【死刑判決】 おせんころがし殺人事件の「栗田源蔵」とは
おせんころがし殺人事件
おせんころがし殺人事件(おせんころがしさつじんじけん)は、1952年(昭和27年)10月11日に、千葉県小湊町(後の天津小湊町、現鴨川市)にある断崖、通称「おせんころがし」で起こった殺人事件である。母子3人が1人の男に強姦され、殺害された。また、この事件の同一犯人の起こした合計8人の連続殺人事件の通称でもある。
おせんころがし
おせんころがしは、千葉県勝浦市の西端から鴨川市(旧天津小湊町)にまたがる約4kmの崖の通称である。旧国道が崖の中腹を通り、古くは交通の難所であったが、現在は新国道が整備され解消されている。
名称の由来昔、この崖の近くの豪族古仙家にいた、おせんという一人娘が名称の由来とされている。おせんは、村人を苦しめる強欲非道な父親を改心させようとしたが、改心は無理と悟り、この崖から身を投げたといわれている。
栗田源蔵の生い立ち
栗田は、昭和31年(1956年)、国会で死刑制度の廃止か存続かが議論された時も、死刑存続を主張する側から「世の中には淘汰(とうた)する以外にない、大量殺人者がいる。」として栗田の名前が挙げられたほど、凶悪犯の代表格として世間に知られていた。栗田は秋田県で、極貧の川漁師の子供として生まれ、12人兄弟であった。家計はどん底で、食事さえもまともに与えられなかった。栗田は子供のころから夜尿症(やにょうしょう = おねしょ)に悩まされ、これは成長しても直らず、死刑直前まで夜尿症は続く。
この夜尿症と、生来のおとなしい性格が災いして少年時代はいじめの対象となっていた。小学校を三年で中退し、農家に奉公に出されたが、盗み癖もあって長続きせず、働き口を転々と変えた。
昭和20年6月、19歳の時、弘前の歩兵連隊に入ったが、夜尿症のため二ヶ月で除隊となっている。
そしてその同じ年の年末も近くなった頃、栗田は北海道に流れ、そこで美唄炭鉱の坑夫となった。気の荒い連中に囲まれた、この炭鉱での生活が栗田の性格を大幅に変えた。内向的だった栗田は、粗暴で荒々しい人間へと変化を遂げた。昭和21年8月、炭鉱の近くの農家から米を盗んで、ヤミで売りさばいた。この一件で栗田は捕まり、懲役一年六ヶ月を受けた。
これが最初の転落だった。これ以降は、傷害、窃盗、物価統制令違反、殺人未遂などで、刑務所を出たり入ったりした。栗田の職業は、すでにヤミ米の販売となっていた。当時は物不足で、特に食料が不足していた時代だったので、米はどんどん売れた。
栗田はすでに、ヤミ米販売ブローカー集団「総武グループ」の中心メンバーになっていた。
総武グループの中にも女性はいたが、栗田はその中でも特に情熱的に近づいてきた由美(17)と恋仲になっており、結婚を約束していた。しかし栗田は、同じ総武グループの中の彩子とも結婚を約束しており、三角関係となっていた。
はやぶさの源
1952年1月13日夜、千葉県千葉市の北郊・検見川町(現・千葉市)の民家で、主婦(63歳)と義理の姪(24歳)が殺害された。発見者は14、15日のあいだ、戸が開かず、話声も聞こえないのを変に思った裏隣の人だった。主婦は腹部を鋭利な刃物で刺され、上から布団がかけられてあった。姪の方は、10畳間で手拭で絞殺されており、強姦された形跡があった。こちらも上から毛布がかけられていた。家からは衣類数点が紛失していた。
侵入口は鍵のかかっていない裏の勝手口である。勝手口からは迷路のような路地に出るため、地元の地理に明るい男が犯人と見られた。
その頃、現場付近では盗難事件が続発していた。
当局が目をつけたのは、付近にたむろしている不良グループのリーダー格で、通称「はやぶさの源」こと栗田源蔵(当時26歳)だった。窃盗の前科2犯。殺人未遂1犯、秋田での窃盗容疑で全国指名手配中だった。
