唯一裁判で裁かれた食人事件「ひかりごけ事件」とは?
ひかりごけ事件(ひかりごけじけん)は、1944年5月に、現在の北海道目梨郡羅臼町で発覚した死体損壊事件。日本陸軍の徴用船が難破し、真冬の知床岬に食料もない極限状態に置かれた船長が、仲間の船員の遺体を食べて生き延びたという事件である。
食人が公に明らかになった事件は歴史上たびたびみられるが、この事件はそれにより刑を科せられた初めての事件とされている。一般には「唯一裁判で裁かれた食人事件」といわれるが、日本の刑法には食人に関する規定がないため、釧路地裁にて死体損壊事件として処理された。
遭難事故における人肉食事件といえばなんといってもウルグアイ空軍571便遭難事故が有名である。いずれ当サイトでもとりあげたいと思っているが、現在も生還した兵士が存命し、映画にもなったので知る人も多いであろう。
次に有名なのはアメリカ西部開拓時代のドナー隊の遭難事件であろうか。
もっとも戦間期においてはガダルカナル島など補給の途絶えた戦場においては人肉食が頻繁に行われたという報告もある。
だが共食いというのは生物的なタブーであることも事実である。
ただ単に倫理上の問題であるだけでなく、同じ種族の脳髄を摂取したことにより遺伝上の疾患になる事例も報告されている。
その代表的な例こそが狂牛病、すなわちクロイツフェルトヤコブ病である。
これは牛の飼料に牛の骨髄の混じった肉骨粉が含まれていたことに端を発しており、過去に人肉食を行った一族でも同様の症状で脳がスポンジ状になるという奇病が発見された。
しかしながら生きるための極限状態にあってあえて死を選ぶほど人間の本能は甘くない。
この先も緊急避難的な人肉食事件はなくなることはないだろう。
昔から伝わる民話を別にすれば日本における人肉食事件は少ない。
これは日本での倫理的なタブー性がほかの諸国に比べて高かったせいもあるが、日本自体の閉鎖性に負うところも大きいと思う。
戦前に息子を鍋で食べた知的障害者の母がいたが、遭難事故で人肉食が記録にあらわれるのはおそらくこのひかりごけ事件が最初となる。
1944年(昭和19年)2月3日午後4時ごろの「北浜(ルシャ)」で、漁業を営む「野坂初蔵」宅に、上着の上にムシロを巻きつけた異様な格好の男が倒れ込んできた。
時はまさに太平洋戦争の真っ只中である。
その男は、陸軍徴用船第五清進丸の船長と名乗った。
その男の話によると、1943年12月4日暁部隊の廻航命令により、船5隻で根室港を出港し、オホーツク海廻りで小樽へ向かっている途中で猛吹雪に遭遇。
船は故障し、通信も途絶え漂流中に暗礁に乗り上げたという。
乗組員はかろうじて上陸したが、飢餓と寒さのためすぐに5名は死亡し、昭和18年11月19日まで船員と共に「ペキンノ鼻」の「片山梅太郎所有の昆布小屋」に転がり込んだ。
番屋の神棚に置き忘れてあった小型のマッチ箱があり番屋の床を剥がして薪にし、漂着した海藻やウニの殻やトッカリ(アザラシ)などにより命をつないでいたらしい。
だが年も明けた1月19日、たった一人残っていた船員が海藻を拾いに行って崖から転落したので、一人では心細くなり、決死の覚悟で凍結した海の上を渡り、ここへたどり着いたと言う話であった。
現地の人間として真冬の知床岬の厳しさを知っている「野坂夫婦」は驚いた。真冬の知床は、突風と猛吹雪が半島を吹きさらす死の領域であり、漁師が漁に出られるのは5月中旬から8月中旬までの3ヶ月間ほどしかないほどで、
12月から2月と言う一番天候が厳しい中で生還するのは、奇跡としか思えなかった。
船長は、痩せ衰弱していたので、漁師の野坂初蔵は手厚い看護をし、同時に「知円別(チエンベツ)」の部落会長に連絡をとった。
4日後、部落会長は船長の事を連絡するため、16km離れた羅臼村の標津(シベツ)警察署羅臼派出所の「山口巡査部長」に知らせに行くことにする。
さらに羅臼の村長が急いで救援隊をだし、船で「北浜(ルシャ)」から「羅臼村」まで船長を運んだ。この船長のウワサは羅臼村の村民に広がり、船長は「不死身の神兵」と言われ一躍ヒーローになったという。
しかし羅臼町民の間で「不死身の神兵」ともてはやされえているのをよそに、山口巡査部長は船長の生還した話に矛盾点を感じていた。そもそも1月の海は流氷などで凍結しやすく、海草類は漂流しない。つまりほとんど採取出来ないので、海草で食いつなぐ事は出来ないのだ。
トッカリ(アザラシ)は12月から1月には現れないので捕獲して食べたと言う話にも矛盾が生じる。
他にも現実にはありえない話や疑わしい話や船長の不可解な行動があった為、「もしかすると、仲間を殺し人肉を食べて生き長らえていたのではないか?」と疑ったのである。
戦時中の食人は、戦地にいった人間ならばどこかで聞いたことのある話で、この船長も人の肉を食べて生き長らえていたと直感したのだった。
山口巡査部長は署長にその旨を報告し、2月16日午前5時、地元消防団員3名の応援を受け、現地検分することをにした。
遭難の危険も顧みず、3日をかけて現場に到着した一行は屋内を調べた所、ムシロに多数の血痕が付着しているのを確認したものの昆布小屋の北の方で「船員の一人 藤巻久」の遺体を発見しただけで、
事件の裏付けにはなる物は発見できなかった。
しかたないので、近くの小屋を壊して船員の藤巻久の墓をつくって、山口巡査部長達はこの場を立ち去った。
