家族の感動する話 泣ける話 実話④

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後妻のお母さん

私がまだ小学2年の頃、継母が父の後妻として一緒に住むことになった。

特に苛められたとかそういうことはなかったんだけど、なんだか馴染めなくて、いつまで経っても「お母さん」と呼べないでいた。

そんなぎくしゃくした関係だったけど、継母が私のために一生懸命だったことはよくわかってた。

小学校4年になった夏休み、私は継母の提案で二人で川に遊びに行くことになった。

あんまり気が進まなかったけど、断る理由もなく言われるままにしぶしぶついていった。

現地に着くやいなや、私は継母のことを放ったらかしで川に浸かって遊んだ。

しばらく水と戯れてた時、急に深みにはまって溺れて息が出来なくなった。

すごく苦しかった。

でもそのうち喉の奥が

「クッ、クッ・・・。」

と鳴ってだんだん苦しくなくなってきて、意識が飛んだ。

気が付くと、私は病院のベッドで寝ていた。

「一時心臓が止まって危なかったんだよ。」

と涙ぐんだ父が言ってた。

ベッドの傍に、継母はいなかった。

私は父に

「あの人は?」

と訊いた。

父は一呼吸置いてゆっくりとした口調で教えてくれた。

私が溺れた時に継母が服のまま飛び込んで私を助けてくれ、そのまま力尽きて下流まで流された。

その後、救助されたものの、今も意識が戻らないのだ、と。

私は次の日に継母のいる病室に行った。

継母は機械に囲まれて、いっぱい管をつけられていた。

彼女は、そのまま我が家に戻ってくることなく・・・。

葬儀が終わって母の遺品を整理してたら、鍵のついた日記が出てきた。

私は父と一緒になんとか鍵を探し当てて、日記を読んだ。

そこには私との関係に悩む継母の苦悩など、私のことばかり書いてあった。

ずっと読み進めていくと最後のほうの日記に

「ちょっとはにかみ屋さんだけどとてもいい子。あの子なら、命かけてでも守れる自信がある。○○ちゃんを私に託してくれた△△(実母の名前)さん、本当にありがとうございます。」

