死者160人、負傷者296人も出した「三河島事故」とは

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三河島事故」

三河島事故(みかわしまじこ)は、1962年(昭和37年)5月3日21時37分頃、東京都荒川区の日本国有鉄道(国鉄)常磐線三河島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故である。「国鉄戦後五大事故」の一つ。


三河島事故

			

事故概要

常磐線三河島駅構内で、貨物線から進行方向右側の下り本線に進入しようとした田端操車場発水戸行の下り第287貨物列車(D51 364牽引、45両編成)が、出発信号機の停止信号を行き過ぎて安全側線に進入し脱線。先頭の機関車と次位のタンク車(タキ50044)が下り本線上に飛び出した。

その直後に、三河島駅を4分遅れで出発し下り本線を進行してきた上野発取手行きの下り第2117H電車(6両編成)が下り本線を塞いでいたタキ50044に衝突。先頭車(クモハ60005)と2両目の車両(クハ79396)が脱線し、上り本線上に飛び出した。


さらに約7分後、その現場に上野行きの上り第2000H電車(9両編成)が進入し、線路上に降りて移動中だった2117Hの乗客多数をはねた上、上り本線上に停止していた2117Hの先頭車と衝突した。これにより2117Hの先頭車と2両目の前部が原形を留めず粉砕された。上り2000Hは先頭車(クハニ67007)が原形を留めず粉砕され、2両目(モハ72549)は築堤下に転落して線路脇の倉庫に突っ込み、3両目(サハ17301)も築堤下に転落、4両目(モハ72635)が脱線した。


結果、死者160人、負傷者296人を出す大惨事となった。

出典:三河島事故 - Wikipedia

	

死者160人、負傷者296人

			

事故発生状況

事故が発生した当日は、早朝に東北地方で発生した地震と、東北本線古河駅で発生した脱線事故の影響で、常磐線のダイヤが乱れており、夜になってもわずかながらダイヤの乱れの影響が残っていた。定刻では、287列車は通常では三河島駅を通過してそのまま下り本線に入るが、下りの取手行2117Hが上野駅出発の時点で2分30秒ほど遅れていたため、三河島駅で2117Hを待避することになった。

しかし、機関士は三河島駅の場内信号機の黄信号にもかかわらず駅構内へ進入し、出発信号機の赤信号に気付きあわてて非常ブレーキを作動させたものの、減速が間に合わず安全側線に進入し、下り本線を支障する形で脱線した。


ちょうどそのころ、2117Hは三河島駅での客扱いを終えて発車し、脱線した現場に差し掛かるところであった。運転士は緊急制動処置を行ったが、間に合わずに機関車に接触、上り線を支障する形で脱線した。


この時点では、2117Hは脱線こそしたものの、大きな怪我を負った乗客はいなかった。しかし、1〜2両目の車両については、パンタグラフが架線から外れた結果停電となり、乗客は桜木町事故(1951年)の教訓をもとに分かりやすく整備された非常用ドアコックを操作して列車外へ避難していた。また6両目に乗車していた車掌は、運転士と連絡するために車内電話を操作したが応答がなかったので、車外に出て連絡を図ろうとしていた。


一方、現場近くの三河島駅信号扱所の係員は、事故発生を受けて下り本線の信号を赤に切り替えた上で三河島駅の助役に事故発生を連絡し、助役は常磐線の運転指令に事故発生を通知した。助役は関係箇所に事故発生を通知し、下り線の後続列車の運行を停止させたが、この時点では支障状況が確認されていなかった上り線へは、事故発生通知のみ行った。


一方、取手発上野行の2000Hは、地震の影響で定刻より約2分ほど遅れて南千住駅を発車しようとしていた。同じころ、南千住駅の信号扱所では、三河島駅信号扱所からの上り線支障の電話連絡を受けて、発車信号を赤に変えようとしたが、2000Hは信号扱所の前を通過している最中であり、もはや止める手はなかった。2000Hの運転士は、事故発生を知らずに運転を続け、事故現場の近くに接近したところで、線路上を南千住方向に歩く乗客を確認し、非常ブレーキを掛けたが間に合わず、乗客をはねながら、2117Hの1両目に激突した。


2000Hは、先頭車(クハニ67007)が粉砕し、2両目以降は高架下の倉庫に転落して大破した。また2117Hの1両目と2両目も、原形を留めない状態となった。この結果、線路を歩いていてはねられた2117Hの乗客と、2000Hの乗客と運転士の合計160名が死亡する大惨事となってしまった。

死傷者には、脱線した2000Hから外に出ようとして、高架下に転落した者もあったという。

出典:三河島事故 - Wikipedia

	

