日本で起こった監禁事件まとめ
監禁とは
監禁(かんきん)とは、本人の意思を無視し、一定期間、特定の場所に閉じ込めること。日本国の刑法では不法に人を監禁した場合には監禁罪となる。また、監禁の程度の低いものを一般に軟禁(なんきん)と呼ぶが、これは法律用語ではなく、法律上はすべて監禁となる。
日本では物理的に自由を奪う場合のみならず、脅迫を以って脱出を断念させることも監禁罪となる。継続的に被監禁者を取り囲む、扉の前に立つ等の行為も監禁の手段となる。車のボンネットに人が乗っている状態で車を走らせる行為が監禁罪となったケースもある。現行犯逮捕した犯人を事務所内に捕り置き、すみやかに警察機関に通報せず監禁を継続する行為も監禁罪に当る。また、監禁罪には至らなくとも、他人の行動の自由を妨げる行為は軽犯罪法による処罰の対象となり、また迷惑防止条例等の法令に抵触する可能性が大きい。ただしこれらの法令は正当な現行犯逮捕を妨げるものではない。
日本以外では長期にわたる監禁行為を通常の監禁罪と異なる重罪として取り扱う国がある。日本でも新潟少女監禁事件を契機に長期監禁罪設定に関する議論が生じた。
公証人役場事務長逮捕監禁致死事件
公証人役場事務長逮捕監禁致死事件(こうしょうにんやくばじむちょうたいほかんきんちしじけん)は、オウム真理教が1995年(平成7年)、当時目黒公証役場事務長だった男性(68歳)を逮捕(拉致)・監禁し、殺害・死体遺棄した事件である。一連のオウム真理教事件のひとつ。「仮谷清志さん拉致事件」とも呼ばれる。被害者となった職員の妹は、1993年(平成5年)10月頃にオウム真理教に入信し、これまでに数千万円を教団に布施していた。ところが教団は、被害者の妹の所有物となっている「目黒公証役場」の土地・建物(当時の時価で2億7千万円)も布施するように強要したため、オウムから逃げ出し、目黒公証役場事務長である被害者に匿まわれることになった。
1995年(平成7年)2月28日午後4時半ごろ、東京都品川区上大崎の路上で、目黒公証役場から出てきたこの職員を信徒らがワゴン車に連れ込んで拉致、山梨県西八代郡上九一色村(現:南都留郡富士河口湖町)のサティアンに連れ込んだ。
教団は、麻酔薬のチオペンタールを投与することで、被害者の妹の居所を自白させようとしたが果たせなかった。そこで麻原彰晃は、拉致実行犯の一人に被害者を絞殺させることとし、「(被害者を)ポアさせることによって(実行者)に徳を積ませる」と称し、東京からサティアンに呼び戻すことになった。その間、被害者は麻酔薬を過剰に投与されたため、3月1日午前中に死亡した。午後になって麻原指名の実行者が到着し、既に死亡したことを知らせずに被害者の首を絞めさせた。遺体は中川智正ら数名がマイクロウェーブを応用した焼却炉で焼却し、灰は本栖湖に流して死体遺棄をし、証拠を隠滅した。麻原は中川らに報酬として、おはぎとオレンジジュースを渡した。
麻原は被害者死亡の報を聞き、「被害者は前世で俺の弟子だった。前世でポアしてくれと請願されて、約束を果たした。」と嘯いたという。
3月4日にこの事件が明るみに出た。教団は名誉毀損で最初に報道した朝日新聞社を訴えたが、他のマスコミも朝日に追随し大々的に報道した。3月18日には「オウム真理教から仮谷清志さんを救出する会」主催による1万人集会が開かれている。
警察は拉致される瞬間を複数の民間人が目撃していたことを受けて捜査を開始し、拉致に使用したレンタカーの書類からオウム信者の松本剛の指紋が採取され、さらにレンタカーから松本の指紋と被害者の指紋と血痕が確認されたことにより、警察がオウム真理教が凶悪事件に関与していたことを確定的に認識する初の事件となった。3月22日に警視庁は拉致監禁の容疑で教団本部に強制捜査に入った。これは、地下鉄サリン事件の2日後だった。
