27人の少年達を拷問して殺害した「ディーン・アーノルド・コール」とは

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ディーン・アーノルド・コール(キャンディマン)


ディーン・コール(軍隊時代の写真)

1970年から1973年にかけて、27人といわれる少年達を殺害した同性愛者の男。被害者にキャンディをエサに近付くその手口から通称「キャンディマン」と呼ばれた。

ディーン・コールお生い立ち

1939年12月24日

インディアナのフォートウェイン生まれ


メアリー・ロビンソンとアーノルド・エドウィンコール夫婦の長子


父親はコールに対して非常に厳格だったが

母親は反対に甘やかした


コールの両親の喧嘩は絶えず

コールの弟スタンリーが生まれた4年後の1942年に離婚した


ただ

父親が出て行ったとはいへ近くに住んでいたので

いつでも会う事はできた


だが

離婚した後に父アーノルドは空軍にとられ

母メアリーは住居を売り

一家はテネシーのメンフィスでバック・トレーラー住まいとなった


ちなみに

コールの両親はその後和解を試みる


コールは内気で静かな子供で

他の子供たちと遊ばない引きこもりの傾向があった


7才の時に医者に心臓病を言い渡され

リウマチ熱も起し

それが理由で不登校になりがちになる


1950年

コールの両親は再婚してパサデナへ引っ越したが

和解は長くは続かなかった


1953年

母親が親権を保持する形で夫婦は再び離婚

この離婚は友好的根拠で

二人の男の子は父親と会う事ができた


2度目の離婚の後

彼の母はジェイク・ウェストという名のセールスマンと結婚し

一家はビダーという名の小さな町へ引っ越し

1955年

妹ジョイスが生まれた


ビダーにおいて

コールの母と継父は小規模のキャンディ会社を彼らの家のガレージから始め

まだ学生だったコールも学校に通いながら日夜手伝っている


コールはティーンになっても幼少の頃と同じく一匹狼だった


ビダー高校においてはハイスクール・ブラスバンドでトロンボーンを担当

卒業まで優秀で模範的な学生と考えられていた


1958年

コールのビダー高校卒業後

家族はヒューストンのハイツ地区へ引っ越して「ペカン・プリンス」とゆー名の新しい店とを開いた


1960年

コールは祖父母と一緒に暮らすためにインディアナに移り

そこで2年ほど暮らし

ガールフレンドさえできる


しかし

家族のキャンディ・ビジネスを手伝うため

1962年にヒューストンに呼び戻された


彼は店舗の上に引越し

さらに後

アパート引っ越しす


1963年

コールの母親はジェイク・ウェストと離婚しディーンをキャンディ会社副社長に任命した


同1963年

キャンディ会社の十代の男性従業員がコールの母親に

コールが彼に性的な接触をしたとクレームをつけた


応えて母親は単に若い男性従業員をクビにした


1964年8月10日

コールは米国陸軍に徴用され

ルイジアナのフォートポーク基礎訓練所に配置され

その後

無線修理士としてテキサスのフォート・フッド

そして正式着任地としてジョージアのフォート・ベニングへと移動することになる


伝えられるところ

彼はファミリー・ビジネスを理由に"履行困難による解任"を申し込でている


これはコールが兵役を嫌ったせいだと言われているが

1965年6月11日

軍は彼の上申を許諾し

10ヵ月従軍をもって名誉除隊となる


軍からの名誉除隊の後のコールはヒューストンに戻り

家族のキャンディ・ビジネスの副社長に復帰する


1965年

コールが兵役を完了直後に

コール・キャンディー・カンパニーはハイツ小学校通りをまたいだ


彼は

地元の特定の10代の男の子を選んで無料でキャンディを与えるということで知られていた


ファミリー・ビジネスも

従業員を雇う同族会社になっていた


彼は

従業員や地元の若者の歓心を買うために工場の裏にビリヤード台さえ設置し

特に10代の男性従業員に対して軽薄な振る舞いをしているよーに見受けられた


1967年

コールが無料でキャンディを与えていた多くの小学生たちの内の1人

デービッド・ブルックス12才と友達になった


最初

ブルックスはコールの工場裏に集まる多くの若者の1人でしかなかった


コールによって

仲間内での南テキサスのビーチへの定期的なバイク・ツーリングにも連れて行ってもらった


コールはいつでもブルックスの金銭的な相談に応じていた

出典:アメリカ インディアナ キャンディー・マン=ディーン・コ...

