英語を英語で考えるとは具体的にどういうことなのか!?

著者:
投稿日:
更新日:

まず断っておかなければならないことがあります。私たちが日本人である以上、日本語を使わずに物事を考えることは不可能です。
「英語を英語で考えなきゃ」と思っている時点で、すでに「英語を英語で考えなきゃ」という日本語を使っています。I should think about everything in Englishと頭の中で言い聞かせようとしても、「最初にSが来てその後はVで、『英語で』は”by”なのか”in”なのか・・・」は日本語で考えていますよね。文法の説明も英語でしようとしても、「文法の説明も英語でしなきゃ」という意識は日本語でしていていませんか?
「日本語を使わずに考えろ」というのは「筋肉を使わず歩け」「肺を使わず呼吸をしろ」と全く同じことを言っています。「日本語を使うな」とはつまり「考えるな」と言っているわけです。考えずにどうやって勉強ができるというのでしょうか。
確かに英語が話せることと日本語訳ができるというのは別問題であり、英語がペラペラなだけでは通訳者や翻訳者にはなれません。しかし、「英語を英語で考えている」と思っている彼らでさえ、日本人である以上日本語を使って考えているはずなのです。それでは「英語を英語で考えている」という感覚になるのは具体的にどのような状態なのでしょうか。それについて見ていきましょう。

「日本語訳をしない」=「日本語を使わない」ではない

「日本語訳をするな」という指摘に関しては、筆者も賛成の立場です。筆者の本業である翻訳の仕事をすると、「意味を理解する」ことと、「翻訳する」ことの間にはかなり難易度に差があることは毎日のように痛感しております。
しかし、「日本語訳をしない」ことは「日本語を使わない」というのと同義ではないということを強調しておかなければなりません。
日本語訳をするのが難しいのは、英語側の問題よりも、実は日本語力の問題であることの方が大きいのです。
一度英語から離れて、就職活動の話を例に挙げましょう。頭の中にある志望理由をいざ履歴書に書いたり、面接で話したりするとなると、中々まとまらずに苦労した経験は誰もが持っていることでしょう。
日本語訳ができないのもそれと同じです。頭の中にある考えや解釈をうまく表現するのが難しいのです。そこに英語は関係ありません。履歴書が書けないのは頭の中が英語になっているからではありませんよね。頭の中にあることを上手く表現できないというのはよくある話です。それは誰もが多く経験していることだと思います。
「英語的特有の表現を上手く日本語で表現できる言葉がない」というのは、頭の中の情報を口や紙で表現しているときの話であり、少なくとも「理解する段階」ではそのような問題は起こりません。「日本語訳をするな」というのは、「頭の中にある情報をわざわざ口や紙などで綺麗に表現する必要がないよ」ということであり、その前段階の英語を理解するプロセスにおいては日本語をふんだんに使って考えて良いのです。むしろそうでないと、「日本語を使わない」=「頭を使わない」ですので、理解することは不可能です。

ニュアンスを覚えるより日本語訳を覚えた方が早い

Appleは「りんご」ではなく、「赤くて、甘くて、木から成るもの」という風に覚えろという無責任な発言をする人が多くいます。しかし、少し考えれば分かることですが、素直に「りんご」と一言で覚えた方が手っ取り早いです。
ここで、「いや、でも・・・」と思った人は、一度英単語をニュアンスで覚えようとしてみると分かると思います。結局日本語訳を覚えた方が効率が良いことにすぐに気づきます。「ぼやぁ」としたイメージよりも、がっちりとした一つの言葉で覚えた方がしっかりと定着しますし、人間の頭もそのようにできています。
英語だけで書かれた参考書を持ち、英語だけで授業をするネイティブの先生の授業をうけ、日本語訳をせず、単語をなんとなくニュアンスで覚えていく。一見素晴らしい授業のように見えますが、実際にやってみると、結局家に帰って辞書を引く自分がいることに気づかされるでしょう。そこで頑なに、「日本語は絶対に使わない」と言って勝手に縛りプレーをしている人はさらに愚の骨頂です。ただなんとなく、「ぼやぁ」っとしたまま、いつまで経っても英語は上達しません。(中国留学の話になりますが)筆者は留学中にそのような人を何人も見てきました。
人間の頭は「結局のところ何なんだ?」というのを求めます。曖昧な物があれば、それを具体的なものにとらえ定着させようとします。そもそも曖昧な知識というのはまるで役に立たないということは分かりきった話です。しかし、殊英語の話になると、曖昧な「ぼやぁ」っとした状態が良いとされているのです。そんなわけはありません。一度冷静になって考え直せばすぐに分かることです。
「でも・・・日本語訳と英語の概念って正確には一致しないよね」と反論する人もいるでしょう。その人たちに対しては「そんなことを気にすることができるレベルか?まずとりあえず学校英語を完璧にしろ」と言いたいです。ニュアンスというものは、英文を大量に読んでいたら次第につかめてくるものです。しかし、そのためには単語力が必要であり、曖昧な「ぼやぁ」っとした語彙力では英文は読めません。「赤くて甘くて木から成るものを、明るくて暑いくて丸いものが空高く上がったとき、口の中にいれて楽しんだ」のようにどうして読む必要があるのでしょうか。「昼に林檎を食べた」ではいけないのでしょうか。
ニュアンスは覚えるものではなく、掴むものです。覚える時点ではしっかりと、「日本語訳」を覚えて知識を定着させましょう。そして、読解や会話を繰り返していくうちに、その単語の微妙なニュアンスを次第につかめていくようになるのです。

