敗戦後71年目に明るみになる国策の悲劇と恐怖・日本から満州国文民移民、満蒙開拓により8万人の死・自決した村人たち
8.14 NHKスペシャル
昨日のNHKスペシャル。国策で敗戦まで行われた満蒙開拓(侵略した傀儡国・満州維持のため)、その背景・事実が明らかなる。NHKより・・・「昭和20年8月、旧満州(中国東北部)。ソ連の侵攻で軍が撤退、取り残された人々は攻撃にさらされ、逃げ惑い、およそ8万人以上が犠牲となり、中国残留孤児など数々の悲劇を生んだ。それが、植民地の治安安定や軍への食糧供給を目的に27万の人々が満州に送り込まれた『満蒙開拓』、移民事業の結末だった。これまで「関係資料は破棄され、人々が渡った経緯は不明」とされていて、その詳細は知られてこなかった。だが、村人を送り出した、ある村長の記録や破棄されたはずの極秘文書が発見され、農村を中心に村人がどのように送りだされたのか実態が明らかになってきた。今回、日記や関係資料の全容取材が許された。」
観た方は多かっただろうか?私も危うく見逃すところだった。「村人が満州へ・・・」その後の文言、「71年目の国策」を見逃していた。戦中、中国侵略での傀儡国として満州国維持・食糧増産のために行われた満蒙開拓は、昭和11年から行われ、敗戦直後まで、27万人の民間人が満州に送られた。重要な国策でもある・皇国農村確立促進政策・。日本国内、各地の農作に優れた村からチョイスして村人を満州に送り出す分村移民。この政策は、農村に助成金補助を行いインフラをも整備させるという条件引き換えに、満洲国に村人・(満州開拓の協力)を送る満州分村という、言わば飴と鞭の国策であった。昭和17年、河野村まで満蒙開拓が及び、胡桃沢村長(実名)は日記によれば当初、満洲に村を送ることは否定的であった。なぜなら、中国人から強制的に現地の土地を奪った場所に日本人が入ることで理解が得られるか、ということ。当時の戦況から勘案しても、・まとも・で非常に冷静な判断をしている(現に、満洲へ分村した村人は、この土地を中国人から強制的奪ったことは知らされていない)。しかし、次第に戦況・時代の波に飲み込まれ、「有益な皇国農村を決断、補助金・助成金があれば村のためになる」という大義から、満蒙開拓・政策を受け入れ、村の住民・一軒一軒、説得に回る。村の有力者と共に説得から、国の割り当ての50戸には及ばないが、27戸・95人の満州・分村住民を満州に送ることとなる。日本の戦況は末期状態、農民輸送船まで航路を絶たれ、撃沈されてしまう状況だった。敗戦間際、満洲国へソビエトの侵攻がある。この侵攻から逃れること、同時にいわば孤立した状態の満州分村地域の日本人は、その地域・場を奪われた現地の中国人等の憎しみを買っていた(日本軍はとっくに満州分村地域から後退している)。一番の恐怖は、土地を奪われた憎しみを持つ、地域・中国人の攻撃だ。満州分村した日本人村々・農民・45歳までの男たちは、戦場に駆り出されているから村にいない。だから残った村人は、女性、老人、子供たちであり、襲撃を防ぎ、闘いようがない。村人、全ての女性・老人・子供(幼子も含む)は近くの山へと逃げた。捕まった村人は殺害された。やがて逃げても追い詰められた女性・子供ら村人全員が・集団自決・する。・「生きて虜囚の辱めを受けず」・である。ただ一人、カワノ村から満州に送り出された村人の中から奇跡的に生還した村人がいる。14歳で分村参加した久保田イサムさん(実名)。彼は、女性・老人・子供らと共に逃げまどい、集団自決の際、手助けをした。最初は幼子の殺害を母親が促し、ほう助する。21人以上の子供たちの首を絞め、ほう助したという。久保田さんは、瀕死のところを地域の中国人友人に助けられ、帰国した。
そして、日本にいる河野村の村長、胡桃沢さんは、満洲分村の悲惨な現状を敗戦後まもなく知り、自分が満州に送り出した村人に対して自責の念に耐えきれず、1946年、自宅で自害する。41歳だった。
