平成最後の夏、忘れないように…太平洋戦争を考えてみた
平成最後の終戦の日
終戦73年、平和へ祈り=陛下「深い反省」、4年連続-平成最後の戦...
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018081500508&g=soc
73回目の終戦記念日を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれた。天皇、皇后両陛下や安倍晋三首相、遺族ら約7000人が参列。戦...
時事ドットコムニュースより。
日本はいつ参戦したの?
1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻で開始。41年、6月独ソ戦、12月太平洋戦争が開始され、世界戦争に拡大した。基本的には連合国と枢軸国の二陣営による世界戦争。42年中頃から枢軸側の後退が始まり、43年7月にイタリア、45年5月にドイツ、8月に日本が降伏して終結した。
出典:第二次世界大戦
「Y-History 教材工房」さんより。とてもわかりやすいです。
時系列です
●世界中で戦争が起きている時、中国と戦争中だった日本も否応無しに巻き込まれてしまいます。始まりとされるのは1941年12月8日の真珠湾攻撃と言われていて、最後に原爆、ポツダム宣言で日本が降伏して戦争が終わります。なのでこのまとめは第二次世界大戦ではなく「太平洋戦争(大東亜戦争)」になりますね。
「かるび勉強部屋」さんより図をお借りしました。受験用などはわかりやすいですね。
真珠湾攻撃は奇襲?奇襲ではない?
以前から真珠湾攻撃は戦線布告をしなかった奇襲で、卑怯であると言われていましたが、最近はちょっと風向きが変わってきたようです。まず、ルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていた説。あちこち調べても実はこれといった証拠はないのですがよく書かれています。
さらに、その日はハワイの基地から空母が全部いなくなり戦艦だけだったこと、暗号が解読されていた、など色々な説があります。
そして宣戦布告についてですが、一応「すること」と決められてはいたものの、第二次世界大戦当時はドイツのポーランド侵攻など宣戦布告が無かったそうですが、全体的にそれほど非難の対象となるものではなかったようです。
何故ならば、運命の日、真珠湾にはアメリカ海軍の空母が一隻もいなかったからです。もちろん、真珠湾は非常に重要な基地でしたので、空母がまったく配備されていなかったわけではありません。実際、12月4日までは空母レキシントンが滞在しており、他にも所属の空母が存在しました。
しかし、肝心の攻撃の日には、すべて出払ってしまっていたのです。
「世の中をわかりやすく.」というサイトから。
ですが、当時の日本の、少なくとも指導部には、奇襲の意図は無かったのです。宣戦布告は、攻撃の直前に行われる予定になっていました。ただ、肝心の外交官のもとに暗号で情報を伝えたことによる時間的ロスや、その他の人為的ミスが重なり、実際には宣戦布告は予定より遅れ、真珠湾攻撃開始から1時間後に行われることとなりました。
引き続き「世の中をわかりやすく.」というサイトから。
真珠湾事件は一般に日本の奇襲攻撃とされているが実際は反撃であり1年以上前から計画されていた。このため米国も知っており、事件の10カ月前の1941年1月27日にはグルー駐日米大使はハル国務長官に「日米交渉が決裂した場合日本海軍は総力を挙げて真珠湾を攻撃するという噂が東京外交界に流れている」と警報を送っている。この公電は現在米国ウィスコンシン大国務省外交文書図書館のHPで公開されている。
「SANKEI DIGITAL INC.」より。
遅れてしまった宣戦布告
●日本の宣戦布告ですが、なにやら、色々あって遅れてしまったようです。また、ハワイは遠いため開戦の話合いをしている10日程前から、南雲機動部隊がとりあえず出発していたそうです。
じりじりと追い詰められていた日本
出典:ABCD包囲陣
ABCD包囲網
1938年の支那事変からの後、米、英、中、オランダからABCD包囲網という石油輸出をストップする経済封鎖をされていました。元々資源の少ない日本。多くのサイトを調べましたが、その頃の試算では残りの備蓄は半年から長くて2年位だったようです。
この図が一番見やすかったです。
そもそもなぜ包囲網が作られたのか
日中戦争の時の日本の領土です。北部フランス領インドシナを占領することで日本が敵対、米英が支援する蒋介石への支援のルートを遮断しようとしたため、アメリカを刺激したと考えられています。「アジアは我々のものだ!」より、地図をお借りしました。
ちょっと一息です…
最後通牒か否か意見の分かれるハルノート
1.日本軍の支那、仏印からの無条件撤退2.支那における重慶政府(蒋介石政権)以外の政府、政権の否定(日本が支援する南京国民政府の否定
3.日独伊三国同盟の死文化(同盟を一方的に解消)
出典:日本と中国の真実に迫る!
