尊属殺法定刑違憲事件(栃木実父殺し事件)とは
尊属殺法定刑違憲事件(栃木実父殺し事件)
尊属殺法定刑違憲事件(そんぞくさつほうていけいいけんじけん)とは、1973年(昭和48年)4月4日に最高裁において、刑法第200条に規定された「尊属殺」の重罰規定が日本国憲法第14条(法の下の平等)に反し違憲であるとの判決が下された殺人事件であり、かつ同時に最高裁判所が違憲立法審査権を発動し、既存の法律を違憲と判断した最初の判例となった(法令違憲)。「尊属殺重罰規定違憲判決」、「栃木実父殺し事件」(栃木県矢板市での事件である)とも呼ばれる。
尊属殺人 とは
尊属殺ともいう。1995年の刑法改正法が廃止した刑法旧200条の規定していた殺人罪の特別類型。犯人自身またはその生存配偶者の直系尊属を殺した場合を,死刑または無期懲役という特段に重い刑で処罰していた。
鬼畜なる父親と娘の悲劇
和代にとって悲劇の始まりは、昭和28年の中学2年生(14歳)の時に遡る。その頃の松田家は、父親の直吉と母親それに長女の和代を筆頭に妹2人、弟4人の9人家族だった。この大家族に対して自宅は茶の間に寝床の2間。家族は折り重なるように寝ていた。この時、母と一緒に茶の間で寝ていた父親の直吉が和代の蒲団に入ってきて肉体関係を結んだ。あまりの衝撃に和代は声も出せなかった。これがきっかけで、直吉は母親の目を盗んでは和代の体を求めて週に2~3回関係を迫った。
1年後の中学3年生の時、和代は耐え切れなくなり母親に事実を打ち明けた。驚いた母親は直吉を問い詰めたが、逆に直吉は包丁を持ち出して、「殺してやる」と暴れだした。身の危険を感じた母親は、和代と次女の2人を残して、あとの5人の子供を連れて出て行った。
このため、直吉と和代それに次女3人の奇妙な生活が始まった。さらに次女が中学校を卒業して東京の会社へ就職して家を出ると、直吉と和代の夫婦同然の生活が始まった。この間、直吉は酒を飲んでは暴れだし、連日のように和代の体を求めた。
和代が17歳の時、初めて妊娠した。以来、29歳までの間に5人の子供を出産(内、2人は死産)するという異常事態で、子供は和代の私生児として育てられた。6回目の妊娠の時、医師から「体を壊す」と忠告され避妊手術をする。誰よりも喜んだのは直吉で、益々和代の体を求めるようになった。
救えぬ男
和代17歳の時、母親が戻ってきた。母の実家に屋敷に掘立小屋を作り、一家はそこに住むようになった。母は父を監視して、和代の寝ている方に行こうとすると止めに入ったが、そのたびに喧嘩となった。それでも直吉の欲望はつきることなく、酒を飲んでは娘の体を求め続けた。そしてこの頃、和代は父親の子どもを身ごもった。
身重の和代は、田植えの時に知り合った男性(当時28歳)と駆け落ちした。和代の方から「私と逃げてください」と哀願したのだった。男性は同情して、2人は黒磯まで行ったのだが、父に追いつかれて引き離された。
この一件があって、直吉は妻の留守中に矢板市に間借りして、長女とその妹H子とで暮らし始めた。この矢板市の家は一部屋で、ここでは毎晩夫婦のように父と1つの布団で眠った。直吉はこの頃、植木職人をしていた。
11月24日、和代は長女出産。
昭和32年、市営団地に引っ越す。和代はここで二女、三女を出産。
父親は精力はますます旺盛になったのか、毎晩1度では終らず 和代が断ると、大声でわめき散らした。和代は近所の人や自分の子どもにそれを聞かせたくないから応じ続けていた。
妹H子は中学卒業後、千葉県の工場に就職し、矢板の家では直吉と和代、子ども3人での生活が始まった。事情を知らない人間からすれば、幸せに映っていただろう。
出典:矢板・実父殺し事件
29歳の初恋
1968年、和代は29歳になっていた。すでに四女と五女も生んでいたが、生後まもなく死亡した。5度の出産以外にも、5度の中絶をしている。昭和42年8月、大田原市の産婦人科では「このように中絶していると体が持たないから、手術して妊娠しないようにしたほうがいい」と言われた。和代は父親に相談し、父もそれに賛成したので、8月25日に矢板市内で不妊手術を受けた。供述によると、この手術以来、和代は不感症となっていた。
和代は家計を助けるために65年から近所の印刷所に働きに出ていたのだが、ここで年下のSさん(当時22歳)という男性と知り合っている。和代はSさんに好意を持ったが、積極的に仕事を手伝うぐらいで、それを口にしたことはなかった。以前、駆け落ちした男性は嫌いではなかったが、父の元を離れたいという想いの方が強く、恋とは言えなかった。だからSさんが初恋の相手となる。
8月の終わり頃、仕事を終えて帰宅中の和代に、Sさんが「工場をやめようかな」と言った。その理由については言わなかったが、その翌朝、Sさんが告白した。
「あんたが悪いんだ。あんたが会社に入ってこなければよかった。あんたが好きになってしまった」
