浜松9人連続殺人事件の「中村誠策」とは
浜松連続殺人事件(はままつれんぞくさつじんじけん)は、日中戦争及び第二次世界大戦下の日本で発生した連続殺人事件。当時の日本は戦時体制下にあり犯罪報道が制限されていたためあまり知られていない。
経緯
犯人暦
犯人は聾唖者(耳が不自由な)の青年(最後の犯行当時満18歳)であった。青年は兄弟7人の6男で、生まれつきの聾唖者で家族から冷たくあつかわれていた。簡単な言葉しか発音できなかったものの知能は高く、聾唖学校では首席であった。しかし、他人に対する思いやりなど基本的な人間性が欠如しており、青年を誰よりもいたわっていた長兄を殺害するなど、肉親に対する情愛も欠如していた。また、この9人の連続続人の他にも1938年に二人の女性を刺殺したことを自供している。青年を精神鑑定した内村祐之と吉益脩夫によれば、生来的に人間的感情や情性に欠ける精神病質性の人格、それに加えて不完全な教育を受けたために抽象的・精神的なものが育たなかったためとし、青年を心身耗弱者とする鑑定書を出した。
青年は、戦時下に行われた犯罪について厳罰を課す戦時刑事特別法によって審理された。公判には多くの地域住民が詰めかけ、極刑を望んだ。静岡地裁浜松支部は被告人を聾唖者ではなく難聴者と認定し、聾唖者の刑を減免する刑法旧第40条を適用せず、死刑判決を下し、まもなく死刑が執行された。
なお、逮捕直後に実父が天竜川に投身自殺している。
余談
紅林麻雄
この事件を解決した紅林麻雄は名刑事とうたわれたが、戦後は、二俣事件、幸浦事件、小島事件などの冤罪事件を発生させている。
紅林麻雄
紅林 麻雄(くればやし あさお、1908年 - 1963年9月)は日本の警察官。階級は警部。
二俣事件
二俣事件(ふたまたじけん)とは、1950年1月6日に当時の静岡県磐田郡二俣町(現在の浜松市天竜区二俣町)で発生した、四人が殺害された事件である。逮捕・起訴された被告人が地裁・高裁とも死刑判決を受けたが、最高裁が審理を差し戻した後の地裁・高裁とも無罪判決を受け、無罪が確定した。
幸浦事件
1948年11月29日、静岡県磐田郡幸浦村(現・袋井市)の自営業を営む主人を含む一家4人が忽然と失踪。警察は事件性があると判断するも、何も手がかりも消息も掴めず、年を越してしまう。しかし、翌年2月12日、男性A(当時23歳)と男性B(当時19歳)が別件逮捕され、二人を一家4人殺害の犯人として、取り調べを続けたところ、男性Aが翌13日に一家殺害を自供。また14日に男性C(当時45歳)も強盗殺人で、20日に男性D(当時38歳)が被害者宅からの盗品を買い受けた罪で逮捕される。後日、容疑者らの自供により、一家4人の絞殺遺体が埋められていたことを発見。
小島事件
1950年5月10日午後11時ごろ、静岡県庵原郡小島村(おじま=現在の静岡市清水区)の農家の二階で、就寝中だったこの家の主婦(当時32歳)が自宅にあった斧で殺害され、現金2500円が奪われた。犯行時、妻の夫は大阪に旅行にいっており不在だった。犯人として地元の農民(当時27歳)を逮捕した。捜査を担当したのは庵原地区警察署と国警静岡県本部であったが、捜査主任だった国警の紅林麻雄警部補は後に静岡県内で数々の冤罪事件を生み出した”拷問王”であった。彼の指示による拷問によって犯行を自供する自白調書が作成され起訴された。
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