目黒公証役場事務長の死亡については、殺人罪ではなく逮捕監禁致死罪と死体損壊罪で立件されている。
中川智正死刑囚の最高裁判決(2011年11月18日)の約1か月前(10月21日)に、被害者の長男(当時51歳)は 「父の死因が、監禁のために投与された薬物の影響なのか、それとも殺害の意図をもって点滴に投与された薬物の影響なのか、その真相を知りたくて、中川死刑囚(当時は被告人)に面会した。 中川は点滴中に被害者が死亡したことは認めたが、『積極的に何かしたわけではない。今はこれしかもうし上げられない』と殺害を否定したという。被害者の長男は「父は殺されたと思っていた。中川の話には含みもあり信じ切れない。これからも真実を追及したい」と話した。
平田の行方は長い間不明であったが、2011年(平成23年)12月31日の午後11時50分頃に警視庁丸の内警察署に平田信と名乗る男が出頭。指紋が一致したため平田本人と確認され、翌2012年(平成24年)1月1日未明に逮捕された。
オウム真理教犯罪被害者等を救済するための給付金の支給に関する法律における給付金支給対象事件に指定されている。
女子高生コンクリート詰め殺人事件
女子高生コンクリート詰め殺人事件とは、1988年11月~1989年1月にかけて、東京都足立区綾瀬で起こった殺人事件。猥褻誘拐・略取、監禁、暴行、強姦、殺人、死体遺棄事件の略称である。犯行は計画的に行われた。
1988年11月~
事件を起こした少年4人はまずバイクに乗った仲間Cが被害者の女子高生を蹴り飛ばし、倒れたところに主犯格の少年Aが声をかけ助ける。「危ないから送ってやる」と被害者を騙し、周辺の倉庫で「自分はヤクザの幹部だ」等と脅した上、ホテルに連れ込み、強姦した。
その後、Cの自宅2階に監禁する。集団によりレイプ(少年4人以外にも多数行為に参加している)、陵辱行為、1m以上の高さから被害者の腹に向けてダンベルを落とす等の暴力行為、タバコやシンナーを強制的に吸わせる、ろくに食事も与えず、ゴキブリや尿、大便などを食べさせていた。
1988年12月~
隙をついて被害者は警察に電話をかける、が、Aに気づかれてしまい失敗に終わった。さらにこの事で、暴行や陵辱行為がエスカレートしてしまう。
手の甲をライターで焼く、鉄球の付いた棒で殴りつける、激しく顔を殴打し腫れ上がった顔をみて笑いあうなど、およそ人とは思えない残忍な行為が監禁から41日間繰り返し行われ、最後はギャンブルに負けた腹いせに、自力で立てない程衰弱した被害者を2時間に渡り暴行し、死に至らしめた。
1989年1月
朝になり、死体の処理に困った少年達は被害者の死体を毛布に包み、旅行カバンに詰めた後、Aが調達したドラム缶にセメントを流し込み、海に沈めるために車に乗せた。
しかし、ここにきて怖くなった少年たちは当時の江東区若洲15号地若洲海浜公園整備工場現場空き地にドラム缶を放置。現場を去った。
その後Aが別件のレイプ事件で逮捕され、事件が発覚する。
※この概要は、あまりに凄惨な性的暴力表現を避けて書かれたものです。
2004年、服役し出所した少年B(33歳)は知人男性への逮捕監禁致傷で逮捕され懲役3年の判決を受けている
出典:女子高生コンクリート詰め殺人事件とは (ジョシコウセイコンクリートヅメサツジンジケンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
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女子高生コンクリート詰め殺人事件 【事件番号】平成2う1058 女子高生コンクリート詰め殺人事件(じょしこうせいコンクリートづめさつじんじけん)は、1988年(昭和63年)11月か...
