【死刑判決】池袋通り魔殺人事件の「造田博」とは
池袋通り魔殺人事件
池袋通り魔殺人事件(いけぶくろとおりまさつじんじけん)とは、1999年(平成11年)9月8日に発生した通り魔事件。
造田博
造田博の生い立ち
岡山県倉敷市に生まれ、児島郡灘崎町(現:岡山市南区)で育つ。岡山県立倉敷天城高等学校時代は成績優秀だったが、教員や同級生の間での印象は薄く、地味で目立たない生徒だと言われていた。
やがて、両親が賭博などにより数千万円の借金を残して失踪。残された造田の家には借金取りが連日のように押しかけてくるようになった。
経済的な困窮から、高校を中退して、夢見た大学への進学も破綻。
一時は兄に引き取られ、その後職を転々としていた。
日本での人生に絶望し、新天地を求めてアメリカに短期渡航したが十分な滞在費がなく、また就職先もなかったので、現地のキリスト教会の牧師に事情を話し、教会の仕事を手伝うのと引き換えに衣食の面倒を見てもらっていたという。しかし、こうした現地での生活も、滞在期限の失効と同時に終わった。その後は、働きながらの大学への通学も考えたが費用の面から頓挫。
1975年11月29日、岡山県倉敷市で生まれる。父親は腕の良い大工で、母親は被服工場で下請けの縫製のミシン内職をしていた。兄弟は兄が一人いる。一家の暮らしは中流を上回っていた。1978年10月、一家は隣り町の児島郡灘崎町に引っ越す。祖父の代までは兼業農家で、造田の父親は六男でありながら祖父の土地を相続した。
造田が小学校の高学年の頃、父は相続した土地を売り、大金を手にする。その額は1000万とも2000万とも言われていた。金銭感覚が揺らいだことと関係しているかわからないが、父親は健康が優れないことを理由に仕事から遠ざかるようになっっていった。
造田が中学にあがるころ、母親が夫に代わり、保険の外交員として働きに出るようになる。地元の住人の話によると、母親はこの頃から服装が派手になり、仕事の合間にパチンコを覚えたという。以後、夫婦でパチンコ、パチスロ、競輪、競艇に入れ揚げるようになる。
造田は進学校として通る県立倉敷天城高校に進む。中学3年生になってから猛烈にがんばっての合格だったと言う。
高校2年時、ギャンブルにのめりこんでいた両親が知人やサラ金から金を借りるようになる。その総額は2000万から4000万だと言われている。家には借金取りが押しかけ、両親はそれから逃げるように自宅を空けるようになる。結局、造田は高校を中退する。担任教師から「大検を受けて大学に行きなさい」と慰められながらの退学だった。その後、彼は弁当店でアルバイトを始める。そして夜陰にまぎれて帰宅する両親から食事代をもらうという生活が始まる。
翌1993年11月、両親は自宅の家財道具を持ち出し家に帰らなくなった。以後の行方はわからず、息子の凶行後にもその姿を現していない。
1994年1月、造田は広島県福山市で自活していた大学生の兄の元に身を寄せるようになる。市内のパチンコ店で働き始める。しかし長続きしない。1999年の事件時に勤めていた足立区の新聞販売店までにわかっているだけで14回の転職を繰り返している。工場、新聞配達、船舶塗装、住宅美装の仕事していた。
兄の目には転職を繰り返せば繰り返すほど、弟は口を閉ざすように見えたと言う。親代わりとして弟を叱り飛ばすこともあったが、そのたびに自分の殻にこもるようになった。
1996年、岡山県灘崎町にあった自宅は競売にかけられ、事情を全く知らない一家族によって落札された。
妄想の恋人
