長崎市長射殺事件の「城尾哲弥」とは
長崎市長射殺事件
長崎市長射殺事件(ながさきしちょうしゃさつじけん)は、2007年4月17日に伊藤一長長崎市長がJR長崎駅近くの歩道で山口組系暴力団幹部の男に銃撃され、死亡した事件である。
概要
2007年4月15日、長崎市長選挙が告示され、4選を目指す現職の伊藤と新人3人のあわせて4人が出馬した。4月17日午後7時51分、選挙運動の遊説をしていた伊藤が九州旅客鉄道(JR九州)長崎駅近く(長崎市大黒町)の自身の選挙事務所前に到着した。待ち構えていた記者たちと会見を開く予定だったため、事務所スタッフが記者らに市長が帰ったと告げた直後の午後7時51分45秒ごろ、男に銃撃された。
使用された拳銃は5連発式の回転式拳銃で、男は伊藤の背後から2発を発射し、2発とも伊藤の背中に命中した。男はただちに通行人に取り押さえられ、駆けつけた警察に連行され殺人未遂で現行犯逮捕された(後に容疑を殺人に切り替え)。伊藤は救急車で市内の長崎大学医学部・歯学部附属病院に搬送されたが、心臓と肺が裂けて既に心肺停止状態に陥っていた。心臓血管外科江石清行教授を中心とした医療チームが人工心肺を用いて懸命に治療したが、翌4月18日午前2時28分、大量出血のために死亡した。
男は指定暴力団山口組系水心会の幹部(会長代行)だった。逮捕された際、20発程の弾丸を所持していた。報道によると、市が発注する公共工事を巡って市を恨んでいた、あるいは自身の運転する車が市の発注した道路工事現場で事故を起こした際に車両保険が支払われなかったため、と報道されている。犯行当時の目撃証言により後日、送迎を行った者と報道機関へ送った書面の代筆を行った者が逮捕されたが、不起訴処分となっており、事件は幹部の男が単独で行ったものと見られているが、動機には不明な点が残っている。なお、事件の直前に被告人の知人男性からの電話が警察にあり、6月27日の長崎県議会総務委員会では警察の対応がまずかったのではないかとして議員らに批判された。
一方、男と30年来の付き合いがあり、彼の弁護を務めたことのある弁護士の松尾千秋は、市道工事現場での事故をめぐり、同容疑者から市側を告訴する相談を受けていたことを明らかにしている。また男は、1989年7月に当時の長崎市長であった本島等に対し「公表すれば問題になる写真を持っている」などとして、1000万円を要求した恐喝未遂事件を起こして逮捕されている。
長崎市で市長が銃撃されたのは、1990年の銃撃事件以来2度目であった。警察関係者は「この2つの事件は全くの無関係で、直接的関係は一切ない」としているが、1990年の事件の銃撃犯(右翼団体「正氣塾」の若島和美)は容疑者の知り合いであったということが判明している。
政界の反応
安倍晋三内閣総理大臣は事件を受けて直後のインタビューで「捜査当局において厳正に捜査が行われ、真相が究明されることを望む」と語ったが、言及が少なすぎるとして野党幹部らから批判を受けている。また、久間章生防衛大臣は市長が治療を受けまだ存命中であった17日に「万が一のことも考えないといけない」として「投票日3日前を過ぎたら補充がきかず、共産党と一騎打ちだと共産党(推薦)の候補者が当選することになる。法律はそういうことを想定していない」と補充立候補について発言、この発言に対しては志位和夫日本共産党委員長が批判したほか、塩崎恭久官房長官が不適切との認識を示し、小沢一郎民主党代表は、「選挙が共産党だ、自民党だ、民主党だというレベルで論じる問題ではなく、暴力で自分の不満や思いを遂げようとする何でもありの風潮を憂え、きちんと考え直さないといけない」など与野党から批判を受けた。翌18日には「選挙期間中に凶事があった時、補充立候補ができるからまだよいが、できない時にどうなるのか。制度の問題としてきちんととらえないといけない。そういう話をするのは不謹慎だが、本当にそう感じた」と選挙制度の問題について改めて言及した。
国際的には、平和市長会議の副議長であった伊藤が死亡したことを受け、潘基文国連事務総長が「衝撃と遺憾」とするコメントを発表している。
事件後の動向
事件の後の選挙戦においては、4月19日に補充立候補受付が行われ、横尾誠(元新聞記者、殺害された伊藤の娘婿)と田上富久(長崎市企画部統計課長、自動失職)が立候補した。両名とも超短期間の選挙活動しか行えなかったが、いわゆる弔い選挙となり、結果的に田上が当選した(横尾は次点)。伊藤を支援していた自由民主党は、当初松本紘明副市長を補充候補として擁立する予定であったが、副市長本人が拒み、遺族側の後押しも得られなかったため、推薦を断念して自主投票という形を取った。この選挙において田上は「市政は私物ではなく、市民のものである」との趣旨の主張を行った。横尾の落選は世襲であるとの批判や、長崎にあまりゆかりのある人物ではなかったことが要因との分析が有力である。また、横尾誠の落選が決定した時、横尾の妻(伊藤一長の娘)は「このような仕打ちを受けては、父が報われない。皆さんにとって『伊藤一長』はその程度の人間だったのか」と号泣した。なお、この選挙においては、公職選挙法の規定により、期日前投票や不在者投票での「伊藤一長」票がすべて無効票となったことや、補充立候補から投票日までの期間が短かった、などの問題が噴出し、公職選挙法上の問題として取り上げられることとなった。