新潟少女監禁事件
1990年11月13日(水)午後7時45分、新潟県三条市内にある駐在所に、近くの主婦が「小学4年生の次女が帰ってこない」と届け出た。その日のうちに捜索が行われたが、発見できず。その後も捜索は続けられたが、ついに少女の行方はわからなかった。2000年1月12日、柏崎市四谷にある佐藤宣行(当時37歳)宅を訪問した保健所の保健婦が2階の宣行の部屋にて毛布にくるまった女性(当時19歳)を発見。女性はすぐに保護され、三条市で行方不明となった少女と判明する。佐藤は下校途中の少女をさらい、自室に連れ込み生活させた。少女や母親に対する暴力・虐待も日常的にあったようである。女性は家族と実に9年2ヶ月ぶりの再会を果たした。
高校を卒業した佐藤は自動車部品製造の工員となった。ある日、出勤する途中に立小便をしたとき「クモの巣にかかって汚れた」と家に引き返した。このような奇行が続き、わずか数ヶ月で退職し、そのあとまったく働いていない。
1981年7月、19歳の時、父親を家から追い出す。そのあと母親と口論となり、「私も出て行く」と言われたことから激昂。家の仏壇に火をつけ、危うく火事になるところだった。良岡市の国立病院の精神科にて強迫神経症(不潔恐怖)と診断される。即日入院し、向精神薬を投与され、1ヶ月ほどで良くなり退院。
23歳のなった佐藤は母親に「僕もそろそろ自立しなければならない。お母さんにいつまでも甘えているわけにはいかないので、独立して生活できるように家を増築してほしい」と話す。
息子が就職口を見つけて真面目に働くと思った母親はただちに700万で家を増築する。しかし佐藤が2階の自室を工事業者に踏み込まれるのを頑なに拒否したため、増築は中途半端なまま中止となり、佐藤が就職するという約束も反固にされた。
佐藤は母親に対しては好きなアイドル歌手のレコードや、競馬新聞などを買いに行かせており、この母親は商店の人達のあいだで、ある種の有名人となっていた。競馬場の行きかえりも母親が車で送っており、レースが終わるまでベンチに腰かけて待っている母親の姿が、競馬場の常連の間でも知られていた。佐藤が競馬に勝つと、母親になじみの寿司屋で極上のトロのにぎり10個、8000円分を買わせたことが何度かあった。
1989年6月13日、佐藤はいたずら目的で下校途中の小学四年生A子を空き地に連れ込もうとしたが、別の児童の通報により学校事務員に取り押さえられた。
9月19日、新潟地裁長岡支部は佐藤に対し懲役一年、執行猶予三年を言い渡す。
10月5日、刑が確定。
裁判官は再犯の可能性は低いとして、保護観察処分ではなく、母親に監督・指導を任せた。ちなみにこの事件について柏崎署と新潟県警本部は強制わいせつで検挙した佐藤を「前歴者リスト」に登録しておらず、刑が確定したあとも登録漏れのまま放置していた。
1990年11月13日、下校途中の少女をナイフを突き付けて脅し、車のトランクに押し込め、自宅に連れ込む。部屋に連れ込むと数十回に渡り少女を殴打した。「出られないぞ」「俺の言うことを守れ」と言いつづけ、ナイフを少女の腹部に突き付けて「これを刺してみるか」「山に埋めてやる」などと脅した。逃げられないように佐藤の外出中は少女を縛りつけていた。
91~92年ごろ、母親に買わせたスタンガンを少女に押し当てて放電し、大変な恐怖心を植えつけた。大声をあげると佐藤の罰があるので、少女は自分の腕を噛み痛みに耐えていた。少女に「おじさん」と呼ばれると激昂し、少女を殴った。少女に競馬番組のビデオ録画を命じ、忘れたりすると殴打した。少女は常にベッドの上にいるように指示し、守らない場合は罰を加えた。 用便すらも部屋から出さず、ビニール袋の中にさせた。少女がベッドから落ち、埃まみれになった時のただ一度しかシャワーを使わせなかった。このような生活により、両下肢筋力は低下、骨量も減少しており、歩行も難しくなった。
