死者15名の大火災「長崎屋火災」とは
長崎屋火災
長崎屋火災(ながさきやかさい)は、1990年に兵庫県尼崎市のスーパーマーケット、長崎屋尼崎店(Big-Off尼崎店)で発生した火災。何者かが放火したとみられており、現場の店名から長崎屋尼崎店放火殺人事件とも呼ばれる。
長崎屋(本社)
株式会社長崎屋(ながさきや、英称:Nagasakiya Co., Ltd.、本社:東京都目黒区)は、衣料品を主力商品とするスーパーマーケットチェーン。愛称「サンバード長崎屋」。現在は、大手ディスカウントストアチェーン「ドン・キホーテ」の連結子会社であり、親会社が展開する店舗ブランドである「ドン・キホーテ」の運営も手がけている。お気に入り詳細を見る
概要
1990年3月18日午後0時30分頃、神田中通4丁目(中央四番街)にある長崎屋尼崎店で、4階インテリア売場に展示されていたカーテンから火の手が上がっているのを同階寝具売り場にいた女性が発見する。他の店員らと共に消火器や屋内消火栓設備による初期消火を試みるもいずれも猛火と猛煙の前に断念。この頃5階事務室より119番通報がなされ、およそ10分前後で消防隊が現着するが、既に4階は全て炎に包まれていたという。 4階及び3階にいた客は従業員らの誘導で無事避難を完了するが、上階の5階にいた客や従業員22名が逃げ遅れ取り残されてしまう。防火扉の閉鎖がなされず、猛煙は容赦なく上階へ拡散していった。
逃げ遅れた者のうち、階段での避難に成功した1名と事務室や従業員食堂の窓から4名が救助され、さらに窓から飛び降りた2名は重傷を負ったものの救助されるが、死者15名、重軽傷者6名を出す惨事となった。死者の15名は従業員食堂で煙に巻かれたことにより命を落としてしまった。
出典:長崎屋火災
死亡者の出たフロアには全く延焼を受けず、火災そのものは及んでいなかったが、有毒ガスによって多数の犠牲者を出した。なかには、あまり慌てた様子もせず救助隊が助けようとした瞬間に崩れるように倒れた人もいたという。遺体は煤で汚れていたが熱傷は認められなかった。また剖検で気道内に多量の煤を認め、組織は鮮やかな紅色を示していた。なお14遺体について心内血液の一酸化炭素濃度とシアン濃度を測定したところ、CO-Hb,CNも高値を示したが、CNは14例中10例が致死量といわれる3μg/ml以上であった。
12:40 火が燃え広がり黒煙噴出。5階窓から逃げ遅れた従業員らが救助を求める。12:41 消防隊の第一陣が現場到着。隣接ビルからはしごを渡して救助開始。直後に2人が5階食堂の窓から飛び降り重傷。
12:46 5階休憩室南側の事務室の窓から3人、食堂の窓から1人がそれぞれ救出される。
14:03 5階食堂付近で15人の遺体が確認される
15:52 火がほぼおさまる
16:00 尼崎中央署に捜査本部を設置
17:06 鎮火
出典:過去の大火災事故
火災があった長崎屋尼崎店は1970年に開業した地上5階・地下1階の大型商業施設で1988年11月からはディスカウント業態のBig-Offに業態転換していた。スプリンクラーは当店には設置されてはいなかったが火災報知機を始め、防火扉、避難通路といった設備が設けられていた。しかし、階段、防火扉、避難通路の前にはテレビ等が入った段ボール(バブル経済による在庫確保最優先が背景にあったと見られる)が積み上げられており、非常事態の障害となる為、尼崎市消防局が5度に渡って当店に指導を行っていた事が後に明らかとなっている。結果的に、段ボールが防火扉を遮る形で全て閉まらず、煙を上の階に上げてしまう事となった。
火災が発生する前年に消防訓練を2度実施していたが不備は無かった。ところが、普段から火災報知器の誤作動が多発していたため、従業員の初動対応が遅れ、初期消火に失敗した。
出典:Wikipedia
■階段や防火扉の前など、ビル内の避難通路に商品の入った段ボールを積み上げていた(バブル経済による在庫確保最優先が背景にあったと見られる)。■普段から火災報知器の誤作動が多発していたため、従業員の初動対応が遅れ、初期消火に失敗した。
■大量の化学繊維が燃焼し一酸化炭素やシアン化水素などの有毒ガスが発生、犠牲者はすべて焼死ではなく中毒死によるものだった。
■出火したのは4階だったが、犠牲者全員が発見された5階は全く延焼を受けていなかった。火の手自体よりも有毒ガスの回りが極めて速かったことが多くの犠牲者を出す原因となった。
■なお、5階にあった放送室は密閉されていたため有毒ガスの影響を受けず、中にいた従業員も助かっている他、窓から飛び降りた人はすべて助かっている。
出典:長崎屋火災
その後
