【死刑判決】大久保清連続殺人事件の「大久保清」とは

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大久保清連続殺人事件

大久保 清(おおくぼ きよし、1935年1月17日 - 1976年1月22日)は日本の連続殺人犯。1971年に画家を装い、若い女性に近づき言葉巧みに愛車に乗せ、人気のない場所で暴行、殺害し遺体は山中に埋めた。この手口で同年に2ヶ月足らずの内に8人を殺害し逮捕。1973年に死刑判決を受け1976年1月22日、死刑執行。


41日間に8人の若い女性を

「教員だという男の人に、絵のモデルになってくれと頼まれたの。ちょっと行ってくる」

 1971年5月9日、日曜日の夕方、群馬県藤岡市のOL・G子さん(21歳)は、こう言って家を出たきり自宅にもどらなかった。

 彼女はそれまで無断外泊をしたことはなく、日付が変わっても戻らないのを心配した家族は警察に届け、徹夜で捜索を始めた。


 10日早朝、近くの信用金庫前で、G子さんの兄が妹の自転車を発見。そばには中年の男がいて、軍手をはめた手で拭うようにしているので、兄が声をかけると、男はそばに停めてあった車で逃走した。兄は車種とナンバーを覚えており、ここで県内に住む大久保清(当時36歳)という男の名が浮上した。彼は強姦致傷、恐喝など前科4犯を重ね、この年の3月に府中刑務所を出所したばかりだった。

 

 5月13日夕方、大久保は前橋市の路上で、家族の私設捜索隊によって取り押さえられた。

 逮捕されてしばらく、大久保は「絵のモデルになってくれと言って誘い出したことは事実だが、モーテルに連れ込もうとしたら怒って逃げられた。その後のことは知らない」などと、G子さんの行方については何も話さなかった。


 5月21日、榛名湖畔で若い女性の遺体が発見された。警察が最近2ヶ月のあいだに捜索願が出された女性のなかから、大久保が狙いそうな女性をピックアップした中の1人、行方不明となっていた女子高生(17歳)のものだった。


 5月26日、大久保は厳しい取調べを受け、G子さんの殺害死体遺棄を全面自供。翌日には供述とおり、妙義山北面の桑畑に埋められた女性の遺体が発見された。取り調べでは、他の家出人女性についても聞きだそうとした。


 このあと大久保はすんなり自供を始めた。以後、被害者の遺体は次々と掘り出された。遺体の捜索は自供のままだとしても、自動車を使った広範囲の事件であるから、なかなか見つからない。ちなみに群馬県警は、この翌年も山中の死体を掘り出すはめになる。(→連合赤軍リンチ事件)こうしたことから「死体発掘が上手な県警」という評判をたてられることもあった。


 大久保事件の被害者は8人にも及ぶ。16歳から21歳までの若い女性が狙われており、ナンパして関係を迫り、抵抗されたりすると殺害した。

出典:大久保清連続殺人事件

	

大久保清

			

大久保清の生い立ち

大久保清は1935年1月、群馬県高崎市で生まれた。父親は国鉄の機関士、母親はロシア人とのハーフだった。兄弟は姉妹5人と兄が1人いる。

 大久保は「ボクちゃん」と呼ばれ、兄妹のあいだでは特にかわいがられていたという。大抵のわがままやいたずらは許され、に母親は大久保が36歳だった事件当時まで「ボクちゃん」と呼んでいた。


 小学6年の時、幼女に性的いたずら。被害者の親が抗議に来た時も、母親は「ボクちゃんがそんなことをするはずがない」と信じようとはしなかった。


 地元の中学から定時制高校に進むが半年で退学。横浜市の電器店で住みこみで働き始める。

 だがすぐに実家にもどり、ラジオ修理販売店を開業するが、19歳の頃、窃盗事件を起こし閉鎖。


 55年7月、伊勢崎市で大学生になりすまし、女子高生(当時17歳)に強姦。懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の判決を受ける。しかし、その半年後にも再び強姦未遂事件を起し、今度は懲役3年6ヶ月の実刑判決を受けた。


 1962年、ナンパで知り合った女性と結婚。自宅で牛乳販売店を開業して、一男一女をもうけた。


 1965年6月、自分が配達した牛乳の空きビンを盗もうとした少年を捕まえ、その兄を恐喝したために訴えられ、公判で強姦の前科が明らかになった。この事件後、店の売上げは大きく落ち込み、強姦を繰り返すようになった。


 66年12月、ナンパした高崎市の女子高生を強姦、さらに翌年2月に顔見知りの短大生を強姦して逮捕された。懲役4年6ヶ月の判決。


 71年3月2日、府中刑務所を仮出所した大久保は、室内装飾品販売業を営むという計画書をだして、父親にマツダ・ロータリークーペを買ってもらって毎日外出していたが、商売をする気はほとんどなかったのではないかと見られる。

 これ以後、ナンパに明け暮れたといっても過言ではなく、ベレー帽にルパシカ(ロシア風の上着)という芸術家風のいでたちで、脇には小説を抱えた。これが大久保の考える”魅力的な男”だったのだろう。