原因


直接の原因は、287貨物列車の赤信号見落としである。システムとして、人間の信号見落としというミスをバックアップする装置がないため、停止すべき位置をオーバーランした。そのときは、オーバーランした列車と本線列車との全面衝突を避けるための安全側線というフェールセーフシステムがうまく機能し、貨物列車は安全側線に進入し、本線に直接突っ込むことはなかった。

しかし、貨物列車の速度が安全側線内で停止できるほど低くなかったため、車止めに突っ込み脱線し、本線側に傾斜した。貨物列車への下り電車2117Hの接触は、第一事故のわずか10秒後であり、避けることは困難である。ただこの時点では死者ゼロ、負傷者25名であった。安全側線があったことによって、全面衝突を避けることができ、被害は最小限に食い止められていた。

ところが、1951年の桜木町事故(列車火災)の教訓(乗客が車外に避難できず多くの死傷者を出した)によって設けた乗客用の非常用ドアコックを、乗客が勝手に使用し線路に降りたことが悲劇の始まりであった。

そして被害拡大の最大の要因は、上り電車2000Hの抑止手配の遅れである。5分50秒という時間は、列車を止めるには十分な余裕時間といえる。しかしながら図3に示すような情報伝達の遅れによって、電車を止められず、第三事故が発生し、多数の死傷者が生じた。

出典:管理・運用移譲通知

	

三河島事故

			

三河島事故

			

三河島事故

			

背景

1943年10月26日18時40分過ぎ、同じ常磐線の土浦駅構内土浦南信号所付近にて、非常に良く似た列車三重衝突事故が発生したが、戦争中のことゆえ、殆ど報道もされなかった。もし土浦の事故の教訓がいかされていたなら、三河島の事故(特に第三事故)は防げたに違いない。

また、今回死傷者が多くなった要因の1つである乗客用の非常ドアコックは、1951年に京浜東北線桜木町駅での多くの死傷者を出した教訓から装着されたものである。その事故とは、桜木町駅で垂れた架線に電車モハ63が接触、ショートしたことから火災が発生し、逃げ場を失った乗客106名が焼死、92名が重軽傷という大惨事を起こした。 多くの死傷者が出たのは、ショートによる停電で扉が開かず、また窓が中段の開かない3段窓で乗客が脱出できなかったためであった。

この、教訓による対策が、今回事故の被害を却って大きくしたようにも考えられるが、線路は電車が通るという基本的なことを忘れている私たちも考え直す必要がありそうだ。

出典:管理・運用移譲通知

	

三河島事故

			

裁判

最初の衝突から上り2000H電車の進入までの約6分の間、列車防護の措置を怠ったことが問題視されたことから関係責任者が起訴され、287列車の機関士・機関助士、2117H電車の乗務員、三河島駅助役・信号掛にそれぞれ禁錮3ヶ月 - 8ヶ月の有罪判決が言い渡された。

出典:三河島事故 - Wikipedia

	

犠牲者

未だに身元不明の犠牲者が一人おり、駅近くの寺に行旅死亡人として葬られている。線路を歩いて事故に巻き込まれた、20代後半から30代ぐらいの丸顔の男性で、身長は163cm、手に数珠を持っていたと言われている。遺体からモンタージュ写真が作成され公表されたが、知り合いであると名乗り出た人はいない。

事故の犠牲者の中には、当時の人気漫才コンビであった栗友一休・三休の栗友一休も含まれている。事故後、栗友三休は春日三球として再起した。

事故発生から1年後に駅北東の浄正寺に慰霊聖観音像が建立され、現在も献花が続けられ当時の惨事をしのばせる。

出典:三河島事故 - Wikipedia

	

対処と対策


本事故は、事故の直接原因の解明も重要であるが、最初の事故(第一事故)発生後の対処方法に多く学ぶことがある。

すなわち、乗客が勝手に乗客用の非常用ドアコックを使用し、線路に降りて線路上を歩いたこと、あるいは上り電車の抑止手配の遅れなど、最初の事故発生後における対処方法のまずさが、結果的に多くの死傷者を出す大惨事になってしまったことである。


(1)運転士の信号見落としのミスをバックアップする装置として、国鉄(現在のJR)全線にATS(自動列車停止装置:赤信号を見落とすと自動的に非常ブレーキがかかるシステム)を設置した。


(2)「なるべく列車を止めるな」から「何か小事故があれば、まず列車を止めよ」へと指導方針が変化した。また後年、列車無線が設置され、運転士に地上から直接連絡が取れるようになった。

出典:管理・運用移譲通知

	

後日談

国鉄はこの事故をきっかけに、保有するプロ野球球団国鉄スワローズをフジサンケイグループに売却することになった。また、この事故により「三河島」という地名が全国にマイナスイメージとして持たれるようになったため、1968年の住居表示施行を機に一帯の「三河島町」という町名は消滅した。