継母は、あの日記を書いた数日後に命と引き換えに私を守ってくれた。

いつだってとても優しい目で私を見てくれていた。

いつも私の目線と同じ高さになるように中腰になって話し掛けてくれた。

そんな気持ちはちゃんと伝わってきてたのに私はあの人に何一つしなかった。

愛情をもらいっぱなしでそれに答えなかった。

私は愛情どころかあの人の命まで奪ってしまった。

日記を読んではじめて、私は

「お母さん!」

と大声で叫びながら錯乱状態になり、声が出なくなるまで

「ごめんね、ごめんね。」

と言って泣いた。

ぐしゃぐしゃになって泣いても、後悔ばかりで気持ちは晴れなかった。

年月が過ぎても、私は未だに「母」に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

数十年経った今でも夏になるたびに思い出す。

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母のワガママ

「沖縄に行かない?」

いきなり母が電話で聞いてきた。

当時、大学三年生で就活で大変な頃だった。「忙しいから駄目」と言ったのだが母はなかなか諦めない。

「どうしても駄目?」

「今大事な時期だから。就職決まったらね」

「そう・・・」

母は残念そうに電話を切った。急になんだろうと思ったが気にしないでおいた。

それから半年後に母が死んだ。癌だった。医者からは余命半年と言われてたらしい。

医者や親戚には息子が今大事な時期で、心配するから連絡しないでくれと念を押していたらしい。

父母俺と三人家族で中学の頃、父が交通事故で死に、パートをして大学まで行かせてくれた母。

沖縄に行きたいというのは今まで俺のためだけに生きてきた母の最初で最後のワガママだった。

叔母から母が病院で最後まで持っていた小学生の頃の自分の絵日記を渡された。

パラパラとめくると写真が挟んであるページがあった。

絵日記には


「今日は沖縄に遊びにきた。海がきれいで雲がきれいですごく楽しい。ずっと遊んでいたら旅館に帰ってから全身がやけてむちゃくちゃ痛かった。」

・・・というような事が書いてあった。

すっかり忘れていた記憶を思い出す事が出来た。

自分は大きくなったらお金を貯めて父母を沖縄に連れていってあげる。というようなことをこの旅行の後、言ったと思う。

母はそれをずっと覚えていたのだ。そして挟んである写真には自分を真ん中に砂浜での三人が楽しそうに映っていた。

自分は母が電話をしてきた時、どうして母の唯一のワガママを聞いてやれなかったのか。

もう恩返しする事が出来ない・・・

涙がぶわっと溢れてきて止められなかった

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時間が止まった部屋

俺の会社の友人。

4年ほど前に交通事故で奥さんと当時4歳の長男を亡くした。

飲酒運転の車が歩行中の二人をひき殺すというショッキングな内容で、ワイドショーとかでも取り上げられたほど凄惨な事故だった。

後日談を聞くと加害者の家族もかなりつらい日々を送ったようで、今となっては同情はするが、当時は友人の悲しみよりも加害者への怒りが大半だったのを憶えてる。

まだ娘(当時1歳)がいたことがせめてもの救いだったけど、葬儀に出席した会社の女の子なんか、その娘の顔を見るなり泣き崩れてたよ。

その後仕事も辞めようと思ったらしいが、娘のためにと仕事には復帰。しかしその後の育児、仕事などは大変だったと思う。

俺もそうだが会社やご両親、ご近所さんも含めて何かと気に掛けて助けられることは助けてきた。

で去年、そいつが事故後初めて家に招待してくれて、数人で一緒に鍋をつついた。

そしてある和室を見せてくれたんだけど、その部屋だけはまったく片付けてなく、洗濯物とか黄色くなってたたんであるまま。

透明の衣類ケース?みたいのやおもちゃも無造作に置いてあって、奥さんと長男が最後に使っていた部屋ということで当時のまま残してるとの事。

で、気丈なそいつも、今でもその部屋を見るととても直視できない状況で、俺らに説明しながら涙があふれてきてる。

そしたら娘が来て、笑いながら

「お父さんがんばろうね。裕太くんが見てるもんね。」

って言うんだよ。

裕太ってのは長男の名前なんだけど、当時のことなんか娘は知るよしもないわけで、つらい事だけど娘にはちゃんと説明してるんだよね。

二人でお母さんやお兄ちゃんのことを忘れないで、そうやって声を掛け合ってるわけよ。

励まそうと思ってやってきた俺らだけど、逆に力をもらったよ。

酒が入ってたのもあるけど、どんどん涙が出てきて・・・泣いた。

みんなもがんばれよ

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自分のおうち

もう十数年前になるけど、嫁が急逝してドロップアウトした。

赴任先の基幹病院のある地方都市。

俺の嫁は誰も知り合いもいない土地で、最後まで子供の心配しながら最後まで俺に謝り続けて一人で逝った。3歳の娘一人残して。

葬式の時、娘は

「ママいつ来るの?ママいつ起きるの?いつ起きるの?」

ってずっと泣いていた。

娘は嫁の実家で面倒みてもらいながら仕事に戻ったよ。忙しい病院だった事に加え、いつも学会準備に追われていたので帰宅は毎日遅かった。

それでも休みの日には嫁の実家に泊まりにいって、少しでも娘と一緒にすごすようにした。

母親がいなくなった事も受け入れているようで、俺がいくといつも笑って走って来て「パパー!!」って抱きついてきた。

嫁の実家に行ってからは泣くこともなく娘は楽しく暮らしているように見えたよ。

嫁の実家で娘と一緒に寝ていた時、深夜にすすり泣くような声で目が覚めた。

俺が起きた事に気が付くと、一生懸命に寝た振りをしようとしていたけど、すすり泣く声が漏れる。

娘を抱き上げて、どうして泣くのを我慢するんだ?って聞いても黙っていた。

何度も何度も聞いたら、

「じいちゃんとばあちゃんに、パパは忙しくて疲れているのだから絶対に泣いたりして困らせちゃダメ!」

って言われてそれを一生懸命まもっていたらしい。

嫁の実家の生活でも気をつかって、いい子でいなきゃいけないって頑張って、3歳の子が泣きもせず、わがままも言わずに祖父母の言う事もよく聞いて、毎晩ふとんの中で祖父母を起こさないように一人で声を殺して泣いていたらしい。

