家族の感動する話 泣ける話 実話③

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私の母は継母だった

私の17歳の誕生日に母が継母であったことを聞かされた。

私を生んでくれたお母さんは、産後すぐに亡くなったそうだ。

生みの親より育ての親…なんていうが、そのときの私は今まで騙されてきたという怒りと、

馴れ親しんだ母が急に他人に思え、両親の話もきかず部屋でふてくされて泣いていた。


翌日から母を「おばさん」と呼ぶようになった。

そう呼ぶと母はたまらなく悲しそうな顔をした。

その後、なにかと私に気をつかいだし、必死になる母をよけいに煩わしく感じ、

口もきかなくなってしまった。なんとなく家に居ずらくなったので、夜は出かけるようになった。

それから一ヶ月がたとうとする頃、シカトし続ける私に母が「部屋で読んでね」と手紙

を差し出してきた。が、私はその場でぐしゃぐしゃに丸め、ゴミ箱に捨ててしまった。

それを見ていた父が私をはり倒し、震える声で「母さんはなあ…」と言ったが、

私はろくすっぽ聞かずに泣きながら自分の部屋に逃げた。


・・・翌日、母は帰らぬ人となった。

居眠り運転をしていたトラックが赤信号を無視し、母に突っ込んだそうだ。

即死だった。

あまりに急な出来事のため、泣くこともできず、通夜が終わった後も母のそばで

ぼう然としていた私に、父がボロボロの紙きれを渡し、一言「読め」といった。

昨日の手紙であった。そこには母らしい温かい字でこう書いてあった。


「千夏ちゃんへ

17年間騙していてごめんなさい。お父さんはもっと早くに言おうとしてたんですが、

あなたに嫌われるんじゃないかと思い、あんなに遅くなってしまいました。あなたの気持ち、

とてもよくわかる。だってお母さん、偽者だったんだもんね…。でもね、お母さん、

あなたのことを本当のお母さんに負けないぐらい愛してるんだよ。千夏が成人しても、

旦那さんができてもずーっと…」


泣きながら書いたのか、字のところどころがにじんでいる。

そして最後に震える字でこうあった。

「…だから、、、また「お母さん」って呼んでね。」


私が感じた寂しさを、母は17年も耐えていたのだ。

人の気持ちを考えられなかった私は、一ヶ月もの間、母を苦しめたのだ。

「お母さん…」

一ヶ月ぶりに発したその言葉は、冷たくなった母の耳には届かない。

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お兄ちゃんは俺のヒーローだった

腹が減ったと泣けば弁当や菓子パンを食わせてくれた

電気がつかない真っ暗な夜、ずっと歌を歌って励ましてくれた

寒くてこごえていれば、ありったけの毛布や服をかぶせてくれた

何人もの男が怒号をあげて部屋に入ってきたときは、押し入れに隠してかばってくれた

兄ちゃんは俺の神様で、ヒーローだった

いつだって体を張って俺を守ってくれてた

だから2人きりでもいつだって安心できた

だから全然気付かなかった

ごめんなさい

ごめんなさい

俺に食わすために毎日万引きしてたんだってな

父ちゃんと母ちゃんがお金送ってくれたとか全部うそだったんだな

2人とも借金でどうしようもなくなったあげく俺たちを置き去りにして消えちゃって

でも借金取りの追跡が怖くて

「すぐに帰ってくるから、いないことは誰にも言うな」なんて言い残したもんだから

兄ちゃん誰にも助けを求められなかったんだってな

泣きわめく俺を抱えてどんなに怖かったか不安だったか

だけど見捨てもせず、怒りもせず最後まで面倒見てくれたんだな

結局兄ちゃんが万引きで捕まって、家に警察が来て

呼び出された親戚は兄ちゃんを怒ったけど

たとえほめられた方法じゃなくても

