遠藤誠一の生い立ち【元オウム真理教幹部】

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遠藤誠一


遠藤誠一(えんどう せいいち、1960年6月5日 - )は元オウム真理教幹部。確定死刑囚。北海道札幌市出身。ホーリーネームはジーヴァカ。教団内でのステージは正悟師で、1994年6月に教団に省庁制が採用されてからは厚生省大臣になり、後に第一厚生省大臣となった(第二厚生省大臣は土谷正実)。教団内では薬物購入の責任者であった。

出典:遠藤誠一 - Wikipedia

	
北海道札幌北高等学校卒業の後帯広畜産大学畜産学部獣医学科卒業。1986年、同大学院畜産学研究科獣医学専攻修了と同時に獣医師の資格を取得。京都大学大学院医学研究科博士課程に進学。専攻は遺伝子工学、ウイルス学。1987年3月にオウム神仙の会に入信。1988年11月9日、博士課程中退とともにオウム真理教に出家した。 高校時代の同級生によると、「お母さん思いのおとなしい青年だった」との事である。

坂本堤弁護士一家殺害事件のきっかけの一つになった「愛のイニシエーション」で麻原彰晃のDNAの効果の是非が話題になったが、麻原から血液を採取しDNAやリンパ球を培養した人物でもある。第7サティアンに隣接したプレハブ建物・ジーヴァカ棟(CMI棟)を研究施設として与えられ、ボツリヌス菌、炭疽菌、ペスト菌などの細菌兵器の培養をおこなっていた。「キリストのイニシエーション」で使用されたLSDなども製造した。サリンの製造においては土谷正実とともに中心的人物であった。

1995年4月26日、富士山総本部に立てこもっていたところを発見され、土谷とともに逮捕される。松本サリン事件の実行犯、地下鉄サリン事件の共同正犯、VXガス襲撃事件などで殺人及び殺人未遂などの罪で起訴された。

2002年10月11日の第一審、2007年5月31日の控訴審ともに死刑判決が下された。2011年11月21日、上告審である最高裁第1小法廷において上告棄却。同年12月12日に判決訂正申し立ての棄却決定、死刑判決が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定するのは13人目。この判決をもって、当時特別指名手配中であった被疑者3名(平田信・菊地直子・高橋克也)を除く、オウム真理教事件で起訴された被告人全員の公判が終結した。2014年現在、東京拘置所に収監されている。

出典:遠藤誠一 - Wikipedia

	

松本サリン事件


松本サリン事件(まつもとサリンじけん)とは、1994年(平成6年)6月27日に、日本の長野県松本市で、猛毒のサリンが散布され、死者8人・重軽傷者660人を出した事件。戦争状態にない国で、一般市民に対して初めて化学兵器が使用されたテロ事件であり、ずさん極まる捜査を実施した警察とマスコミのなれ合いの果て、無実の人間を犯人にでっち上げた冤罪・報道被害事件でもある。なお、警察庁における事件の正式名称は「松本市内における毒物使用多数殺人事件」である。

出典:松本サリン事件 - Wikipedia

	

地下鉄サリン事件

目黒公証役場事務長(当時68)拉致事件などでオウム真理教への強制捜査が迫っていることに危機感を抱いた教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時40)は、首都中心部を大混乱に陥れて警察の目先を変えさせるとともに、警察組織に打撃を与える目的で、事件の二日前にサリン散布を村井秀夫(当時36)に発案。遠藤誠一(当時34)、土谷正実(当時30)、中川智正(当時32)らが生成したサリンを使用し、村井が選んだ林泰男(当時37)、広瀬健一(当時30)、横山真人(当時31)、豊田亨(当時27)と麻原被告が指名した林郁夫(当時48)の5人の実行メンバーに、連絡調整役の井上嘉浩(当時25)、運転手の新実智光(当時31)、杉本繁郎(当時35)、北村浩一(当時27)、外崎清隆(当時31)、高橋克也(当時37)を加えた総勢11人でチームを編成。1995年3月20日午前8時頃、東京の営団地下鉄日比谷線築地駅に到着した電車など計5台の電車でサリンを散布し、死者12人、重軽傷者5500人の被害者を出した。

 村井秀夫容疑者は1995年4月23日、東京・南青山の教団総本部前で殺害されたため不起訴。殺人犯は一審懲役12年が確定している。

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地下鉄サリン事件

			

VX襲撃事件

この事件の被害者は当時82歳の駐車場の経営者(以下M)で、多額の布施を強要されてオウム真理教から逃げ出した知人を匿っていた。オウムは奪還を企てたが、駐車場経営者に追い返されていた。