娘は嫁の実家に来て以来はじめて大声をあげて泣いた。

「ママんとこ行きたいー おうちに帰りたいー おうち帰るー」

ってずっと叫んでいた。

娘にとっては大好きな母親と暮らしたあの家だけが「自分のおうち」だった。

今まで言えなかった思いが噴き出して狂ったように朝まで泣き叫んでいた。

驚いて起きてきた祖父母も悟ったらしく一緒に泣いていた。

娘に「もう頑張らなくていいんだよ。おうちに帰ろうね」と約束して抱きしめて一緒に泣いた。

医局を辞める決意をしたよ。

娘を連れ帰ると決めたので、少しでも娘と一緒にいる為に週休3日の自由診療のクリニックへの入職も決めた。

休みが多く早く帰宅できて、当直やオンコールのない職場ならなんでもよかった。

教授室のドアをたたき事情を説明した。

教授はドロップアウトする俺を、汚物でもみるような目でみて

「いいから早くここから出て行きなさい」と言ったのを最後に目もあわせてくれなかった。

上の先生達にも、数時間なじられた。

赴任先の病院を急に辞める事で迷惑かけるので、血の気の多い先輩には殴られた。

退局後、祖父母に心からのお礼を言って娘を連れ帰ってきた。

小さな仏壇も用意して、

その前が娘のお気に入りの場所になった。

昼間は保育園にあずけたり、嫁の実家にあずけたりして新しい仕事を始めた。

早いと4時、遅くとも6時には帰る事ができるクリニックだったので、娘とすごす時間は格段に増えた。

包茎手術から植毛、美容外科までなんでもやった。

大学の同期の連中からは白い目で見られ続けた。

その手のクリニックが今よりはるかにあやしいイメージの時代だったので。

こんな医者として最下層までドロップアウトした俺を見て育ったのに、娘は医学部に行きたいって言い出した。

正直、今の情勢で医者になるのは疑問だったけど、こんな俺を見ながらにして同じ仕事を目指してくれたのが本当にうれしかった。

医学部に合格して、娘と二人で母親の墓前に報告にいった。

こんなにいい子に育ってくれたと胸をはって報告できた。

娘が社会にでて、幸せにしてくれる旦那をみつけたら俺はいつ死んでもいいな。ちょっと疲れたよ^^;。

医局員が見たら誰の事か一目瞭然だな。その節は本当に御迷惑おかけしました。

娘と二人でなんとかやっています。

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息子の運動会

今度の土曜日に息子が生まれて初めての運動会wwwwwwwwwwww

昨日保育園からプログラムもろたwwwwww

先生曰く息子のやつ走るの速いらしいwwwwwwwwwww

しかもリレーの選手とかwwwwwwwwwwww

みwなwぎwっwてwきwたwwwwww

もう実家に電話しまくったwww

俺のオトンオカン気合い入りまくりwwwちょっと引くwww

もち俺の弟と妹も応援にくるwwwwww

たかが4歳のハナタレ小僧に応援に親族8人集合とかwwwwサーセンwwww

4年前。

息子は、生まれたときに肺に水が入っちゃって、すぐ大きい病院に連れて行かないと危ない、といわれた。

俺が生まれて初めて乗った救急車が、生まれたての息子の同伴。

正直わけがわからなかった。

ついさっきまで嫁と「やったね!元気な男の子だね!」って喜んでたのに。

救急車で片道2時間の距離を運ばれ、それから1カ月保育器に入っていた。

その1カ月は俺は自宅で、嫁は実家で、息子は病院で3人別々にくらしてたっけな。

寂しかったな。

そんな息子がついに運動会デビュー。

よくここまで大きくなった。

よくここまで元気になった。

順位なんて何でもいい。ビリけっつでもいい。

土曜日は父ちゃん一番大きな声で応援するからな。

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偽物のブランド時計

大学が決まり一人暮らしの前日の日

親父が時計をくれた。

金ピカの趣味の悪そうな時計だった。

「金に困ったら質に入れろ、多少金にはなるだろうから」

そういってた。