	

デヴィッド・ブルックス

			
1970年

ブルックスが15才の時

彼の両親は離婚し

彼はハイスクールを中退して母親と一緒に暮らすためにボーモント(ヒューストンの東の都市)へ引っ越した


ヒューストンの父親を訪ねる時はいつでも

ブルックスはコールも訪ねた


コールは自分のアパートにブルックス泊まることを常に許可した


コールが求めると二人はすぐに体の関係になった


とにかく1970年

ブルックスはコールのアパートを彼の第二の家と考え始めた


1968年6月頃

コールの母親は3回目の結婚をし

家族のキャンディ会社の閉め

妹ジョイスとともにコロラドへ引っ越していく


そして彼女は

コールとは二度と会うことはなかった


キャンディ会社の終了後

コールは電気技術者の職を得る


そして

エルマー・ウェイン・ヘンリーに殺される日までその仕事に従事する


1970年から1973年までに

コールは少なくとも13~20才の男28人を殺している


ほとんどの犠牲者はヒューストンハイツという低所得者の住居地で誘拐されている


数人の犠牲者はコールの共犯者二人どちらか一方の友人だった


そして犠牲者の内の二人

ビリー・バウチとメイリー・ウィンクはコール・キャンディー・カンパニーの元従業員だった


コールの手口の典型は

犠牲者をパーティまたはリフト(ヒッチハイクなどで車に乗せてあげること)を口実に彼のバンに誘い込み

彼の家まで送り込まれるというものだった


そこでは被害者らは

アルコールを強いられるか

薬で気絶させられるか

騙されるか

単に力ずくか

このどれかで手錠をかけられる


それから裸にされ

彼らが恒常的に使用していた合板製拷問台かコールのベッドに縛り付けられ

肛門姦され

拷問され

絞殺か

或いは

22口径の拳銃で撃たれるかして殺された


彼らの死体はプラスチック・シートに包まれ

4つの場所のいずれか一つに埋められた

・賃借したボート格納庫

・ボリバル半島の浜辺

・サム・レイバーン湖(彼の家族が湖畔にロッヂを所有した)の近くの森林地帯

・ジェファーソン郡の浜辺


コールは家族に電話するよう犠牲者に強制したり

自ら被害者の両親に手紙を書いたりするが

これは犠牲者家族を安心させるためで

不在の理由をでっち上げていた


そして

コールは他のシリアルキラーと同様に

被害者の遺品を保持している


青年を拉致・殺害している間

コールは頻繁に引っ越しているが

1973年の春にパサデナへ引っ越すまで

彼は常にヒューストンハイツ周辺に住んでいる

出典:アメリカ インディアナ キャンディー・マン=ディーン・コ...

	