親との約束を守って俺を守った兄ちゃんはかっこよかったって今でも思ってる

それから1週間くらい後だったかな

兄ちゃんが父方、俺が母方の親戚に引き取られた日が

兄ちゃんを見た最後だった

今どこにいるんだよ

元気でやってるのか

会いたいよ、会ってありがとうって言いたいよ

大好きだって言いたいよ

普通の兄弟みたいに遊んだり喧嘩したりしたいよ

あのころは大変だったな、なんてかっこつけて語る兄貴の武勇伝聞いて笑いたいよ

いつか会えるよな、絶対

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嫁入りする娘

この前、一人娘が嫁に行った。

目に入れても痛くないと断言できる一人娘が嫁に行った。

結婚式で「お父さん、今までありがとう。大好きです」といわれた。

相手側の親もいたし、嫁の旦那もいた。

何より笑顔で送ってやりたいと思ってた。

だから俺は泣かなかった。

涙と鼻水を流して笑った。我ながら情けないと思った。

しわくちゃの顔で俺を見て泣いた娘。

立とうとして転んで泣いた娘。

背中よりもでっかいランドセル背負ってカメラの画面いっぱいに笑顔を見せた娘。

手が隠れるぐらいの制服に身を包んだ娘。

お父さんのと一緒に洗わないでと嫁に怒鳴った娘。

嫁がこの世を離れたとき、病室の窓ガラスがビリビリ言うくらい泣いた娘。

三回に一回美味しい料理を作ってくれた娘。(今は三回が三回とも美味しい。断言する。)

頬を染めて、でも緊張しながら男(現旦那)をつれてきた娘。

大好きです。といって、笑い泣きしてる娘。

嫁ににて笑顔の似合う娘が嫁に行ったよ。

娘のウェディングドレス綺麗だったよ。

若い頃の嫁にそっくりだったよ。

俺も娘も元気にやってるから心配するなよ。

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神様にお願い

4歳になる娘が、字を教えてほしいといってきたので、どうせすぐ飽きるだろうと思いつつも、毎晩教えていた。


ある日、娘の通っている保育園の先生から電話があった。


「○○ちゃんから、神様に手紙を届けてほしいって言われたんです」

こっそりと中を読んでみたら、

「いいこにするので、ぱぱをかえしてください。おねがいします」

と書いてあったそうだ。


旦那は去年、交通事故で他界した。

字を覚えたかったのは、神様に手紙を書くためだったんだ・・・

受話器を持ったまま、私も先生も泣いてしまった。


「もう少ししたら、パパ戻って来るんだよ~」

最近、娘が明るい声を出す意味がこれでやっとつながった。


娘の心と、写真にしか残っていない旦那を思って涙が止まらない。

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友達の息子

「このぽっけすごいねんで!!(`・ω・´)三3ムフー!!」

そう言って幼稚園の制服のポケットをパンパン叩いてた友達Aの息子

ポケットにはハンカチ、ティッシュ、お菓子、小指の先サイズのドラえもん、母親とのプリクラ、それにムシキングカードなどなど…

その子にとっての宝物が詰まってた

「ぽっけ叩いたら欲しいもん何でも出てくんねん(`・ω・´)三3フンフン!!」

ソレ聞いて少しイジワル言ってみた

「じゃあミニカー出してみて」

前から欲しがっていて 持っていない事は知っていた

その子はムキになって

「あるもん!!フン!フン!」とポケットをパンパン叩いて宝物を散らかしていった

私はその子の隙を見てあらかじめ買っておいたミニカーを そっとポケットに忍ばせた

「フン!…あっ!! …フフ~ン♪」

得意気に出てきたミニカーを私に見せびらかしてたが、物陰で

(´・ω・`)??