二年生のある日、ギャンブルにハマリ家賃が払えなくなった。途方にくれていた時。

ハッと気がつき、親父の時計を質にもって行った。

紛れもない偽物であることが判明した。

すぐに親父電話した。

俺「おい!偽物子供につかませんなよ!」

親父「なっあてになんねーだろ人のゆうことなんざ。困った時にこそ裏切られるんだよ。最後の頼みの綱になー。がはははは!これが俺の教育だよ。」

親父「でいくら必要なんだ?金に困ったんだろ?」

俺「・・・・あきれるわ。十二万貸してください・・・」

親父「明日振り込むから、何があったかは聞かない。金がない理由は親にいえない事が多いわな!」

親父「がはははは!女にでもはまったか?このバカ息子が!!ははは!!」

正直心底むかついたが、親父の声は俺を安心させてくれた。

今思うと、小さい会社だが経営者らしい教育だったのかなと思う。

そんな親父も去年の夏、ガンで死んだ。往年の面影も消え、ガリガリになった親父が

また時計をくれた。まだ箱に入った買ったばかりの時計だった。必死で笑顔を作りながらいった。

親父「金に・・困ったら質にでも・・・入れろや・・!」

オメガのシーマスターだった。くしくもその日は俺の誕生日だった。

俺「親父の時計はあてになんねーから質には入れないよ。」

二人で笑った三日後、親父は死んだ・・・・

親父が死んだ今も、金ピカの時計はメッキもはげたがまだ時を刻んでいる。

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優しいおばあちゃん

オレは小さい頃、家の事情でばあちゃんに預けられていた。

当初、見知らぬ土地に来て間もなく当然友達もいない。

いつしかオレはノートに、自分が考えたすごろくを書くのに夢中になっていた。

それをばあちゃんに見せては

「ここでモンスターが出るんだよ」

「ここに止まったら三回休み~」

ばあちゃんはニコニコしながら、「ほうそうかい、そいつはすごいねぇ」と相づちを打ってくれる。

それが何故かすごく嬉しくて、何冊も何冊も書いていた。

やがてオレにも友達が出き、そんなこともせず友達と遊びまくってたころ

家の事情も解消され、自分の家に戻った。ばあちゃんは別れる時もニコニコしていて、

「おとうさん、おかあさんと一緒に暮らせるようになってよかったねぇ」


と喜んでくれた。

先日、そのばあちゃんが死んだ。89歳の大往生だった。

遺品を整理していた母から、「あんたに」と一冊のノートをもらった。

開いてみると、そこにはばあちゃんが作ったすごろくが書かれてあった。

モンスターの絵らしき物が書かれていたり、何故かぬらりひょんとか妖怪も混じっていたり。

「ばあちゃん、よく作ったな」とちょっと苦笑していた。

最後のあがりのページを見た。「あがり」と達筆な字で書かれていた、その下に

「義弘(オレ)くんに友達がいっぱいできますように」

人前で、親の前で号泣したのはあれが初めてでした。

ばあちゃん、死に目に会えなくてごめんよ。そしてありがとう。

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タンスの封筒

糖尿病を患ってて、目が見えなかったばあちゃん。

一番家が近くて、よく遊びに来る私を随分可愛がってくれた。

思えば、小さい頃の記憶は殆どばあちゃんと一緒に居た気がする(母が仕事で家に居なかった為)。

一緒に買い物行ったり、散歩したり。

だけど、ばぁちゃんが弱っているのは子供だった私でもわかっていた。

高校に入ると、友達と遊ぶほうが多くなっていて、ばあちゃんの家に行くことが少なくなっていた。

たまに行くと、「さぁちゃんかい?」と弱々しい声で反応してた。

もう、声だけじゃ私だってわからなくなっていた。

「そうだよ、さぁちゃんだよ。ばーちゃん、散歩行こうかー?」

手を取って、散歩に行ったけれど、もう昔歩いた場所まで、ばぁちゃんは歩けなくなっていた。

それから、あまりばあちゃんの家に行くことは無くなってた。

暫くして、母さんから「ばぁちゃんがボケちゃったよ」と聞いた。

