サッカー日本代表、実は長谷部選手が監督となりチームを指揮していた!
長谷部誠、日本代表引退を表明…
熱戦が続くワールドカップ。日本代表は惜しくも決勝トーナメント1回戦で強豪ベルギー相手に善戦したものの、2-3で痛恨の逆転負け。史上初のベスト8進出は叶わず、敗退が決まった。そんな中、圧倒的なキャプテンシーでチームを引っ張り続けてきた「長谷部誠」選手が、試合から一夜明けたインスタへの投稿で代表引退を宣言した。
インスタにアップしたコメントはこちら
「まず始めに、ロシアW杯での日本代表チームへの多大なるサポート本当にありがとうございました。皆様からの力が日本代表チームを前へと押し進めて下さいました。本当に感謝しています」「そして僕個人としては、この大会を最後に日本代表にひとつの区切りをつけさせていただきたいと思います。日本代表という場所はクラブとは違い、いつ誰が選ばれるかわからないところであるので、いち選手からこのように発信する事は自分本位である事は承知しています。しかし、2006年から約12年半という長い間共に戦った仲間たち、多大なるサポートをして下さった日本の皆様に感謝の気持ちを伝えさせていただきたいと思い、こうして書かせていただいています」
「日の丸を胸に戦った時間は僕にとって誇りであり、なにものにも代え難い素晴らしいものでした。共に戦った7名の監督方、コーチングスタッフ、代表スタッフのみんな、そして素晴らしきチームメイトたち、最高の仲間でした。特に主将を務めさせていただいた8年間は皆に支えられてばかりでした。貴方達と共に同じ時代に戦えた事は幸せでした」
「そして日本代表サポーターの皆様、これまでのサポートに心からの感謝を伝えさせていただきます。12年半の間、様々な事がありました。歓喜も失望も共に味わいましたね。良いときもそうでないときも僕たちの背中を押してくださいましたね。皆様と共に歩んだ時間は僕にとって大切な宝物です。心から、ありがとう!! 最後になりますが、これからは僕も日本代表チームのサポーターです。一緒に日本代表チームに夢を見ていきましょう!!! 長谷部誠」
ベルギー戦後、涙をこらえてコメントする姿が感動を呼ぶ
選手だけでなく裏方スタッフへの目配り、気配り…。歴代監督もそのキャプテンシーに絶大の信頼を置く
2011年1月のアジアカップは、まさに長谷部の力なくして優勝はなかった。初戦のヨルダン戦に引き分けると選手ミーティングを開き、「みんな厳しさが足りないんじゃないか。日本代表の誇りを持って戦おう」と呼び掛けた。若い選手には「お客さん感覚でやっている」と意識改革を求めた。2戦目のシリア戦では相手と接触した川島永嗣が一発レッドで退場。シリアのオフサイドを主張して主審に詰め寄るとチームメイトを引き離して、長谷部は手を後ろに組んで抗議している。熱くなったチームを落ち着かせ、勝利へと導いている。そこからチームは勢いに乗り、ビクトリーロードを駆け上がっていった。
目配りと気配りのキャプテン。
食事になれば、いつも違ったテーブルに顔を出し、声を掛けていたそうだ。若手の話にも耳を傾ける。練習でチームに疲労が溜まっていると感じれば、意見をまとめて練習メニューの軽減をザッケローニに願い出ていた。
裏方への配慮も忘れない。南アフリカW杯では大会後、メディカルスタッフや西芳照代表専属シェフを始めスタッフ一人ひとりに、全選手のサイン、メッセージを入れた大会ユニホームを手渡している。その音頭を取ったのが長谷部であり、誰のユニホームをどのスタッフに手渡すのかということまで、選手各々が世話になった頻度を踏まえながら考えていたという。
そんな評判を聞いていたザッケローニは、就任当初から長谷部のキャプテン就任を決めていた。振る舞いにリーダーの資質を見ていたからだ。
ザッケローニ前監督が語るキャプテン長谷部誠