みたいな顔してた

かなり萌えた

ある日Aが死んだ

脳溢血だった 職場で突然倒れそのまま逝ってしまった

友達はいわゆるシングルマザーで家族は60を過ぎた御両親だけ

私達も悲しみにくれる間も殆ど無く、葬儀の準備の手伝い、関係者への連絡などで忙殺されていた

その間、彼はずっとジュウレンジャーの絵本を何度も何度も読んでいた

通夜が始まりしばらく経った頃、彼が居ない事に気付いた

私と手の空いた者が付近を探した

しばらく探していると友達Bから着信

小さな公園で見つけたとの事

急いで駆けつけるとBは公園の入口で、どういうワケかうずくまって泣いていた

フッ…と公園の中を見ると彼が居た

暗い街灯の下、

「…お母さん、お母さん…お母さん…」

と泣きながら必死にポケットを叩いてた

周りには宝物が散らばっていた

恥ずかしながら20代女、その子慰める前に しばらくの間 泣き崩れてしまいました

声を殺して抱きしめる事しか出来なかった

いつの間にか集まってたみんなも泣いていた

あの日は全てが悲しくて仕方がなかった

あれから二年

もうポケットは叩く事は無くなった

代わりに

「ぐらふぃっくあーてぃすとになんねん(`・ω・´)三3ムフー!!」

が口癖になった

最近、ずっと絵を描いてるのはソレだったのか

どうやらBが 「お母さんの夢やったんよ」 と教えたらしい

その話を聞いた瞬間、また泣いてしまった

子供の言葉で、何だかこっちの方が救われた気がしたんです

少し画家と混同しているみたいだけど、頑張れ

君には5人のお母さんがついてるぞ

その日までちゃんとAの分まで全力で見守ってるからね

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父が娘を思う気持ち

この前娘が大学受けたんですよ、初めてね。

で、生まれて初めて娘の合格発表を迎えたわけですわ。正直最初は合格発表見に行った娘の電話待つのなんて簡単だと思ってたのよ。みんな普通に待ってるからさ。

あのね、俺が間違ってた。あれは普通の親が待つもんじゃない。裏口入学者の親だね、合格確実な親だけが安心して待てるものだよ。

最初に受話器上げる時さ、めちゃめちゃびびって受話器そろ~って握ってそのままそろ~っと耳に当てたのよ。

10秒くらいかけてさ。でなんか怖くなって戻そうとしちゃったのさ。

そしたら電話の向こうで娘がさ「ちょっとお父さん聞いて!」とか言ってんの。

同じ過ちは2度繰り返さないのが俺よ。

だから「どうだった?」って聞いたのさ。えぇ、そりゃもう聞きましたとも。全てを忘れて聞いたよ。

高1の時から決めてた第一志望だとか強気な娘は滑り止め受けてないとか…受かってたら彼女は一人暮らしを始めると決まってる事とか色々忘れてね。

だって娘が聞けって言ったからね。

そしたらエライ事になった。

もうすごい合格。すごい「サクラサク」。満開過ぎて涙出てくるくらい。遠山の金さんなら肌色が見えなくなってる。

それで横見たら鏡の中の俺がすごい勢いで涙こらえてんの。ホントごめんなさい。

正直「いい父親なら娘との距離は適度にとるべきだぜ!」なんて見栄張らないで素直にもっともっといろんな話をしときゃよかったと思ったよ。

心の底から娘との会話が減っていた日頃の自分を恨んだね。

でも妻の実家言って義理の両親に「これで一段落ですよ!これからは少しは一人の人生楽しもうかな。」とか言っちゃってんの。

ホント俺ってダメ人間。

娘よ、たまには帰ってきて下さい。

この前娘の結婚式に出たんですよ、初めてね。

で、生まれて初めて娘と腕を組んでバージンロードを歩いたわけですわ。正直最初はバージンロード歩くのなんて簡単だと思ってたのよ。みんな普通に歩いてるからさ。

あのね、俺が間違ってた。あれは父親が歩くとこじゃない。新郎だね、どうせ連れてっちゃうなら最初から新郎が腕組んで歩けばいいんだよ。