事件概要


1970年9月25日 

コールは彼の初の犠牲者

大学一年生のジェフリー・コウネン18才を殺した


テキサス大学から彼の両親の家までもう一人の学生とヒッチハイクしている間

ヒューストンでコウネンはいなくなった


コールはコウネンの失踪の時にヨークタウン通りに面したアパートに住んおり

コウネンを彼の両親の家まで車でリフトする(送る)と申し出たと思はれる


コウネンが彼からリフトを受け入れたのは明らかだ


死体はハイ島ビーチに埋葬され

デービッド・ブルックスが1973年8月10日に警察を案内するまで見つからなかった


科学捜査官は

彼は口を布製のもので塞がれた窒息死だったと推論する


死体はライム層の下で発見されたが

裸のままプラスチックで包まれ

がんじがらめに縛られていた


そして

彼も冒涜された痕跡があった


コウネンの殺人の時間と前後して

コールが合板拷問台に結びつけられた2人の十代の男の子を襲うところをデービッド・ブルックスはさえぎっている


コールは沈黙と引き換えに

ブルックスに車を約束し

ブルックスは申し込みを受け入れた


そしてコールはブルックスに緑色のシボレー・コルベットを買い与へた


コールは後でブルックスに

2人の若者は殺したと話した


そして

ブルックスがコールのアパートにどんな男の子でも誘い込んでさへくれたら

一人につき200ドルで買ふと申し出た


1970年12月15日

デービッド・ブルックスは2人の14才の男の子ジェームズ・グラスとダニー・イェーツをコールのヨークタウン・アパートまで誘い出した


グラスは以前コールのアパートを訪問したブルックスの知人だった


両方の若者はコールの拷問台の両側と結びつけられ

レイプされ

窒息させられ

11月17日

ボート格納庫に埋めらた


1971年1月30日

グラスとイェーツの二人殺しの6週間後

ブルックスとコールはボウリング場へ歩いて行っているドナルドとジェリー・ウォールドロップという名の2人の十代の兄弟に手をつける


男の子はコールのバンに誘惑され

コールが引っ越したばかりの新しいアパートまで送りこまれた


そこで

ブルックスとコールは彼らをレイプし・拷問し・絞め殺し

ボート格納庫に葬った

1971年3月〜5月

コールは

ウォールドロップ兄弟と同様にヒューストン・ハイツで暮らしていた13〜16才の男の子をもう3人殺した


デイビッド・Hilligiestとマイリー・ウィンクルの2人が誘拐され

1971年5月29日の午後に一緒に死んだ


コールの他の犠牲者の家族がそーだったやうに

彼ら両方の両親や仲間は必死の捜索を開始した


両親が男の子の所在につながる情報に報酬を出すことを印刷したポスターを配布するため

自発的に申し出た若者の1人にエルマー・ウェイン・ヘンリー15才がいた


彼はHilligiestの親友だった


彼はハイツ周辺でポスターを張って歩き

情報があるかもしれないと言ってHilligiestの母を安心させよーとした


1971年8月17日

コールとブルックスはヒューストンの映画館から歩いて帰宅しているルーベン・ワトソンという名のブルックスの17才の知人に出会う


ブルックスはコールのところでパーティーに出席するようワトソンを説得した


若者は同意し

絞め殺されボート格納庫に葬られた


1971年の冬

ブルックスはエルマー・ウェイン・ヘンリーをディーン・コールのアパートに導く


だがコールは

ヘンリーが良い共犯者になると見抜き

ブルックスと同じ料金を提供した

〜200ドル〜彼がアパートに誘い込むことができたどんな男の子でも〜


コールは「性的な奴隷制度リング」を楽しんでいるとヘンリーに話す


ヘンリーはコールの申し込みを受け入れた


彼はまず犠牲者の誘拐にだけ参加したが

その後は積極的に殺害の多くに参加することになる


ヘンリーによると

1972年2月

彼が参加した最初の誘拐が起こる


ヘンリーの逮捕の後の証言によれば

彼とコールが若者を迎えに行って

マリファナを吸うという約束で若者をコールの家に誘い込んだ


ヘンリーは若者をコール宅に置き去りにする前に