「長谷部が一度、私のところに『キャプテンは誰ですか?』って聞きに来たんだよ。多分、引き続きキャプテンをやらされるんじゃないかって不安だったのかもしれない。でも私は言ったんだ。『もし前のチームで君がキャプテンじゃなかったとしても、私は君にキャプテンをやってもらうつもりでいる』とね。実際、素晴らしいキャプテンだと思っている。長谷部は選手のことをよく理解していて、己の役割というものを完璧に把握している。彼に何か注文を出すということはない。長谷部はマルディーニなんだよ。いや、彼と比べたって見劣りしないと言ってもいい。個人的に、最高のキャプテンだと思っている」
ハリルホジッチ前監督が語るキャプテン長谷部誠
長谷部は我々のキャプテンでチームに安定を持たさなければならない選手。実に経験豊富で、みんなにいろいろな影響を与えている。彼を通すことでチームの団結が始まる。長谷部と補完関係になる選手を見つけなければならないのが我々の課題だ。長谷部はどちらかと言うと守備を安定させる役割を担ってくれる
ハリルホジッチ監督解任後には、自身も責任を感じてキャプテンを譲る決断も
ハリルホジッチ前監督が解任された際、「自分も責任をとって、主将を若い選手にゆずってもいい。全力でサポートします」と申し出たという。だが、西野監督から「辞めない責任の取り方もある」と言われ、ここまでチームを引っ張ってきた。
その影響力は絶大!日本代表の監督人事や戦術変更に関わることも
現在34歳になる長谷部選手は、2006年2月にA代表デビューを果たし、2016年9月1日のUAE戦で代表通算100試合出場を達成。W杯は2010年の南アフリカ大会、2014年のブラジル大会、そして今回のロシア大会と3大会連続で出場。いずれもキャプテンを務め、日本代表を支えてきた。プレーはもちろん、人柄やキャプテンシーは影響力が絶大で時には日本代表の監督人事やチーム戦術にも関わっていると言われています。
ハリルホジッチ監督の解任を協会へ直訴した!?
長谷部誠「現体制ではW杯で戦えない」…。
2018年3月のベルギー遠征時、1-1でギリギリ引き分けたマリ戦(23日・リエージュ)の夜に事件は起こった。
格下に引き分けるのが精いっぱいの大凡戦。ガラガラのスタジアムには“前監督”の「蹴れ、蹴れ」というむなしい指示と、それに呼応できないピッチ上の選手の大きな溝があった。翌24日夜。日付が変わり、欧州は未明にサマータイムになったがその夜は長かった。代表宿舎はリエージュ市の中心にある5つ星。坂の上にあるお城のような古いレンガ造りで趣のある建物だった。深夜まで、明かりが漏れ、会話が続いていた。
日本協会はマリ戦の内容にかつてないほどの危機感を覚えた。団長で、今回監督に就任することになった西野技術委員長(当時)が、同じようにW杯へ危機感を抱いた選手から、聞き取り調査を行っていた。
チーム状況、監督の求心力、そして信頼。何より、縦に速い攻撃一辺倒の戦い方はどうなのか。その中で、主将の長谷部は、選手の総意として現体制では厳しいと伝えた。
マリ戦後、指揮官の求心力は急激に低下。翌日の練習後には、複数の選手が公然と戦術に異を唱えるようになった。FW大迫は「縦に速い攻撃だけじゃ…」と素直に課題を口にし、DF長友も「今日の試合内容ではW杯で勝つのは厳しい」とはっきり言った。
これを報道で知った指揮官はわざわざ会見で「何か問題があれば内部で解決するもの。外部への発言は良くない」とくぎを刺すなど過剰に反応。もはや平常心を失っていた。
協会トップの田嶋会長自らも動いていた。強烈なキャラクターと、その歯に衣(きぬ)着せぬ物言いで、危ういハリルホジッチ監督の行く末を案じ、17年12月末には会長自ら、極秘裏にチームをまとめる長谷部と約束を取り付け、クリスマス休暇で帰国した不動の主将と会い、現状を聞き取るなどしていた。
直前、国内組で編成されたハリルジャパンは東アジアE-1選手権で、宿敵・韓国に完敗。にもかかわらず、開き直ったように「韓国の方が格上だ。試合前から日本より強いと分かっていた」と言い放った指揮官の采配と態度を問題視。解任の可能性を探り、この時も、西野技術委員長を後任とする案を検討した。
結局当時は、協会幹部の方向性がまとまらず、消極的続投に。しかし協会と指揮官の溝、そして選手と指揮官の溝は、もはや埋めがたいものになっていた。
香川選手も怒号を交え口論!