それから3ヶ月後の春、知床の雪は消え流氷も去り漁の季節になった。5月14日、ウニ漁のため片山梅太郎は羅臼港に立ち寄り、食料、水などを補給していた。
片山梅太郎は、あの「ペキンノ鼻」の「昆布小屋」の所有者なので、山口巡査部長は、船長の遭難の話を説明した。
そして「本官は船長が片山さんの番屋で船員を殺して食っていたと思う。もし番屋付近に異常があったら至急知らせて欲しい」と依頼したのである。
そんな話を聞いていた片山梅太郎は、小屋の中であるものを見つけるとその日のうちに、慌てて引き返し、巡査長の元へ走っていった。
「リンゴの木箱の中に人の骨を入れたものがある!」という片山の通報により、山口巡査部長は、直ちに署長に報告し単独で検証を行うことにした。
すでに現場は雪も消え検証がしやすくなっていた。
検証の結果、昆布小屋内では床板・壁板・むしろなどの各所に血痕があり、その血しぶきが付着していた。その中から血の固まりを採取。
また昆布小屋から27mほど離れた海岸にロ-プで結ばれた古いリンゴの木箱が漂着していて、その中には頭部・頸部・脊髄骨・肋骨・手足などの骨や、はぎ取られた人間の皮が詰め込まれていた。
頭蓋骨は鈍器のようなものでうち砕かれ、割れていて、脳膜は取られて脳は入っていなかった。手足の表皮は手足首まで剥がされ手のひら・指・足の裏はそのまま付着しているが、皮をむかれた部分の肉は無くなっていて
ナイフのようなもので、切り取った跡があり、骨が露出していた。手の骨は焼け跡が残っていて、その他の骨も肉を削り取った跡があった。各部の骨は衣服の布で丁寧に包んで箱の中に納めてあった。
遺体の骨、及び頭髪の状況から若い男性の物、船長と一緒にいた「船員」と判断された。
これにより警察では船長が船員を殺害し、その肉を食べていたが、食い尽くしてしまったので、骨を箱に詰めて海に隠し証拠隠滅を図った。と判断したのである。
船長は岩内町の自宅で「殺人、死体損壊、死体遺棄」の疑いで逮捕された。
乗組員の構成
美味しかった人肉
番屋の生活は食べ物はなく、毎日海岸に出て昆布を広い食事にしていたが、昆布を食べると便秘が酷く、棒でお尻の穴を突かないと出ないようになった。そのうちシゲはやせ衰え動かなくなった。死んだのだ。
船長は横になっているシゲの屍をみているうちに、どうしても我慢できなくなり、股のあたりを包丁でそいで味噌で煮て食べてしまった。
その味はいまだに経験したことのないほど美味しかった。
また、斧で頭部を割り脳味噌を食べた時がもっとも精力がついたような気がした。
むちゃくちゃに食って食いまくった。
ああ、旨いなと思ったのはだいぶ後になってから。
食べた後の心境はなんと表現したらいいか分からない。ただ死ぬから食いたい食いたいと言う意識にかりたたされ手をつけた。
風評
船長による食人の話は口伝えで広まったが、新聞報道は行われなかった。裁判記録は廃棄され、捜査記録も戦後発生した火災により焼失したことから、事件の詳細が知られることはなく、逆にさまざまな憶測が流れることとなった。戦後、羅臼郷土史に難破船事件として採録されるが、うわさをもとに構成されており、細部は実際の事件と異なっている。
小説の影響
映画「ひかりごけ」のワンシーン
戦時中、実際に起こった人肉食い事件を基に描かれた武田泰淳の同名短編小説を「海と毒薬」の社会派・熊井啓監督が映画化した問題作。極限状態に置かれた人間の心理状況に鋭く迫る。太平洋戦争最中の昭和18年12月。北海道知床半島の沖合で4人の漁師を乗せた船が悪天候に遭遇、そのまま消息を絶ってしまう。3ヵ月後、ただ一人、船長だけは飢えと寒さを耐え忍び無事に生還した。村は喜びに沸き返るが、それから数ヵ月後、船長が仲間の死肉を食べて生き延びた事実が明らかとなる。
ひかりごけ
服役
船長の心情
合田一道は、船長が1989年(平成元年)に亡くなるまで15年間に及ぶ取材を続けた。その何度かの取材のたびに、多くを語らず断片的にしか答えようとしない船長の発言をつなぎ合わせて、一冊の本を著すに至った。それによると、身体的・精神的にまさに極限状態にまで追い詰められた船長は食人をしたが、食人になぜ至ってしまったかは事件から数十年たっても自分でも理解できなかったという。食人をしたことははっきりと認識しており、そのときの様子ははっきり覚えていた。閻魔大王に裁かれる恐ろしい夢も何度も見た。生還した後に警察が訪れた際には「とうとう来たか」という心境だったと言い、事情聴取が始まるとあっさりと食人を認めた。船長は死体損壊罪で1年の実刑判決を受けたが、終始「人を食べるなどということをしている私が懲役1年という軽い罪で済まされるはずがない」と言い続け、その後数十年間「自分は死刑でも足りない」とその重い罪の意識を背負い続けて生きた。死のうとして崖から飛び降りたことさえあった。周囲から「あれが人食いか」と陰口を言われることも少なくなかった。しかし船長はそれが事実であるのだし、自分には何も反論する権利はないと、じっとこらえ続けたという。
小説『ひかりごけ』の影響などもあり、「殺して」食べたという事実とは異なる風評が世間に広まっても、それに反論しても仕方ないのだからと船長は何も言えなかった。
船長は死の直前ペキンノ鼻へ再度向かうことを望んでいたが、かなわなかった。
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