最初に歩き始める時さ、めちゃめちゃびびって右足そろ~って踏み出して左足そろ~っと揃えたのよ。

10秒くらいかけてさ。でなんか不安になって娘の方見たのさ。

そしたら娘がさ「お父さんしっかりして!ロボットみたいだよ」とか言うの。

同じ過ちは2度繰り返さないのが俺よ。

だから堂々と歩いたのさ。えぇ、そりゃもう歩きましたとも。全てを忘れて歩いたよ。

娘のドレス姿が眩しすぎるとか今からでも回り右してやりたいとか時折励ますように娘が組んでる手に力を入れてくるとか色々忘れてね。

だって娘がしっかりしろって言ったからね。

そんで新郎のとこに辿り着いたらエライ事になった。

もうすごいキス。すごい突然頬にキス。しかも「私からの最後っ屁じゃ!」って囁きながら。何だよ、それ。俺を泣かせたいのか、笑わせたいのか、泣いてやるよ。

それで横見たら新郎がすごい神妙な顔で俺の事見てんの。ホント幸せにしないとぶっ殺す。

正直「男なら余裕持って娘を送り出すぜ!」なんて見栄張らないで素直に新郎を10発くらいぶん殴りゃよかったと思ったよ。

心の底から笑顔で送り出した事を後悔したね。

でも式場出て娘に「お前の世話も大変だったよ!これからしばらくはお母さんとの思い出に浸るぜ。」とか言っちゃってんの。

「お母さん」でいてくれた時間が短すぎて名前で呼んだ事の方が多かったな、翠。

僕はいつも君と一緒にあの子を育ててきたつもりだ。

もう何年かしたら胸を張って君に会いに行きます。誉めて下さい

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血の繋がってない兄貴

育ててくれた兄貴が正月に結婚したんだ。

兄貴といっても血は繋がって無いけれど。

自分が5歳の時に親父が死んでから母親が女手一人で育ててくれた。

親父と結婚する時に双方の親から反対されて縁を切られているから

親族に頼れる人もいなかったし二人で暮らしてた。

で、自分が13歳の時に母親が再婚したんだ。

相手にはその時23歳になる息子がいて、その息子はもう独立していたから顔を合わせる事なんか滅多に無くて、家族になったという感覚は皆無だったな。

で、再婚して1年たたないうちに両親二人が旅行中に車の事故で死んだんだ。

一人で家に取り残された中学生の自分は警察の話もマトモに

取り合えない位パニックになってたんだけれども、独立して遠くに住んでいた兄が急いで飛んできて葬式の準備やら何やら色々やってくれた。

葬式では母親側の参列者が全くいなかった事を今でも覚えてる。

葬式の後、「お前、ウチに住め。中学もこっちに通え」って言ってくれて。

兄貴には同棲している彼女がいて気まずかったり気恥ずかしかったりしたけれど、その彼女も本当に優しくて、二人には大学まで行かせてもらった。

それで、去年の内定式の後、兄貴と二人で近所の居酒屋で飲んだ時に卒業したら家を出ていくという話をしたら、

「お前がいるせいでアイツ(彼女)と如何わしい事が全然出来なかったんだぞ!もっと早く出て行って欲しかったわ」

と頭を叩かれたと思ったら急にボロボロ泣き出して、

「家族を亡くして一人きりで今まで寂しかったろう?辛い思いもしただろうに、よく頑張ったな」

って頭を撫でてきて。

自分も号泣ですよ。

店員は引いてたけれど。

で、クリスマスに兄貴と彼女と自分で家で食卓を囲んでいる時に、

兄貴「こいつももう卒業だ。今まで本当に苦労かけたな。でも申し訳無いがこれからも苦労に付き合ってくれ、出来ればずっと。結婚しよう」

彼女「ばか・・・良いわよ、当たり前じゃない」

自分「今まで本当にありがとうございました」

その後三人で泣いて泣いて。

そんでもって正月に婚姻届を提出してた。

あまりに嬉しかったから書いてみたかっただけ!