「昨年10月のニュージーランドとの親善試合後、香川がハリルの部屋に赴いて、戦術転換を直談判したんです。香川は丁寧にパスを繋ぐサッカーを理想としていて、カウンター主体の監督のサッカーと合わなかった。2人の議論はどこまでも平行線で次第にハリルがヒートアップし、怒号がホテルの廊下に響き渡った。そして、香川は11月の欧州遠征に招集されなかった」
出典:ニュースポストセブン
長谷部選手からの話し合いの提案も拒否
ベルギー・リエージュの夜に、選手たちはミーティングの開催を禁じられた。同国に遠征中の3月23日のマリ戦で戦い方に危機感を感じた選手は、自分たちで戦い方をすり合わせ、話し合って修正したいとハリルホジッチ監督(当時)に申し入れた。しかし、指揮官の答えは「Non」。ダメだと、自由な議論の場を、取り上げられた。
日本サッカーにおける幾つかの“夜”。選手だけで集い、遠慮なく意見をぶつけ合う時が、チームを劇的に改善することもあった。それは歴史が証明している。W杯(ワールドカップ)前に似たような苦境にあった10年の岡田ジャパンでは、事前合宿地のスイス・ザースフェーで戦い方をすり合わせ、心を1つにし躍進の礎とした。
ハリルジャパンは、昨年11月の欧州遠征で大敗したブラジル戦後にも話し合いの場を持っている。ただ選手全員ではなく、小さなグループ単位だった。この時も選手は全員での選手ミーティング開催を申し入れたが、拒否されていた。それまでは許されていたのだが…。
マリ戦が壊滅的だったにもかかわらず、海外組が加わった活動で2回連続し、話し合う場を取り上げられた。ハリルホジッチ監督は選手の発言に神経をとがらせ、疑心暗鬼になっていた。まさか選手の“クーデター”を警戒したわけではないだろうが、選手の心は離れ、求心力低下はもはや修復不可能になってしまった。
会見では設定時間をオーバーし、いつも一方的にまくし立てた指揮官だったが、対照的にハリルジャパンのメンバーはいつの間にか“物言えば唇寒し”の状況に陥っていた。
何度けがしても、試合を決定付けた不用意なファウルを犯しても期待をかけ続け、招集してきた大島に対しては、当初、口癖のように「声が聞こえない。声を出せ」と指示。ピッチで主張し、存在感を出すようにうながし続けた。
しかしその裏では、皮肉な現象が。意見交換しようとした選手、特に指揮官と戦術的な議論をしようとする選手には、まるでディベートでも挑むように対峙(たいじ)し、頭ごなしにはねつけ続けた。
そうしてW杯出場決定を境に、主力だった面々は「コンディション」を理由に、次々と代表に呼ばれなくなった。本田、岡崎、香川のビッグ3もそう。それが顕著だったのが3月のベルギー遠征。常連とみられた酒井高、乾が外れた(後に、酒井高は追加招集)。
2人は昨年11月の活動で、指揮官と戦い方を巡り意見を戦わせていた。このシーンを思い起こし、周囲は“粛清”と受け止めた。
もちろんメンバー選考は監督の専権事項。選ぶも、選ばないもハリルホジッチ監督の自由だった。だが、いつの間にか周囲、特にチーム内部に選考の理由がプレーやコンディションだけではないと思わせてしまった。これが致命傷になった。
監督と選手間のコミュニケーション=通訳にも問題あり!?
ハリルホジッチ監督(当時)が「私のフランス語がもっとうまければ」とこぼしたことがある。語学力というより、通訳を介してしか意思疎通できない選手とのやりとりに、歯がゆさを覚えたようだった。旧ユーゴスラビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ生まれ。今はフランス国籍を持ち、自宅も同国リール。もちろんフランス語を話すが、母国語ではない。
フランス語での意思疎通には一切不自由しないが、日本人への指導は通訳が入る。そこに問題が生じていた。かなり早い段階で樋渡通訳による日本語訳に、選手が疑念を抱いた。いわく「本当に監督がああ言っているの?」と。樋渡通訳はパリサンジェルマンの下部組織で監督も務めた気鋭の指導者だが、通訳のスペシャリストではなかった。そのバックボーンも選手の疑念を助長してしまった。
日本協会は現場の空気をすぐ察知。フランス語が堪能な日本人の関係者を会見場に入れ、監督の意図が正しく伝わっているかをチェックした。樋渡通訳の能力はまったく問題なく、意思疎通に問題ないことがすぐに証明された。
ただ、1度選手の頭に浮かんだ「?」マークは、なかなか消えない。17年3月。スペイン語通訳としてアギーレ監督を支えた羽生通訳が、持ち前の語学センスと努力でフランス語をあっという間に身に付けた。W杯アジア最終予選の途中で通訳は2人体制になった。ソフトで経験豊富な羽生通訳が加わることで、選手とのコミュニケーションは少し改善された。
16年10月にはリオ五輪で日本を率いた手倉森コーチも復帰した。コミュニケーション能力の高い2人のテコ入れで、チームは何とか持ち直しW杯出場権だけは確保した。
田嶋日本サッカー協会会長の強権政治も!