火の気のないカーテン売場から出火していたことなどから原因は不審火と断定されたが、有力な手がかりのないまま2005年に公訴時効を迎えた。尼崎店は火災発生後無期限休業し、そのまま営業再開することなく閉鎖され、翌1991年に建物も解体された。その後は長らく更地となっていたが、2004年にマンションが建設されている。1993年、防火対策を怠ったとして、元店長ら2人に業務上過失致死傷罪で有罪の判決が下された。
この火災は10年後(2000年)の長崎屋倒産の遠因ともなった。
また、尼崎中央商店街では毎年3月18日を防災の日として消防訓練を行うようになった。
時効
15人犠牲の尼崎・長崎屋火災18日で放火が時効・尼崎市のスーパー「長崎屋尼崎店」で一九九〇年三月、死者十五人、負傷者六人を出した火災で、出火原因とみられる放火容疑事件は、発生から丸十五年の十八日、公訴時効を迎える。兵庫県警尼崎中央署捜査本部は不審者の似顔絵を公開するなど捜査を続けてきたが、犯人の割り出しには至らず、すでに今年一月、現住建造物等放火の疑いで容疑者不祥のまま事件を書類送検。
捜査は事実上、終結しており、時効が成立する見通しだ。
火災は九〇年三月十八日午後零時半ごろに発生。
同店四階の寝具売り場から出火、五階で子どもを含む客と従業員の計十五人が煙を吸い一酸化炭素中毒で死亡し、六人が重軽傷を負った。
現場に火の気がなかったことなどから、県警は放火事件とみて捜査本部を設置。
火元を寝具売り場につるしていた商品のカーテンと断定し、延べ約八万五千人の捜査員を投入し、捜査を続けてきた。
火災発生から約二カ月後には、店内外での目撃証言などから不審な男六人の似顔絵を公開。
捜査対象者は約千九百人に上ったが、客や業者らが出入りする白昼のスーパーでの犯行のため、不審人物の特定が困難な上、犯人像、動機解明につながる遺留品、情報も乏しく捜査は難航していた。
阪神・淡路大震災後の九六年十一月を最後に捜査本部に寄せられる情報も途絶えた。
一方、この火災では、同店の階段踊り場に段ボール箱が積まれ、防火扉が作動しなかったことが判明。
当時の店長と総務マネジャーの二人が業務上過失致死罪に問われ、有罪判決(九三年九月、神戸地裁尼崎支部)が確定している。
出典:telii.com
救えなかった命…無念抱え 長崎屋火災から20年、元救助隊長が定年
兵庫県尼崎市で平成2年、15人が犠牲になったスーパー「長崎屋尼崎店」の火災の際、現場に一番乗りして4人を救助した市東消防署主任、小野廣幸さん(60)が、今月末で定年を迎える。火災は18日で発生から20年。「あのとき助け出せなかった人のことを忘れたことはない。ちゃんとした防火対策がとられていれば…」。救えなかった命への無念を抱えながら、防災訓練の指導などに精を出し、任務を終えるまでの日々を過ごしている。20年前の3月18日、昼過ぎ。市消防局の救助隊長だった小野さんは、隊員3人とともに長崎屋尼崎店に急行した。現場に到着したのは119番から4分後。しかし、最上階の5階の窓からは、すでにもうもうと黒煙が噴き出していた。
消防車を横付けできなかったため、隣のビルの窓から5階にはしごを渡す。腕時計のベルトがちぎれるほどの熱が立ちこめる中、救助活動を始めた。
1人、2人、3人、4人…。5人目の女性を助け出そうと手を伸ばした瞬間、女性は意識を失い、差し出された手を握ることなく黒煙の中に姿を消した。
「42年間の消防士生活の中で、あのときのことが一番悔しくて忘れられない」。小野さんは、目の前の命を救えなかったことを今も振り返る。
県警は放火事件と断定。店側の防火対策のずさんさも次々と明らかになった。積み上げられた段ボールにさえぎられ、防火扉が閉まらなかった。火災報知機の誤作動が多発していたため、従業員の初期消火も鈍かった。こうしたことも、小野さんの無念さに拍車をかけた。
同店での火災を受け、2年12月に消防法施行令が改正され、スプリンクラーの設置基準が強化された。その後も、大規模な火災で犠牲者が出るたびに、防火対策の見直しが繰り返されている。
「大規模な火災のニュースを見るたびに『なぜだ』と心が痛む。火災の後で法が改正されるのでは、真の防災ではない。建物の管理者が過去の火災を教訓に防災への意識を高めなければ、何年たっても悲劇は繰り返される」
小野さんは現在、後進の育成に力を注ぎながら、出勤日数の半分以上は地域の防災訓練に出向き、必ずこう話している。「1秒でも早く通報すること。日ごろの強い防災意識が、人の命を救います」
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