和代は父に束縛されるため遠出がほとんどできなかったので、同僚が「恋人と~に行ってきた」と話すのがうらやましくて仕方なかった。だからこそSさんと仕事帰りに喫茶店でおしゃべりをしたり、東武デパートで買い物をしたり、花屋敷で映画を見たことは、彼女にとって初めての幸福であったに違いない。
Sさんは他の従業員から和代さんに子どもがいるのを聞いており、また子どもが出来ないことも知っていたが、結婚を申し込んだ。
和代は寝床で父親に結婚したい人がいるということを打ち明けた。
「お前が幸せになれるんなら良い。相手はいくつだ」
「22歳」
「そんなに若いんじゃ向うでお前をからかっているんだ。子どもはどうするんだ」
「お母さんに頼む」
「何を言う!俺の立場がなくなる。そんなことができるか。お前の子どもなんだぞ」
父親は焼酎を一気に飲んで、「今から相手の家に行って話をつけてくる。ぶっ殺してやる!」とわめいた。和代は「勤めをやめて家にいるから、Sさんのところには行かないで」と言ってようやく納得させた。
翌朝、和代は工場に電話を入れ、「ゆうべお父さんに話したが駄目だった。今から矢板駅に行くから来てくれ」とSさんに伝えた。Sはすぐに駅に行ったが、和代は姿を現さなかった。
その頃、和代はよそ行きの服を持ち出して、近所の家で着替えていた。しかし、直吉に見つけられ、ブラウスを剥がれ、下着まで破られた。悲鳴を聞いた近くの人が父を押さえているあいだに、和代はバス停に向かったが、バスが来ぬ間に父親に連れ戻された。
9月20日、和代は父から逃れるために東京に出ようと決心した。その前に1度だけSさんと会ってお別れを言いたかったのだが、彼の自宅でも、工場でも電話は取り次いではもらえなかった。
Sさんは工場長から和代が父親と関係を持っていることを聞かされていた。「深入りしないように」とも言われた。和代も工場を辞めてしまったので、もう忘れようとしていたのだった。
和代の上京は、父が仕事を休んでまで監視するため不可能になっていた。
10月5日、この日も父は和代を監視するため仕事を昼までで切り上げ、泥酔していた。
「俺はもう仕事をする張り合いがなくなった。俺を離れてどこにでも行けるんなら行ってみろ。一生つきまとって不幸にしてやる。どこまで行ってもつかまえてやる」
夜8時すぎ、いつものように直吉が娘の体を求める。
「俺は赤ん坊のとき親に捨てられ、苦労に苦労してお前を育てたんだ。それなのに十何年も俺を弄んで・・・・このバイタめ!」
「出ていくんだら出ていけ。どこまでも追って行くからな。3人の子どもは始末してやるぞ!」
この罵声を聞いた瞬間、和代は父親を押し倒し跨ったうえで、傍にあった股引の紐をつかんで、首にかけ絞めた。直吉はなぜか抵抗しなかった。
「殺すんだら殺せ」
「悔しいか」
「悔しかねえ。お前が悔しいからしたんだんべ。お前に殺されるのは本望だ」
「悔しかねえ。悔しかねえ」
父は絶命した。和代にとっては父の束縛から自由を取り戻した瞬間でもあった。
和代は近所の親しい雑貨商宅を訪れ、「父親を紐で絞め殺しました」と言って崩れ落ちた。
出典:矢板・実父殺し事件
出典:いかとっくりのイラスト
世間は、和代に深く同情した。だが、法律上は親や子供を殺害した場合、一般の殺人罪ではなく、「尊属殺人罪」が適用され死刑か無期懲役刑と定められていた。公判では、このポイントが大きな焦点となった。大貫大八弁護士は、「被告人の女性としての人生は、父親の人倫を踏みにじった行為から始まっている・・・この犯行は正当防衛または緊急避難と解すべきである。よって、この事件は、殺人罪ではなく傷害致死罪を適用すべきであり、尊属殺人、尊属傷害致死は適用すべきでない」と弁護した。昭和44年5月29日宇都宮地裁は、弁護人の主張をほぼ受け入れて「尊属殺人は、法のもとに平等をうたった憲法14条違反であり、被告の犯行には一般の殺人罪を適用し、過剰防衛と認定した上で、情状を酌量して刑を免除する」と事実上の無罪判決を出した。
検察側はこれを不服として控訴した。昭和45年5月12日、東京高裁は「泥酔した父親への殺害は正当防衛とは認められない」として、和代に懲役7年、情状酌量として減刑し懲役3年6ヶ月の実刑判決を言い渡した。
大貫弁護士は、これを不服として上告した。昭和48年4月4日、最高裁は「尊属殺人を普通殺人より重く罰すること自体は違憲とは言えないが、尊属殺人罪の法定刑が、死刑、無期懲役に限定されているのは違憲である・・・よって原判決を破棄する」との判決を言い渡した。これにより、和代は懲役2年6ヶ月、執行猶予3年が確定した。現行の法律規定が、司法の最高峰によって違憲とされた瞬間だった。
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