彼を騙して手錠をかけさせた


この犠牲者の身元は今でもハッキリしていないが

1972年2月9日に姿を消したウィラード・ブランチ17才とゆーヘンリーかブルックスの知り合いだったと考えられている


彼もボート格納庫に埋められているのを発見された

出典:シリアルキラーズ

ヘンリーとブルックスとコールはエール通りのレストランで働いているフランク・アンソニー・アギーレという名のヘンリーの18才の知人に手をつける

ヘンリーはアギーレをコールのバンに誘い

仕事が終わったらビールとマリファナをやる約束で

コールのアパートに引き込んだ


アギーレは同意し

彼のRamblerでコールの家に行った


コールの家内でコールがアギーレに飛びかかる前

アギーレはマリファナを与えられ

それから一対の手錠を身につけさせられていた


ヘンリーはアギーレをコール宅に置き去りにしたが

後でアギーレを拷問しているコールを見たと文句を言う


そこでコールは

ヘンリーが誘拐するのを手伝った前の犠牲者もレイプして・拷問して・殺した

そしてヘンリーもアギーレと同じようにするつもりだったと

ヘンリーに告げた


ヘンリーは再び犠牲者をコールの家に誘い込んだ代金を支払われ

その後ハイ島ビーチでのアギーレの埋葬にあたり

コールとブルックスを手伝う


コールが

実は彼とブルックスが誘拐するのを手伝った男の子を殺していたという意外な事実にもかかわらず

ヘンリーは誘拐と殺人の積極的な参加者になる


実際

1ヵ月以内の1972年4月20日

彼は友人のマーク・スコット17才をコールに差し出している


スコットは激しく抵抗し

拷問台に彼を確保しよーとしたコールを刺し殺そうとさえした


だが

ヘンリーが彼に銃を向けているのを見ておとなしくなる


スコットは拷問台と結び付けられ

アギーレと同じ運命で苦しんだ

すなわち

レイプ・拷問・絞殺・ハイ島ビーチの埋葬


ブルックスによれば

ヘンリーの参加した殺人において

彼は『特にサディスティックだった』


1972年6月26日

ヘンリーはビリー・バウチとジョニー・ディロンという名の2人の若者の誘拐と殺人にあたり

コールとブルックスを支援した


ブルックスの供述書では

ヘンリーが二人をコールのベッドに縛り付けた

と述べている


そして彼らのレイプと拷問の後

ヘンリーは手でバウチを絞め殺し

それから「ヘィ、ジョニー!」と叫びながらディロンの額に頭突きした


ディロンはヘンリーに絞め殺される前

「ウェイン!」「ウェイン!」と命乞いしたと言ふ


トリオはビリー・リーディンガーという名の19才の若者を家に誘い込んだ


リーディンガーは合板ボードに縛り付けられ

コールに犯され

拷問された


この時

ブルックスはリーディンガーを解放しようとコールを説得した

と後で主張している


そしてリーディンガーは解放された


次の時

ブルックスはコールの家に入ったところをヘンリーに殴られ気絶させられた


コールはブルックスを自分のベッドに縛りつけ

繰り返し痛めつけた


にもかかわらず

ブルックスはその後もコールを犠牲者の誘拐で援助し続ける


シューラーを引き払った後

ウェストコット・タワーに引越し

彼は更に4人の犠牲者を殺す


1972年7月20日に2人

更に10月3日にまた

ハイツの男の子が誘拐されて殺され

そして11月12日

リチャード・ケプナーという名の19才の若者が殺された


合計すると

1972年11月から翌2月にかけて

13〜19才の間の最低9人のティーンエイジャーが殺され

内5人がハイ島ビーチに葬られ

残り4人はコールのボート格納庫の内側に葬られることになった

出典:シリアルキラーズ

コールはまた引っ越す

1973年前半

1973年2月から6月3日まで殺人は起きなかったが

これは単にコールが水疱瘡を患って動けない間の"凪ぎ"にすぎなかった


6月から

コールの殺害率は劇的に増加する


殺害への渇望の後

ヘンリーとコールがお互いを張り合って真似たせいだ


1973年6月4日から7月7日の間

3人は更には人を殺してサム・レイバーン湖に葬り

7月12日