この頃の造田の中で一人の女性の存在が大きくなっている。小・中学校の同級生で、別の高校に進み、当時は大学生だったA子さんである。「私が小学生のころだったと思いますが、A子さんが私に『造田さんが好き』と言ってくれたことがありました。しかし、私はA子さんのことを何とも思っていなかったので、はっきりとした返事はしませんでした。このことで『造田はだめだ』等との噂がたち、A子さんの友達にからも同じようなことを言われましたので、A子さん宛てに高校生の頃だったと思いますが、2,3枚くらいの抗議の手紙を出したことがあります。なぜ手紙を出したかと言いますと、自分のことを駄目だという噂が立ったことでショックを受け、不愉快になったことがあるからです」(99年9月26日付供述書)
しかし、A子さんの方は供述書で「仲の良い同級生ではなく、親しく話した記憶もない」「自分の好きなタイプではない」とし、自分から好意を打ち明けたり、手紙を出したことは「絶対にない」と言い切っている。
1994年から95年ごろ、船舶塗装や住宅美装の会社で造田が働いていた造田はA子に5回ほど手紙を出している。うち二通は切手が貼られておらず、A子の自宅ポストに直接届けている。手紙の内容は「会って欲しい、一緒にいたい、返事が欲しい」など一方的に好意が書かれていたものだった。A子さん宅に電話をかけて「A子さんに会わせてください」と言った事もあるという。
ある日、ついに造田がA子さん宅に押しかけた。この時、彼女の父親が対応し、「A子はあんたのことを知らない。本人も嫌がっているし、うちの子にはまだ勉強することがある」と断ったところ、造田は「わかりました」と素直に帰っていったという。
この頃、造田は兄に「A子という人を好きになった」と話している。
1996年2月、岡山市内の電気工事会社の採用面接を受けた造田は「大学生の彼女がいるので結婚資金を貯めたい」と話したという。言うまでもなく、大学生の彼女とはA子さんのことである。恋人・A子という妄想の世界に入りびたなければ、彼は新しい職場でがんばれなかったのではないか。
努力する人、しない人
1995年11月、住宅美装の会社を辞めた造田は職を転々としていた。1年後の1996年11月、仕事を探しに上京した造田は、職にあぶれたまま所持金を使い果たし、野宿生活を送るうち、スーパーマーケットで食料品や衣類を万引きし、店員に取り押さえられる。交番に突き出され、所持品をあらためられると、1本のナイフが見つかる。「護身用に持っていた」と造田が話したことから、容疑に銃刀法違反が加わり、現行犯逮捕された。12月17日、罰金10万円の略式命令を受けた。
この前後、造田は無賃乗車も繰り返している。岡山駅や兄の自宅の最寄駅松永駅などで発覚するたびに兄が呼び出され、謝っている。東京に来た時も、米軍基地で働こうと横須賀までタクシーの乗るが、料金を払わず通報される。この時も兄が弁償して、刑事事件への発展を食い止めた。
造田は愛知県岡崎市で職を見つける。97年3月から4月にかけて、市内の教会の日曜礼拝に出かけている。この短時日の教会通いで、造田はキリスト教徒やアメリカ人に対する偏った親和性をはぐくみ始める。
7月、再び上京し、世田谷区内の新聞販売店で働き始める。この時期、公機関に意味不明の手紙を送りつけるようになる。外務省に20通あまり、そのほか国家や裁判所、警視庁など10ヶ所ほど、1ヶ所につき5~10通の手紙だした。出した手紙の総数は100通にものぼり、すべて住所氏名を偽らずに記した。手紙の内容については以下の通り。
出典:池袋・通り魔殺人事件
こうした文面の手紙を、造田は自らを”大統領”と名乗り、兄にまで送りつけている。外務省への手紙には兄を名指しであげ、「小汚い者たちのボスです」と書いている。9月上旬、造田は新聞販売店を辞め、全国を転々としていた。
