あの名曲の誕生秘話!これを知ったら明日から聞こえ方が変わる!
この歌は聞いたことあるけど、、、歌が完成するまでのドラマは知らない人という人も多いと思います。そんな方に、向けたまとめ記事です。
THEイナズマ戦隊 応援歌
出典:Amazon 本気で何もかも辞めたくなって、辛くて辛くて悲しくて悶々としてたら、親友がイナ戦の応援歌を全力で歌ってくれた…久しぶりに本気で泣いたわ…音楽の力って凄いなー。゚(゚´Д`゚)゚。 応援歌
ボーカルの上中丈弥さんが高校時代、部活動の野球でバッテリーを組んでいた鍛治泰夫さんへ向け作った歌。鍛治さんは高校卒業後は大好きな野球を続ける予定出会ったが怪我きっかけで野球を続けることができなくなってしまった。
その後はちゃんとした職にも就かず、ただフラフラとした日々をおくることになったという。
そんな状況を聞きつけた上中さんが心配になり、鍛治さんへ連絡をしたがしばらくは無視をされていたという。
鍛治さんの中では、高校時代を共にした親友に対してこの現状を知られるのが恥ずかしいと思っていたと話した。
そんな時ついに決心を決めプロボクサーを目指すことを決意する。
プロのボクサーとなり第1戦にして、右拳を骨折。
その後も度重なる骨折をしてしまったとのこと。
そんな時にイナズマ戦隊のライブがあることを知り何気なく見に行くことにした。
ライブ中情けない自分に嫌気がさし途中で帰ろうとした時、
ライブ中の上中さんから、
「俺、高校の時の友達に書いた歌があってな『応援歌』っていう。
ボクサーを目指すって奴に向かって書いたんやけどさ、
情熱だけで天下獲るよっていうそういう気持ちを信じたい歌やから
みんなの胸に届きますように」
この言葉を聞いた鍛治さんはその場で泣き崩れたという。
その後の鍛治さんはプロのキックボクサーとして再復活を成し遂げた。
ET-KING さよならまたな
出典:Amazon さよならまたな
2月3日に放送された日本テレビ系『誰も知らない泣ける歌』に、とある男性の人生を変えた歌「愛しい人へ」で出演したET-KINGが、3月31日放送の同番組に再び出演し、ある楽曲を熱唱する。その楽曲とは、ET-KINGがいつもライヴの最後に歌う「さよならまたな」。お互い胸を張って再会できるようにという願いが込められたこの曲には、ET-KINGのリーダー、イトキンの誰にも明かしたことのない悲しい思い出が背景にあるという。
この曲の歌詞は、その悲しみを“ポジティヴに生きていく勇気”に変えようという願いを込めて、ET-KINGのメンバー全員で一言一句、言葉を選び抜いて作った。かけがえのない“連れ”と離れるとき、「「さよなら」ではなく、お互い胸を張って再会できることを期待して「さよならまたな!」で進めば、俺達はきっとより大きくなってまた会える!」―そんなイトキンの熱い想いが込められたこの曲が、きっとあなたの心の琴線を揺さぶるはず。
出典:ET-KING、「さよならまたな」に込められたイトキンの願い BARKS KOKIA 私にできること
私にできることは、2007年7月16日に発生した中越沖地震で被災されたKOKIAさんのファンの女性が携帯電話の着信音にKOKIAさんの曲を設定していて、被災して辛い気持ちを励ましてくれいているということをKOKIAさんにメールしたことがきっかけでできた曲だそうです。KOKIAさんはこのメールをもらったことからこの女性を励ますために「私にできること」をプレゼントしました。
女性は自分だけではなく中越沖地震で被災された多くの方々にも聞いてもらいたいということでFM局にリクエストを申込み、放送されました。
その結果多くのリスナーからの反響があり、復興支援コンサートでの披露やCD化しての発売が決定することになりました。
中越沖地震から1年以上が経過しましたが、いまだ震災の傷は完全には癒えていないでしょう。
震災の記憶を風化させず、地元の被災者の方々がいまだ辛い思いをされておられることを伝えるためにも今回誰も知らない泣ける歌でこの曲が紹介されることは非常に意義のあることだと思います。
HY Song for...
HY Song for...
仲宗根は、すでに歌手活動をしていた20歳の時に、地元の中学校で教育実習をしていた友人にお願いされ、生徒たちとの食事会へ。そのとき、1人の生徒に対して「私、あの子と結婚する気がする」と特別な感情を抱き、その後、そのヒロタカさんと連絡を取り合い、互いに思いを寄せるようになったという。だが、ヒロタカさんは当時15歳だったため、仲宗根は「好きだけど今は付き合えない。だからこれ以上会うのはもうやめにしましょう」と別れを告げ、「でもあなたが20歳になったとき、もしまだお互いが好きだったらその時は付き合いましょう」と約束。その時のヒロタカさんへの思いを歌にしたのが「Song for...」だったという。
旅立ちの日に
この曲は、1991年当時、埼玉県秩父市市立影森中学校の校長であった小嶋登と、音楽教諭であった坂本浩美によって作られました。小嶋は、荒れていた学校を歌で明るくしたいと考え、生徒たちに合唱の機会を多く与え、坂本との粘り強い努力の結果、生徒たちはやがて歌うことの楽しさを知り、学校も明るくなったそうです。
その後、坂本は「卒業する生徒たちのために、何か記念になる、世界にひとつしかないものを残したい」という思いから小嶋に作詞を依頼し、自身がそれにメロディーをつけ、曲を完成させました。
もともと「3年生を送る会」で、教職員たちから卒業生へ向けて歌うためのものでしたが、その後も生徒たちに歌い継がれ、周りの小中学校でも歌われるようになりました。
出典:旅立ちの日に-卒業式の歌
初演