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命のビザ・杉浦千畝氏。その崇高で命がけの行動が、なぜできたのか考えてみた
殿堂

命のビザ・杉浦千畝氏。その崇高で命がけの行動が、なぜできたのか考えてみた

Author:
原田サキ原田サキ
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命のビザ・杉浦千畝氏。その崇高で命がけの行動が、なぜできたのか考えてみた

杉浦千畝氏はそもそも何をしたの?

■世界中で尊敬される「命のビザ」を発給

東洋のシンドラー、命のビザ、と呼ばれる杉浦千畝氏。阿部首相が名前を間違えたとかで話題になりましたね。

リトアニアの日本領事館にいた頃ドイツ軍から逃れ他の国への亡命を望む多くのユダヤ人に、ドイツと同盟中だった日本の外務省に背いてまで、ソ連と日本を通過できるビザを独断で発給したかたです。

最後はベルリンに移動する列車から身を乗り出し、その時点で、もう正式でないビザを出発までひたすら発給し続け多くのユダヤの人々を救った素晴らしい行動は、今も世界中から尊敬されています。

もちろん、杉浦氏の人道的で勇気ある気持ちがなければ叶わない事です。ですが当時の国際情勢や日本の政府や軍部の力を考えると、この素晴らしい行動をたった1人、何もかも無視して独断で行えば無事ではいられなかったと思うのです。

なので「功績を黙殺し続けた!」「外務省から解職なんて」という声には「ん?」と感じるのです。何か背景や事情があったのではと考えています。

ビザ発給の時系列、目まぐるしく変わる状況

領事館の回りに集まる人々

1939年7月・リトアニアのカウナスに日本領事館新設、領事代理に任命される
    8月28日・領事館を開設
    9月1日・ドイツが西ポーランドに侵攻
    9月17日・ソ連、東ポーランドに進出
1940年7月18日・ユダヤの人々が助けを求め、集まる
    7月28日・松岡外務大臣にビザ発給を打診、禁止される
    7月29日・一晩悩み抜き、大量のビザ発給開始
    8月2日・領事官からの退去命令を受ける
    8月3日・リトアニア、ソ連に併合され領事館の意義が無くなる
    8月9日・再びビザについて打診、やはり禁止される
    8月28日・ついにホテルに避難
    9月・カウナスからベルリンへ列車で移動。出発するぎりぎりまで、ビザを発給し続ける
(参考;杉原幸子著「6000人の命のビザ」より)

日付は何度も確認しましたが違ってたら失礼します。

人道的な杉浦氏のもう1つの顔とは?

満州へ渡って3年後、24歳で外務省書記生に採用される。任された任務は、当時日本と緊張状態にあったソ連との関係を有利に進めるための、水面下の活動だった。近年発見された資料に、具体的な記述が残されている。「ソ連領事館に保管されていた暗号書を盗み出す陰謀に参加」。そして、「“怪露人・チェルナエク”と接触し、諜報者として操縦」。次々に機密情報を入手し、本国へ送り届けていた。

出典:THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜|BS-TBS

	
カウナスでは、杉原さんはドイツの公使館にまで諜報網を張り巡らしていて、非常に重要な情報を得ていました。例えば、ソ連はリトアニアを併合した後、各国の大使館や公使館に国外退去を命じたのですが、杉原さんが「ドイツだけは特別扱いで、(公館の閉鎖の準備もしないで)のんびりしている」という情報を日本に伝えました。この後、複数の日本の外交官たちが「ドイツとソ連との関係はこれまでと変わらない」という情報を送りました。

出典:長年の杉原研究から、さらに明らかになった杉原千畝の姿 - み...

●1つ目は「THE歴史列伝」より「諜報士官」の立場と「人道」に背けない姿を両方から、2つ目は「みらいぶ+」より非常に有能だったエピソードが紹介されています。

■有能な外交官だった杉浦氏

●生活が苦しいので公費の外交官留学性試験を受験、合格。ハルビンでロシア語を学び、そのまま満州の外務省で働きます。

この後、満州国外交部にいた杉原氏、中国とソ連が共同で持っていた「北満州鉄道」を譲ってもらう交渉、という仕事を任されます。日本の希望額5000万円に対してソ連の条件は6億2500万円。ところが高すぎる根拠を次々と並べ、1億4000万円にしたとのこと。そのため関東軍から、スパイとして勧誘されてしまいますが「国のためなら良いが武力には加担しない」と断ります。ここからも国や人の事を考えるかただと感じます。