誰が誰だか、わからないんだって。

私のことも、わからなくなってるらしい。

なんとなく、覚悟は出来ていた。けれど、悲しかった。

それから。

半年くらい過ぎた頃。

ばぁちゃんが死んだっていう報せが届いた。

泣くこともなく、通夜、葬式が終わった。

葬式が済んだあと、私は叔父に呼び出された。

叔父はばぁちゃん達と最後まで暮らしていた人だ。

「箪笥の中にな、『さぁちゃんの』っていう封筒が入ってたんだよ。」

そう言って、私に封筒を手渡した。

ばぁちゃんの字で、さぁちゃんのって書いてあった。

中身は、通帳だった。私名義の。

二十万ほどの預金が入っていた。

働いてないばぁちゃんが、こつこつ貯めたお金。

そういえば、昔、ばあちゃんが話していた。

「さぁちゃんが結婚するときのために、ばーちゃん頑張ってるからね。」

「だから、ばぁちゃんにも孫抱かせてね。」

その夜、初めて泣いた。

ばぁちゃん。

あれから5年も経っちゃったけど、さぁちゃん、来年結婚するよ。

孫抱かせてやれなくてごめんね。

でも、喜んでくれるよね。

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ストーリーの進まないドラクエ3

私には、兄がいました。

3つ年上の兄は、妹想いの優しい兄でした。

ドラクエ3を兄と一緒にやってました。(見てました。)

勇者が兄で、僧侶が私。遊び人はペットの猫の名前にしました。

バランスの悪い3人パーティ。兄はとっても強かった。

苦労しながらコツコツすすめた、ドラクエ3。おもしろかった。

たしか、砂漠でピラミッドがあった場所だったと思います。

とても、強かったので、大苦戦してました。

ある日、兄が友人と野球にいくときに、私にいいました。

「レベ上げだけやってていいよ。でも先には進めるなよ。」

私は、いっつもみてるだけで、よくわからなかったけど、なんだか、とてもうれしかったのを覚えてます。

そして、その言葉が、兄の最後の言葉になりました。

葬式の日、父は、兄の大事にしてたものを

棺おけにいれようとしたのを覚えてます。

お気に入りの服。グローブ。セイントクロス。そして、ドラクエ3。

でも、私は、ドラクエ3をいれないでって、もらいました。

だって、兄から、レベ上げを頼まれてたから。

私は、くる日もくる日も時間を見つけては、砂漠でレベ上げをしてました。

ドラクエ3の中には、兄が生きてたからです。

そして、なんとなく、強くなったら、ひょっこり兄が戻ってくると思ってたかもしれません。

兄は、とっても強くなりました。

とっても強い魔法で、全部倒してしまうのです。

それから、しばらくして、ドラクエ3の冒険の書が消えてしまいました。

その時、初めて私は、泣きました。

ずっとずっと、母の近くで泣きました。

お兄ちゃんが死んじゃった。

やっと、実感できました。

今では、前へ進むきっかけをくれた、冒険の書が消えたことを、感謝しています。

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頑固者なお父さん

私の父は無口で頑固で本当にこわくて、親戚中が一目置いている人でした。

家に行ってもいつもお酒を飲んでいて、その横で母がせわしなく動いていた記憶があります。

私が結婚する事になり、ドキドキしながら主人を連れて行くと、ずっと黙ったままやっと口を開くと

「ビールは何を飲むんや?」

でした。

その日はなんとか無事に終わり、式の当日終始酒をつぎにまわってた。

その後、子供が生まれ少し育児ノイローゼ気味になった私を見て、なぜか毎日孫の世話をしに来るようになった。

当然子供の面倒など見たことないので、する事がめちゃくちゃでイライラしていた私は嫌味ばかり言ってしまった。

2ヵ月後、あまり調子がよくないと言っていた矢先他界した。

なんでもっと優しくしてあげなかったんだろう?

紙オムツの仕方を聞かれて、

「それぐらいわかるでしょ。」

ってなんで冷たく言っちゃったんだろう?