オウム真理教教祖である麻原彰晃は、「これはVXの実験だ。効くかどうか判らないからMにVXをかけて確かめろ」として、駐車場経営者をVXで襲撃するよう指示し、1994年11月後半に遠藤誠一を介して土谷正実にVXの増産を命じたが、土谷は誤って無害のVX塩酸塩を作ってしまう。一方、11月27日にはこの「VX」(実際はVX塩酸塩)を井上嘉浩がMにかけようとしたが未遂に終わり、翌28日には山形明と新実智光がMに「VX」をかけたが効き目が無く失敗、この「VX」がVX塩酸塩であることが判明。そのことを知った麻原は遠藤を介して11月30日頃土谷に改めてVXの生産を命じ、土谷は今度は有毒の溶液を完成させた。それを受け、麻原は12月1日に新実にこのVXでMの襲撃を指示した。


そして翌12月2日午前8時30分、Mがゴミを捨てに自宅から出てきたところを、山形と新実が後を追い、新実が声をかけたその隙に山形がVXの溶液をMの後頭部にかけた。その後、経営者は痙攣などを起こし容態が急変したため、ただちに病院に搬送された。Mは一命はとり止め、61日間入院。診察にあたった医師の所見は「脳の血量が一気に低下したことによる一過性脳虚血発作」であり、警察も殺人未遂事件と認定できていなかった。オウムは電話を盗聴し実害があったことを確認、麻原は「ポアはできなかったがこれはこれでカルマ落としになって成功だな」と語った。


VXは、のちに会社員VX殺害事件やオウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件でも使用された。

出典:駐車場経営者VX襲撃事件 - Wikipedia

	

弁護士サリン襲撃事件


滝本太郎弁護士サリン襲撃事件(たきもとたろうべんごしさりんしゅうげきじけん)とは、1994年5月9日に発生したオウム真理教信者による殺人未遂事件。

この事件の被害者である滝本太郎弁護士は、失踪(後にオウム真理教による殺害と判明)した坂本堤弁護士に代わり、オウム真理教被害者対策弁護団の中心人物として教団に対する訴訟を行う傍ら、信者に対するカウンセリングを行っていた。滝本は「空中浮揚なら自分でもできる」と、自ら空中浮揚した写真を撮り信者に見せていた[1]。彼が手がけた信者は、ほとんど全員が脱会したという。

麻原彰晃は、これに危機感を抱き、滝本をサリンで殺害するよう指示した。遠藤誠一と中川智正は、アンモニアを使って実験を行い、車のフロントガラスにかけるのが効果的であると報告した。

1994年5月9日、甲府地方裁判所で行われた上九一色村住人とオウム真理教の民事訴訟で住人側からは滝本が、オウム真理教からは青山吉伸が出廷した。法廷が開廷している間、裁判所の駐車場に駐車していた滝本の車のフロントガラスに、麻原の愛人のマハームドラー・ダーキニー(犯行当時17歳、1996年2月に逮捕され、東京家庭裁判所に送致。殺意が認定されず不処分)と富永昌宏がサリン約30ccを噴霧した。

出典:滝本太郎弁護士サリン襲撃事件 - Wikipedia

	

池田氏サリン事件


村井秀夫は、1993年11月中旬頃、遠藤誠一、新實智光、中川智正、滝澤和義らに対して、創価学会名誉会長池田大作に、教団で生成したサリンをかけるよう指示した。池田氏が対象となったのは、創価学会信者による被告人の説法会の妨害行為や1990年の総選挙の際の選挙活動妨害行為があり、また、教団を攻撃した『サンデー毎目』を発刊している毎目新聞杜と創価学会とが緊密な関係にあると考えたこと等から、村井が噴霧実験の対象としたのであった。

 村井らは、農薬用噴霧器を普通乗用自動車に取り付けて噴霧する方法を考え、同月中旬頃、村井、新實、中川及び滝澤は、噴霧するため、八王子市内の創価学会施設付近まで赴き、上記普通乗用自動車で創価学会施設周辺を走行しつつ、車の後方から外に向けて噴霧した。車の真後ろにはバイクでついて来る者がいて、この者が噴霧したサリンを浴びたのは明らかであり、また、創価学会施設の警備員らも噴霧したサリンを浴びたのは明らかであったが、何らの影響も現れなかった。

 この第一次池田事件に際して、サリン注入や噴霧中に噴霧したものが車内に逆流して来たことが原因となってか、村井、中川、新實及び滝澤らは、「手が震える、息が苦しい、目の前が暗くなる」という症状が出た。

 なお、第一次池田事件の際、遠藤が生成を担当していたボツリヌス菌も同じ噴霧車に備えた別の噴霧器(霧どんどん)で撤こうとしたが、噴霧器が途中で動かなくなり、ほとんど撒くことができなかった。