ジョン・セラーズという名の17才の若者を殺し

ハイ島ビーチに埋める


1973年7月

デービッド・ブルックスが妊娠したフィアンセと結婚したため

コールの仲間は一時的にヘンリー一人となったが

ヘンリーは7月19日〜7月25日に15-18才の若者をハイツから誘拐し殺す手助けをしている


これらの3人の犠牲者の1人はサム・レイバーン湖に葬られ

他2人(7月25日に一緒に誘拐される)はボート格納庫に埋めらた


1973年8月3日

コールは彼の最後の犠牲者ジェームズ・ドレイマラという名の南ヒューストンの13才の男の子を殺した


パサデナで自転車に乗っている時に誘拐され

例の拷問板に結びつけられ犯されて

コードでクビを締められ窒息死させられ

ボート格納庫に埋められた

さて…


1973年8月7日の夕方

ヘンリーはコールのパサデナ・ハウスでパーティーに出席しようと次の犠牲者候補ティモシー・コーデル・カーリーという名の19才の若者を誘った


カーリーは申し込みを受けた


ちなみにデービッド・ブルックスはその時にいなかった


2人の若者はコールの家に到着し

シンナーを吸ったりビールを飲んだりして過ごし

夜中にサンドイッチを買うため家を出る


ヘンリーとカーリーはヒューストン・ハイツに車で戻り

ヘンリーの家の近くにカーリーの車を駐車した


すると

近所の女の子ロンダ・ウィリアムズ15才が彼女の自宅の玄関前に立っていた


彼女はその夜

酔った父親に殴られ

一時的に家を出たところだったらしい


ヘンリーはコールの家で過ごそーとロンダを誘い

ロンダは同意してカーリーのフォルクスワーゲンの後部座席に乗り込む


1973年8月8日午前3時頃

ロンダ・ウィリアムズを連れてヘンリーとカーリーはコールの家に戻る


するとコールは

ヘンリーが女の子を連れて来たことに激怒した


そしてコールはヘンリーに

「君がすべてを損ねた」と耳打ちする


ヘンリーはウィリアムズがその晩帰りたくなかった事情を説明し

コールも落ちついたよーに見え

3人のティーンエイジャーにビールとマリファナを振舞う


コールがビールを飲みながら彼らをガン見していたので

3人のティーンエイジャーも飲み

かつ

マリファナを吸い始めた


およそ2時間の飲酒と喫煙の後

ヘンリーとカーリーとウィリアムズは各々気を失う

ヘンリーは

コールが彼の手首に手錠をかけているのを感じて目が覚めた


足も縛られている


カーリーとウィリアムズはナイロン・ロープで緊縛され

粘着テープで口をふさがれ

床にうつ伏せに転がされていた


カーリーは裸にされていた


コールはヘンリーに

彼が家に女の子を連れて来たことが許せないと言った


そしてこー説明した

コールがカーリーを襲って拷問したあと

3人とも殺すところだったと


彼は繰り返しウィリアムズの胸を蹴り

それからヘンリーを台所に引きずり込んで22口径のピストルを腹に押しつけ

彼を撃つと言った


ヘンリーはコールを静めなければならなかった


もしコールが彼を解放するなら

ウィリアムズとカーリーの拷問と殺人を手伝うと約束した


コールは同意し

ヘンリーの縛めを解く


コールとヘンリーはカーリーとウィリアムズをベッドルームに運び

拷問板の両側に縛りつけた


それからコールはヘンリーにハンティングナイフを手渡し

ウィリアムズの服を切り離すよう命令した


そして

彼がカーリーをレイプして殺す間

ヘンリーがウィリアムズに同じ事をしろとも命じた


コールが服を脱いでカーリーを犯し始めたので

ヘンリーもウィリアムズの服を切り離し始めた


この時点で

カーリーとウィリアムズはよーやく目を覚ました


「本気なの?」とウィリアムズに訪ねられたヘンリーは

"Yes"と言ふ外なかった


カーリーはのたうって叫んでいる


ヘンリーはカーリーが殺されるところをウィリアムズに見せたくなかったので

もう一つの部屋にロンダを連れて行っていいかコールに尋ねたが

コールは行為に熱中して聞こえていない


ヘンリーはコールのピストルを掴み

「もう十分にやったじゃないか、ディーン!」

と叫んだ


コールはヘンリーにこー叫んだ