明日母さんの墓前に報告に行く!ひゃっほい!

よし寝る。

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左目を失くした主人

主人は3年前に左目を失明した

義眼を入れているので、見た目は言われなければわからない


その失明した原因は当時1歳7ヶ月だった息子とじゃれあって遊んでいた時

おもちゃの先端が主人の左目に運悪く刺さってしまったからだ


事故当時、主人より息子の方が泣き叫んでいたように感じる

子供心にただ事ではないことを感じていたんだろう傷の具合が良くなくなってから主人は、自分の運転中に

何かあってはならない、と思い車の運転をやめた趣味だったバイクも売った


ただ、いつの日か後ろに乗せて一緒に出かけるために、息子の1歳の誕生日に買った新品の子供用ヘルメットはまだ家にある


4歳を過ぎた息子は今、父親の左目が見えないことも、なぜそうなったかも、まだ知らないはずだ

言ってはならないと主人にきつく言われているし、私自身わざわざ教える必要もないと思っているからだひょっとしたらもう父親の異変に気づいてるのかも知れない


主人は今日も息子と一緒に公園に出かけ、大はしゃぎしながら帰ってきた

いずれ父の左目が見えないことも、その理由も知る時が必ずやってくるだろう


だけど私には泣きじゃくる息子の頭を笑顔で撫でている主人しか想像できない主人が、父親が、彼で本当によかったと感謝の気持ちでいっぱいです

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夫婦仲とたこ焼き

夫婦仲良くできず、子供(当時3歳)と3人で飯食うこともほとんど無かった。

ある日俺がたこ焼きを作って家族3人で食った。子供も嫁もなんか久しぶりの団欒だった。

みんな沢山食った。


その後、子供と風呂に入った。大量に彼は大量に吐いた。

「しんどいのか?」「風呂上がって休もうか」と俺は子供に聞いた。

子供は「うぅん。だってとうさんが作ってくれたのをかあさんと沢山食べて楽しかったんだ」

「みんなが楽しかったから楽しくて沢山食べたん。美味しかったで」


3歳の子供がこんなことを言うのかという驚きと、その頃折り合いの悪かった嫁との関係を恥じた。子供の目にもそれが見えていたんだ。


風呂でゲロまみれの子供にシャワーを浴びせながら泣いた。

あまりに耐え切れず、その後子供を抱きしめて泣きじゃくった。「ごめんな」を繰り返した。


他の人が聞くとたわいの無い話だろけど、俺にとっては一生忘れられない話だ。

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親父のまずい飯

小1の秋に母親が男作って家を出ていき、俺は親父の飯で育てられた。

当時は親父の下手くそな料理が嫌でたまらず、また母親が突然いなくなった寂しさもあいまって、俺は飯のたびに癇癪をおこして大泣きしたり、喚いたり、ひどい時には焦げた卵焼きを親父に投げつけたりなんて事もあった。

翌年、小2の春にあった遠足の弁当もやっぱり親父の手作り。

俺は嫌でたまらず、一口も食べずにちょっとずつわけてもらったおかずと、持っていたお菓子のみで腹を満たした。

弁当の中身は道に捨ててしまった。

家に帰って、空の弁当箱を親父に渡すと、親父は俺が全部食べたんだと思い、涙目になりながら俺の頭をぐりぐりと撫で、「全部食ったか、えらいな!ありがとなあ!」と本当に嬉しそうな声と顔で言った。