16日、義弟の家にいた栗田を逮捕。捕まえられた時、布団綿にくるまって寝ていたが、これに血がついていた。また血のついたアジ切り包丁もみつかり、調べた結果、それは検見川の事件で殺された姪が当夜敷いていたものだとわかった。
栗田は犯行を否認していたが、警察は17日には真犯人と断定。
逮捕後、栗田は高熱を出して寝こんだが、これは「生まれて初めて人を殺したからだろう」と見られたのだが、実はそうではなかった。
検見川での事件が公表されると、警察に全国から手口が類似する事件の問い合わせが相次いだ。栗田の関与が疑われたのは、栃木と千葉で計4人が殺害された事件だった。
小山事件
昭和26年8月8日、栗田は栃木県の小山駅に降り立った。泥棒稼業の一環としてただここに降りてみただけで、特に目的があったというわけではない。昼間に盗んだ酒を飲み干し、日も暮れていい気分になって盗みに入る家を探す。ある家の窓を覗くと、若い母親(24)と赤ん坊が部屋で寝ていた。それを見て欲情した栗田は、まずズボンを脱いでから家に侵入した。母親が気づいて悲鳴を上げる。栗田は母親を布団に押し倒し、布で首を絞めて強姦しながら絞め殺した。赤ん坊の方は無事だった。
タンスの中を物色して着物や帯などを盗み、ここで栗田は死体に服などをかけ、もう一度死体を犯した。そして逃げる前に台所にあった鍋や釜を持ち出して、庭に穴を掘って埋めた。この行動は意味不明である。
その後、勝手口に帰ってそこで大便をした。犯罪の後に現場で大便をするということは、心を落ち着かせ、度胸をつけるということで、当時は時々こういう犯人がいたらしい。
おせんころがし殺人事件
昭和26年10月11日。この日の深夜、栗田は千葉県にいた。またもや盗みに入る家を探して自転車に乗ってブラブラしていた。当時の国鉄・興津駅の待合室に何となく行ってみたところ、そこには三人の子供を連れた母親(29)がいた。この女とやりたくなった栗田は「家まで送ってあげよう。」と、さっそく声をかけた。栗田がいたのは千葉県安房郡小湊町(現:鴨川市)。この町の、太平洋に面するところに急な断崖絶壁に沿った道がある。一歩足を踏みはずしたら崖下に転落してしまう恐ろしい個所で、昔「おせん」という娘が転落したことから通称「おせんころがし」と呼ばれていた道である。
栗田たちは、女性の家まで歩いて行く最中、その「おせんころがし」にさしかかった。時間は深夜1時ごろ。自転車には女性の長男(6)が乗って、栗田がその自転車を押している。女性は次女(3)を背中に背負って、長女(11)と手をつないで歩いていた。当時は街頭もなく、辺りは真っ暗である。
それまでに栗田はさんざん女性に「なぁ、やらせろよ。」「いい身体をしてるな。」などと、しつこく迫っていた。
女性の方も本気で相手にはせず「ここではダメよ。」「また後でね。」といった感じで適当に受け流していた。
いくら迫ってもその気にならない女性に対して、栗田の怒りが突然爆発した。、
「頭に来た!」「やらせないのなら、ここで皆殺してやる!」
自転車を停めて女性に襲いかかった。子供たちが異変を感じていっせいに泣き出した。
「うるさい!」
栗田は最初に自転車に乗っていた長男を引きずり降ろし、石をつかんで頭と顔をメッタ打ちにした。ぐったりとした長男を抱え上げて、10数メートル下の海めがけて崖から投げ落とした。
次に長女を激しく何回も殴り、顔も頭も血だらけにした後、同じように崖から突き落とした。
そして女性がおんぶしていた次女を女性の背中から引きはがし、足をつかんで地面に何回も打ちつけ、最後は片足を持って崖の上から放り投げた。