その一方で日本協会上層部のハリルホジッチ監督を支える姿勢もぐらついていた。田嶋会長は「コミュニケーション、信頼関係」を理由にクビを切った。ただ、指揮官は、時間の経過とともに孤立していった。“外堀を埋めた”のは、田嶋会長その人の人事だったことも忘れてはならない。
15年に同監督を招聘(しょうへい)したのは、大仁前会長(現名誉会長)のもとで動いた霜田技術委員長(当時、現J2山口監督)の仕事だった。だが、16年1月に日本協会初の会長選で当選した田嶋会長は、3月の新体制発足と同時に、霜田氏を降格させ、技術委員長に西野氏(現監督)をあてた。霜田氏は結局、16年限りで協会を辞め、指導者に転身した。
ハリルホジッチ監督は、就任当初から霜田氏をベンチに入れ、隣に座らせた。日本人選手の特徴を聞き、チーム作りを進めていた。2人は厚い信頼関係で結ばれており、霜田氏がとげのある指揮官の言葉を和らげることもあった。就任時の会長が退任し、頼りにしていた同氏も職を追われるようにいなくなった。もちろん現場のサポートはあったが、最後にはその座を、技術委員長に取って代わられるという、何とも皮肉な結末を迎えた。
「デュエル」「体脂肪」…。ハリルホジッチの功績も実はある
Jリーグのクラブ社長らが集まる実行委員会に異例の出席を果たした。そこで、同年3月に招集した日本代表選手の体脂肪の値がズラリ並んだ紙を持ち込み、国内組の体脂肪率オーバーを警告した。手に持った紙があらわになり、宇佐美(当時G大阪)の14・1%、興梠(浦和)の16・4%、太田(東京)の15・2%など、およそアスリートとは思えない数値が露呈した。
公表する意図はなく、直後に謝罪したが、図らずも判明したのは国内組の意識の低さ。基準は、15年12月に候補選手を集め最後通告した「12%以内」だった。
海外組はほぼ、最初から基準値12%以下だったが、基準値オーバーが国内組という傾向は、何度言っても、ずっと変わらなかった。合宿のたび計測したが、警告を受けるのはほぼ国内組。リーグのレベル、環境の差は個人ではいかんともしがたいが、体脂肪率は意識ひとつで変えられる。W杯(ワールドカップ)、日本代表入りに直結するなら、なおさら。にもかかわらず、国内組の体脂肪率の傾向は変わらなかった。
W杯の組み合わせ抽選も終わった17年12月。なぜ、警告から3年もたってまだ体脂肪を改善できないような選手を呼ぶのか? と聞かれると、いつになく弱々しい口調でこう答えた。
「でも、Jリーグの選手の9割がそういう問題を抱えている。(呼ばなければ)9人でプレーすることになってしまう」
笛吹けど踊らず-。もちろん、体脂肪率がすべてではない。ただ、ハリルホジッチ監督はある意味、不幸だった。
約3年間、日本サッカーのため働きづめだった“ハリルの功績”は、この体脂肪率問題を広く認識させた点に加え、デュエル(球際の攻防)という単語と、その大切さを浸透させたことも挙げられる。
そして、快勝したW杯アジア最終予選UAE戦(アウェー)の今野と川島のサプライズ起用や、W杯出場を決めた同オーストラリア戦(ホーム)で中盤に井手口、山口、長谷部を配する用兵にも、ここ一番での采配に勝負師として見るべきところはあった。
東京・両国国技館に相撲を見に行き、その人気を体感し、野球の扱いが大きい日刊スポーツをパラパラめくり「ベースボールばかりじゃないか」とサッカーの地位向上を本気で願った。日本代表を強くし、サッカーをNO・1のスポーツにすると誓い、W杯ロシア大会の大成功後に「銀座パレード」を夢見ていたが、すべてまぼろしになった。
長谷部選手が西野監督に戦術を助言していた!