「日本と中国の真実に迫る!」というブログより。
●日本はそれに対する甲案、乙案を用意していたようです●
「甲案」とは…1.日支(日本と支那)に和平が成立した暁には
支那に展開している日本軍を2年以内に撤兵させる。
2.シナ事変(日中戦争)が解決した暁には
「仏印」(フランス領インドシナ)に駐留している兵を撤兵させる。
3.通商無差別待遇(自由貿易)が全世界に適用されるなら、太平洋全域とシナに対してもこれを認める。
4.日独伊三国同盟への干渉は認めない
と言う内容であり更に「甲案」での交渉決裂に備えて
日米戦争勃発を未然に防ぐための暫定協定案として「乙案」も用意してありました。
乙案とは…
1.欄印(オランダ領インド=現インドネシア)での物資獲得が保障され、アメリカが在米日本資産の凍結を解除し、石油の対日供給を約束した暁には南部仏印から撤兵する
2.更にシナ事変が解決した暁には仏印全土から撤兵する。
出典:日本と中国の真実に迫る!
同じく「日本と中国の真実に迫る!」というブログからお借りしました。
実はずっーと交渉をしていた日本とアメリカ!!
日本側の主張①アメリカ政府の斡旋で日中戦争を解決する。
②一定地域の「防共駐兵」をのぞいては、日本軍は中国から撤兵する。
③「北部仏印」以外の東南アジアにこれ以上の「武力進駐」をしない。
④アメリカは「満州国」を承認する。
これに対するアメリカの主張は
①日本軍の中国大陸からの撤兵
②「南進」政策の放棄と「北部仏印」からの日本軍の撤兵
③「防共駐兵」「満州国」問題は別に話し合う(無条件ではない)。
出典:日米交渉
「Y-History 教材工房」より。
そしてこのころ世界は、白人国家の植民地ばかり
植民地の図です
●第二次世界大戦の頃の地図を見ると、アジア諸国はほとんどが欧米の植民地になっていて、独立を守り続けたのは日本とタイだけです。このような状態だったのに「日本が植民地に残虐な!戦争責任が!」とか欧米諸国から言われちゃうと、あきれますね。
資源をストップされた日本、資源の入手の狙いと合わせながらもアジアを植民地から解放して「大東亜共栄圏」を作る、という考え(大義名分かもしれない)の元、戦争へ突入していきます。
地図は「フォト蔵」より。
ここまで広がった日本
ちなみに、この戦争以前には、東南アジア諸国やインドはことごとく欧米諸国の植民地で、それらの国々の植民地政府により全てが決定され、独自の政府も認められていなければ、軍隊も当然なかったため、一方的に搾取されるだけ搾取され、苦しめられていました。そして、この戦争中に日本はそれらの欧米諸国(アメリカ、イギリス、オランダ)の植民地政府を追い出すことに成功し、それぞれの地域の住民による政府と軍隊を創設しました。
出典:大東亜戦争とは?太平洋戦争との違いは?わかりやすく解説
「日本の戦争の歴史」から引用。
最終的にとても広くなった日本
●ここまで日本の領土は拡大。1918年、第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本は人種差別撤廃条約も提出していましたね。この領土を見ると、アジアの開放は建前にも本音のどちらにも思えるし、欧米諸国対有色人種の戦いにも見えます。
本当の所はどこにあるのか、歴史は様々な角度から見て結果を踏まえても、断定できない事も多いですね。
でも日本の果たした役割は地味ですが着実に実を結んだのかもしれません。日本の敗戦後、アジアの国が次々と独立を果たしたのも事実なんですよね。
地図も「日本の戦争の歴史」からです。
悲しくも敗戦へ突き進む日本
•1941(昭和16)年12月:日本軍がハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まる。•1941年:アメリカとイギリスが大西洋憲章を発表する。
•1941年:独ソ戦争がはじまる。
•1942(昭和17)年1月:マニラ占領。
•1942(昭和17)年1月:第一回大詔奉戴日。
•1942(昭和17)年2月:シンガポールを占領。
•1942(昭和17)年2月:食糧管理法が公布される。
•1942(昭和17)年3月:ビルマのラングーンを占領。
•1942(昭和17)年3月:ジャワのオランダ軍降伏。
•1942(昭和17)年4月:バターン半島占領。
•1942(昭和17)年4月:第21回総選挙(翼賛選挙)が行われる。
•1942(昭和17)年4月:東京・名古屋などがはじめて空襲を受ける。
•1942(昭和17)年6月:ミッドウェー海戦で日本軍が大敗する。
•1942(昭和17)年6月:アメリカ軍がキスカ島に上陸。
•1942年6月:ドイツ軍がスターリングラードの攻撃を始め、ソ連は大反撃を行う。
•1942(昭和17)年8月:アメリカ軍がガダルカナル島に上陸。
•1942(昭和17)年11月:大東亜省ができる。
•1942(昭和17)年:朝鮮における官斡旋が始まり、役所が仕事を斡旋するようになる。ただし、斡旋された仕事を辞めても罰則はなく、日本内地や台湾での徴用に較べると格段に軽いもの。
•1943(昭和18)年1月:ジャズ等米英曲の演奏が禁止される。
•1943(昭和18)年1月:ガダルカナル島の日本軍が撤退を始める。
•1943(昭和18)年3月:朝鮮で徴兵令が施行される。
•1943(昭和18)年5月:アッツ島の日本軍が全滅する。
•1943(昭和18)年10月:学生、生徒への徴兵延期をやめる。
•1943(昭和18)年11月:占領地の親日政権代表による大東亜会議が開かれる。
•1943(昭和18)年12月:第一回学徒兵入隊で、学徒出陣の会が開かれる。
•1943年:イタリアが連合軍に無条件降伏する。
•1943年:アメリカ・イギリス・中国がカイロ宣言を発表する。
•1944(昭和19)年3月:全国の新聞が夕刊を廃止する。