あの日、自分でどうにかしようと思って変な形になったオムツが残されてた・・・。

その後、毎日つけていた日記が見つかり、式の当日

「あのバカ娘がとうとう嫁に行った。最後の挨拶では涙が出た。幸せになれ。」

って書いてた。

おまけに家には主人があの日答えた「アサヒビール」が押入れいっぱい詰められていた。

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妹の妖精役

俺には妹がいるんだが、これが何と10も年が離れてる。

しかも俺が13、妹が3歳の時に母親が死んじまったんで、俺が母親代わり(父親は生きてるからさw)みたいなもんだった。

父親は仕事で忙しかったから、妹の世話はほぼ俺の担当。

飯食わせたり風呂入れたり、つたないながらも自分なりに一生懸命やってたと思う。

妹が5歳の時のこと。

保育園に妹を迎えに行ったら、なぜか大泣きしてやがる。

その日、お遊戯会の役を決めたんだが、妹はやりたかった役になれなかったらしい。

まあそれは仕方ねーだろ、あきらめろと最初は諭してたんだが

よく話を聞いてみると、どうもおかしい。

劇にはいろんな動物や妖精や探検家?が登場するらしく、女の子の一番人気は妖精。妹も当然妖精がやりたかったようだ。

希望者多数だったので、決定は恨みっこなしのジャンケンにゆだねられるも、妹は見事勝ち抜いて妖精5人のうちの一人に選ばれた。

ところが、先生が「○○ちゃん(妹)は動物の方がいいんじゃない」と妹を妖精役から外したという。

そんな馬鹿なと思いながら、俺はすぐに保育園に電話して確かめた。

そこで分かったのは、劇の衣装は保護者が作らなければいけないこと。

そして、妖精のひらひらの衣装はとても難しく、俺の家では無理だと判断され、お面などを作れば済む動物役に妹が割り振られたことだった。

先生も悪気があった訳じゃないんだろうが、俺は妹に母親がいない引け目をなるべく感じさせたくなくてそれまで頑張ってきただけに、かなりショックで、妹にも申し訳なかった。

それで、裁縫なんて家庭科実習とボタン付けくらいしか経験がなかったくせに

「絶対にちゃんと作るから妹を妖精役にしてやってくれ」

って頼み込んだ。

結局、先生が根負けして妖精は6人になった。

それから、俺は放課後になると学校の家庭科室に通い詰めた。

家にミシンなんてなかったし、保育園からもらってきた材料と型紙だけじゃ全然意味不明だったから、家庭科の教師に教わりに行ったんだ。

受験生だったし、教師も同情して「作ってあげる」って言ってくれたけど、俺は意地でも自分の手で縫い上げてやりたかった。

ほかの子と同じように、家族が愛情込めて作った衣装で舞台に立たせてやりたかったんだ。

2週間ほとんど掛かりっきりになって、ようやく衣装は完成した。

スパンコールをたくさん縫いつけた、ふんわり広がるスカートに、レースを使った羽根、花の形の襟元。

縫い目なんかはよく見るとガタガタだったんだけど、普通に着てる分には、他の子と全然変わらなかったと思う。

初めて妹に見せた時の歓声は今でも忘れられない。

着せてやった時の最高の笑顔も、本番の舞台でのまじめくさった顔も、

その夜、衣装を着たまま寝ちゃった寝顔もずっと覚えてる。

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素晴らしいお母さん

俺が6歳の頃に親父が再婚して義母がやってきた。

ある日、親父が「今日からこの人がお前のお母さんだ」といって連れてきた。新しい母親は俺を本当の子供のように可愛がってくれた。

家族とか血縁とかまだ分からない頃の俺にとって義母が本当の母親だった。

それから、何年か経ち俺が中学の頃、今度は親父が事故で帰らぬ人となった。

親父の葬式の席で親族が集まりこれからの俺たち家族の事で話し合うことになった。

親父の両親(俺から見て祖父母)は既に無く親戚づきあいも疎遠で葬式には親父の親族は誰も来なかった。

後から知った事だが親父はガキの頃に両親を亡くし親戚中をたらい回しにされ。おまけにひどい扱われようだったらしい。そんな事もあり自分が大人になって働き出してからは一切、縁を切っていたらしい。