俺は本当の事なんて勿論言えなかった。

でも、その後の家庭訪問の時に、担任の先生が俺が遠足で弁当を捨てていた事を親父に言ったわけ。

親父は相当なショックを受けてて、でも先生が帰った後も俺に対して、怒鳴ったりはせずにただ項垂れていた。

さすがに罪悪感を覚えた俺は、気まずさもあってその夜、早々と布団にもぐりこんだ。

でも、なかなか眠れず、やっぱり親父に謝ろうと思い親父の所に戻ろうとした。

流しの所の電気がついていたので、皿でも洗ってんのかなと思って覗いたら、親父が読みすぎたせいか、ボロボロになった料理の本と遠足の時に持ってった弁当箱を見ながら泣いていた。

で、俺はその時ようやく自分がとんでもない事をしたんだって事を自覚した。

でも初めて見る泣いてる親父の姿にびびってしまい、謝ろうにもなかなか踏み出せない。

結局俺はまた布団に戻って、そんで心の中で親父に何回も謝りながら泣いた。

翌朝、弁当の事や今までの事を謝った俺の頭を親父は、またぐりぐりと撫でてくれて、俺はそれ以来親父の作った飯を残す事は無くなった。

親父は去年死んだ。

病院で息を引き取る間際、悲しいのと寂しいのとで、頭が混乱しつつ涙と鼻水流しながら、

「色々ありがとな、飯もありがとな、卵焼きありがとな、ほうれん草のアレとかすげえ美味かった」

とか何とか言った俺に対し、親父はもう声も出せない状態だったものの、微かに笑いつつ頷いてくれた。

弁当のこととか色々、思い出すたび切なくて申し訳なくて泣きたくなる

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野球のチケット

幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。学もなく、技術もなかった母は、個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。それでも当時住んでいた土地は、まだ人情が残っていたので、何とか母子二人で質素に暮らしていけた。

娯楽をする余裕なんてなく、日曜日は母の手作りの弁当を持って、近所の河原とかに遊びに行っていた。給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。

ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。俺は生まれて初めてのプロ野球観戦に興奮し、母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。

野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。母がもらったのは招待券ではなく優待券だった。

チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わなければいけないと言われ、帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、外のベンチで弁当を食べて帰った。

電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。

俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉強した。

新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。結婚もして、母に孫を見せてやることもできた。

そんな母が去年の暮れに亡くなった。

死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように「野球、ごめんね」と言った。俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。

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ワインと父

ボジョレーの季節でしょ。

でも僕は下戸なんで、イマイチわからんけど。

いまいち仲が良くなかった父が入院する前夜、まあいつまで入院するかわからないけど

一応、別れの杯だ、なんて冗談めかして言ったんだ。

こんなの初めてのこと。

ワインが大好きだった父は、とっておいたビンテージ?を

開けて僕と自分につぎわけ、乾杯した。

母も珍しいこともあるもんだと言って、これまた珍しく家の中で写真をとった。

父と初めて対座して酒を酌み交わすってのが

なんとも居心地が微妙なもので。

かといって 下戸なのですぐに酔ってしまい、父はカラカラと、これじゃあ酒でまだお前に負けることはないなと笑っていた。

それで入院。

末期の食道癌で家に帰ることなく闘病4ヶ月であっけなく逝った。

最初で最後の父と息子の晩酌だった。

父の遺品を整理していると、ワインが納屋からまだいくつか出てきた。

僕は銘柄の良し悪しは良く分からないが、ラベルを見てみると、何か文字がメモしてあった。

「××(僕の名)大学卒業用」

「××就職時用」

「××結婚時用」

瓶を抱いて僕はずっと泣いてしまった。

ワインをあける機会を奪った病気を恨んだ。

それ以来下戸ながら、月の命日には赤ワインを開けて、父を思い出すようにしている。

僕はもう結婚まですませ子供もできたが、父の残したボトルは空けてない。

もっと酒を教えてもらえばよかったと、本当に思う。

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交通事故の加害者

交通安全週間のある日、母から二枚のプリントを渡されました。

そのプリントは、交通事故についての注意などが書いてあり、その中には実際にあった話が書いてありました。

それは交通事故で加害者の立場で亡くなった人の家族の話でした。

残されたのはお母さんと子供たち、上の子が小学二年生、下の子が五歳の男の子の兄弟です。

この人たちは、事故の補償などで家もなくなり、土地もなくなり、住む家もやっとのことで四畳半のせまい所に住めるようになりました。

お母さんは朝6時30分から夜の11時まで働く毎日です。

そんな日が続くある日、三人でお父さんのいる天国に行くことを考えてしまっていました。

(以下、プリントから)