「俺を殺せよ、ウェイン!」


コールがにじり寄ってくるのでヘンリーは後ろに2〜3歩の後ずさる


コールは

「どーせお前にはできない」

と言って突進してきた


コールの動きに反応してヘンリーは引き金を引き

コールの額を撃つ


コールはまだヘンリーの方へにじり寄ってくる


ヘンリーは更に2発撃ち

左肩でタックルしてコールを部屋の外まではじきだす


コールは廊下の壁にぶつかる


ヘンリーは彼の背中の下部と肩に

更に3発撃つ


コールは裸体を壁の方に向けて倒れ

横たわり

死んだ

コールを撃った後にヘンリーはカーリーとウィリアムズを拷問板から解放する


3人のティーンエイジャーは服を着て

彼らがどんな行動をしなければならないか話し合った


ヘンリーは単にカーリーとウィリアムズに立ち去るよーに言うが

カーリーは「No」と答え

警察を呼ぶよーに言い

ヘンリーも同意してパサデナ警察に電話した



拘留中

彼とデービッド・ブルックスがコールのために十代の男の子(何人かは彼ら自身の友人だった)を手に入れるのを手伝った

とヘンリーは約3年間説明している


彼らは男の子たちをレイプして殺害した


彼またはブルックスが犠牲者をコールのアパートに誘い込めた時

コールは各々に200ドル払っていた


ヘンリーは自分が手伝って殺された男の子たちをサウスウェスト・ヒューストンのボート格納庫やサム・レイバーン湖やハイ島ビーチに葬ったことを警察に話した


見つかった犠牲者全員が肛門を犯されていた


そしてその大部分が拷問の徴候を示している

・陰毛を抜かれる

・性器を噛まれる

・直腸に物を押し込まれる

・ガラスのロッドを尿道に押し込まれたうえに砕かれる

などだ


犠牲者の口には布切れが押し込まれ

粘着テープが巻かれていた

〜彼らの悲鳴を包むためだった


ある場合には

コールはまだ犠牲者が生きているうちに去勢しており

密封されたビニール袋で犠牲者とともに切断された性器が見つかったこともあった


1973年8月8日

合計8つの残骸がボート格納庫で発掘される


1975年2月

デービッド・ブルックスは裁判で1973年6月のビリー・レイ・ローレンスの殺人の嫌疑を受け

3月4日

終身刑を宣告された


1979年6月

ヘンリーの第2審の裁判が始まり

6月27日

彼は6件の殺人の有罪判決を受け

6連続生命学期の終身刑を宣告された


1980年7月8日

エルマー・ウェイン・ヘンリーは最初の仮釈放の資格を得るが

この日付から一貫して仮釈放は与えられていない


2011年現在

ヘンリーとブルックスはまだ終身刑に服している

出典:ソーシャル・ネットワーキング サービス [mixi(ミクシィ)]

	

ディーン・アーノルド・コール

			

警察の怠慢


犠牲者がここまで膨らんだ要因の一つとして、警察の怠慢が挙げられる。警察は行方不明になった少年たちの捜索に全く尽力していなかったのである。たしかに、その多くが不良少年で、家庭にも問題があったと云わざるを得ない。しかし、そうであるが故に偏見を抱き、故意に捜査しなかったと思われても仕方がない。

 そのことを誤魔化すためなのかどうかは不明だが、コールの犠牲者の発掘は27人で打ち切られた。ウェインが供述した残りの4人は発掘されなかった。

 また、菓子工場時代に工場の敷地で穴を掘るディーンが目撃されており、遺体を埋める穴だったとすれば、最初の犯行は遡ることになる。ところが、警察はちょこっと掘っただけで打ち切りにしている。

 そんなわけで、コールの犠牲者は27人に留まらない。35人に上るだろうと見られている。

出典:殺人博物館〜ディーン・コール

	

キャンディマン

後は仲間に殺された愚かで残忍な男、コール。この事件について作家のジャック・オルセンという人が「ザ・マン・ウィズ・ザ・キャンディ」なる本を書き、コールにキャンディマンという呼び名がつくこととなった・・。

出典:ディーン・アーノルド・コール ( 事件 ) - 殺人鬼資料館 - Ya...

	

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Sharetube