まあ、そんな状況もあり今後の俺たち親子の事を生母、義母側双方で話をする事になった。

元々義母の両親は義母と親父との結婚に反対していた。まぁ親としては娘の結婚相手にコブ付きだとやっかむの当然かもしれない。

また生みの母の両親は、まだ若い義母の事を考えて俺を引きと取ると言い出した。

双方の親の利害が一致して俺は生母の家に引き取られると決まりかけた時。それまで双方の話を聞くだけだった義母が口を開いた。

「この子は私の子です。例え血が繋がって無くても私の子供です!」「お願いですから、この子は私に任せてください。」物腰の柔らかい義母が珍しく語気を荒げていた。

出会ってからはじめて見たそんな義母の姿に俺は驚きを覚えた。最初は難癖を付けていた双方の両親も最後には義母に折れる形となり。

俺は義母と二人で生活することになった。稼ぎ頭の親父が死んで義母は必死で働いた。受験で大変な時期の俺を育てる為に必死で働いてくれた。

高校3年の時、俺は家の事情もあり進路は就職すると決めていた。

しかし、その話を聞いた義母は「大学に行きなさい。」と言った。「お金は母さんが何とかするからあんたは大学に行きなさい。」

なんで、実の息子でも無いのにそんなに俺に一生懸命なんだろう?俺は半ば呆れながらそんな義母の言葉が嬉しくて思わず泣いてしまった。

そんな義母の言葉に背を押され少し遅れて受験勉強。家の事情を考えると浪人は出来ないし、そんな事で義母を落胆させたくなかった。

元々、勉強は出来るほうじゃないので入れた大学も大した大学じゃなかったが、それでも合格と聞いた義母の涙混じりの笑顔は今でも忘れられない。

大学に入ったが俺は生活費分ぐらい自分で何とかしようと決めていた。高校の時もそうだがアルバイト三昧の日々で良く留年しなかったものだと今でも不思議に思う。

大学も何とか無事に四年で卒業が出来、就職も決まり俺は晴れて社会人になった。最初の初任給で義母にプレゼントを買った。

さすがに俺のプレゼント(たいしたもんじゃないけど)には参ったのか、ありがとう、ありがとうと言いながら泣く姿に俺も思わず貰い泣き。

ほんと、感謝しなきゃならないのは俺の方です。

それからは二人でつつがなく暮らしていたが、俺も30の手前で結婚したい相手が出来た。最初は俺の結婚を義母がどう思うかと思っていたが大喜びで歓迎してくれた。「あんたもこれで一人前だね」と言われて照れくさいやら恥ずかしいやら。

最初は一緒に暮らそうと言ったが「お嫁さんに悪いから母さんはここで暮らすよ」と断られる。

いやいや、かみさんも賛成してくれてるんだけど...。

何度か話はするものの結局、離れて暮らすことに。でも、結婚して一年経って義母が倒れた。幸い大事に至らなかったが、今後、同じ事が有ってもいけないと思い。断っている所を半ば強引に同居することに。

その間、孫の顔も見せることが出来たしかみさんとも上手くやってるしで本当に幸せそうだった。

でも先月、その義母が他界。くも膜下出血であっけなく死んでしまった。

通夜の席でかみさんが義母の話をしてくれた。正直、この年になるまで義母のそれまでの人生を聞いたことが無かった。かみさんは義母から色々、聞いていたらしい。

義母は親父と結婚する前に子供が生めない体だったらしい。

最初はそんな事もあり結婚を断っていたそうだが、親父はそんな事情を承知で「俺たちには子供がいるじゃないか、俺の息子の母親になってくれないか?」の言葉に義母は涙ながらに承諾。

親父も人前も憚らず泣いていたそうで。義母曰く「あんなみっともないプロポーズは無かったけど嬉しかった」との事。その話を聞いて俺はやっと理解できた。そして言葉にならなずに涙だけが溢れて仕方が無かった。

今までかなり泣いたけど息が苦しくなるほど泣いたのは初めてだった。

ぶっきらぼうな親父の優しさもそうだが、親父のプロポーズを最後まで純粋に受け入れた義母に、言葉に出来ない思いがこみ上げてきた。かみさんもそれ聞いた時は涙が止まらなかったそうで俺に話しながらまた号泣。

子供たちも泣いてる俺たちを見てつられて泣き出す始末。義母いや、母さん、血は繋がってないけど貴方は俺にとって本当の母さんです。生みの母には悪いけど、俺にとって貴方以上の母はいません。

親父、そっちで会ったら誉めてやってください。貴方が選んだ人はとても素晴らしい人でした。最後に母さん、もし生まれ変われるならまた貴方の子供に生まれたい。今度は貴方の本当の子供に生まれ変わりたいです。

突然に逝ってしまって改まって感謝することが出来なかったけど、本当にありがとう。

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Sharetube