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【死刑判決】 新潟・農家強盗殺人事件の「千葉覚」とは

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【死刑判決】 新潟・農家強盗殺人事件の「千葉覚」とは

Author:
sicsic
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【死刑判決】 新潟・農家強盗殺人事件の「千葉覚」とは

新潟・農家強盗殺人事件

1959年4月5日、新潟県小千谷の農家に男が忍び込み、この家の夫を玄能で殴り、妻を絞殺して現金2000円や時計などを奪った。数日後、中村覚(当時25歳 のちに獄中で養子縁組し千葉姓に)が逮捕される。
 60年、一審で死刑判決。死刑を宣告されてからの千葉はかつての恩師夫婦との交流のなかで短歌と出会う。作歌を始め、めきめきとその才能を伸ばしていった千葉は「島秋人」の名で歌を投稿し続けた。1967年死刑執行、享年33歳。

千葉覚

千葉覚

			
中村覚(以後、千葉)は1934年朝鮮で生まれた。父は警察官で、仕事の関係で千葉の幼い頃から朝鮮や満州を転々とした。終戦を迎える頃、一家は故郷・新潟県柏崎に引き揚げる。ところが終戦を境に父親が公職追放となり、肺結核を患っていた母親は過労がたたったのか栄養失調で亡くなってしまう。母は今際の際に食べたいと言ったタラコと塩じゃけの小さな切り身も半分も食べずに、幼い子らに分け与えて逝ったという。まだ幼い千葉や弟妹たちは家事もろくにできぬまま、家に残された。
 千葉自身も恵まれない生活のなかで蓄膿症、百日咳、中耳炎などを患い、そうしたことも関係あってか集中力や根気に欠け、学校での成績は落第点。教師やクラスメイトからは「低能児」と呼ばれた。小学校5年の時には試験で0点をとり、教師から棒で殴られるなどして、ほうほうの体で逃げ回ったこともあった。
 中学卒業後、千葉はガラス工場やクリーニング店で働き始めるが、いずれも長くは続かなかった。千葉は次第に自殺願望を持ち荒れ果て、強盗殺人未遂などを犯して特別少年院に入れられた。さらにそのあと放火で懲役4年を言い渡されている。服役中にヒステリー性性格異常と判断され、医療刑務所から新潟県長岡市の県立療養所に入れられた。
 1959年2月、療養所を出て父親のいる三条市に戻り、研磨工場で働き始める。だが家出、千葉はぶらぶらしながら上京を決意した。しかし、そのための資金などどこにもなかった。

出典:死刑囚・島秋人

	

強盗殺人

4月5日、千葉は新潟県小千谷の寺で宿泊を断られたあと、近くの農家Sさん方の軒先にしゃがみこんでいた。この家は貧しく、Sさんが出稼ぎ先で事故に遭い、足が不自由になったことから、家族5人がつつましく暮らしていた。けれどもそんなことは知らない千葉は空きっ腹でそこに座っていた。
「ドロボー!!」
 その時、人の気配に気づいたSさんが顔を出し、千葉の姿を認めてそう叫んだ。驚いた千葉はあわててSさんを追って、家の中に入っていった。そこでこの家の家族全員を縛りあげ、始発電車が出るまでの5時間近くねばっていた。
 明け方になって、千葉は一旦Sさん宅を出たものの、100mほどした所で舞い戻り、金づちでSさんを殴り、止めに入った妻・M子さんをタオルで絞め殺した。そして家にあった現金2000円と時計などを奪った。だが数日後、三条市内で逮捕される。

 1960年3月、「被告人は意志不安定、爆発の傾向を示し、容易に反社会行動を引き起こす危険がある」として死刑を言い渡される。

出典:死刑囚・島秋人

	

死刑囚・島秋人

1審判決後、千葉はたまたま獄中で読んだ開高健の小説「裸の王様」(※)から、絵を描きたいという衝動にかられた。同時に思い出したのは小学校の時、図画の吉田好道先生から言われた「君は絵は下手だが、構図が良い」という言葉だった。学校生活のなかで誉められた思い出はそれだけで、その感謝の気持ちから自身の現状や想いなどをしたためた手紙をこの先生に手紙を送り、児童の絵が欲しいことを伝えた。児童の描いた絵が見たいと思ったのは、童心に帰りたいという思いからだった。
 千葉からの手紙を受け取った吉田先生はこの生徒のことをほとんど覚えていなかったが、その内容と自分のたった一言を忘れなかった教え子に涙する。そして妻とともに返事を書き、絵を一緒に送った。絵には3首の短歌が添えられていた。これに感銘を受けた千葉は次第に歌の世界に惹かれていく。千葉はすぐに返事を出した。