 さらに村井は、1993年11月末ないしは12月初旬頃、土谷及び中川に対し、サリンを5キロ造れと指示し、土谷らは、同月中旬頃、サリン約3キログラムの生成を完成した。このサリンを、八王子の創価学会施設で池田氏の講演会があるということで、その付近で噴霧することとなった。村井らは、サリンを加熱して気化させ噴霧する方法を考案し、この方式の噴霧装置を製作して2トンの幌つきトラックに搭載する準備をした。噴霧を予定していた当日に、講演会は中止となったことがわかったが、村井及び新實は、同月中旬頃、上記サリン3キログラムを噴霧装置に注入した噴霧車に乗車し、中川、遠藤、滝澤はワゴン車に乗車し、八王子市まで行った。

 噴霧する前に、中川らにおいて、噴霧車が火を噴くんではないかという話が出ていた。そして、実際にサリンを噴霧しようとしたところ、ガスバーナーの火が噴霧装置に燃え移ってトラックの荷台が発火してしまった。創価学会の警備員に察知されて追いかけられ、噴霧は中止した。トラックを運転していた新實は、かなりの量のサリンを直接浴びてしまい、重体に陥った。

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一審

2002年10月11日 東京地裁 服部悟裁判長 死刑判決


控訴審

2007年5月31日 東京高裁 池田修裁判長 控訴棄却 死刑判決支持


上告審

2011年11月21日 最高裁第一小法廷 金築誠志裁判長 上告棄却 死刑確定



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裁判焦点

「人が死ぬとは思わなかった」(松本サリン事件)、「サリンを作ったが、何に使うか知らなかった」(地下鉄サリン事件)。1996年の第4回公判まで起訴事実を全面的に認めていた遠藤被告は、弁護人を解任して無罪主張に転じ、こんな釈明を続けてきた。

 弁護側は公判で犯意や共謀を争うとともに、事件当時はマインドコントロールの影響で心神喪失か心神耗弱状態だったと主張している。

 一審で服部裁判長は、遠藤被告が松本智津夫被告らと共謀して、4事件に正犯として関与したと認定し、「教団内で名誉ある地位を得たいといった利己的な動機も含め、自らの判断で犯行に及んだ」と述べた。

 一方、監禁事件などで指名手配中の信者2人を教団施設内にかくまったとされる犯人蔵匿罪については、無罪とした。

 判決理由の中で、服部裁判長は、地下鉄サリン事件について「サリンが地下鉄などの閉鎖空間で殺人に使われることを認識しており、犯行実現のため極めて重要な役割を担った」と述べ、「何に使うか分からなかった」とする弁護側の主張を退けた。

 松本サリン事件についても「サリンの毒性を十分認識しており、不特定多数の住民に対する確定的殺意があった」と認定した。


 遠藤被告は一審では松本死刑囚との決別を口にしたが、控訴審では「尊師に帰依しており、尊師の弟子である」と翻し、「死刑は弟子12人だけでいい。尊師は未来仏なので(死刑)執行しないでください」と擁護した。

 控訴審の最終弁論で、弁護側は「遠藤被告は松本智津夫死刑囚(教祖名麻原彰晃)のマインドコントロール下にあり、事件当時は心神喪失か心神耗弱の状態で、責任能力がなかったか、減退していた」「サリンが地下鉄でまかれるとは思っていなかった」と主張。また「実行行為に関与しておらず、過剰な制裁は正義に反する」として死刑の見直しを訴えた。

 検察側は「関与した地下鉄、松本両サリン事件で計19人が死亡した結果は重大。犯行に不可欠な役割を果たした」として控訴棄却を求めた。

 判決で池田裁判長は「自らの判断で加担した」と認定。その上で「松本事件でサリンの威力を痛感したのに、地下鉄事件でサリン生成に主体的に関与した。刑事責任は実行役に勝るとも劣らない」と指摘した。そして無差別大量殺人を企てた犯罪史上例をみない残虐卑劣な暴挙。極刑で臨むほかない」と述べた。


 2011年9月29日の最高裁弁論で、、弁護側は「教義や修行による強い心理的拘束力で、完全な責任能力はなかった。両サリン事件とも共謀の事実はなく、殺意もなかった」と述べ死刑回避を主張した。検察側は「精神障害もなく、サリンの致死性を認識しながら犯行に及んでいる。共謀を認めた一、二審判決に誤りはない」と上告棄却を求めた。

 判決で金築裁判長は、は「教団の組織防衛などを目的とし、法治国家に対する挑戦として組織的かつ計画的に行われた犯行で、人命軽視も甚だしい」と批判。「実行犯ではないものの、科学的知識を利用してそれぞれの犯行に関与し、重要な役割を果たしており、刑事責任は極めて重大。捜査の早い段階でサリン生成に関与したことを告げるなど酌むべき事情を考慮しても、死刑判決はやむを得ない」と結論づけた。

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晩年(死刑執行まで)


晩年は東京拘置所に収監され、再審請求を行った。同年7月6日に死刑が執行された。58歳没。遺体はアレフ新保木間施設(東京都足立区)へ搬送された後、埼玉県内で火葬された。

出典:遠藤誠一 - Wikipedia

	

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Sharetube