 大久保は主に県内の主要な駅のターミナルに出没、「美大を出た絵描き」「太田市の中学校の教員」と名乗って、女性に声をかけた。

出典:大久保清連続殺人事件

	

ガール・ハント


1971年3月31日群馬県多野郡女子高生(17)

1971年4月6日群馬県高崎市ウェイトレス(17)


1971年4月17日群馬県前橋市県庁臨時職員(19)


1971年4月18日群馬県伊勢崎市女子高生(17)


1971年4月27日群馬県前橋市女子高生(16)


1971年5月3日群馬県伊勢崎市電電公社職員(18)


1971年5月9日群馬県藤岡市会社員(21)


1971年5月10日群馬県前橋市無職(21)

出典:大久保清 - Wikipedia

	
以下は大久保の供述による。


(1)

 高校生A子さんとは2度会った。2度目に会った時、「榛名湖畔にアトリエを持っている」と嘘を言うと、「連れて行ってくれ」といったのでドライブに出た。大久保は直前で適当な口実を言って引き返せばいいと考えたが、A子さんはどうしてもアトリエに行ってくれと言った。

 湖畔の林道に入って関係を持ったが、A子さんは「免許証を見せてくれ」と迫った。大久保がそれを見せると、年齢や名前が嘘であることがわかり、アトリエもないことがわかったので、A子さんは「私の兄は検察官だ。一緒に行こう」と言い出した。

 大久保は前科があることや、保釈中の身であるため、警察沙汰はまずいと思い、A子を殺害しようとした。A子さんは「兄が検察官と言ったのは嘘です。ごめんなさい」と謝ったが、若い娘が”検事”でなく”検察官”という言葉を使うわけがないと考えた大久保はそのまま首を絞めて殺害した。


(2)

 ウエイトレスのB子さんとも2度会った。2度目の会った4月6日、B子さんの方から「午後6時に北高崎駅で待っている」誘った。

 その後、モーテルに行き2時間ほど過ごしたが、B子さんの態度が変わり、

「私には警察官の旦那がいるんだよ。あんたを訪ねて行くからね」

 と言い出したので、大久保は殺害を決意。


(3)

 県庁臨時職員のC子さんとは5度会っていた。散文詩のことなどで話が合ったので親しくしていた。大久保はC子さんには「美大卒の中学教員・渡辺成一」と名乗っていたが、5回目のドライブでC子さんは「大久保さん」と呼びかけた。C子さんは近所で大久保のことを調べたという。彼の嘘をすべて暴いた。

「大久保さんのことを世間に知らせてやる。警察と県警記者クラブに知り合いがいるから電話してやる」

 その言葉を聞いて大久保は殺害を決意。


(4)

 高校生D子さんとも2度会っている。家族のことを聞いたら、「父は派出所に勤務している」と彼女は言った。大久保は警察に前科者にされてしまったという恨みがあり、これを聞いてムカムカしてきた。

 D子さんはさらに「この前関係したことは、強姦として事件になるんだってね」と言ったので殺害。


(5)

 女子高生Eさんとは3度会った。2度目に会った時、大久保は靴下を3足買ってやったが、3度目に会った時「1足が破れてしまった」と言った。大久保は「これで買いな」と千円札を渡したが、E子さんは「でも、悪いから」と遠慮した。

「デモなんかすると、おまわりさんに捕まるよ」

 大久保のこの冗談に対して、E子さんは「私のお父さんはデモを取り締まる人を指揮している」と話した。警察官だという。大久保はこれを聞いて殺害を決意した。

(6)

 公社職員F子さんは4月上旬に、桐生市の喫茶店で見かけて声をかけた。この時には中学校の数学教師と名乗っている。2度目に会ったのが5月3日で、軽井沢方面にドライブ、途中モーテルで関係を持った。

「××中学には渡辺という先生はいない。本当は大久保さんでしょ。遊び半分で交際してるんでなければ、帰りにあんたの家へ連れて行ってよ」

 突然F子さんはそう言った。さらに車が大久保の自宅付近を通ると、「あんたの家、このへんでしょ」と言った。どうやら大久保のことを調べていて、出所したばかりだということも知っているようだった。さらにF子さんは車内にあったB子さんの写真を見つけたので殺害した。


(7)

 OL・G子さんとは「絵のモデルになってくれ」と声をかけて車に乗せ、伊勢崎に行って、喫茶店や西洋文学、登山などの話をした。会話は弾み、自分のことを好きになったと思った大久保は、店を出てドライブした。

 途中、モーテルに入ろうとしたが、G子さんは「私、そんな女に見える」と断り、さらに後で林道で無理に関係を持とうとしたが、「私の父は刑事よ」と言ったので、強姦してから首を絞めて殺害した。


(8)

 家事手伝い・H子さんとは3月下旬に知り合い、7度目のデートの時に殺害している。なお大久保はH子さんに対しては本名を名乗っている。(肩書は中学教師とした)

 この日のドライブ中、H子さんは「最近刑務所から帰ってきたんだってね」と言い出した。妻子と別居していることも知っており、馬鹿にしたように笑った。これで大久保は殺害を決意。