西野監督は選手に頭を下げて訴えた!
就任後、最初のミーティング。指揮官は、本心から選手に訴えた。「オレは世界を知らない。みんなの意見を聞かせてくれ」。アトランタ五輪では、ブラジルを破る“マイアミの奇跡”を演出。J1最多となる通算270勝を挙げ、G大阪を指揮した08年にはアジア・チャンピオンズリーグを制覇。同年のクラブW杯では3-5で敗れたものの、当時の欧州王者、マンチェスター・ユナイテッドと打ち合った63歳は、選手たちに頭を下げた。ハリルホジッチ前体制時、技術委員長としてチームを支えていた西野監督の選手評は、芳しいものではなかった。もともと口数の多い方ではなく、言葉のチョイスも独特。心ない選手は「携帯電話のストラップみたいな存在」と話すなど、必要性を感じられていない部分もあった。コミュニケーション不足を理由にハリル前監督が解任された後、西野体制の就任が決まると、選手たちはメディアの前で「実績のある方」と印象を語りながらも、過去のチーム内での西野監督と対話について聞かれると、多くの選手が「これまであまり話したことはなかったが、これからしっかりとコミュニケーションを取っていきたい」と口をそろえた。これが、選手と新監督の最初の距離感だった。
ただ、最初のミーティングで指揮官が選手への全幅の信頼を口にしたことが、徐々に好転していく。明確な戦術を掲げ、選手個々に具体的な役割を与え、それを遂行することを何より求められたハリルホジッチ体制からの“解放”は選手たちに活力を与えた。MF本田ら発言力の大きい選手たちは、4年前のブラジル大会でも目指したショートパス中心のポゼッションサッカーに回帰すべきという意見を提案。若い世代には、前回大会の二の舞いとなることを危ぐする選手もいたが、目指すべきスタイルは、その中身が違った。
ある中堅選手が「海外組の経験が大きかったと思う」と話すように、チームの中核を担った北京五輪世代の多くは長期にわたって海外でプレー。豊富な経験に加え、ブラジル大会前のような右肩上がりの時代ではなかったからこそ、理想だけを追うマネはしない。
本田がポーランド戦前に「2014年と比較して明らかに違うのは、“自分たちありき”から“相手ありき”(に変わった)というか、サッカーの本質に対する考え方、価値観が変わったところ」と話すように、柔軟性も重要視。ハリルホジッチ前監督時代にはメンバー選考に残るために、と縮こまっていた選手たちは躍動した。
未勝利に終わった06年のドイツ大会など、かつては享受できなかった“自由”の生かし方を知った日本代表。この方針は、前体制から引き継がれた“遺産”によって、大きく花開くことになっていく。
「おっさん」呼ばわり。連敗によりチームへの求心力が低下していた西野監督
G大阪で数々のタイトルを獲得した西野監督だが、11年に退任後は低迷した。12年に率いた神戸はわずか半年で解任。14、15年に監督を務めた名古屋では衝撃的なシーンがあった。磐田との練習試合。ピッチでイライラを爆発させた闘莉王から「おっさん」呼ばわりされた。明らかに聞こえていたが、見て見ぬふり。選手の暴走を許す姿に一部Jリーグ関係者から「もう過去の人」との声も出た。ハリルホジッチ前監督の解任の責任を負うべき立場の技術委員長から就任したことで、当初、選手からも懐疑的な目で見られていた。初陣となった5月30日のガーナ戦前のミーティングで「ガーナ戦」と言うべきところを「ガンバ戦」と言い間違え、失笑を買う最悪のスタート。なじみのない3バックを採用し、0―2で完敗したことも逆風となった。
深夜のトップ会談で「監督がしっかり方向性を決めてください」と方向性を迫る!