そしてリトアニアのカウナスに日本領事館を新設、赴任する時もソ連の情報を集めるよう任されます。これらから相当なロシア語、他の言語、情報収集の能力の高さがわかりますよね。諜報=スパイの才能はずば抜けていたようです。

国際情勢からビザ発給をかんがえてみた

ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害は、実はナチス・ドイツに始まるものではありません。いわゆる「反ユダヤ主義」は宗教の問題に根ざすもので、イエス・キリストの死後まもなく始まりました。そもそもキリスト教はユダヤ教に起源を持ちますが、その後分離し、キリスト教徒はイエス・キリストを救世主として認めなかったユダヤ人を蔑みました。またイエスが磔にされた責任もユダヤ人にあるとします。

出典:WEB歴史街道

●「WEB歴史街道」より引用です。ユダヤの人々がなぜ標的になってしまったのか説明されています。

●元々ユダヤの人々は、ヨーロッパ中であまり好まれた存在ではなかったようです。始まりは宗教問題のようですが人種主義が強くなってきた事、「自分たちの国を持たない民族」などの理由も影響したようです。幸い?なのかもですが日本人の私では、どれで調べても、何故それで差別されるのかよく理解できませんでした。

さらに仕事を選ぶことも難しくなり、キリスト教徒が嫌う金融業に就くケースが多く裕福な人がいた事も、ますます「反ユダヤ」を強めたとのことです。それを明確に形にしてしまったのが、ドイツの総統だったヒトラーですね。

どの国とどの国がどうなっていたか、改めて

一般に第二次世界大戦は、1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻に始まり、1945年8月15日の日本の敗北までとされる。この間、ドイツ・イタリア・日本を中心とした枢軸国に対し、イギリス・フランス・中国に加えて途中から参戦したソ連・アメリカ合衆国を加えた連合国(最終的には52カ国)との2陣営

出典:第二次世界大戦

「世界史の窓」より。
日独伊三国同盟
1936年10月に成立したナチス=ドイツとファシズム=イタリアの協力関係を、ムッソリーニが「ベルリン=ローマ枢軸」と呼んだところから、そこから発展したファシズム国家の協力体制を枢軸国というようになった。同年、日本とドイツは日独防共協定を締結、翌37年にはイタリアが加わり三国防共協定が成立し、三国枢軸体制ができあがった。第二次世界大戦開始後の1940年、三国は事協力体制を強化するために軍事攻守同盟である日独伊三国同盟を結成した。

出典:枢軸国

●引き続き「世界史の窓」より。日独伊、対、他の国々といった構図ですね。

■1939年の地図

●赤い部分がソ連。杉浦氏のいたリトアニアは、敵対し合う独・ソに挟まれた位置。青い部分です。

実は1939年に互いの領土を侵さないという「独ソ不可侵条約」を結びます。ドイツがポーランドを手に入れたかったのは、ソ連の共産主義がドイツに入ってくるのを防ぐためという説もあるそうです。それなら挟み撃ちにするため、ソ連の後ろにある日本と組みたかったのではないかと想像します。

ところが条約を結んですぐ、ドイツがポーランドに侵攻。同時にソ連も侵攻して占領、分割してしまいました。そして行き場の無くなったユダヤの人々が、杉浦氏のいる、リトアニア・カウナスの領事館に助けを求めに来たのですね。

どうしてシベリア鉄道で、敵国ソ連を通れたの!?

■ビザを手にした人々の移動ルート

ビザを手にしたユダヤの人々の移動ルートです。長い長い道のりです。敦賀から日本に入り、そこから他の国に行きます。

「Onlineジャーニー」よりお借りしました。
■このような状況もあったようです
カウナスの領事館の中で、杉原以外に唯一、ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事ヤン・ツバルテンディクは一計を案じ、カリブ海のオランダ領キュラソーという岩だらけの小島への「移住」を示唆。キュラソーなら税関もないため、入国審査もない。日本の通過ビザさえあれば、ソ連はシベリア横断を許可するとの判断を示していた。

出典:6000の命を救った外交官 杉原千畝の選んだ道~前編~ - Onlin...