※「裸の王様」・・・・1957年、開高健・著。心を閉ざした少年が、親身な主人公と出会い、やがて心を開き絵を描くという内容で芥川賞を受賞した。



吉田夫婦との文通はその後も続くが、そのうち先生の奥さんから短歌を勧められる。千葉は俳句を嗜んでいたが、手紙に書かれた何首かを見て奥さんは才能を感じ取ったのだという。そして彼に「島秋人」という歌名を与えた。「島」は彼がかつて住んでいた島町から、「秋人」はしゅうじんと読めるのがその由来である。
 千葉は作歌を始め、奥さんの勧めで毎日歌壇にも投詠しはじめ、選者の窪田空穂氏の目にとまる。まもなく窪田氏に師事し、その才能をめきめき伸ばしていった。

出典:死刑囚・島秋人

	

愛用した万年筆

			
●あが罪に貧しく父は老いたまひ 久しき文の切手さかさなる

●ほめられし事をくり返し覚ひつつ 身に幸多き死囚と悟りぬ

●温もりの残れるセーターたたむ夜 ひと日のいのち双手に愛しむ

●妹の嫁ぎし事をよろこびつつ われに刑死の日は迫るなり

出典:死刑囚・島秋人

	
千葉は短歌を詠む死刑囚として外国雑誌「タイム」にも紹介された。またその歌に多くの人が感銘を受け、励ましの手紙が届くようになった。千葉てる子もその1人で、義理の母になり、中村姓から千葉姓に変わった。同時にてる子さんの影響で、千葉自身もキリスト教の洗礼を受けている。その後の、2審も判決は変わらず、そのまま死刑が確定した。

 1967年、千葉は精力的に毎日歌壇への投稿を続け、ついに書簡集の製作に着手する。だがその頃、法務大臣・田中伊三次ははすでに千葉の執行命令書のハンを押していた。
 11月1日、千葉が独房で歌集稿の整理に取り組んでいるところに、拘置所長から翌日の死刑を言い渡される。午後になって、郷里から駆けつけてきた老いた父、獄中の千葉に支援し続けた養母など2、3人の人たちと最後の別れを持った。
「もう泣かないでください。でも無理かな。僕も少し興奮しました。恥ずかしい。僕の考えはこのひとといを、最後の聖餐式のようなつもりで、楽しくお話をして、お別れしたいのですが・・・・」
 
 その夜、千葉は毎日歌壇への最後の投稿歌を書き、辞世の歌6首を歌集稿の最後につけ加えた。

出典:死刑囚・島秋人

	
●この澄めるこころ在るとは識らず来て 刑死の明日に迫る夜温し

●土ちかき部屋に移され処刑待つ ひとときの温きいのち愛しむ

●七年の毎日歌壇の投稿も 最後となりて礼ふかく詠む

出典:死刑囚・島秋人

	

死刑20日前の最後の歌が毎日新聞に掲載された

死刑20日前の最後の歌が毎日新聞に掲載された。
●あたたまる心に清む身を愛しみ獄の良書に灯に親しみぬ

出典:

	

千葉覚の最後の言葉

1967年11月2日、小菅刑務所(現在の東京拘置所)で死刑が執行された。享年33。この時の法務大臣であった田中伊三次は同年10月16日に一度に23人の死刑執行を命令したが、島もそのうちの一人であった。刑事訴訟法476条の規定では、法務大臣の死刑執行命令5日以内に死刑を執行しなければならないが、小菅刑務所では5人が執行対象者であったことから、執行の準備ができないとして、法務当局は死刑執行命令を検察が受け取った日を「5日」の起点と解釈したという。

出典:島秋人 - Wikipedia

	
犯罪なき世の中がうちたてられますように・・・・アーメン

出典:「死刑囚、最期の言葉」とその背景:DDN JAPAN

	