•1944(昭和19)年6月:マリアナ沖海戦で日本海軍は航空戦力の大半を失う。
•1944(昭和19)年7月:サイパン島の日本軍が全滅する。
•1944(昭和19)年8月:学童疎開が始まる。
•1944(昭和19)年8月:学徒勤労令・女子挺身隊勤労令が公布される。
•1944(昭和19)年9月:朝鮮半島での徴用が施行される。
•1944(昭和19)年10月:レイテ沖海戦で神風特別攻撃隊がはじめて体当たり攻撃をする。
•1944(昭和19)年11月:B29が東京をはじめて空襲する。
•1944年:連合軍がノルマンディ上陸作戦を始める。
•1945(昭和20)年3月:B29の東京大空襲で8万人以上が死ぬ。
•1945(昭和20)年4月:アメリカ軍が沖縄本島に上陸。
•1945(昭和20)年4月:ソ連が日ソ中立条約の不延長を通告してくる。
•1945年:ドイツが無条件降伏する。
•1945(昭和20)年6月:沖縄の戦いが終る。
•1945(昭和20)年7月:ソ連に終戦の斡旋を依頼するが拒否される。
•1945年:アメリカ・イギリス・ソ連がポツダム会談を行い、ドイツの戦後処理を決め日本に無条件降伏を要求する。
•1945(昭和20)年8月:広島に原子爆弾が投下される。
•1945(昭和20)年8月:ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄。日本に宣戦布告し、満州への侵攻を開始する。
•1945(昭和20)年8月:長崎に原子爆弾が投下される。
•1945(昭和20)年8月:日本が連合軍に無条件降伏し、天皇自ら終戦の詔勅を放送する。
出典:昭和時代(戦前) - 日本史年表 -- Key:雑学事典
「 Key」というサイトさんに詳しくシンプルな年表がありました。
敗戦・そしてその後の東京裁判
しかし、「東京裁判」ではそのような原則は無視され、国際法に存在しない「平和に対する罪」「人道に反する罪」「戦争犯罪」などという罪を一方的に着せられた日本が、日本を裁くためだけに作られた「裁判所条例(チャーター)」という特例によって裁かれるという、前代未聞の不正行為が行われました。
出典:東京裁判とは? A級戦犯は何の罪で裁かれたのか? わかりやす...
「日本の戦争の歴史」から引用です。
●滅茶苦茶です。しかし後からマッカーサーもあの裁判は間違いと認め、インドのパール判事ただ1名だけが無罪を主張してくれました。パール判事、大変な勇気だったことでしょう。そして、その後マッカーサーに対する昭和天皇のお言葉です。「戦争の責任はすべて私にあります。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。あなたにお委せします。しかしながら、罪なき国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」
考えられないことですが、通常、命乞いをする国家のトップが殆どだそうです。驚いたマッカーサーは、まるで一流の賓客に対するように接したようです。これぞ、日本人の魂、心だと誇りに思います。
「……従って彼ら(日本人)が戦争に入った目的は、主として自衛のために余儀なくされたものである(Their ourpose, therefore, in going to war was largely dictated by security,)」
出典:東京裁判とは? A級戦犯は何の罪で裁かれたのか? わかりやす...
●今回よくお借りしてます「日本の戦争の歴史」からの引用です。アメリカ上院軍事外交委員会でのマッカーサーの発言だそうです。
「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろう筈がない。われわれは何よりもまず、この失われた《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」博士はさらに言葉を改めて、「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない。」と、語調を強めて語られた。
それから今まで約半世紀、米国のベトナム戦争、アフガニスタンへのソ連の侵略戦争、4回にわたるイスラエルによるアラブ侵略戦争、イラン・イラク戦争、さきの湾岸戦争等々、世界に戦争は絶えない。だがパール博士の予言通り、国際軍事裁判はおろか、国連において侵略の定義がようやく合意を見たのは、実に東京裁判から26年後の1974年である。つまり東京裁判は、侵略とは何かということが判らないままに、日本は侵略したとして処断されたのである。
「広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。日本は投下される何の理由があったか。当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。それにもかかわらず、この残虐な爆弾を《実験》として広島に投下した。同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。そこに人種的偏見はなかったか。しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。彼らの手はまだ清められていない。こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか。」
「ネオ・シオニストの対日戦略考」より。
パル判事
●来日されたときのパル判事の言葉です。長いですが良い文章なので、抜粋させて頂きました。一見感情が先走っているように感じますが戦争を公正に見ていて、「法と裁判」が滅茶苦茶なことに対する、法律家としての憤りも伝わります。
近代なのにまだまだ謎が多い戦争、忘れないでください…