1998年6月24日、造田は200ドルというわずかな所持金を持って、あてもなく、米オレゴン州ポートランド市を訪れる。後の供述によると一ヶ月前から計画していた渡米だったと言う。(この年の4月から大学を卒業したA子がシアトルに居住していたが、このことが関係あるのか)
しかし、知人も英会話能力もない造田は仕事を見つけることをできずにパスポートを破り捨てるという奇行に及ぶ。日本領事館に保護された時の造田は、満足に人に相対できないほど錯乱し、体調も極度に悪化していた。
9月23日、領事館の斡旋によって、ジャパニーズ・パブテスト教会の援助で平静を取り戻していった造田は帰国する。
帰国後しばらく、愛知県の名古屋市内、稲沢市内などを渡り歩くように働いていた。
1999年3月、以前働いたことのある自動車部品工場で半年契約で働き始めるが、4月半ば、無断欠勤をはじめる。
4月24日、東京足立区にある読売新聞販売店に電話をかけてくる。翌25日からこの新聞販売店で働き始める。住まいは販売店から、徒歩5、6分ほどの木造一軒家の2階の一室を間借りした。造田の所持品は携帯用のCDプレーヤーや着替えをいれたわずかなもの。見かねた家主はふとん一式を提供している。
この販売店での造田は遅刻や欠勤も滅多に見られないかわりに、職場の仲間と羽目をはずすこともほとんどなかった。それでもたまには同僚と酒を飲みに行くことがあった。しかし、造田は無理に酒をすすめられた時の様子を寝る前に思い出し、屈辱と腹立たしさにとらわれていた。
勤務態度としては誤配はなく、新規購読の拡販でも相応の成績をあげたが、職場では目立って自己を主張することはなかった。ある日、仕事中にトイレに駆け込もうとした際、忙しいのだからとそれを止められた。このことはあとあとまで造田は忘れなかった。
9月1日、寝坊で朝刊の配達に遅刻する。この1件により、所長の勧めで携帯電話を持ち始める。
9月3日、造田は所長にしか番号を教えないつもりであったが、同僚の一人にしつこく聞かれ教えている。この同僚は造田が内心で”努力しない人”と嫌悪していた人間だった。
この日の22時4分、造田の寝入りばなに携帯電話が鳴った。しかし造田が出ても、相手はこたえない。これを”努力しない人”のいたずらであると決め付けた造田は激しい怒りを覚えた。翌朝の仕事を考え、造田は早く眠ろうとするが、怒りがそれを妨げた。”努力しない人”への怒りは、街を歩く普通の人に広く向けられることとなった。
日付が変わり翌4日午前1時過ぎ、造田はレポート用紙に檄文とも思えるものを書きつけた。
わし以外のボケナスのアホ殺したるけえのお
わしもボケナスのアホ殺したるけえのお
アホ、今すぐ永遠じごくじゃけえのお
いつも出勤する午前3時ごろ、「努力しない人間は生きていてもしかたない」と書いて部屋を出た。造田は出勤するつもりも、部屋に戻る気もなかった。携帯電話の電源は切ってデイパックの中に入れた。
出典:池袋・通り魔殺人事件
1999/9/8、池袋
9月4日、部屋を出た造田は唯一土地鑑のある繁華街である池袋に来ていた。ハンバーガーショップで朝食をとりながら、”努力しない人”にむける凶器について考えた。同日午後1時過ぎ、東急ハンズ2階で洋包丁とまな板、四階で金づちとドライバーを購入した。まな板とドライバーというのは店員に怪しまれないためのもので、ほどなくサンシャインシティ・アルパニ階のゴミ箱に捨てている。しかしこの日は、造田はバッグの中の包丁と金づちを取り出すことができず、CD屋をひやかしたり、ゲームセンターで遊んだりしたのち、赤坂にあるカプセルホテルに泊まった。