舞台化など

この島秋人の話は94年9月、池袋の劇場で喜劇役者・ポール牧氏が演じる「死刑囚・島秋人の生涯」という1人舞台が初演され、96年まで44回の公演で、2万人の観客を集めた。またTBS系「3年B組金八先生 第5シリーズ」(99年放送)の授業シーンでもとりあげられ、武田鉄也演じる教師・坂本金八が生徒らに「いのち愛しむ」ことを教えた。


3年B組金八先生 第5シリーズ」(99年放送)の授業より

刑務所でその先生のことを思い出した時に、彼は堪らなく嬉しくなるんですなぁ。そうだ、死刑になる前にあの先生にお礼の手紙を書こう。これは、刑務所でその先生にお礼の手紙を書きます。受け取った先生はびっくりなさいます。何千人といる教え子を、しかも、彼の印象は大変薄かったので彼の顔すら思い出せない。まして、その生徒、教え子は死刑囚です。でも、いい先生だったんですなぁ。一生懸命に返事を書かれたんです。で、それをご覧になった先生の奥さんは、その手紙に添えて三首の和歌を出されたんです。さぁ、返事を受け取った彼はもう嬉しくて堪りません。そして、そこで初めて先生の奥さんが作った和歌に触れるんです。そして感激するんです。和歌という世界を初めて彼は知ったんですね。何とか自分も作ろう、奥さんに自分も和歌を作って返したい。そう思った彼は、刑務所の独房の中で懸命に和歌を作ります。その作った歌が、まずこの歌。「白き花 つけねばならぬ被害者の 児に詫び足りず 悔いを深めし」「死刑囚と なりて思へば いくらでも 生きる職業 ありと悟りにき」。彼は懸命に歌を作っていきます。で、その歌があまりにも素晴らしいんで、新聞の歌壇、つまり短歌の批評をやるその欄で、選者の先生は彼の句を詠んで思わずこう言ったんです。“作者は頭脳明晰にして鋭敏なる神経の持ち主である”。彼は刑務所の中で二度目に誉めてくれた人と出会うことができたわけです。 また、彼の歌が大変に素晴らしいので、沢山の仲間達が集まってきます。やがて、その友達が島秋人さん、そう、勿論ペンネームですが、その島秋人さんに歌集を出しましょうと勧めますが、島秋人さんは、それはできませんとお断りします、ね。被害者の御遺族の方がいらっしゃるのでそれはやめて下さい。私が死刑になった後、是非その歌集を出して下さいと、そう頼まれたそうです。でも、本当のこと言うと島秋人さんは自分の歌集を、こう、手で触れて楽しく友達と合評会をやりたかったでしょうなぁ、本当はね。昭和四十二年十一月二日、島秋人さんに死刑が執行される日が来ました。しかし、この人はそれでもなお、絞首刑台の下までいってもなお、和歌を作り続けます。その和歌がこれです。「土ちかき 部屋にうつされ 処刑待つ ひととき温き いのち愛しむ」。絞首刑台の下で自分の身体を触ってみる。そうすると自分の身体が熱い。あぁ、命っていとおしいなぁ。今、生きてるっていうことは素晴らしいことだなぁ。そう、歌を詠まれたわけでありますね。私達はどんなに苦しい事、悲しい事があっても、自分の苦しみや悲しみを死という言葉で、死にたいなどという言葉で苦しみや悲しみを飾ってはいけません。なぜなら、私達には明日があります。あさってがあります。そして君達には、21世紀に将来が広がっています。どんなに辛くても死という言葉を使ってはなりません。使えば、その歌は嘘です。そして、島秋人さんの和歌に失礼です。死にたいなどという歌を作ってしまったこの友達を、是非返歌で、歌を返して励ましてあげてほしいと思います。島秋人さんから何か言葉をお借りしましょうか。本家取りでね。何がいいかなぁ。お借りするならこの7文字がいいでしょう。“いのち愛しむ”。“我がいのち愛しむ”“友のいのち愛しむ”。“いのち愛しむ”というこの7文字を借りてどうぞ素晴らしい返歌を、そして君達の和歌を作ってほしいという風に思います。

出典:死刑囚・島秋人

	

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