はじめのうちは母親が作った夜食用の弁当を少女に与えており途中からコンビニの弁当(おにぎり)に切り替えた。96年頃からはそれまで一日ニ個与えていた弁当を一個しか与えなくなった。小学四年生時に46kgあった少女の体重は38kgにまで落ち、失神するようになった。
佐藤は少女の服を自分で買うことも、気づかれないために母親に頼むこともできず、ショッピングセンターで万引きして洋服を入手していた。
母親の要請により、佐藤の精神病院入院のために訪れた保健所の職員などが自宅を訪れたことにより発覚。
出典:新潟少女監禁事件
北九州監禁殺人事件
これら大量殺人の主犯である松永太は、1961年4月に小倉北区で生まれた。父親は畳屋であったが、松永が7つの時、実父(松永にしてみれば祖父)の布団販売業を継ぐため一家で福岡県柳川市へ引っ越した。松永の生い立ちについては特に語られるべきことがないのか、あまり情報がない。だが経済的に不自由はなく、母親と祖母にべたべたに甘やかされ、ほとんど叱られることのない幼少期を過ごしたようだ。
高校卒業後、松永は父親の営む布団販売業を手伝うかたわら、19歳で結婚し翌年には子供をもうけている。
さらにこの年、布団販売業の有限会社を設立し、代表取締役としておさまった。だが、中身は粗悪品を訪問販売によって高値で売りつける詐欺まがいの会社であった。
なお、のちの一家殺害事件にも使われた「通電リンチ」(電気コードの電線を金属のクリップに付け、腕などにテープで固定して通電する)は、この頃からすでに社員への虐待方法として使用されている。
対する緒方純子は、1962年2月に久留米市に生まれた。
兼業農家で土地をかなり所有していた緒方家は由緒もあり、地元の名士とも言うべき存在であったようだ。純子は村会議員の祖父や兼業で会社員の父のもと、何不自由なく育っている。
そんな彼女のもとへ松永から連絡があったのは、短大を卒業し保育士となって半年ほど経った頃のことであった。
しかし妻子ある男との交際は、じきに純子の実家にバレた。松永は緒方家を訪れ、
「妻子とは別れます。緒方家の婿養子になります」
としおらしく宣言し、その場で『婚約確認書』なるものを提出した。
俗に「口約束」と言うが、その反面どんないい加減な話でも書面にされた途端、人はなぜかそれに信憑性があるような気になってしまうようだ。そしてこの手の無意味な書面を作って嘘に説得力を持たせるのは、松永のもっとも得意とするところだった。
松永は純子に「莫大な利益を上げている会社だが、お前の婿養子になって緒方家を継ぐからにはつぶさなくちゃいけない。芸能界の話も、残念だがお前のために諦める」と言って、彼女に自責の念を抱かせた。
純子の母はこの『婚約確認書』なるものをあまり信用しなかったようだが、この会見によって父の誉(たかしげ)さんはすっかり松永が気に入ってしまったようであった。 彼をそこまでにしたのは、むしろ真逆の「保護者による甘やかしと絶対肯定による、エゴイズムの肥大・全能感」のように見受けられる。
なお昨今の若年犯罪者に「おじいちゃん子、おばあちゃん子」が多いという事実も、これにまったく無関係とは言えないであろう。
1994年、松永は新たな金蔓を見つけた。
今度は男で、不動産屋の営業をしていた虎谷久美雄さんである。虎谷さんはやってもいない犯罪にまで『事実関係証明書』を作られ、それが弱みとなり、がんじがらめになっていった。
しかしそれも1996年1月あたりまでであった。もう虎谷さんに金を作れるあては尽き、一目見てもわかるほどの栄養失調になっていた。
しかし、虎谷さんは生き延びることはできなかった。
虎谷さんが受けたリンチは凄惨なものである。
食事は一日一回で、インスタントラーメンもしくは丼飯一杯。10分以内に食べ終わらないと通電を加えた。また、つらい姿勢や直立不動を長時間強要し、少しでも動けば通電。季節は真冬だったが、一切の暖房器具も寝具も与えず、ワイシャツ1枚で風呂場で寝かせていた。
栄養失調のため嘔吐や下痢を繰り返すようになると、その吐瀉物や大便を食べることを強要した。その他にも裸にして冷水を浴びせる、殴打する、空き瓶で脛を長時間にわたって執拗に殴るなど、飽かず虐待を加えたという。もちろん「通電」はもっとも頻繁に行なわれた。
