八海事件とは
八海事件
八海事件(やかいじけん)とは、1951年(昭和26年)に山口県熊毛郡麻郷村(おごうむら。現在の田布施町)八海で発生した強盗殺人事件である。のちの裁判で被告人5人のうち4人が無罪になった。
老夫婦殺害
1951年1月24日、山口県熊毛郡麻郷村に住む経木(※)製造業・吉岡晃(当時22歳)はその日は朝からいらいらしていた。酒代や遊郭の支払いのあてが全くなかったためだった。夜、吉岡はこの日飲み屋で焼酎を飲み、その後焼酎を入れてもらった四合瓶片手に早川惣兵衛さん(64歳)の家に向かっていた。早川さん宅は「ハワイの親類から金が送られてきている」「小金を貯めている」といった噂を前々から耳にしていたので、どうにかして金を盗もうと考えていた。吉岡は早川さん宅にうまく侵入したが、どうも震えがとまらないので、紛らわしに焼酎を一気呑みして空瓶を台所に置いた。タンスを物色しようとしていると、惣兵衛さんが目を覚ました。吉岡はとっさに台所にあった薪割り用の斧を手にし、何度も振り落とし殺害した。この様子に気づいた妻・ヒサさん(64歳)は恐怖で体が動かず、「強盗じゃあ」と叫んで布団の中にもぐりこんだ。吉岡はそこへ馬乗りになり、口を押さえて窒息死させた。夫婦殺害後、吉岡はタンスにあった現金1万7000円を奪い取り、速やかに逃走した。
朝9時ごろ、隣家の人がヒサさん借りていた重箱を返しに早川家を訪れると、ヒサさんが首を吊っているのを目にした。通報により警官が駆けつけると、惣兵衛さんは布団の中でメッタ切りにされており、隣室との間の鴨居で首を吊っていたのも間違いなくヒサさんだった。現場の様子から当初夫婦喧嘩を発端に妻が夫を殺して自殺したものと思われた。
ところが早川家の戸はすべて内から鍵がかけられていたものの、一箇所だけ羽目板の下の板が剥がされた痕跡があり、また床下には人間が這った跡があった。首吊りも偽装工作で、部屋内を物色した痕跡も見られたことから強盗殺人事件として捜査された。台所には焼酎の匂いの残る四合瓶からは近くに住む経木製造業・吉岡晃元(当時22歳)の指紋が検出された。吉岡が金に困っていたこともわかり、すぐに重要参考人として指名手配された。
事件から2日後、吉岡は隣りの柳井市内の遊郭で遊んでいたところを逮捕された。
出典:八海事件
厳しい取り調べ
捜査陣は現場の様子から複数による犯行と見ていた。こうしたことから吉岡に「共犯者の名を言え」ときつく迫った。吉岡は当初単独での犯行を供述していたが、「1人でやったと言えば死刑になる。だが、他に首謀者がいて、自分はそれを手伝ったに過ぎないと言えば、罪は軽くなる」と思い、阿藤さん(当時24歳)、Bさん(当時23歳)、Cさん(当時21歳)、Dさん(当時22歳)、他1人の計5人の名前を挙げた。元々、吉岡と阿藤さんらは遊び仲間で、事件の10日ほど前にも一緒に呑んでいた。その勢いで村内の若い女性のいる家に遊びに行ったが、その途中、吉岡は道端にあった荷車をいたずらでひっくりかえして、積んであった土箱を道に撒き散らした。後日、このことが知れて吉岡は阿藤さんらに同行を求めて、荷車の持ち主に謝りに行ったがなかなか許してもらえなかった。このことから持ち主に酒をごちそうして謝意を表明することになり、阿藤さんが酒肴を借りてきて酒宴が行われた。ところが、吉岡にこの酒代800円を返すあてがなく、ある時阿藤さんに厳しい催促を受けた。吉岡は所持品や盗品を売るなどして工面しようとしたが、たいした値にならず、事件当日のやけ酒、犯行へとつながっていったのだった。
吉岡の自白からまもなく阿藤さんら5人は逮捕された(内1人は釈放)。阿藤さんは三田尻駅前で逮捕されたが、この時数人の刑事のうち1人が「阿藤、とうとうやったのう」と言ってきた。阿藤さんは数件の窃盗歴があり、広島刑務所で服役していたことがあったからだった。前科者ということで、警察は彼の犯行を信じて疑わなかった。