朝、出かけにお兄ちゃんに、置き手紙ををした。

「お兄ちゃん、お鍋にお豆がひたしてあります。それを煮て、今晩のおかずにしなさい。お豆がやわらかくなったら、おしょう油を少し入れなさい。」

その日も一日働き、私はほんとうに心身ともにつかれ切ってしまった。

皆で、お父さんのところに行こう。

私はこっそりと睡眠薬を買ってきた。

二人の息子は、そまつなフトンで、丸くころがって眠っていた。

かべの子供たちの絵にちょっと目をやりながら、まくら元に近づいた。

そこにはお兄ちゃんからの手紙があった。

「お母さん、ぼくは、お母さんのてがみにあったように、お豆をにました。お豆がやわらかくなったとき、おしょう油を入れました。でも、けんちゃんにそれをだしたら、「お兄ちゃん、お豆、しょっぱくて食べれないよ。」と言って、つめたいごはんに、おみずをかけて、それをたべただけでねちゃった。お母さん、ほんとうにごめんなさい。でもお母さん、ぼくをしんじてください。ぼくのにたお豆を一つぶたべてみてください。あしたのあさ、ぼくにもういちど、お豆のにかたをおしえてください。でかけるまえに、ぼくをおこしてください。ぼく、さきにねます。あした、かならずおこしてね。お母さん、おやすみなさい。」

目からどっと、涙があふれた。

お兄ちゃんは、あんなに小さいのに、こんなに一生懸命、生きていてくれたんだ。

私は睡眠薬を捨て、子供たちのまくら元にすわって、お兄ちゃんの煮てくれた、しょっぱい豆を涙とともに一つぶ一つぶ、大事に食べました。

このお話を読み終えたとき、私と母の目から、涙が出てきました。

そうして、何度も、何度も、くり返し読みました。

私は、今まで、交通事故は被害者だけが悲しい思いをしていると思っていましたが、このお話を読んで、加害者も、私たち以上に悲しくせつない思いをしていることがわかりました。