2月20日頃になると、虎谷さんは腕を上げることもできなくなるほど衰弱した。この頃、松永は虎谷さんの実娘である少女に、歯型がつくほどきつく父親の体を噛ませている。
2月26日、虎谷さん死亡。
松永は少女に、
「お前がつけた歯型のことがあるから、お父さんを病院へ連れていけなかった。病院へ連れていったらお前が殺したことがすぐにわかって警察に捕まってしまうからな」
と言い聞かせ、まだ小学校5年生の少女に『事実関係証明書』を書かせた。内容は「私は、殺意をもって実父を殺したことを証明します」というもので、長い間少女はこの書面に縛り付けられることとなる。
松永は死体の処理を、純子と少女に一任した。二人は包丁、のこぎり、ミキサーなどを使って死体をバラバラにし、鍋で煮込んだ上、塊は海へ、肉汁は公衆便所へ廃棄するなどして処理した。
なおこの死体解体の直後、純子は第二子を出産している。
供述によると、静美さんと理恵子さん母子を並べて仰向けに寝かせ、同時に性器へ通電するというリンチまで行なっていたそうである。
母と娘2人を犯し、その関係をそれぞれの夫の面前で吹聴し、なおその性器へ電流を流す。松永は彼らの上に絶対的に君臨し、それを誇っていた。まさにローマ皇帝並みの暴君ぶりだったと言えよう。
8月、緒方家は誉さん名義で、農協から3000万を借り入れた。担保はもちろん祖父名義の土地である。
主也さんはこの借入書の保証人になっているが、その前に松永に「これ以上、緒方家の奴隷になっていることはない」と唆され、住民票の住所を変えていた。それを忘れてもとの住所のまま書類を作成してしまったことを松永は「文書偽造だ」と責め、それを何度も何度も明け方まで眠らせずに繰り返す得意の手口で、彼を追い詰めていった。
発端は些細な、くだらないことでかまわないのだ。とにかく責める糸口さえあればいい。あとは思考能力を奪ってしまう一手だった。
睡眠不足と心労により、主也さんは9月以降、職場へ出勤できなくなった。そして主也さんへの通電も、ほぼ同時期に始まっている。
彼らは自由に外出することも禁じられ、完全に松永へ精神的に隷属した。彼の促すままに農協から金を借りては渡し、まだ残っている水田を売却すべく手続きに奔走した。
その一方、松永は例の「書面作成」の腕前を発揮し、彼らに
「我々が失踪したのは土地の売却を親族に邪魔されたせいである」
「私(主也)は妻の首を絞めて殺害をもくろんだ事実を認める(※松永みずからが理恵子さんとの肉体関係を暴露し、彼の嫉妬心を煽った果ての行為である)」
など何通もの書類を作らせては署名させた。精神的に支配されきっていた緒方家の人々は、これに法的拘束力があるとたやすく信じた。
しかし祖父や親族が簡単に土地の売却にうんと言うはずはない。
親族に強硬につっぱねられ、警察が動き始めたことも知らされた松永は、緒方家はもう金にならないと判断した。なおそれまでに彼が緒方家から搾り取った金は、6300万円にのぼるという。
1997年12月、松永は言いがかりをつけて緒方家の大人たちを並べて正座させ、その場で純子に命じて父・誉さんを通電によって殺させた。死体は残された緒方家の面々が処理せざるを得ない。虎谷さんの死体と同様の手段で、解体し海に捨てたという。
翌年1月、通電と心理的負担によって精神に異常をきたした静美さんが殺害される。もちろん松永が手を下すことはない。しつこく何度も殺害をほのめかされ、追い込まれた被害者たちの中から主也さんが暗に指名されて絞殺させられたのである。遺体は同じく解体されて処理された。
2月、度重なる通電によって難聴になっていた理恵子さんを「頭がおかしくなった、邪魔だ」と言い、夫である主也さんに絞殺させる。
4月、主也さんを虎谷さんの時と同じく、浴室へ監禁し食パンだけを与え、1ヶ月半かけて栄養失調で死亡させる。
5月、理恵子と主也の子供2人(姉弟)を絞殺。弟を絞殺する際は、わずか10歳の姉に手伝わせたという。