熊毛地区署に連行され取調べを受けることになった4人にはそれぞれ具体的なアリバイがあったが受け入れられず、吉岡の供述に合う自供をさせられた。なかでも阿藤さんは主犯格に仕立て上げられていた。なんの関係もない4人がなぜ吉岡の嘘の自白に合わせるような供述をしたのか。それは刑事たちの拷問があったからだった。阿藤さんの話によると、警棒で顔や首などを殴られたり、線香の火であぶられたり、ロ―プを首に巻かれ首吊りのように持ち上げられたりされたという。もちろん睡眠なども充分にとることはできなかった。他の4人も同じような暴行を受けていたという。
こうしたことから30日、阿藤さんはついにあきらめて真実に反する自白をした。この自白の調書が終わると、刑事たちの態度は一変し、「早よう言わんからよ、ひもじかったろう。これでも食え」と言ってうどんを持って来てくれたという。
「苦しさのあまり、嘘の自白をしても裁判で真実を明らかにさせればいい」
厳しい取調べを受ける人間の心理として、冤罪事件にはこういうパターンのものが少なくないが、阿藤さんもまた例外ではなかった。第1回自白調書がとられたあと、裁判官と検察官が来たので、阿藤さんは拷問の跡の傷を見せ、しきりに「無実」を訴えた。ところが彼らは取り合わず、事態は変わらなかった。2人が帰った後、捜査主任に「なぜ、やったという前言をひるがえしたのか」「判事さんや検事さんによく嘘をついたものだ」とスリッパで顔を殴られるなどしたという。
こうして5人の共同犯行という形で公判は進められていった。
出典:八海事件
異常な公判
昭和27年6月山口地裁岩国支部は検察側の主張を認めて阿藤死刑、吉岡ら4人に無期懲役を言い渡した。吉岡を除く4人は控訴した。検察側も阿藤を除く4被告について控訴した(検察側は全員の死刑を求刑)。昭和28年9月広島高裁は阿藤の死刑、吉岡の無期懲役を支持しながら、稲田を懲役15年、松崎、久永を懲役12年に減刑した。これに対して吉岡は上告取り下げで無期懲役が確定。阿藤ら4人が上告した。昭和32年10月最高裁は「原判決に重大な事実誤認がある」として原判決を破棄して広島高裁に差し戻した。
広島高裁は裁判のやり直した結果、阿藤ら4人が吉岡と共謀したとは認めがたく吉岡の単独犯行として4人に無罪を言い渡した。これに対して検察側は事実誤認として上告した。
昭和37年5月最高裁は一転して明らかに複数の犯行であると認めて再び広島高裁に差し戻した。広島高裁は2度目のやり直し裁判で昭和40年8月阿藤ら4被告も共犯者であると認定し阿藤に死刑、稲田に懲役15年、松崎、久永に同12年を言い渡した。
阿藤らは3度目の上告をした。その結果、昭和43年10月25日最高裁は証拠不十分を理由に原判決を破棄し無罪を言い渡した。最高裁が下級審の事実認定を覆し無罪を言い渡したのは裁判史上初めてのことであった。
一審裁判所の山口地裁岩国支部
矛盾
この異常な公判は市民も疑問を抱くようになり、弁護士の正木ひろし、原田香留夫が立ち上がった。正木は、1、2審の事実認定に多くの不合理を指摘した。その内の1つとして、犯行に及ぶ時間軸の矛盾を追及した。吉岡の供述では、犯行当日の午後10時40分頃、5人が八海橋に集合して犯行の役割分担を確認し午後10時50分頃早川宅に侵入し犯行に至ったという。この10分間に八海橋で共同謀議して早川宅までの600メートルを歩き、侵入口を探して凶器を見つけて犯行に至ることは物理上不可能であることを正木弁護士は主張した。
正木弁護士は、この異常な公判を「裁判官」というタイトルで出版しベストセラーになる。映画会社はこれを基に「真昼の暗黒」というタイトルで映画化して多くの国民の知るところとなった。
何とか4人の有罪を立証しようとした検察は4人のアリバイや矛盾点を完全に無視し、偽証の証言者を作り上げたり、被告に有利な証言者に対し偽証罪で次々に逮捕するなど凄まじいデッチ上げを昭和33年から40年まで続けた。この事実が晒しだされて、警察、検察の横暴と司法の怠慢に世論の非難が集中した。
結局、吉岡は警察に強要されて無実である4人の名をあげたとする「吉岡上申書」が提出され、昭和43年10月25日、最高裁で幻の犯人である阿藤ら4人は無罪を勝ち取った。阿藤は死刑と無罪という異常な状況に追い込まれた。人間が人間を裁く難しさを改めて浮き彫りにしたこの事件で、阿藤らが無罪を勝ち取るのに事件から18年の歳月が経っていた。