【夫妻ともに死刑判決】夕張保険金殺人事件とは
夕張保険金殺人事件
夕張保険金殺人事件(ゆうばりほけんきんさつじんじけん)とは1984年(昭和59年)に北海道夕張市で発生した、火災保険および生命保険金の詐取を目的とした放火殺人事件である。この事件の首謀者は暴力団の組長夫婦であり、実行犯に放火を依頼して犯行に及んだが、首謀者として死刑が確定、戦後初めて夫婦2人ともに対して死刑が執行された。
犯行日時:1984年5月5日罪状:殺人、現住建造物等放火、詐欺
事件名:夕張保険金目当て放火殺人事件
昭和59年5月5日午後10時50分頃、北海道夕張市の炭鉱下請け会社「日高工業」の作業員宿舎から出火。焼け跡から従業員の佐藤忠勝さん(当時57歳)ら同従業員の子供を含む6人が焼死体で発見された。二階から飛び降りて重傷を負った石川清(当時24歳)は一命をとりとめた。また、消火活動で消防士1人が事故で死亡した。夕張署と夕張消防署の合同捜査は、「当日、石川の入寮を祝う会があってジンギスカン鍋を囲んでいた。この火元の不始末で出火したもの」と断定した。この結果、同社社長の日高安政(当時41歳)と妻の信子(当時38歳)は火災保険と従業員に掛けていた生命保険合わせて1億3800万円を手にすることとなった。
悪魔と使い魔
7月18日、火災で両足を骨折して入院中だった作業員・石川清(当時24歳)が突如失踪し、8月15日に青森市内から「火事のことで話がある。俺は追われている」と夕張署に通報。それによると、宿舎火災は保険金目的の放火殺人だったという。「子ども2人が死んだことがずっと気にかかっていた」
石川はそう漏らした。
8月19日、暴力団「初代誠友会日高組」組長で、「日高興業所」社長・日高安政(当時41歳)、その妻・信子(当時38歳)が逮捕される。夫妻は犯行を否認していた。
石川の供述によると、4月下旬、夫妻は自宅で「分け前をやるから寮に火をつけろ。食堂から火が出るようにやれ」と指示。石川は作業員たちに酒を振舞ったうえで、食堂にあった新聞紙にライターで火をつけた。
「報酬は500万やる」と言っていた日高だったが、石川に手渡したのは結局見舞金20万と退院時に70万だけだった。
夫妻は5月から7月にかけて、火災保険と従業員にかけていた2~3000万円の生命保険で1億3800万円を手にしていた。
1981年10月16日に93人もの死亡者が出た北炭夕張炭坑事故が起こったが、下請け作業員だった日高興業所の作業員も7人が死亡しており、日高は多額の労災保険給付金を手にすることになった。当時、日高は服役していたが、出所すると高級車を購入したり、海外旅行に行ったり、2年ほどで保険金を使いきってしまった。
出典:夕張・保険金殺人事件
日高夫妻
日高安政は1943年に様似町で生まれている。7人兄弟の6番目で、一家はまもなく夕張に移った。兄たちの影響を受けて店舗荒らし、賽銭箱荒らしをするようになったのは小学校中学年の頃からで、小学6年の時に遠軽町の「北海道家庭学校」に入れられ、そこで義務教育を終えた。
その後はトラック運転手、土木作業員、炭坑員などの職を転々として、17歳の頃にヤクザの世界に入り、暴行事件を数回起こした。69年に結婚、一女をもうけている。
一方、信子は1946年、炭坑員の家庭で生まれた。小学校は3歳年上の日高と同じ学校である。道立夕張高校在籍時には「女番長」として知られていた。
高校卒業後、上京して山野愛子高等美容学校に入学。1年間学んで夕張に帰ってきた。暴力団構成員と結婚して一女をもうけたが、夫は死亡し、バーのホステスとして働く様になった。日高はそのバーに客として来て知り合い、やがて同棲生活を始めた。日高はこの頃、妻と離婚している。