●このような後押しもあったようです。引き続き「Onlineジャーニー」より、引用です。
この問題をめぐり当時のソ連指導部間の書簡や回想録、公文書館の資料、国営旅行会社の活動実態などに基づき共同研究を進めたロシア・ホロコースト・センターのイリヤ・アルトマン共同代表(61)は、ソ連当局がユダヤ人の自国領内の通過を承認した理由として、「経済的利益」と「海外情報網の構築」という2つの狙いがあったことを指摘する。

出典:「命のビザ」にソ連の影 杉原千畝の活動を経済利益・軍事情...

●「産経ニュース」より。徐々に研究が進んでいるようですね。
●当時のソ連は戦争の影響で、外貨と海外の情報が足りない状態。ホテルの宿泊などで外貨を、さらに海外の情報を難民の皆から得るため、シベリア鉄道で日本までの通過を許可した説が、研究でも考えられているそうです。もしそうなら、ソ連通の杉浦氏は「通れる」と判断したのかもしれませんね。

ところで肝心の日本はいったい何しとった

●日本は第一次世界大戦の頃に「人種差別撤廃条約」を世界で初めて提案しています。もちろん却下。そんな日本ですから「反ユダヤ」など関係ないでしょう。問題はドイツと同盟を組んでいたこと。その手前、政府も杉浦氏のビザ発給にOKは出せず、形だけ禁止したのではとも考えられます。ユダヤの難民の人々はやっとの思いで敦賀に到着しますが、このようなエピソードも。
過酷な状況で上陸するユダヤ人難民と敦賀市民との間には心温まるエピソードが残っています。それは、ひとりの少年が難民に果物の入った籠を持って近づき無償で置いていったり、港に近い銭湯の主人は彼らの姿を見るに見かねて浴場を無料で開放しました。また、駅前の時計店の主人は、彼らが空の財布を見せながら空腹を訴えたため、気の毒に思い彼らの所持していた時計や指輪などを買い取り、さらには台所にある食べ物を渡しました。

出典:人道の港 敦賀ムゼウム ユダヤ人難民

「人道の港 敦賀ムゼウム」というサイトに、心温まるエピソードが沢山紹介されています。 

■若六旅館

この旅館に泊まったりもしたそうです。日本が本気で反対していたら、難民の船を入れないでしょうし、取り締まりもあったのでは。やっぱり黙認していたと感じられます。

ところでオトポール事件をご存知ですか

■画像は1941年10月18日の内閣です

●話は飛びますが杉浦氏の2年前、陸軍の樋口季一郎中将がソ連と満州の境のオトポールで、同ように逃れてきたユダヤ難民が満州に入れず凍え、飢えていたのを軍部の反対を押切り満州で保護します。

ドイツと同盟を組んでいたので、国益に反してしまい表立ってOK出せませんよね。

その時それを不問にした陸軍大臣は、A級戦犯として叩かれがちな東条英機氏。日本は元々、そういった国なのかもしれませんね。

画像とさらなる情報「アジア歴史資料センター」からお借りしました。 

約2000通を発給、6000人を救ったビザ

大変な状況の中、無事帰国すると外務省を解任されます。「要件を満たしていないビザ発給の禁止」を守らなかった手前、仕方なかったのかもしれません。ただ「日本政府に背き、たった1人でビザを発給し続けたヒーロー」という像は、少し違和感です。当時の世界情勢、日本の政府の立ち位置など複雑な要素が絡み合い、ソ連と日本を通過するビザが発給ができたのかとも感じます。

歴史は新しい証言や証拠が次々出てきたり、間違った情報が流れたり本当を知るのは難しいですよね。

それでも、領事館の回りに助けを求め集まる人々を見つめ一晩中悩み、「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」と言った、素晴らしい人間性と勇気、ほぼ休みなく列車が発車する寸前まで、ひたすらビザを発給し続けた力強い思いがなければできなかった事です。

当時ドイツと同盟中の日本の意思に背いて、さらに守ってくれる存在が近くに無い中「領事の権限でビザを出すがよいか」と尋ねた杉浦氏に「私たちはどうなるか分かりませんけど、そうしてあげてください」と応えた夫人、相当な覚悟ですよね。

まずは杉浦氏の勇気ある崇高な行為と、それを後押しするような何かが繋がってできた命のビザ、奇跡のビザのように感じます。

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著者プロフィール
原田サキ

3年ほどウェブライターをした後、現在は再び会社員に。 世の中に溢れる、隠れるたくさんの情報、特に社会的な疑問を色々と発信したいです。 個人的な趣味も♪