「英語を英語で考えている」と思っている人達の頭の中

冒頭で、「英語を英語で考えることは不可能だ」と述べましたが、実際に「英語を英語で考えている」と思っている日本人はたくさんいます。筆者自身も実際のところ英語を読んだり聞いたりする際には「日本語を介在させていない感覚」になっています。
しかし、この感覚も頭の奥底では日本語がベースとなっています。それでは、「日本語を介在させない」とは、どのようなことを言うのかを見ていきましょう。
筆者の考えでは、「日本語を介在させない」とは、「英語」→「日本語」→「理解」を繰り返していくうちに、次第に「日本語」のプロセスをショートカットできるようになる、またはこの過程を物凄いスピードで行うことができるという風にとらえています。後者に関してはイメージが沸きやすいと思うのですが、英語学習者に関心があるのは「日本語を介さない」ことについてでしょう。
物事には順序があります。ショートカットをできるようにするには、まずショートカットをしないプロセスを完璧にできる必要があります。仕事で横着をするためには、まずその仕事に慣れる必要があるのと同じです。仕事を覚えてないうちから横着が出来る人はまずいませんよね。
アップルやハッピーバースデーのように、日本語を介さず意味がそのまま入ってくるようにするためには、そのくらいまで知識をしっかりと脳内に収めなければなりません。アップルとハッピーバースデーが日本語を介さなくてよいのは、この単語がもはや私たちの生活に深く浸透して日本語のように扱われているからです。admireやabandonのような単語も日本語を介さずに理解しろと言うのであれば、その単語もアップルやハッピーバースデーくらいのレベルまで頭に定着させなければなりません。しかし、そこまで浸透させる暇があれば「賞賛する」「断念する」で覚えた方が圧倒的に速いですし、結局最初のうちは日本語訳でがっちり意味を掴んだ方が、ショートカットができるようになるのも早いです。

逆説的ですが、日本語を介するプロセスをショートカットするためには、しっかりと「日本語」介した学習をまず行わなければなりません。「英語」→「日本語」→「理解」を何十と繰り返していくうちに、気づけば日本語を介さなくてよくなっていたというものです。
「日本語を介さずに理解をする」というものは、「できるようになる」ものではありません。「気づけばその境地に立っていた」というものです。最初から日本語を介さず学習しようてしても、できるわけがありません。学習段階ではしっかりと日本語を使い、つまり「ちゃんと頭を使って(=日本語を使って)」繰り返し学習していくことが重要なのです。

まとめ

「日本語を使うな(=思考停止になれ)」というトンデモ学習法が広がっているせいで、日本では英語学習に対して勝手に自分たちで足枷をはめている状態です。「英語を英語で考える」というのは、ほぼネイティブレベルの人たちができる芸当です。いや、彼らでさえも頭の奥底では母国語がベースにあります。小学生がいきなりハーバード大学を受けるのではなく、中学受験という「日本語をつかって着実に学習をする」段階をまずはしっかりと踏んでいきましょう。

著者プロフィール
Sharetube