「駐在所を爆破!」菅生事件とは
菅生事件
菅生事件(すごうじけん)は、1952年6月2日に大分県直入郡菅生村(現在の竹田市菅生)で起こった、公安警察による日本共産党を弾圧するための自作自演の駐在所爆破事件。犯人として逮捕・起訴された5人の日本共産党関係者全員の無罪判決が確定した冤罪事件である。
深夜の菅生村
昭和27年6月1日夜、大分県菅生村は雨が降っていた。このころ菅生村では、村の農協の不正問題が露見して、村内で酒屋と製材所を経営するM氏を含む地主派と、その他の農民たちとの間でいざこざが起こり始めていた。
この日の夜、市木春秋からカンパしたいという願い出を受けて、村の共産党員・GさんとSさんは市木が指定した中学校の手洗い所横まで、一つの傘を二人でさして歩いていた。
市木は最近M氏に雇われて村にやってきた男で、それからしばらくしてからGさんに「入党したい」と申し出て共産党員になっていた。
GさんとSさんが中学校の手洗い所に行くと、すでに市木は待っていた。そこで簡単なやりとりをして市木は足早に去って行った。二人もまた中学校の前の県道を歩いて帰ることにした。中学校そばには県道を挟んで向かいに駐在所があるが、二人はその駐在所がある方向とは逆に向かって歩いていた。しばらくすると、後方で何かが爆発する音が聞こえた。そして、それとほぼ同時に物影から十数人の男達が飛び出して来た。驚いた二人は別々に逃げたが、すぐにその男たちに捕らわれてしまった。 GさんとSさんは訳が分からぬまま、爆発物取締罰則違反、建造物損壊罪、殺人未遂で逮捕された。物陰から出てきた男たちは刑事だったのである。
この6月1日の夜、駐在所にダイナマイト入りビール瓶投げ込まれて爆破された。その駐在所を爆破したのはGさんとSさんであり、たまたまそれを目撃した刑事たちが現行犯逮捕した・・・というのが警察の主張である。しかし、これはおかしな話である。駐在所にビール瓶が投げ込まれた瞬間、二人は駐在所から遠く離れた場所を歩いていたのであり、それこそ物陰から飛び出してきた刑事たちが、二人が現場に居なかったことを知っている筈なのである。
それから二人と共謀した三人(M、A、F)の共産党員の青年が逮捕された。
五人は皆、無実を訴えるも起訴された。
出典:私だけの十字架
異様だった事件前夜
事件の前日、毎日新聞・和田武浩記者は日曜だというのに殺気だった竹田地区署の異様な空気を嗅ぎとり、大分支局に応援を頼んでいた。夕方頃、記者、カメラマンら3人が到着し、4人はハイヤーで菅生村に向かった。村の入り口にはなぜか2、3台の営林署のマークをつけたトラックが停められており、私服の警官が張りこんでいた。警官は記者らに「君たちはここで降りて歩いて行き給え」と話し、和田記者はこれから起こるであろう事態を確信した。現場付近には約100人の警官が張りこんでいたが、後に「牛窃盗事件に行きました」「菅生村には最近盗難事件が多いので夜警に行きました」と後に話している。
▽竹田署小林刑事の証言
「事件の1週間ほど前から命令で菅生村に盗難予防の夜警に行っていた。その夜も駐在所付近まで来た時、雨が激しくなったので、農協倉庫入り口の石段にしゃがんでいた。たまたま岡本警部補が来て一緒に雨宿りしていると12時半頃、熊本県境の方向から2人の人影が現れた。駐在所に用事でもあるのだろうと見過ごすと、2人は駐在所の前で立ち止まり、1人が玄関の前の電燈を消した。1人がマッチをすり、シュッと音をたてて点火したものを中に投げ込んだ。大音響とともに2人は来た道の方に走り出した。その後を追って先に逃げた1人が道路から菜畑に逃げ込んだのを逮捕した。それがGであった」
▽岡本警部補の証言
「その夜、Gに対する牛窃盗容疑の逮捕状を持って菅生村に行き雨宿りをしていると小林刑事が来合わせた」
出典:私だけの十字架
消えた巡査部長
1955年7月、大分地裁は全員に有罪判決(G懲役10年、S同8年、M同3年、A同3年、F同3ヶ月)。公判中、被告側から「市木」が重要な関係を持っていることがくり返し主張されたが、「市木は本件に関係なし」とする検察側の主張を受け入れた。
二審が進行中の56年9月頃、ある噂が流れ始める。それは「現職の警官が日共にスパイとして入りこみ、事件現場にGらを連れ出したのではないか」というものだった。
Sは隣りの郡の僧侶だったが、その檀家のなかに事件の頃から行方不明になっている大分県警の巡査部長がいた。その男の名は戸高公徳といった。10月頃、戸高の子ども時代の写真と結婚写真を手に入れ、村の人々にその写真を見せてまわった。するとその失踪した警官こそが、「市木春秋」であったことが判明。弁護団は公判で「市木は現職の警官の疑いが濃厚である」と発表した。