 8人のうち、5人は身内に警察関係者がいるということを話したため殺害された。だが誰一人、家族に警察関係者のいる人はいなかった。このことを取り調べ官から聞かされた大久保は、「小娘の嘘を見破れなかった俺は馬鹿だった」と地団太を踏んで悔しがった。

 

 大久保は5月10日にG子さんの兄に自転車の指紋を消しているところを見られてから、たびたび私設捜索隊に見つかり、その度に逃走していた。逃げ回り続けたのだが、それでも毎日誰かを誘ってはドライブしたり関係を持ったりしていたという。取り押さえられた時も、助手席に高校生くらいの少女を乗せていた。


「絵のモデルになりませんか」

「お茶を飲みに行きませんか」

 大久保はこうして女性たちに声をかけていた。殺害された8人だけではなく、何人もの若い女性が――服装や小物で騙していたとはいえ――声をかけた男について行ったのである。

 「小平義雄事件」と比較されがちである大久保清事件だが、誘い文句も、社会状況も大きく異なる。


出典:大久保清連続殺人事件

	

逮捕とその後

大久保は、1971年5月14日に群馬県警藤岡警察署で逮捕された。逮捕後しばらくは暴れ馬のように興奮して、取調室で茶碗を投げつけるなどしていたが、芸術論を披露したりして刑事に誉められていくうちに、「死刑になってもかまわないからすべて自供する」と自供。「裁判でも自供は変えない」と断言した。このため東京医科歯科大学教授の中田修によって精神鑑定が行われたものの、「責任能力あり」とは診断されたが性的異常とは見なされず、殺害の真の動機を解明するには至らなかった。

出典:大久保清 - Wikipedia

	

大久保清

			

殺害後に埋めた女性の遺体発掘作業に立ち会う大久保清=昭和46年5月27日、群馬県松井田町

裁判


1973年2月22日、前橋地裁、大久保に死刑を言いわたす。大久保は控訴しなかったので、刑は確定した。控訴しなかった理由について、知人にこう話している。

「生きながらえたとしても、かえって被害者の遺族を苦しめることになり、自分も苦痛から逃れたい」


 1976年1月22日、東京拘置所で死刑執行。


何にを見ても、なにも感じない

 何にを聞いても心の動揺も感じない

 何にをしでかしても無味な答えすら返って来ない

 何にを云われても他人ごとのように無感心でいる

 ああ!私の心にはなにもない

 おお!顔を歪めて笑う男が、ここに一人つくねんと座っているだけ・・・

(獄中手記「訣別の章」より)


高校生の娘を殺害されたD子さんの父親は、公判で大久保にとびかかろうという気持ちをなんとかおさえて「1日も早く大久保を死刑にして下さい」と言った。

 だが大久保清事件を題材にしたテレビドラマ(大久保役にビートたけし)を観て、「大久保もかわいそうなやつだね」とぽつりと言ったという。

出典:大久保清連続殺人事件

	

人物

逮捕後に大久保は、獄中手記として『訣別の章』(KKロングセラーズ)を出版したが、風俗史家の下川耿史は、著書『殺人評論』において「(ニーチェやショーペンハウアーを引くなど)難しい言葉を多用して、(アナキズムに共感するなどして)国家権力への反発を述べているが、言葉が難しい割には浅薄で、他にひどくセンチメンタルな詩を長々と書き連ねており、これが36歳の男が書くものかと思うほどに実に少年っぽい」と批評している。

逮捕から死刑執行まで事件について反省や後悔、謝罪もしなかった。

出典:大久保清 - Wikipedia

	

大久保清(婦女連続殺人事件犯人)/名言(迷言)

●兄は、俺の妻に離婚したほうがいいと告げ口したり、保護司に俺をもう1度刑務所に戻してくれるように頼みに行ったりした。兄は財産が欲しいので俺を邪魔にしていたのだが、血を分けた肉親にこんな仕打ちをされるなんてことがあるだろうか

●警察や女にも恨みがあった。警察はいつも訴えた側の言い分ばかりを聞いて、俺の言い分は聞いてくれなかった。女たちは和姦だったのに強姦だと言って俺を陥れた。そのため、俺は過去2回刑務所に入らなければならなかった


●俺はもともと嘘がつけない性格だった。それが人に裏切られ、何度も警察の取調べを受けたり、刑務所に入ったりしているうちにだんだんと嘘の言える人間になってきた


●俺は肉親に裏切られ、女に裏切られ、社会に裏切られて絶望のどん底に突き落とされた。だから、俺は人間の血を捨てたんだ、冷血動物になることにした。冷血動物になって、社会に復讐してやろう。たくさんの人を殺してやろう。肉親や世の中に絶望した人間がどれだけ悪くなるか、世の中の人に見せてやろうと思った


●生きながらえたとしても、かえって被害者の遺族を苦しめることになり、自分も苦痛から逃れたい


出典:

	

大久保清の最後の言葉

・・・・クック・・・・・

出典:「死刑囚、最期の言葉」とその背景:DDN JAPAN

	

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Sharetube