松永はこうして緒方一家を皆殺しにしてしまったのちも、純子に向かって
「お前が由布院へ逃げたせいで、全員を殺す羽目になった」
と、この期に及んでさえすべてを彼女のせいにするのを忘れなかった。
しかし2002年に少女が逃げ出し、警察へ駆け込んだことで一連の事件はようやく明るみに出ることになる。
祖父母宅へ少女を連れ戻しにやってきた松永と純子を、張り込んでいた捜査員が緊急逮捕。また、少女が長らく世話をしていた四人の子供が児童相談所に保護される。このうち2人は松永と純子の実子であり、残る2人は、母親から養育費を巻き上げるため松永が言葉たくみに預かっていたものであった。
2005年3月、福岡地裁において検察は松永、純子の両名に死刑を求刑。
同年9月、死刑判決。
出典:史上まれにみる凶悪殺人!北九州一家監禁惨殺虐待事件!! ( 事件 ) - たまーにブログ 12th シーズン - Yahoo!ブログ
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北九州監禁殺人事件 北九州監禁殺人事件(きたきゅうしゅうかんきんさつじんじけん)は、2002年(平成14年)3月に北九州市小倉北区で発覚した監禁、殺人事件である。 北九州監禁...
北海道・東京連続少女監禁事件
この事件は北海道、東京で2001年から2005年にかけて複数の女性を連続して監禁した事件です。1)北海道事件
2001年、北海道江別市で札幌市内で知り合った20歳無職の女性を部屋に連れ込み、2週間ほど監禁した。
監禁中に犬の首輪をつけられたり、「ご主人様」と呼ぶように強要されたりした。
この女性が解放後に警察に被害届けを出し、2002年4月16日に犯人は逮捕された。
また、別の19歳女性を監禁し熱湯などで暴行していた事も判明した。
この事件に対して、札幌地裁は2003年8月に懲役3年、執行猶予5年の判決を言い渡し、控訴しなかった為、刑が確定した。
(被害者とは示談が成立していた。)
2)東京事件
2004年3月にチャットで知り合った兵庫県出身の18歳女性を脅迫し状況させた上でマンションやホテルに3ヶ月ほど監禁した。監禁中には犬の首輪をつけられていた。
5月初旬に女性は自力で脱出し事件が発覚した。
脱出当時、女性はPTSDで衰弱が激しかった。
2005年5月12日に監禁致傷で逮捕された。
逮捕時に自宅のマンションからは調教物のアダルトゲームが約1000本押収されたらしい。
とこんな事件です。
監禁王子とは犯人の高校時代のニックネームの「王子様」から来ているらしい。
この事件で問題になったのが、保護観察中に同様の事件が起きている事。そして、青森保護観察所から東京保護観察所へ転居の連絡が送られていたはずだが、実際にはFAXの送信に失敗しており、東京保護観察所では犯人の住所を把握していなかった。
この情報伝達に問題がなければ、東京での事件は防げたのではないか?との批判があったようだ。
一度事件が発覚し刑が確定していたのにも関わらず、2度目の事件を起こしているあたりが確信犯的なんですけどね。
2度目の事件ではチャットで知り合った女性を脅迫して状況させているあたりがかなり狡猾なイメージですね。
いずれにしても、よく知らない男性の所へ無警戒に出向くのは少々軽率でしょう。
自分の身は自分で守れ!だよね。何をするのも自由だが、その自由は危険の上に成り立っている。その危険を自覚するべきだと思うな。
07/07/17追記
7月17日東京地裁で論告求刑公判が開かれた。検察側は「犯罪史上まれにみる悪質な犯行」として懲役15年を求刑。被告は無罪を主張した。判決は10月5日に言い渡される。
論告で検察側は「犯行は被告の根深い粗暴癖と、女性を思いのままにしたいという自己中心的な動機に基づいたもので、一片の酌量の余地もない」と指摘した。その上で「まさに人倫を踏み外した所業と言うほかない」と訴えた。