警官が被告を現場に連れ出して、デッチあげで現行犯逮捕ということは大問題となり、この田舎町の事件は一気に知られるようになる。新聞社、通信社の記者達は行方をくらませていた戸高を探した。
戸高は事件後、東京・中野区になる警察大学に匿われていたが、弁護団の発表からまた姿を消していた。
1957年3月13日夜、斎藤茂男(※)ら共同通信社の記者グループが、新宿区のアパートにいた戸高を発見。当初は否定していたが、記者らの執拗な追及についに「自分が市木だ」と話し始めた。戸高は5年間も表へ出ていくことはできない身だったが、この春から小学校に入学する娘のことを思うと表に出ていくしかない状況だったのだろう。
4月22日、福岡高裁で行なわれた第二審公判に戸高は証人として出廷する。そこで菅生村共産党細胞探索のため、スパイとしてGらに接近、交番破壊のためのダイナマイト運搬などの事実を初めて話した。
そうしたなかで6月、福岡高裁は全員に無罪判決。
1959年9月、二審は戸高に有罪判決も罪は免除。この年の12月に戸高は現職に復帰している
1960年12月、最高裁は上告を棄却して、5人の青年たちの無罪は確定した。
出典:菅生事件
斎藤茂男斎藤 茂男(さいとう しげお、1928年3月16日 - 1999年5月28日)は、日本のジャーナリスト。
東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。1952年共同通信社入社。社会部記者、次長、編集委員を経て1988年退社。1958年「菅生事件」報道で日本ジャーナリスト会議賞、1974年再度同賞受賞、1983年長年の報道活動で日本記者クラブ賞、1984年「日本の幸福」シリーズで日本新聞協会賞受賞。多くの著書があり、著作集として『ルポルタージュ日本の情景』全12巻がある。
結末
他方、起訴状によると、駐在所に被告人が投げ込んだとされてきたダイナマイトについても鑑定の結果、あらかじめ駐在所内部に仕掛けられていたことが判明した。共同通信記者やA巡査部長の証言と、この鑑定結果によって、1958年6月、福岡高裁は5被告人全員の無罪判決を言い渡し、1960年最高裁判所判決で確定した。この時警察による「おとり捜査」も認定されたが、爆破犯は不明とされている。一方Aはダイナマイト運搬に関し、爆発物取締罰則違反で起訴され、一審で無罪、二審では有罪となった。しかし、「爆発物に関する情報を警察の上司に報告したことが自首にあたる」として刑を免除された。
有罪判決から3ヶ月後、警察庁はAを巡査部長から警部補に昇任させた上で復職させた。当時の警察庁人事課長は「上司の命令でやむを得ず関係した気の毒な立場を考慮した。今後も同じような犠牲者が出た場合を考えテストケースとしたい」と記者にコメントしている。
Aのその後
Aは復職したのちに、警察大学校教授、警察庁装備・人事課長補佐を歴任しつつ、ノンキャリア組の限界とされる警視長まで昇任。1985年、警察大の術科教養部長を最後に退職した。さらに、退職後の1987年には警察共済組合の関連企業である「たいよう共済」の役員となり1995年5月まで勤め、続いて危機管理会社「日本リスクコントロール」へと天下りした。これらはノンキャリア組警察官としては異例の厚遇である。たいよう共済は警察職員とその家族を対象とした傷害保険の代理店であり、職員の大半を警察OBが占めている。次のわたり先である日本リスクコントロールもやはり警察OBが幹部を占める会社であった。Aの天下りは1989年10月28日の参議院予算委員会にて、日本社会党の梶尾敬義議員が、たいよう共済の常務にAが就任してることを取り上げて、公にされた。たいよう共済はパッキーカード(パチンコのプリペイドカード)を発行する「日本レジャーカードシステム」の資本金のうち、9%を出資していたため、折りしも国会で俎上に載せられていた「パチンコ疑惑」に絡んで暴露されたのである。
事件の位置づけ
破壊活動防止法は1952年7月4日可決成立したが、菅生事件はその報道と相まって、法案成立の追い風となった。1952年に頻発した公安事件には、破防法成立後にそれらが止んだことや、後の裁判の結果から、共産党の武装闘争方針を利用して、「警察の側が破防法の成立のために挑発し、あるいは仕組んだ疑い」が指摘されている。とりわけ、菅生事件は被告人全員の無罪判決だけではなく、警察の組織的関与まで立証されたことから、警察によるフレームアップ、謀略事件と断定される向きが非常に強い。
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