【死刑判決】市原両親殺人事件の「佐々木哲也」とは
市原両親殺人事件
市原両親殺害事件(いちはらりょうしんさつがいじけん)とは1974年(昭和49年)10月30日に千葉県市原市で発生した親殺し事件。
経緯
市原両親殺害事件(いちはらりょうしんさつがいじけん)とは1974年(昭和49年)10月30日に千葉県市原市で発生した親殺し事件。出典
市原両親殺害事件 - Wikipedia
経緯
昭和49年10月30日午後5時20分頃、千葉県市原市のドライブイン従業員・佐々木哲也(当時21歳)は交際しているソープランド嬢との結婚を両親に反対されたことから激怒、父親のAさん(当時59歳)と母親のBさん(当時48歳)を登山ナイフで滅多突きにして殺害した。
哲也は両親殺害後、金庫から現金を窃取し遺体を浴槽に隠した。2日後の11月1日、車のホイールを重り代わりにして死体に取り付けて同市五井海岸の養老川河口から投棄した。その後、哲也はソープランド嬢と合流し飲食店を飲み歩いたりモーテルで情交した。
哲也の両親は苦労を重ねてタイヤ修理業とドライブインを経営。仕事も順調で経済的には裕福であった。一方、息子の哲也は地元の高校を優秀な成績で卒業し父親の経営するドライブインに就職。卒業間もなく素行不良の交遊を続けているうち、内縁の夫のあるソープランド嬢との交際に身を沈め生活の破綻をきたしていた。
我が子の将来を案じた両親は哲也へ毎日のように交際をやめるよう説得していた。が、ソープランド嬢との交際で夢中になっていた哲也は説得に応じるどころか、次第に結婚することを考えはじめた。
犯行当日も父親から「ソープランド嬢との結婚は認める訳にはいかない」旨の話がでた途端、哲也は父親に対して11ヶ所に及ぶ刺切創を与え、止めに入った母親には20ヵ所に及ぶ刺切創を与えて即死させた。
裁判
逮捕後から裁判まで一貫して息子は両親の殺害や遺体遺棄を否認、父親は母親に殺され、母親は自分の知らない第3者が殺したと主張。1984年3月15日、千葉地裁で息子に死刑判決。
1986年8月29日、東京高裁で控訴棄却。
1992年1月31日、最高裁で上告棄却。死刑確定。
2014年現在、息子は東京拘置所に収監されている。
疑問
警察は息子が両親をほぼ同時刻(17時20分ごろ)に刺殺したと判断したが、現場(自宅)に母親の血液が見つかっていない。この時刻に隣人が悲鳴と椅子が倒れる音を耳にしているが、19時から19時30分の間に、近所の食堂店員が、母親が来店したことを証言。彼女が来店した際の天候や店内で放送していたテレビ番組について詳細に話しているが、検察側はテレビ番組に関しては店員の勘違いである可能性が高いことを指摘している。
無実の訴え
両親の遺体は犯行から10日後に海面から浮き沈みしているところを発見された。千葉県警が身元を確認し哲也の両親であることを確認すると共に哲也を殺人及び遺体遺棄容疑で逮捕した。逮捕された哲也は「父は母によって殺害され、母は第三者によって殺害された」として無実を訴えた。裁判においても、この訴えが争点となった。
犯行日とされる10月30日午後5時20分頃、隣家の人が「ギャー」という悲鳴と椅子などが倒れる音を聞いている。一方、隣の食堂の従業員は、哲也の母親が午後7時から7時30分の間に米飯を買いに来たと証言した。この証言は極めて具体的で、①食堂の主人が床屋に行っている時、②テレビで欽ちゃん(萩本欽一)の司会番組をやっている時、③給料日の前日だった、④雨が降っていた、などである。
犯行当日の10月30日は午後7時から7時30分に萩本欽一出演の「日本一のおかあさん」という番組が放映されていた。だが、検察側は前日29日の午後7時30分から8時までの同じく萩本欽一出演の「55号決定版」が放映されていた時に哲也の母親は米飯を買いに来たのであり、店員の勘違いであると主張した。
千葉地方裁判所は昭和59年3月15日、検察側の主張を認めて哲也に死刑を言い渡した。昭和61年8月29日、東京高裁は哲也の控訴棄却。平成4年1月30日、最高裁は哲也の上告を棄却して死刑が確定した。哲也は無実を訴えて再審請求中(平成17年1月現在)。
裁判焦点
佐々木被告は逮捕当初こそ否認したが、後に捜査段階で犯行を認めた。しかし再び否認した。一審の初公判でも、全面否認し、「父親を殺したのは母親で、母親は自分の知っている第三者に殺された」と主張した。弁護側は、「父親の殺害後に母親を見かけたという目撃証言がある」ことや「被告の衣類についていた血痕と母親の血液型が一致しない」「殺害動機」などを中心に争い、「犯行を認めた捜査段階の供述は無理な取り調べによるもので有罪の証拠にならない。父親を殺したのは母親で、母親は自分の知っている第三者に殺された」と主張した。
判決で太田裁判長は、「しかし一審判決は、目撃証言は勘違い、血液型の違いは腐敗した血痕からの鑑定が困難であることによる食い違いでしかない、と弁護側の主張を全面的に退けた。
そして、両親の失踪を心配する姉らを後目に女性と連日遊興飲食していた事実や、その後の犯行否認などから全く反省していないと判断。冷酷無惨な犯行で、動機の自己中心的で同情の余地がなく、社会的影響も深刻であり、被告の刑事責任は重大で死刑はやむを得ないとした。また、弁護側の死刑は憲法違反であるという主張については、最高裁の判例より合憲であると確定していることから、判断をする理由も必要もないと述べた。
控訴審でも佐々木被告は一審同様、「父親を殺したのは母親で、母親は自分の知っている第三者に殺された」と主張。弁護側も「母親の殺害日時」や「殺害動機」などを中心に争い、「捜査段階の自白は信用できない」としていた。
判決で石丸裁判長は、凶器のナイフが佐々木被告の自白で初めて発見された点などを指摘、「被告の捜査段階の自白には真実性がある。第三者の犯行などとする公判供述は証拠もなく、信用できない」と判断。「死刑は重過ぎる」との主張に対しては、「冷酷残忍な行為で、被告の犯行であることは明々白々なのに、反省の言葉1つもない。かえって他に犯行を転嫁するなど被告の犯行は悪質である。両親との生活感情の差があったことなど、有利な情状を考慮しても、極刑に処することはやむを得ない」とした。
2時間余の判決理由の朗読が終了したあと、石丸裁判長は、「君の口から(謝罪を)聞きたかった」と語りかけたが、佐々木被告は「理解されなくて残念です」とだけ述べた。
最高裁の口頭弁論で、佐々木被告の弁護側は「両親は同じ時間、同じ場所で被告が殺したとされているが、現場からは母親の血液が見つかっていないうえ、殺されたとされた時間の後に隣の人が母親に会ったと証言しており、実は母親が父親を殺したあと母親は別の場所で何者かに殺されたものだ。被告が捜査段階で両親を殺したことを認めた供述は、遺体の傷跡など多くの客観的事実と矛盾しており、信用することが出来ない」と述べ、改めて無罪を主張した。
これに対し検察側は「両親は夫婦仲が良かったことなどから、母親が父親を殺すことはあり得ない。被告の無罪主張は罪を逃れるための不自然な弁解であり、一,二審の死刑判決は妥当だ」と述べて被告の上告を棄却するよう求めた。
出典:sasakit"