毎日、毎日、日本のどこかで、こういう子供たちが生まれているのかと思うと、とてもたまりません。

どうか、お願いです。

車を運転するみなさん、交通事故など、絶対におこさないでください・・・。

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血の繋がらない娘

土曜日、一人娘の結婚式だったんさ。

当時俺25歳、嫁33歳、娘13歳。

まぁ、要するに嫁の連れ子だったんだけど。

娘も大きかったから、多少ギクシャクしながらも数年過ぎた。

子供はあえてつくらなかった。

収入の問題もあったけど、娘の気持ちを考えたら、子供は娘1人いればいいって事になった。

突然嫁が交通事故で逝った。

娘17の時。

突然2人きりになった&現実味がなくて二人して呆然。

これからどうしようと思った。

生活の面では収入も安定してたし、娘も家事の一通りは出来た。

何の問題もないはずだったけど、嫁側親戚が騒ぎ立てた。

そらそーか。

血の繋がらない29の男と17の女。

ある意味カップルでもおかしくない歳の差だもんな。

「あなたはまだ若いんだから」とか、「再婚するにも子供がいちゃ・・・しかも自分の子供じゃないのに・・・」

とか、散々言われた。

でも、俺は間違いなく娘は俺の娘だと思ってた。

何よりも、嫁のたった一人の忘れ形見だ。

俺が育てて行く以外の選択肢は全く頭になかった。

そんな親戚の騒ぎは右から左に流した。

娘も「今更こんな足の臭いオッサンとどーにかなるかw」と笑ってた。

当たり前の様に言う娘の気持ちが嬉しかった。

やっぱり影であらぬ噂を立てられた事もあった。

三者懇談や進路面談で学校に行くと、必ず教師に変な顔をされた。

部活で遅くなった娘を迎えに行って「お宅の生徒が円光をしている」と

近隣住民から学校に通報された事もある。

それでも2人で暮らして来た。

再婚なんか考えた事もなかった。

それくらい娘には穏やかな、幸せな時間を与えてもらってた。

娘に話があると言われた。

「結婚したい人がいる。」と。

娘は25になってた。

俺が嫁と結婚したのと同じ歳。

正直複雑な心境だった。

次の日曜に相手の男に会った。

娘を見る目が優しかった。

こいつなら大丈夫だと思った。

安心した。

諦めもついた。(笑

あっという間に披露宴だ。

「お母さんが亡くなった時、本当にどうしようかと思った。お父さんはまだ若かったから、私がいたら絶対に足枷になると思ってた。だから、これからも一緒に暮らすのが当たり前みたいな態度でいてくれたのが本当に本当に嬉しかった。

私のお父さんは、お父さんだけです。

今まで本当にありがとう。

お母さんが亡くなってからも、今までずっと幸せな子のままでいられたのは

お父さんがお父さんだったからです。」

娘がしゃくりあげながら読む花嫁からの手紙を聞いてたら

バージンロード一緒に歩いてた時点で必死で堪えてた涙がどっと溢れた。

娘が出て行く前に、箪笥の引き出し一つ一つに

「ぱんつ」「しゃつ」「とれーなー」「くつした」とか書いた紙をはっつけていった。

そこまで俺自分で何も出来ない父親かよwww

しかも平仮名www

近いうち娘に良く似た孫とか出来ちゃうんだろうな。

そんで「俺まだじーちゃんとかいう歳じゃねーし」とか言っちゃうんだろうな。

俺、間違ってなかった。

大変だったけど、父親って立場、選んでよかった。

嫁と結婚して良かった。

娘の父親になって良かった。

1人になって部屋は何か広くなっちゃったけど。

微妙な抜け殻感は否めないけど。

今度はいつか生まれて来る孫の為に頑張ってみようかな。

出典:

	

お父さんの血

私の両親は自営で小さな喫茶店をしています。


私はそこの一人娘で、父は中卒で学歴がありませんがとても真面目でした。

バブルが弾けて景気が悪化してきた頃、父は仕事の暇な時間にお店を母に任し、バイトに出るようになりました。

景気はどんどん悪くなり、お店はモーニングやランチの時間以外はガラガラ、バイトも掛け持ちするようになりました。


一つ増え二つ増え、1番厳しい時は朝モーニングの時間お店に出て、それが終わったら弁当配達、そして再び店でランチをこなし、そのあと郵便配達に。


それがすんだら、店の閉店処理。

月曜から金曜までそうやって過ごし、土曜日は一日酒屋の配達のバイトに行き、日曜もアルペンで荷物運びのバイト。


足も肩もいつもパンパンで、母が夜よくマッサージをしていたのを覚えています。

50代で細身の父が休む間もなく、私の学費と住宅ローンのために働いてくれました。

結婚して親になって、本当に思う。

お父さん凄すぎるよ。


おばあさんの葬式の時、酔っ払った父が「お前の為なら何でもできる。たとえ火の中でも飛び込めるぞ。」と言った言葉は本気だったと思う。


家族のためにあんなに一生懸命になれる人を私は他に知りません。

私にも働き者のお父さんの血が流れてるんだから、どんなことでも乗り越えいこうと思います。

出典:

これは、知恵袋で回答された「親の愛情を感じたエピソード」だそうです。
続きのページ。

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Sharetube