また、「犯行は若者の交流の機会を悪用して行われており、今後、模倣犯が続出する可能性も懸念される」として、再発防止の観点からも厳罰で臨む必要性を述べた。
被告は論告の読み上げの最中、紙封筒から少女向け小説を取り出して黙読していたらしい。
戸塚ヨットスクール事件
戸塚ヨットスクール事件(とつかヨットスクールじけん)は、1983年までに愛知県知多郡美浜町のヨットスクール「戸塚ヨットスクール」内で発生、発覚して社会問題に発展した一連の事件。戸塚宏による戸塚ヨットスクールは、当初航海技術を教える学校だった。その後情緒障害等に戸塚の指導は効果があるとマスコミでブームがおこり、戸塚も指導をヨットから生活指導等へきりかえ、親元からスクールに預けられる生徒が増加した。教育界のカリスマとしてマスコミは好意的にとりあげていたが、後に事件が発覚した。
一般児童・青少年向けのヨットスクール・戸塚ヨットスクールにおいて訓練生の死亡・傷害致死・行方不明といった事件が1980年代を通じてマスコミに取り上げられ、スクールの方針が教育的な体罰というより過酷な暴行だったことが明らかになった。
1979年から1982年にかけて、訓練中に訓練生の死亡・行方不明事件が複数発生。
1982年に起きた少年の死亡に関し、警察は当初は過ぎた体罰による事故と見ていたが、遺体から無数の打撲・内出血の痕跡・歯2本の損壊などが確認されたことから、1983年に傷害致死の疑いでスクール内を捜査。その後、指導員が舵棒と呼ばれるヨットの部材(舵取りのための道具。一部では「角材」と報道された)で少年の全身を殴打し、その後ヨットでの訓練を続けていたことがわかり、組織ぐるみの犯行として校長を含む関係者が逮捕され、他の死亡事件についても起訴された。
1992年7月7日、名古屋地裁は戸塚宏、コーチらに対して傷害致死罪を認定。戸塚宏に懲役3年、執行猶予3年(検察側の求刑は懲役10年)、コーチらに懲役1年6ヶ月から2年6ヶ月、執行猶予2年から3年を言い渡した。これに対して、検察側と戸塚、コーチら6人が双方で控訴。
1997年3月12日、名古屋高裁は「訓練は人権を無視。教育でも治療でもない」として一審判決を破棄し、戸塚宏に懲役6年、コーチ3人も実刑の判決を下した。戸塚らは即日上告。
2002年2月25日、最高裁は二審判決を支持して戸塚宏の上告を棄却。これで戸塚宏の懲役6年とコーチ陣ら起訴された15人全員の有罪が確定した。起訴から結審まで19年を要する長期裁判となった。
2006年4月29日 - 満期で戸塚が出所。今後もヨットスクールを続ける意向を語った。
【訓練中に発生した死亡・行方不明事件】
1979年 少年(当時13歳)が死亡
戸塚側は「低体温症によるもので体罰との因果関係は無い」と主張。病死として不起訴扱いにされた。
1980年 入校4日目に暴行により青年(当時21歳)が死亡
コーチによって暴行を加えられた事によるものとして傷害致死で起訴
1982年 少年2名(当時15歳)が船から海に飛び込んだとして行方不明
体罰から逃れるために飛び込んだとして監禁致死で起訴
1982年12月 少年(当時13歳)が死亡。入校一週間で暴行を受け、戸塚宏とコーチらはヨットから何度も海に落とし、死亡。この間、一切治療は行われなかった。
傷害致死で起訴された。
当時13歳だった少年の母親は週刊現代(2006年11月18日号)の実名インタビューで「出所後も焼香や謝罪は無かった。再犯が懸念される」という旨のコメントをしている。また、1982年にフェリーから海に飛び込んだとされて行方不明となっている少年の父親は同じく実名で「息子が本当に船から海に飛び込んだのかどうか未だにわかっていない。本当は突き落とされたのではないか」とコメントしている。
一連の事件は、日本において体罰の是非を問う討論等でたびたび参考として出され、また個人の教育論の展開(講演会や商業書籍の執筆など)のために、引き合いに出されている。
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