翌5日から7日にかけても、造田は赤坂と池袋を往復するが、包丁などを取り出すことはできなかった。造田は常日頃から兄を”小汚い者たちの代表”、”努力しない人”と考えていたが、この時ばかりは犯行後の兄を思って躊躇したと話している。
9月8日水曜日午前10時、造田は「今日こそは」と犯行の決意をしてカプセルホテルを出発した。地下鉄丸の内線に乗って池袋に着くと、駅構内にあるコインロッカーの中にデイパックの中のCDプレイヤーや着替えを預け入れた。その後、例によってハンバーガーショップで食事をしている。
午前11時35分、サンシャインシティの地下通路からエスカレーターで東急ハンズ正面入り口前に出た造田は、デイパックを路上におろし、その中から包丁と金づちをとりだした。右手に包丁を、左手に金づちを持った造田は道行く人を睨むように見渡した。そして「ウオー!!」という声を上げ、「むかついた。ぶっ殺す」と唸りながら、通りすがりの若い男女2人連れに突進した。
2人を追って、さきほど自分が乗ってきたエスカレーター方向に走ると、そこへ住吉直さん(当時71歳)と和子さん(66歳)夫婦が登ってきた。和子さんの左後方から近づき「ぶっ殺す」と口走りながら、その左胸部に包丁を突き刺した。驚いた直さんが逃げ出すと、右手に持ち替えた金づちを直さんの頭上に数回強く振り下ろした。直さんが両手で頭を庇うと、造田は包丁でその右手を突き刺した。この時、包丁の刃先が折れ、直さんの右前腕部にめりこんだ。直さんが倒れこむと、造田は次の標的を探した。
辺りは騒然とした。悲鳴や、「人殺しだ」「ナイフ持ってるぞ」などという声が轟いてた。八方に逃げ出す人々の中で、造田は若い男性にターゲットを絞り、池袋駅方向に追いかけた。
すでに2人が刃に倒れたことを知ずに歩いていた高橋勝利さん(当時34歳)、真弥さん(29歳)夫妻は東急ハンズの前にさしかかった時、前方から走ってくる造田に気づいた。真弥さんは右隣りに歩く夫の方に寄った。若い男性から、真弥さんの方に目を移した造田は立ち止まり、右手の包丁を真弥さんの左腰部に突き刺した。小さく呻きながら、真弥さんは東急ハンズ入り口に向かって走り出した。何が起こったのかわからない勝利さんはその後を追った。真弥さんはハンズの向かいにあるパチンコ店に「助けてください」と駆け込んだ。この時夫妻は初めて刺されたことを知ったと言う。
一方、造田はわめき散らしながら、60階通りを池袋駅方向に走り、凶器を振りまわしつづけた。造田に背を向けて駅方向に歩いていた私立高校1年生4人グループのうち3人が切りつけられる。造田にさらに2人に切りつけた。その後、池袋東口ロータリーで、追いかけてきた6、7人の通行人によってようやく造田は取り押さえられた。
住吉和子さんと高橋真弥さんは搬送先の病院で死亡、6人が負傷すると言う凶行だった。
出典:池袋・通り魔殺人事件
逮捕後の造田
供述「大学を出て、事務系の仕事に就きたかった」
「アメリカ人はほとんどが努力している人」
「キリスト教徒は全員努力している人」
「真面目に働いているのに評価されず、腹がたった」
ジャーナリスト・青沼陽一郎氏は造田と手紙のやりとりを始め、「池袋通り魔との往復書簡」(小学館)という本にまとめている。手紙の中で造田は「造田博教」なるものを作ったと書いている。
出典:池袋・通り魔殺人事件
犯行後、拘置所から知人に宛てた手紙(主要部分)
「私は○○○(犯人の名前が入る。手紙では犯人が作った宗教と説明している)教の中で、神とか主ではなく、宣教者です。信仰の対象というものは無くて、私の話を知ってもらうというものです。岡山の実家を○○○教の礼拝地にします。献金を貰ってその金で会社を作り物を作って安く売ります。その収入から皆に給料を払います。私は献金の一部や会社の利益から3%から5%を貰います。○○○教と○○○教の会社は、私の所有物とします。」「○○○教では親族・家族の関係を無しにしようと思ってます。家族の借金なんて払わなかったらいいと思います。」