女性は恐怖に身がすくみ、へたりこんで「助けて!何でもするから!」と必死に命乞いをした。栗田は自転車に積んでいたむしろを地面に敷いてその上で女性を強姦した。その後にヒモで女性の首を絞めて殺し、死体は崖から投げ捨てた。
栗田は冷静にも、そのまま立ち去らずに、下へ投げ捨てた奴らがちゃんと海へ落ちているかどうかの確認を行った。すると、崖の中ほどのところに三人が引っかかって倒れているのが発見出来た。
栗田は自転車用のランプを手に崖を降りていって、その三人を更に石で殴りつけ、完全に殺害した。唯一、11歳の長女だけが見つからなかったのでそれはあきらめたが、実は長女はわりと軽症だったので、崖の中の草むらに逃げ込み、じっと隠れていたのだ。この子だけは何とか助かることが出来た。
その三ヶ月後の昭和27年1月13日、栗田はまたも殺人を犯す。場所は千葉市内で、以前栗田が盗みに入った家である。前回忍び込んだ時に、着物がたくさんあったので、それを覚えており、この家に再び侵入したのだ。
しかしこの家の主婦(25)に見つかって騒がれたため、タオルで首を絞めて殺害した。一緒に家にいた叔母(64)にも見つかったため、この叔母は包丁で腹を刺して殺害した。二人を殺した後、栗田は主婦(25)の死体を犯してから逃走した。
この事件で現場から栗田の指紋が検出され、犯行から三日後、ついに栗田は千葉県警に逮捕された。
死刑判決
52年8月13日、検見川事件について、千葉地裁で死刑判決。その2ヶ月後、栃木本部と小山地区警察の捜査課は、小菅刑務所の栗田を訪ね、小山事件を追及。12月までに自供を得ることに成功した。
おせんころがし事件の方も、犯行直後に秋田に逃走した栗田が、10日夜同県沼館町で知人がはたらいた窃盗事件を聞き、身代わりを約束、みずから犯人をかってでていたことがわかった。
さらに栗田は、48年2月に結婚を約束していたY子さん(20歳)、同じくH子さん(17歳)を殺害していたことも自供した。
これは、ヤミ米ブローカーをやっていて金回りの良かった47年頃に知り合ったH子さんと夫婦約束をしたが、H子さんの友人であるY子さんとも夫婦約束のうえ関係を持っていた。
ある日、栗田はしつこく結婚を迫ってきたY子さんを性交後に絞殺。
また静岡県駿東郡原町(現・沼津市)の浜辺の松林の中で、Y子さんとの関係を知ってやきもちを焼いたH子さんからY子さんの所在をきかれ、「好きなのはお前だけだよ。Y子は殺した」と言ってしまい、H子さんが「それは大変。急いで警察に知らせなきゃ」と言ったのであわててH子さんも絞め殺した。この後、殺人未遂や窃盗などで、逮捕された栗田だが、この殺人はバレなかった。
他にも51年10月に青森県蔵館温泉での類似事件も自供したが、これはウソということで、今度は「おせんころがし事件」「小山事件」「2女性殺害事件」の3件6人殺しで起訴され、53日12月21日には宇都宮地裁から2つ目の死刑判決を受けた。
出典:栗田源蔵事件
拘禁ノイローゼ
拘置所での栗田はわがもの顔にふるまい、看守にも暴言や暴行を繰り返した。房内の報知器を1日に40回、50回とおろして看守を呼んだ。典型的な凶悪死刑囚だったわけだが、この頃にも寝小便の癖は治らなかったという。しかし54年に入ると、そのうち体調の不良を訴えはじめ、ガラスなどを割って自傷行為をするようになった。拘禁ノイローゼの症状だった。
54年10月21日、「早く楽になりたい」と、栗田は突然控訴を取り下げ、死刑が確定した。
59年10月14日、死刑執行。死の前は、かつて凶暴な面影はなく、やせ衰えて気弱な男になっていたという。
出典:栗田源蔵事件
死刑執行
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