6月上旬、事前合宿地オーストリア・ゼーフェルト。0―2で敗れた6月8日の親善試合スイス戦を受け、ホテルの一室で長谷部主将が西野監督と向き合っていた。「最後のところは監督がしっかり方向性を決めてください。そうじゃないとまとまりません」。この言葉が分岐点となった。5月21日の国内合宿開始後、指揮官は選手の意見を吸い上げる提案型ミーティングを重ね、話し合いの行方を見守ることに専念。だが、選手がおのおのの考え方を述べるだけで最終的な方向性が定まらない。スイス戦も前線からプレスに行きたい攻撃陣とスペースを与えたくない守備陣の意思統一を図れずにチグハグ。見かねた主将が指揮官に“決断”を迫る事態となった。
キャプテンと監督の深夜会談で雰囲気が好転!
約2年半ぶりの現場復帰はガーナ、スイスに連敗発進。危機的状況に陥ったが、スイス戦後の“トップ会談”が状況を好転させた。長谷部の指摘を受け、西野監督はW杯前最後の親善試合となる6月12日のパラグアイ戦前のミーティングで選手の意見を集約した上で、具体的な戦術を指示。4―2と結果が出たことで、選手が忌憚(きたん)ない意見を出し、最後は監督が決断するミーティングスタイルが確立した。吉田は「ハリルさんの時と比べると対話があるのが西野監督のポイント」と証言。一方的に戦術を押しつけたハリルホジッチ前監督と真逆の手法がはまり、チームは一つになった。
ベルギー戦後、西野監督に代表引退を告げる
昨日はお互い、少しワインが入った中で別れて、その後電話がかかってきて「行っていいですか?」と。何事かと思ったんですけれど、彼が「スパイクを置きたい」ということだったので、深夜に自分の部屋で(話をした)。やつが決断したことなので尊重するべきことですし、長い間日本サッカー界、チームをリーダーとしてけん引してきた彼の決断ですから、「そうか」という感じでしたけれど。会うまでまったくそういう話をしていなかったので、「そうか、本当にご苦労さん。ありがとう」と。
主将の代表引退発言にチームメイトも涙
DF吉田は大粒の涙を流し「今まで長くやってきた選手とやれなくなる覚悟はあったので、分かっていたけど…寂しいです」と何度も言葉を詰まらせた。GK川島は「区切りを付ける必要もないと思うけどアイツらしいといえばアイツらしい」と誠実な人柄を称え、MF香川も「本当に言葉が見つからない…」と沈痛な表情を浮かべた。
出典:スポニチ
画質悪くて申し訳ないんだが!!!みんなお願い!!!この動画を見てくれ!!!
長谷部誠引退発表に対してコメントしてる吉田麻也や!!!!!!
涙が止まらんぞ!!!!!!!!!pic.twitter.com/U9KDHUwZbq
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引退後は善意活動やドイツでの監督就任の夢を描く!
長谷部選手は、長らくユニセフ国内大使を務めている。2011年東日本大震災直後に上梓した『心を整える。』は、現在140万部を超える大ベストセラーなのだが、この印税をすべて東日本大震災支援のために日本ユニセフに寄付。宮城県南三陸町の「あさひ幼稚園」では、東日本大震災以降、毎年訪れ、園児たちとの交流を続けている。さらには、自身のホームページでメンバーを募り、会費で世界の厳しい環境で生きる子どもたちへの支援も行っている。また、「言葉に問題はあるにせよ、海外で監督をしてみたいという思いはあります。まずはドイツで免許を取りたい。難しいものにチャレンジすることは、自分のなかの楽しみでもあるんです」
出典:長谷部誠公式サイト
「マコト・ハセベ・スポーツ・クラブ」を藤枝市と浜松市で開校。小中学生を対象に「人間性の優れた大人、世界で活躍できる子ども」の育成も開始している。
藤枝のサッカー少年募集 http://www.makoto-hasebe-sportsclub.jp/ 長谷部誠が中心となり起ち上げたサッカー教室、MAKOTO HASEBE SPORTS CLUBでは、お子様に長谷部誠が経験してきた事を様々な方法で伝え、広い視野で物事を捉え、自分で考える力を... |
長谷部君の代表引退についてのインタビュー、やりきった感ある清々しい表情、でももっと見たかったな、長谷部キャプテンを。
計り知れない重圧と板挟みの中でチームのことを考えて行動してくれていたと思います。
お疲れ様でした。 href="https://t.co/AEwKqdhMU2" class="twitter-timeline-link u-hidden" data-pre-embedded="true" dir="ltr">pic.twitter.com/AEwKqdhMU2
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