新田浩治さん(78歳)「丁度皆兵隊にとられてますよね、家には子供と奥さんしかおらんでしょう。皆奥さん方は軍服を着てちゃんと戦闘帽子も被っているけど、やっぱ女って分かるじゃないですか。全部トラックに乗せてね強姦しとる訳ですよ。」
新田さんが見ている目の前でソ連兵に連れて行かれた女性達。
近所の家の母親も強姦されました。更に悲劇が起こります。辱めを受けたその母親は子供を道ずれに手榴弾で一家心中をしたのです。
「豆腐と日本人妻を交換しろ」
・佐野浪子さん(94)敗戦を迎えソ連兵や中国人が日本人の女性を連れていき、自宅に押し入っては銃で脅し略奪を繰り返した。夫が食料を調達し、浪子さんは息を殺しながら社宅の床下に潜む毎日だった。
ある日、ひとりの中国人が、天秤棒に桶いっぱいの豆腐を担いで社宅へ現れた。浪子さんと豆腐を交換しろと迫った。誰もがロクに食べていない。数日は、飢えをしのげる量である。
夫は突っぱねたが中国人は、「買ったあとは、不自由させない」としつこかった。
妻を売ったり攫(さら)われたりする事が、珍しくもないようになっていた中、夫はよく私を守ってくれた。隠れて、売られて行く奥さんを見た事がある。その奥さんの、絶望の色を浮かべた目を、今でも忘れられない。
引き揚げの際、中国人の村を通過すると、物陰から視線を感じた。薄汚れた満服を着ているが、日本人女性だった。浪子さんは、次のようにつづった。
哀しい目をしていた。私たちにはその人を連れて帰る力はない。その人も分かっていた。ただ黙って私たちが通り過ぎるのをじっと見つめていた
ソ連兵に怯える日々。日本人会の幹部達は悩んだ挙句、特定の職業の女性達に犠牲になってもらう事に決め、作ったのが「特殊婦人」
「一般の婦女子が危険な目に遭うので、あなた方は済まんけども何とかそういう人達の事を考えて助けてやってくれないかという事で、そういうお姉さん達に頼んだわけです。」「水商売の人がおられて・・・なんか皆からお金を集めてね、申し訳ないけどって言って、まぁ素人の娘がねそういう目に遭うのは可哀想だからっていう風な、、」
敗戦から1年後、集団で町を脱出。しかし引き揚げる道中に女性を要求するソ連兵が待ち伏せていました。その時も・・
「これ言っていいかどうか・・・いまだに胸が痛みますけど、女の人4人選び出してですね、ソ連兵に与えたんですよ。そしてその間に私達は移動しました。自分だけ今幸せで居れるって事はねぇ・・・」
多くの日本人を体で救った「特殊婦人」
引き上げ船がついた港では、性病や妊娠の判定を日本についたら直ぐされた。中国大陸ではソ連兵が日本人の家へ来て女性なら子供でも年頃と判断されれば強姦対象。
女性は集団でソ連兵に次々と強姦され、その後親子・家族・集団で自決となるのも沢山あった。
そして、日本への引き上げ船に乗るまでの道のりでは、通らなければならない村々で女性を差し出し通して貰うという事が当たり前の様にされ、しかも、差し出す女性は日本人が決めていた。そう彼女らは「特殊婦人」と言われ、帰国の道中、多くの日本人を救ったのである。
しかし、やっと乗れた船でも強姦された人・それで妊娠された人は、日本が見えてきたら自分の心の辛さに耐えられずかなりの数の女性が海へ身を投げ自殺した。
無事港についても特殊婦人は妊娠が分かると、中絶手術を密かに施されました。
戦後すぐの日本では、中絶は禁止されていたので公になったのは最近。
密かに大量のお腹の赤ちゃんが処分と言う名の殺人で命を落としたのである。