「私は事件の被害者の人の言う事を聞かないでいいと思っています。無茶苦茶な言い分を含むと言う事です。」
「親とか年寄りを大事にするのはダメだと思います。大事にしてもしようがないからです。」
「人の命は尊い、無くなったら戻らない、とかよく言われますが、こんなことを言っていると社会に悪影響があると思います。」
「肉体労働は体を使うばかりだと思います。学歴が無いとなれない仕事を、学歴が低くてもなれるようにするのがいいと思います。」
「私は○○○教では、トイレを自由にするのがいいと思っています。あと小便や大便をもらしても、ふれないようにするのがいいと思います」
「事件を起こしたので入れるかどうかわかりませんが、大検を受けて大学を受験しようと思っています。今、高校の参考書を読んだりしています」
「今の日本や世界の状況で、私が死刑なんて無いと思います。アメリカ大使館に伝えてください。他の国と一緒に、日本と戦争してくださいと大使館に伝えてください」
このような文章を書いた造田を、弁護側は精神異常、あるいは妄想型の人格障害であるとして減刑を主張しているが、認められなかった。
裁判焦点
一審で造田被告は起訴事実を全面的に認め、事件当時の刑事責任能力の有無が争点になった。検察側による起訴前の簡易鑑定や、専門家による精神鑑定も「責任能力に問題はない」との結論だった。
これに対し、弁護側は(1)通行人を無差別に襲った動機が不可解(2)数年前から外務省などに意味不明の手紙を送っていた――ことなどを挙げ、「精神分裂病による妄想の影響下にあった」と主張していた。
判決は、犯行前の対人関係に大きな問題がなかった▽凶器の購入など合理的な準備をしている▽犯行途中に先端が欠けた包丁を捨てるなど冷静な行動を取った――ことなどを指摘し、心神喪失か心神耗弱の状態だったとする弁護側の主張を退けた。動機についても、「自分のように努力している者が評価されないとの不満を抱いていたところ、無言電話が引き金になり、社会に反発心を募らせて犯行を決意した」と、検察側の主張に沿った認定をした。
二審でも起訴事実に争いはなく、争点は造田被告の事件時の責任能力の有無だった。
弁護側は、二審で提出した精神科医の意見書や、事件前年に無計画に渡米するなどの不可解な被告の言動から、「被告は統合失調症による妄想で事件を起こした。責任能力がなく無罪か、刑が軽減されるべきだ」と主張した。責任能力については、検察側の起訴前の簡易鑑定や、一審での専門家による精神鑑定はいずれも「責任能力はある」とした。二審で弁護側は再度の精神鑑定を申請したが、認められなかった。
原田裁判長は一審と同様に完全責任能力を認めたうえで、「ほかに類を見ない凶悪な犯行で、被害者らの恐怖は計り知れない。重大で深刻な結果を生んだ」と指摘した。
最高裁の弁論で弁護側は「事件当時、判断能力がない心神喪失状態だった。刑事責任能力はなく無罪」などと主張した。検察側は「被害者や遺族の処罰感情は厳しい」として上告棄却を求めた。
判決で横尾和子裁判長は被告は日本社会に対する不満を抱いていたが、いたずら電話をきっかけに、うっ積した感情を爆発させた」と指摘。「犯行態様は冷酷、非情、残忍で、被害者には何一つ落ち度がなく、無差別の通り魔事件として社会に与えた衝撃も大きい」と断じた。そして「目についた通行人を手当たり次第に襲った犯行は極めて悪質。何ら落ち度のない被害者2人の命を奪った結果も重大だ」「遺族の処罰感情も峻烈で、死刑はやむを得ない」と述べた。
出典:zouta"