私は、このような惨たらしい史実・事実を初めて知ったが、この他、沖縄戦集団自決、樺太電話交換手、及び女性・子供たちの・集団自決・の合言葉が「生きて虜囚の辱めを受けず」である。男たち兵士が「天皇万歳」「靖国で会おう」と叫び自決するのと表裏一体の・合言葉・。何を物語るのか。なによりも、国策として行われた満州分村が、農林省管轄で組織的かつ官僚的なシステムより、いわば事務的に行われた敗戦間際の8万人以上に及ぶ分村民間人が犠牲になったことについて、1979年の農水系極秘の総括的資料・録音に「あの政策は日本にとってよかった」「悪い政策ではない」と、トップにある官僚等のヌケヌケとした発言に絶句すると共に、この責任主体が(現在でも資料が散逸、ないという理由で)なにも問われていないこと。敗戦後71年の今日、先の大戦が日本の・国策、皇国政策・で行われた侵略戦争であることの前提を抜きにしても、自虐史観だのと狼狽する以前の問題であるということ、この事務的処理により分村された人々が、集団自決に追い込まれ・殺害された民間・住民の責任主体は何処にあるのか。誰が、どのように、誰の命令で・・・。
何度も引用するが、自国民間人に対し、敗戦まで続いた事務処理によって自決の追い込まれるシステムに対し、反芻思考が停止してしまうことは、H・アーレントではないが、ナチのアイヒマンを「そこ等にいる小役人・悪の凡庸・」と例えたことと同様、日本の農水・官僚機構のシステムが通底している・思考停止・状態であること。しかも、日本の農水官僚は、1979年時点で反省もなく満州分村を「良い行為」と例えていることは驚愕に値するが、敗戦総括する意味のでも「考える力の欠如」と、何が問題なのかを「想像する力の欠如」が同時にある。アイヒマンは我々の側にいることの証明とも思う(未だ終わらない未曾有の福島原発事故を経て、今なお原発を再稼働すること、最悪のもんじゅを続けることの官僚的事務処理と無縁ではない)。
最後に、21人以上、集団自決のほう助をした久保田イサムさんが、この惨たらしい悲惨な事実を・自責に念・から今の学生に伝え、語り継ぐ行為を行っている。質疑から・・・
久保田さん・「なぶり殺し合うよりは、当然お父さんの後を追いましょうと、首を絞めて殺してしまった。お母さんは、年老いた人から、独身の若い女性が最後に息を止めたしまった・・・」
生徒・「どうして満州に行こうと思ったのですか?・・・」
久保田さん・「なぜ行ったかって、国のために行ったんです・・・」
デイリーモーションより・・・
当時、中国から土地を奪った旧満州国での満蒙開拓移民の生活の映像。のどかな風情が広がるが、これは大日本帝国の国策移民として移らされた。だが、後に彼等移民には、国策で追いつめられる悲惨な運命が待ってる。
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" > 満洲少年回想記
旧満州での回想から、ノモンハン事件(ソ連との戦いで軍上層部の情報不足、兵站なき戦いを強いて、2万人の日本兵が死ぬ負け戦。軍上層部は責任を取らず、部下に押し付け自決させた)、など満蒙開拓まで記されている。
「朝日新聞創刊130周年記念事業(歴史写真アーカイブ)」のご紹介:朝...
http://www.asahi.com/information/db/history_photo/20070114.html
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開拓移民 父よ母よ兄弟よ すべて失い中国残留 写真が語る戦争 歴史と向き合う・・・終戦直前の1945年8月9日、旧満州(現中国東北部)にソ連軍戦車がなだれこんだ。かつて精強を誇った関東軍はなすすべもなく崩壊し、100万を超える開拓民や居留民が砲火の前に放り出された。殺戮(さつりく)と暴行、略奪の嵐が吹き荒れる中で親きょうだいを失いながら、必死で生き延びた子どもたちがいた。
NHKスペシャル「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」は、靖国神社に繋が...
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