1970年頃、日高は「日高班」という炭坑員を現場に派遣する会社を起した。これは76年には有限会社「日高工業」に発展した。しかし、日高は知り合いの女性と上京、怒った信子も従業員と駆け落ちし、77年に「日高工業」は倒産した。
やがて相手と別れて夕張に戻ってきた2人は縁りを戻し、有限会社「鹿島工業」を設立。同じく炭坑員を派遣する仕事である。日高はこの頃、暴力団総長と知り合い、初代誠友会日高組組長を名乗り始めた。
1978年、日高覚せい剤に手を出し、執行猶予付きの実刑判決を受けたが、猶予中に再び覚せい剤をやり、銃刀法違反と合わせて懲役2年6ヶ月を言い渡された。
主がいなくなって危機的状況になった「鹿島工業」だが、信子はこれをたたみ、新たに「日高班」という派遣業務を女手ひとつで始めた。その頃、「北炭夕張炭坑事故」が起こった。
やがて出所した日高は莫大な給付金で金融業を始め、自宅兼事務所を新築した。しかし、前述した通り、2人は金を有効利用することもなく、すぐに使いきってしまった。
「夕張は不景気でどうにもならん。札幌に出てデートクラブでもやろう」
そんな時、日高は信子にそう持ちかけた。しかし、商売を始めるにはまとまった金が必要だった。その時、以前の突出事故で手に入った保険金のことが頭に浮かんだ。従業員に多額の生命保険をかけ、会社の寮に火をつけて殺すようにと石川に指示したのである。
刑の確定と執行
裁判で日高夫婦は、目的はあくまで火災保険金であって、宿舎内にいた従業員の生命まで奪うつもりはなかったとし、結果として焼死者が出たのも中にいる人間が逃げられるようにやれとIに指示していたのに彼が従わなかったためだと主張した。しかし検察側は従業員達に酒を飲ませ、就寝した後に放火させるのは殺人についての未必の故意が認められると主張、被告人夫婦に極刑を求めた。1審の札幌地裁は1987年(昭和62年)3月に実行犯Iに対し無期懲役(減刑の対象になりうる自首が認定されたためと考えられる)を言い渡し、夫婦については殺人の共謀共同正犯として共に責任を認定し、死刑を言い渡した。ただちに3人は札幌高裁に控訴したが、1988年(昭和63年)10月に控訴を取り下げ刑が確定した。信子は戦後日本において4人目の女性死刑囚となった。
これは、当時昭和天皇の病状が重篤であり、仮に天皇が崩御すれば恩赦の特典に与れると計算したためである。過去にも明治天皇や大正天皇が崩御した際には、殺人犯のような重罪人であっても恩赦によって刑が減軽されており、戦後もサンフランシスコ講和条約締結時に死刑囚であっても殺人罪のみ(強盗殺人などは対象外)であれば無期懲役に減刑されていた。
恩赦の対象となるには刑が確定していなければならず、被告人の立場から抜け出すために控訴を取り下げたものであった。当時、弁護士の指示などにより、本事件の被告人以外にも同様のことを目的に控訴や上告を取り下げた者が少なからず存在していた。しかし実際には、昭和天皇の崩御に際しては、懲役受刑者や禁錮受刑者、死刑確定者に対する恩赦は一例も行われなかった。
恩赦をあてにしていた夫婦は法律の不知を事由に控訴審の再開を申請したが、受け入れられるはずもなく、1997年(平成9年)8月1日に2人とも刑が執行された。女性死刑囚に対する死刑執行は1970年(昭和45年)に執行された女性連続毒殺魔事件以来27年ぶりで戦後3例目であった。同日には永山則夫の死刑も執行されている。
主犯の組長夫婦2人が逮捕された事で会社はすぐに倒産して廃業となった。しかし、住居兼事務所だった建物は現在も夕張市内に廃墟となって残っている。
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