刑事裁判
長崎市の伊藤一長前市長(当時61)が2007年、市長選期間中に射殺された事件で、殺人と公職選挙法違反(自由妨害)などの罪に問われた元暴力団幹部、城尾哲弥被告(62)の控訴審判決公判が29日、福岡高裁であった。松尾昭一裁判長は同被告を求刑通り死刑とした一審・長崎地裁判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。控訴審でも被害者1人の殺人事件に死刑を適用するかどうかが争点となった。高裁判決は、選挙期間中に候補者を殺害するという犯行の悪質性は認めつつ、被害者が1人にとどまっている点を重視し死刑を回避した。
長崎市長射殺事件判決要旨
長崎市長射殺事件で長崎地裁が058年5月26日、城尾哲弥被告に言い渡した判決の要旨は以下の通り。1.殺害動機
被告は1965年ごろから暴力団組員として活動し、次期会長を期待されたが2002年には実質的に降格となり、組織内で浮いた存在になっていた。同年1月、金を引き出すなど利用してきた建設会社を使い、長崎市の中小企業向け融資あっせん制度を申し込んだが、信用保証協会の保証が得られず融資を受けることができなかった。03年2月、市の歩道工事現場で自ら起こした車両事故でも賠償を得られなかった。
被告は融資制度を利用した活動資金獲得や賠償金取得に失敗し自暴自棄となる一方、長崎市が自らの不当な要求などを受け入れず暴力団幹部としてのプライドを傷つけられたと感じ、首長である伊藤一長前市長を逆恨みした。前市長を殺害して当選を阻止し、前市長と市への恨みを晴らすとともに、世間を震撼させるような大事件を引き起こすことで暴力団幹部としての意地を見せようと考えたと推認できる。
2.殺意発生の時期
被告は07年4月2日ころからしきりに前市長の動向を調べようとしていたことなどから、そのころには重大な覚悟を固めていた様子がうかがえる。殺害を決意したのは前市長が選挙への立候補を表明し、そのことを知った直後ころと解するのが相当で、殺意は強固であったと認められる。
前市長を目前に唐突に殺意が生じたという被告の弁解は信用できない。
3.量刑の理由
被害者には被告から命を奪われなければならないような理由は何一つなかった。被告は自分の思い通りにならない行政への憤まんなどから暴挙に及び、これを世間に誇示する意図もあった。暴力団による銃器犯罪の典型で、行政対象暴力として例のない極めて悪質な犯行だ。
また、殺害によって当選を阻止するという目的を遂げており、選挙の自由を妨害する犯罪の中でも、これほど強烈なものはなく、民主主義社会において到底許し難い。
動機は暴力団特有の身勝手極まりないもので、酌量の余地は全くない。周到とはいえないが、計画的で強固な殺意があったのは明らかだ。
多くの市民に支持されてきた前市長が、選挙期間中に志半ばでこの世を去らなければならなかった無念さは計り知れず、遺族の処罰感情は極めて厳しい。現職の市長が暴力団の凶弾に倒れるという事態は、社会全体を震撼させた。
被告は真摯に反省しているとは認められず、人命軽視の姿勢は顕著で、矯正や改善は困難極まりない。被害者が1名にとどまることなどを十分考慮しても、結果の重大性や犯行の悪質さなどからして、被告に極刑を科すのはやむを得ない。
1990年にもあった長崎市長銃撃事件
長崎市長銃撃事件(ながさきしちょうじゅうげきじけん)は1990年1月18日、当時長崎市長であった本島等が右翼団体幹部に銃撃され、全治1か月の重傷を負った殺人未遂事件。
出典:聖母の騎士社
1990年1月18日午後3時ごろ、本島が長崎市役所玄関前で公用車に乗り込もうとしたところ、背後から近付いてきた右翼団体正氣塾幹部の若島和美に背後1メートルの至近距離から銃撃された。弾丸は左胸部に命中したが、肋骨に当たったため弾道が変わり心臓や大動脈などを外れ貫通したため、全治1か月の重傷を負ったものの、一命をとりとめた。尚、被疑者は銃撃直後倒れている本島市長に「大丈夫か?」と声をかけている。なお若島は、かつて本島が長崎県議会議員時代にはタカ派で日教組打倒を主張していたにもかかわらず、市長になって「転向」したことから、話し合いを申し入れたが拒絶されていたという。市長を銃撃した若島は殺人未遂罪等で起訴された。被告人の弁護人は、「銃撃は1発のみで左肩を撃っているから、殺意は無かった」として刑罰が殺人未遂よりも軽い傷害罪の成立を主張したが、動機からみて殺意があった事にまちがいないとして、1審も控訴審もこの主張を認めず、福岡高等裁判所が1991年9月7日に控訴を棄却し懲役12年が確定した。若島は2000年に刑期満了で出所した。2003年4月には長崎市長選に立候補したが落選。
なお正氣塾はその後も1991年3月1日に意見広告掲載拒否をめぐるトラブルから長崎新聞社と長崎地裁に対する銃撃事件などのテロ事件を起こしている。また2006年8月に発生した加藤紘一宅放火事件を正当化する趣旨の声明を発表している。このテロ行為賛美の姿勢であるが『自分らはテロ行為を否定できない。話し合いだけなら、市民団体になってしまう』という理論を主張している。現在でも団体のウェブサイトは、「過去の主な活動」とするコーナーにこれらのテロ行為を「実績」としている。
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