国鉄は安全性をPRするために事故防止のための新技術を紹介する映画を企画したが、映画製作の発注を受けた岩波映画製作所は、監督土本典昭のアイデアをもとに、鉄道の安全な運行がいかに機関士たちのぎりぎりの労働によって支えられているかを示した記録映画『ある機関助士』を完成させた。この映画は水戸から上野までの常磐線を舞台に撮影されている。


テレビ朝日系・東映制作のテレビドラマ『特捜最前線』第163話「ああ三河島・幻の鯉のぼり!」は、本事故をモチーフとしている。身元不明男性に焦点を当てたもので、男性を沖縄からの密入国者と設定(当時は沖縄返還前だった)しており、「全国紙に掲載しながら誰からも連絡がなかったのは、沖縄には報道されていなかったため」としている。また、財布など身元を分かる物を持っていなかったのは「事故現場で盗られたため」とされ、犯人は発見されたものの、18年前(放送当時から見て)の事件のため、時効が成立していた。

出典:三河島事故 - Wikipedia

	

心霊スポット

この事故のあと、事故現場が小塚原刑場跡(昔の死刑実行場所)のすぐそばだったことから、「起きるべくして起きた事故だ」などという妙な噂もささやかれました。考えてみれば悪条件が重なり過ぎているような気もします。例えでいえば神社のおみくじで3回続けて凶がでたようなものです。

原因はどうあれ、当時の事故現場はさぞむごたらしいものだったに違いありません。轢死者の死体は、骨も肉もなくミンチにかけたように粉々になってしまうというから、血と肉の塊が飛散していて、地獄絵図のような状況でした。

被害者の身元の確認だけで数年以上かかりましたが。

その中で、『遺体番号88』と名づけられた柩(ひつぎ)だけが身元が解らずポツンと残されたのです。遺体からモンタージュ写真を作成し、新聞の社会面などに掲載して心当たりのある人をさがしました。

しかし事故後10年たちましたが身元は結局わからず、その人物は名もなく『遺体番号88』として身元特定は終了してしまいました。

その時は過ぎ昭和46年のむし暑い夏のはじめ、運転手A(当時34歳)は最終電車の勤務についていました。電車はちょうど、事故現場にさしかかりました。すると運転士Aの目に、ライトに照らされたぼんやりとした影が映りました。

運転士Aは線路内立ち入りと思い目をこらしてみると、それはたくさんの人間でした…、しかもどの人も血だるまで、手足はちぎれ、胴は破れ、中には首なしや、首のみのものもいました。それらが累々とうごめき、はいずりまわるあの事故の地獄絵図が…

そして彼は見たのでした。その中でひときわ悲しげな顔をしている事故後10年経っても身元が解らなかった『遺体番号88』の顔を…。

話はそれだけではありません。

その同じ年、現場近くで夏の夕涼みを楽しんでいたカップルは、線路上にふたりの男性が立っているのを目撃しました。しかし線路にはフェンスが張り巡らされていて、簡単には人が入れないようになっています。

おかしいなと思ってよく見てみると、ふたりの男性のうち、片方の人物は左肩から右脇にかけての半身がそっくりなくなっていたのでした。

やがて、そのふたつの人影は、水銀灯の光の中にスーッと消えていったといいます。

さらに昭和47年の夏。やはり運転手のBが、下り最終電車の運転中に前方のレールにたたずむ人影を見ました。安全の為スピードを落として近づくと、衣服が血で真っ赤に染まっている人が…、あわてて非常ブレーキを掛けたところでその人影は消えてしまいました…。

そして現在。すでに事故発生から45年以上の歳月が流れました。

戦国時代から続くという古い歴史を持つ三河島の地名はなくなりました。理由は事故発生のすぐ後に、国が定めた「住居表示に関する法律」によって事故現場は、荒川区荒川に変更になりました。

荒川区荒川という奇妙な歴史も伝統もない新町名になり、かろうじて事故の記憶を残すものは三河島駅の駅名だけになってしまいました。

だが今でも、終電を過ぎた時刻になると、駅の脇道から見えるホームのかたすみに事故の犠牲者らしき人影を見たという話を聞きます。

町屋(管理人)自身も霊感が多少あり三河島駅を午前3時頃に通った時に変な寒気をと視線を感じました。寒気は三河島駅から少し離れるまで続きました。

視線の方も人通りが深夜なので少なく誰も居ないところでも感じ駅から300メートルぐらいまで続いたのをこの身に覚えています。

事故によって人生をうばわれた160名の犠牲者たちの一部は今も三河島駅に居て成仏できずに終電後の三河島駅をさ迷っているといいます。

出典:Yahoo!ブログ - 無料で10GBの大容量のブログをはじめよ...

	

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Sharetube